ich rede nichts 赤い皇女は語らない

悠井すみれ

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自由の代償

アドリア海のヒバリ

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 子供たちを連れて、私はアドリア海のポーラ港に滞在したわ。アドリア海は、もう話に出したことがあったでしょう。母が、父の死の傷心を慰めるために好んだミラマーレ城とさほど離れていない場所よ。空も海もどこまでも広くて明るくて、人の世の悩みなど小さなことだと思えるような美しいところ。きっと、幼い私はあの海の青さと広さに触れて自由への憧れを抱いたのだわ。ああ、あの空と海を思い浮かべると、今でも心が軽くなるみたい。二度とこの目で見ることはできないと分かっていても──あるいはだからこそ、美しくて眩しくて愛おしい。あの明るさが子供たちにも良い影響を与えるように願って、私は海へ向かったのよ。

 それにね、ポーラは軍港でもあったの。祖父は陸軍ばかりを贔屓して、海軍にはさほどの興味はなかったようだけれど──でも、思い浮かべることはできるでしょう。潮風と太陽の光を浴びて輝く海軍の制服も素敵なものよ。ホーフブルクの舞踏会で、シャンデリアの光を浴びていたオットーと同じくらいに、ね。むしろ、あの時の私にとっては海軍士官たちの方が魅力的に見えたくらいだったわ。みんな、私たち一家に気さくに、けれど同時に敬意をもって接してくれたの。アドリア海と同じく、明るく開放的な若者たちだった。私は、そのころには三十歳近くになっていたけれど、それでも十分に美しかった。軍の頂点にいる皇帝の孫娘で、それに何より人妻だった。オットーの例を見れば分かる通り、殿方というのは高嶺の花を手に入れたがるものなのでしょうね。彼らにはそれはもうちやほやしてもらったわ。誰もが私の視線や笑顔を得ようと躍起になっていて、少し困ってしまったくらい。だって、彼らの全員に構ってあげる訳にもいかなかったもの。相手はひとりで良かったの。──私が何を言おうとしているか、分かるでしょう?

 ハンサムで親切な士官たちの中で、私が選んだのはエゴン・レルヒという海軍少佐だった。ポーラの軍港に寄港していた戦艦の中でも、彼は潜水艦に勤務していたの。子供たちを連れて戦艦を見学させてもらうこともあったけれど、その時に知り合ったのよ。若く朗らかで魅力的で、そして自分の魅力をよく知っている人。私の表情に陰りや憂いを読み取って、自分の光で照らして温めたいと思うような人。自信家で驕っていて、でも、それが嫌味だとは思わなかった。それこそヒバリレルヒのように、この世の春を誇って高らかに歌うような、そんな人だった。
 そして、そういう人だったからでしょうね、レルヒは私の心の隙間に上手く入り込んだと信じ込んだみたい。父の悲劇や母との決別。祖父は甘くても多忙過ぎて、夫との仲にも亀裂が生じている──そんな私のことを、とてもお気の毒なお姫様だと思ったみたい。だから、手を差し伸べて「差し上げる」べきなのだ、と。私の幸せや不幸せを傍目で判断するなんて、とても失礼なことではあるでしょうね。でも、優しい人だったのよ。彼の笑顔は私の心を癒してくれた。それに何より、私がそう仕向けたの。笑顔の合間にふと見せる憂い顔、どこか遠くに向けた眼差し、ひっそりと吐く溜息──そんなちょっとした技を使って、彼に私を放っておけないと思わせたのよ。あの時の私は、女優でもあったかもしれないわね。

 ええ、そうよ。オットーの時と同じことね。私は、冷静に計画を練って、ぴったりの人を選んで、そしてその相手を術中に嵌めたのよ。最初の時よりは、もう少し大人の女らしい手管を身につけたと言えるでしょうけれど。だから、また先回りさせてもらうけれど、断じて世の人が語るようなことではないの。私は、寂しさから夫以外の男性との関係に溺れた訳ではない。私こそがレルヒを溺れさせたのよ。「良識ある人たち」に眉を顰められるのも後ろ指を指されるのも、すべて計算のうちだった。だって、オットーとの結婚は皇帝である祖父の命令によって無理矢理にまとめてもらったものだったのだもの。それを覆すには、よほどの事態が必要なのは分かり切ったことでしょう? これなら離婚させるのもやむを得ないと、祖父に分かってもらわなければならなかったのよ。
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