20 / 73
自由の代償
アドリア海のヒバリ
しおりを挟む
子供たちを連れて、私はアドリア海のポーラ港に滞在したわ。アドリア海は、もう話に出したことがあったでしょう。母が、父の死の傷心を慰めるために好んだミラマーレ城とさほど離れていない場所よ。空も海もどこまでも広くて明るくて、人の世の悩みなど小さなことだと思えるような美しいところ。きっと、幼い私はあの海の青さと広さに触れて自由への憧れを抱いたのだわ。ああ、あの空と海を思い浮かべると、今でも心が軽くなるみたい。二度とこの目で見ることはできないと分かっていても──あるいはだからこそ、美しくて眩しくて愛おしい。あの明るさが子供たちにも良い影響を与えるように願って、私は海へ向かったのよ。
それにね、ポーラは軍港でもあったの。祖父は陸軍ばかりを贔屓して、海軍にはさほどの興味はなかったようだけれど──でも、思い浮かべることはできるでしょう。潮風と太陽の光を浴びて輝く海軍の制服も素敵なものよ。ホーフブルクの舞踏会で、シャンデリアの光を浴びていたオットーと同じくらいに、ね。むしろ、あの時の私にとっては海軍士官たちの方が魅力的に見えたくらいだったわ。みんな、私たち一家に気さくに、けれど同時に敬意をもって接してくれたの。アドリア海と同じく、明るく開放的な若者たちだった。私は、そのころには三十歳近くになっていたけれど、それでも十分に美しかった。軍の頂点にいる皇帝の孫娘で、それに何より人妻だった。オットーの例を見れば分かる通り、殿方というのは高嶺の花を手に入れたがるものなのでしょうね。彼らにはそれはもうちやほやしてもらったわ。誰もが私の視線や笑顔を得ようと躍起になっていて、少し困ってしまったくらい。だって、彼らの全員に構ってあげる訳にもいかなかったもの。相手はひとりで良かったの。──私が何を言おうとしているか、分かるでしょう?
ハンサムで親切な士官たちの中で、私が選んだのはエゴン・レルヒという海軍少佐だった。ポーラの軍港に寄港していた戦艦の中でも、彼は潜水艦に勤務していたの。子供たちを連れて戦艦を見学させてもらうこともあったけれど、その時に知り合ったのよ。若く朗らかで魅力的で、そして自分の魅力をよく知っている人。私の表情に陰りや憂いを読み取って、自分の光で照らして温めたいと思うような人。自信家で驕っていて、でも、それが嫌味だとは思わなかった。それこそヒバリのように、この世の春を誇って高らかに歌うような、そんな人だった。
そして、そういう人だったからでしょうね、レルヒは私の心の隙間に上手く入り込んだと信じ込んだみたい。父の悲劇や母との決別。祖父は甘くても多忙過ぎて、夫との仲にも亀裂が生じている──そんな私のことを、とてもお気の毒なお姫様だと思ったみたい。だから、手を差し伸べて「差し上げる」べきなのだ、と。私の幸せや不幸せを傍目で判断するなんて、とても失礼なことではあるでしょうね。でも、優しい人だったのよ。彼の笑顔は私の心を癒してくれた。それに何より、私がそう仕向けたの。笑顔の合間にふと見せる憂い顔、どこか遠くに向けた眼差し、ひっそりと吐く溜息──そんなちょっとした技を使って、彼に私を放っておけないと思わせたのよ。あの時の私は、女優でもあったかもしれないわね。
ええ、そうよ。オットーの時と同じことね。私は、冷静に計画を練って、ぴったりの人を選んで、そしてその相手を術中に嵌めたのよ。最初の時よりは、もう少し大人の女らしい手管を身につけたと言えるでしょうけれど。だから、また先回りさせてもらうけれど、断じて世の人が語るようなことではないの。私は、寂しさから夫以外の男性との関係に溺れた訳ではない。私こそがレルヒを溺れさせたのよ。「良識ある人たち」に眉を顰められるのも後ろ指を指されるのも、すべて計算のうちだった。だって、オットーとの結婚は皇帝である祖父の命令によって無理矢理にまとめてもらったものだったのだもの。それを覆すには、よほどの事態が必要なのは分かり切ったことでしょう? これなら離婚させるのもやむを得ないと、祖父に分かってもらわなければならなかったのよ。
それにね、ポーラは軍港でもあったの。祖父は陸軍ばかりを贔屓して、海軍にはさほどの興味はなかったようだけれど──でも、思い浮かべることはできるでしょう。潮風と太陽の光を浴びて輝く海軍の制服も素敵なものよ。ホーフブルクの舞踏会で、シャンデリアの光を浴びていたオットーと同じくらいに、ね。むしろ、あの時の私にとっては海軍士官たちの方が魅力的に見えたくらいだったわ。みんな、私たち一家に気さくに、けれど同時に敬意をもって接してくれたの。アドリア海と同じく、明るく開放的な若者たちだった。私は、そのころには三十歳近くになっていたけれど、それでも十分に美しかった。軍の頂点にいる皇帝の孫娘で、それに何より人妻だった。オットーの例を見れば分かる通り、殿方というのは高嶺の花を手に入れたがるものなのでしょうね。彼らにはそれはもうちやほやしてもらったわ。誰もが私の視線や笑顔を得ようと躍起になっていて、少し困ってしまったくらい。だって、彼らの全員に構ってあげる訳にもいかなかったもの。相手はひとりで良かったの。──私が何を言おうとしているか、分かるでしょう?
ハンサムで親切な士官たちの中で、私が選んだのはエゴン・レルヒという海軍少佐だった。ポーラの軍港に寄港していた戦艦の中でも、彼は潜水艦に勤務していたの。子供たちを連れて戦艦を見学させてもらうこともあったけれど、その時に知り合ったのよ。若く朗らかで魅力的で、そして自分の魅力をよく知っている人。私の表情に陰りや憂いを読み取って、自分の光で照らして温めたいと思うような人。自信家で驕っていて、でも、それが嫌味だとは思わなかった。それこそヒバリのように、この世の春を誇って高らかに歌うような、そんな人だった。
そして、そういう人だったからでしょうね、レルヒは私の心の隙間に上手く入り込んだと信じ込んだみたい。父の悲劇や母との決別。祖父は甘くても多忙過ぎて、夫との仲にも亀裂が生じている──そんな私のことを、とてもお気の毒なお姫様だと思ったみたい。だから、手を差し伸べて「差し上げる」べきなのだ、と。私の幸せや不幸せを傍目で判断するなんて、とても失礼なことではあるでしょうね。でも、優しい人だったのよ。彼の笑顔は私の心を癒してくれた。それに何より、私がそう仕向けたの。笑顔の合間にふと見せる憂い顔、どこか遠くに向けた眼差し、ひっそりと吐く溜息──そんなちょっとした技を使って、彼に私を放っておけないと思わせたのよ。あの時の私は、女優でもあったかもしれないわね。
ええ、そうよ。オットーの時と同じことね。私は、冷静に計画を練って、ぴったりの人を選んで、そしてその相手を術中に嵌めたのよ。最初の時よりは、もう少し大人の女らしい手管を身につけたと言えるでしょうけれど。だから、また先回りさせてもらうけれど、断じて世の人が語るようなことではないの。私は、寂しさから夫以外の男性との関係に溺れた訳ではない。私こそがレルヒを溺れさせたのよ。「良識ある人たち」に眉を顰められるのも後ろ指を指されるのも、すべて計算のうちだった。だって、オットーとの結婚は皇帝である祖父の命令によって無理矢理にまとめてもらったものだったのだもの。それを覆すには、よほどの事態が必要なのは分かり切ったことでしょう? これなら離婚させるのもやむを得ないと、祖父に分かってもらわなければならなかったのよ。
0
お気に入りに追加
22
あなたにおすすめの小説
【完結】月よりきれい
悠井すみれ
歴史・時代
職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。
清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。
純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。
嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。
第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。
表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
真田源三郎の休日
神光寺かをり
歴史・時代
信濃の小さな国衆(豪族)に過ぎない真田家は、甲斐の一大勢力・武田家の庇護のもと、どうにかこうにか生きていた。
……のだが、頼りの武田家が滅亡した!
家名存続のため、真田家当主・昌幸が選んだのは、なんと武田家を滅ぼした織田信長への従属!
ところがところが、速攻で本能寺の変が発生、織田信長は死亡してしまう。
こちらの選択によっては、真田家は――そして信州・甲州・上州の諸家は――あっという間に滅亡しかねない。
そして信之自身、最近出来たばかりの親友と槍を合わせることになる可能性が出てきた。
16歳の少年はこの連続ピンチを無事に乗り越えられるのか?

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
来し方、行く末
紫乃森統子
歴史・時代
月尾藩家中島崎与十郎は、身内の不義から気を病んだ父を抱えて、二十八の歳まで嫁の来手もなく梲(うだつ)の上がらない暮らしを送っていた。
年の瀬を迎えたある日、道場主から隔年行事の御前試合に出るよう乞われ、致し方なく引き受けることになるが……
【第9回歴史・時代小説大賞で奨励賞を頂きました。ありがとうございます!】
7番目のシャルル、狂った王国にうまれて【少年期編完結】
しんの(C.Clarté)
歴史・時代
15世紀、狂王と淫妃の間に生まれた10番目の子が王位を継ぐとは誰も予想しなかった。兄王子の連続死で、不遇な王子は14歳で王太子となり、没落する王国を背負って死と血にまみれた運命をたどる。「恩人ジャンヌ・ダルクを見捨てた暗愚」と貶される一方で、「建国以来、戦乱の絶えなかった王国にはじめて平和と正義と秩序をもたらした名君」と評価されるフランス王シャルル七世の少年時代の物語。
歴史に残された記述と、筆者が受け継いだ記憶をもとに脚色したフィクションです。
【カクヨムコン7中間選考通過】【アルファポリス第7回歴史・時代小説大賞、読者投票4位】【講談社レジェンド賞最終選考作】
※表紙絵は離雨RIU(@re_hirame)様からいただいたファンアートを使わせていただいてます。
※重複投稿しています。
カクヨム:https://kakuyomu.jp/works/16816927859447599614
小説家になろう:https://ncode.syosetu.com/n9199ey/
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる