ich rede nichts 赤い皇女は語らない

悠井すみれ

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誰も語らない母の教え

起きなかった物語

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 一九一四年当時のバルカン半島が危険なことなんて誰だって知っていたわ。オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者夫妻の訪問に対しては、暗殺の予告さえされていた。だからフランツ・フェルディナント大公がわざわざサライェヴォを訪れたのを、愚かだという人もいるでしょう。でも、あの方にも言い分があったはずよ。だって、ホーエンベルク公爵夫人との身分違いの結婚を許すのに、祖父は条件をつけていたの。たとえ大公が将来帝位に就かれても、夫人は皇后にはならない。おふたりの間の御子たちも、帝位継承権を有さない。つまりは、大公はお妃であるはずの方と公の場に出ることはできないということだったのよ。あらゆる儀式や式典の場で、ホーエンベルク公爵夫人はご夫君と遥かに離れた席に着かなければならなかった。おふたりの間には、「歴とした」大公や大公女、公子や公女が何十人と並んでいたの。その中に、私がいたこともあったわね。本来の身分には相応であっても、もちろん帝位継承者の伴侶としては屈辱的にも思えたでしょう。だからでしょうね、ホーエンベルク公爵夫人はいつも少し──刺々しいと感じられたわ。ええ、私にしてみれば母がいたかもしれない場所にいる方だったから、好意的ではない物言いになってしまうのかもしれないけれど。そうね、祖父に取り成すなんて考えたこともなかったわ。それを薄情と言われてしまうのは心外だけど。私だって、あのころは色々とあったのよ。でも、だからといってあんな恐ろしい最期を迎えて当然だったとは思わなかった。それこそ、当然のことでしょう。

 とにかく──サライェヴォ行きは、おふたりにとって特別な機会だったの。皇族としてよりも先に、軍の任務でのことだったから。だから、夫婦で揃って歓迎されることができたの。長いこと冷遇されてきたおふたりだもの、危険だからまたの機会に、なんてことはできなかったのでしょうね。皇族だって、血の通った人間なのだもの。ああ、そんなことを言うのは許されない立場なのは分かっているのだけど。思い上がった言い分だと、貴方の顔が語っているのは分かるけれど。慎重でない行動によって全世界を巻き込んだ戦端を開かせた──それだけ多くの人の死の切っ掛けになってしまったのだとしても、あの方たちなりの事情があったということを、私は知っている。それだけのことよ。

 私は今でもたまに考えることがあるのよ。フランツ・フェルディナント大公が母と結婚していたらどうなっていたのかしら、って。固い愛や絆で結ばれてはいなくても、立場に相応しい振る舞いをして、相応に義務を果たす夫婦になられていたことでしょう。格別の思いがないからこそ、危険を冒してサライェヴォを訪れたりしない──あの大戦も、起きなかったのではないかしら、って。そう考えると、私の母は歴史を動かしたと言えるのではないかしら。父や祖父や祖母の物語では常に脇役だったあの方にも、物語があったのよ。

 ええ、結局は起きなかった物語よ。貴方の言う通りね。でも、母の実際の物語は少なくとも私には大きな意味がある。自分の人生は自分で決めるということ。決められたように見える道も、自分自身の選択によって変えられるということ。母の道は私が選んだものとは違うけれど、それはとても大事な教訓だったわ。
 私のことを祖母や父に似ているという人は多いわね。皇室に生まれながら伝統や権威を嫌い、自由や新しい時代を求めたのだと。それを否定はしないわ。でも、私は母の娘でもあるのよ。祖母や父に比べれば知られていないし、私の生き方を嫌った方でもあるけれど、それでも母と娘の繋がりは強いものよ。私は確かに母の血を引いているし、母から自分の人生を切り拓くとはどういうことかを学んだの。

 私の道はどんなものだったか──それは、貴方に言う必要があることかしら。今日会ったばかりの、何も知らない人なのに。何もかもをすぐに聞き出そうとするなんて、ずいぶん欲張りなことではないのかしら。こんなに萎れた私を、何時間も付き合わせようというのかしら。年寄りの話にうんざりしたのでなければ、日を改めてまた来れば良いわ。歓迎するかどうかは約束できないけれど。ええ、私にも気分や体調があるのだもの。ちょうど昔話をしたい気分の時に来たなら、またほかのことも話してあげても良いでしょう。
 それではもうお帰りなさいな。犬に吠えられないように気を付けて。牙も身体も大きな、立派なジャーマンシェパードよ。あの子たち、私以外の言うことを聞かないから。
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