上 下
5 / 73
誰も語らない母の教え

祖母の自由 母の自由

しおりを挟む
 いいこと、母は何も皇太子妃の地位を二度も逃した訳ではないの。父のことは、きっと長く悩み苦しまれたには違いないけれど。でも、母はフランツ・フェルディナント大公の歓心を買おうとはしなかったわ。礼儀正しいお人柄だったから、母の方から支えと同情を求めれば、愛情ゆえでなくても手を差し伸べてくださったかもしれないでしょうに。母は、「また」皇太子妃に仕立て上げられる定めから、自ら逃れることを選んだのよ。

 世間の人は、祖母のことを束縛を嫌った自由な人だと語るでしょう。宮廷にも寄り付かず旅を続けて、身分に相応しくない思想や詩を好まれて。それは本当のことなのでしょうけど、でも、祖母は結局死ぬまで皇后だったわ。十六歳の時に祖父に見初められて以来ずっと、宮廷に囚われたまま亡くなられたのよ。祖母を解き放ったのはあの方ご自身の行動ではなく、暗殺者のナイフのひと突きだったわ。祖母は、自らの運命を自らの手で切り拓くことはできなかったの。それに比べれば、母の方がずっと自由な生き方だと言えるでしょうね。だって母は、もと皇太子妃としての特権も、ベルギー王女としてのそれも捨てて、一介の伯爵と結ばれることを望んだのだもの!

 母が再婚相手に選んだのは、エレメール伯爵ローニャイ様という方だった。ホーエンベルク公爵夫人と同じ程度の身分の、言ってしまえばその辺にいくらでもいる程度の下級貴族よ。そんな方といつ、どのようにして知り合ったのか、母は娘の私にさえ教えてくださらなかった。正直に言って、今この時になってさえも私は母が愛した人のことをよく知らないくらい。だから、私、最初はひどく反対したものよ。だって、娘としては、母には父に貞節であって欲しいと思うものでしょう。あのころの私は、父の所業を母がどう思っていたのかをちゃんと分かっていなかったのよ。妻として、夫に裏切られる思いとはどんなものなのか、私が思い知ったのはずっと後になってからだったから。それに、置き去りにされてしまうような気がしたから。だって、その伯爵と結ばれるということは、皇室を出るということだったのだもの。ただでさえおひとりで旅に出ることが多かったのに、娘を、私を完全に捨ててしまうのかと傷ついたのよ。フランツ・フェルディナント大公のことがあったからなおさら、私は祖父だって許さないだろうと思っていたわ。母の父、私あのもうひとりの祖父であるベルギー王レオポルト二世だって激怒されたそうよ。貴賤結婚なんて王室の恥でしかないから、と。一時はベルギー王女としての身分を剥奪するとまで仰っていたとか。それは撤回されたけれど、母は祖父の不興を買ったために祖母の葬儀に出ることさえ許されなくなってしまったのよ。

 でも、それほどの犠牲を払っても、母はとうとう意思を通した。厳格な法と規律に則って帝国を統治していたはずの祖父が、孤独でか弱くて、取り立てて目立つこともない──と、言われていた──未亡人に折れたのよ。政治的なお立場も交渉の材料もあって、取り成してくれる方もたくさんいたフランツ・フェルディナント大公と比べても、目覚ましい「戦果」だとは思わない? ねえ、それに、母は歴史を変えたかもしれないのよ。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

くじら斗りゅう

陸 理明
歴史・時代
捕鯨によって空前の繁栄を謳歌する太地村を領内に有する紀伊新宮藩は、藩の財政を活性化させようと新しく藩直営の鯨方を立ち上げた。はぐれ者、あぶれ者、行き場のない若者をかき集めて作られた鵜殿の村には、もと武士でありながら捕鯨への情熱に満ちた権藤伊左馬という巨漢もいた。このままいけば新たな捕鯨の中心地となったであろう鵜殿であったが、ある嵐の日に突然現れた〈竜〉の如き巨大な生き物を獲ってしまったことから滅びへの運命を歩み始める…… これは、愛憎と欲望に翻弄される若き鯨猟夫たちの青春譚である。

【完結】月よりきれい

悠井すみれ
歴史・時代
 職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。  清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。  純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。 嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。 第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。 表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。

徳川家基、不本意!

克全
歴史・時代
幻の11代将軍、徳川家基が生き残っていたらどのような世の中になっていたのか?田沼意次に取立てられて、徳川家基の住む西之丸御納戸役となっていた長谷川平蔵が、田沼意次ではなく徳川家基に取り入って出世しようとしていたらどうなっていたのか?徳川家治が、次々と死んでいく自分の子供の死因に疑念を持っていたらどうなっていたのか、そのような事を考えて創作してみました。

呪配

真霜ナオ
ホラー
ある晩。いつものように夕食のデリバリーを利用した比嘉慧斗は、初めての誤配を経験する。 デリバリー専用アプリは、続けてある通知を送り付けてきた。 『比嘉慧斗様、死をお届けに向かっています』 その日から不可解な出来事に見舞われ始める慧斗は、高野來という美しい青年と衝撃的な出会い方をする。 不思議な力を持った來と共に死の呪いを解く方法を探す慧斗だが、周囲では連続怪死事件も起こっていて……? 「第7回ホラー・ミステリー小説大賞」オカルト賞を受賞しました!

隠密同心艶遊記

Peace
歴史・時代
花のお江戸で巻き起こる、美女を狙った怪事件。 隠密同心・和田総二郎が、女の敵を討ち果たす! 女岡っ引に男装の女剣士、甲賀くノ一を引き連れて、舞うは刀と恋模様! 往年の時代劇テイストたっぷりの、血湧き肉躍る痛快エンタメ時代小説を、ぜひお楽しみください!

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

処理中です...