呪い子と銀狼の円舞曲《ワルツ》

悠井すみれ

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六章 銀狼は月夜に吼える

決着

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 クラウスは、辛うじて黒い犬の牙を逃れた。けれど、その動きに先ほどまでの俊敏しゅんびんさはない。

 銀の狼はよろめいて──すぐに黒い犬に追いつかれてしまう。黒い犬の牙が突き立てられて、眩いはずの毛皮を汚す染みは、傷口から溢れた血だ。
 噛みつかれたクラウスは、悲鳴の代わりにまたも黒っぽい粘液をごぼりと吐き出した。

 明らかに異様な光景を、クラウスの窮地を目の当たりにして、宵子しょうこの肌は総毛そうけだった。

蟲毒こどくって……!?)

 その言葉の意味は分からなくても、不吉な響きを帯びていることだけは嫌というほどよく分かった。
 宵子の疑問には、春彦はるひこが答えてくれる。

「無数の毒蛇や毒虫を壺に閉じ込めて、食い合わせた後に残った毒と怨みを使った術だ。暗殺なんかに便利なんだが……ドイツ人にも効くんだな。良かった」

 微笑み掛けられたところで、宵子は何も言うことができないのを、よく知っているはずなのに。あるいは、非難も糾弾も返ってこないからこそ、だろうか。

「筋書きは、こうだ。僕と真上子爵は、帝都を騒がせた人喰い犬を退治する。子爵ののお陰で、犬──狼に手傷を負わせることに成功する。『人喰い犬』が退治されたと同時に、狼の血を引く伯爵が死に方をしたら──まあ、そういうことだと思ってもらえそうだろう?」

 春彦はとても饒舌だった。父に従い、暁子あきこの機嫌を窺ってきた年月、彼も鬱憤を溜めていたのかもしれない。相手の心の中を知ろうとしなかったのは、宵子も同じだったのかもしれない。

「そのが飛び込んで来た時は少々驚いたが──すべて、計画通りになりそうで良かったよ!」

 でも、許せなかった。

(そんなこと、させない……!)

 クラウスを害することも、たくさんの少女たちを襲った罪を、彼に押し付けることも。とても優しい彼のことを、化物だなんて呼ぶことも。

 だから宵子は、恐怖を振り払って躊躇ためらいなく走った。
 ちょうど、黒い犬はクラウスにし掛かるべく、地に倒れた彼から身体を離したところだった。
 銀色と漆黒──二頭の獣の間にできた隙間に、宵子は素早く滑り込む。

(ああ、なんてひどい……!)

 クラウスの身体を抱き締めると、毛皮の下では心臓が恐ろしいほど速く脈打っていた。耳元に聞こえる息も荒いし、この距離に近付けば血の臭いも濃いのが分かる。
 こんなにも深手を負って、毒まで呑まされて。それでも、クラウスは宵子を案じてくれているようだった。

 ぐるるる……!

 銀の狼は、宵子の腕の中で低くうなり、もがき、逃れようとしている。かっ、と見開かれた青い目は、危ないから離れろと言葉より雄弁に語っていた。

「……どきなさい、宵子。君の身体に傷を残したくはない」

 でも。クラウスがどれだけ暴れても。春彦が、脅すように声を低めても。宵子は腕の力を緩めなかった。
 傷を残したくない、だなんて。宵子を思い遣ってのことではないのだ。にするつもりの娘に醜い傷痕があるのは嫌だ、という勝手な魂胆こんたんに違いない。

(脅かされて、従ったりはしないわ……!)

 犬神いぬがみ様のほこら真上まがみ家の庭の片隅にある。母屋からは、木々に隠れて見えないだろう。
 それでも、父や暁子の姿が見えないことを、誰かが不審に思ってくれるかもしれない。
 宵子が声を上げることはできなくても、野犬とは思えない遠吠えを聞き咎めて、様子を見にきてくれるかもしれない。

 たとえ儚い望みでも、諦めない。一秒でも長く、時間を稼ぐのだ。
 決意を込めて、宵子はクラウスを抱き締め、春彦を睨みつけた。

「悪い子だ。が、必要なようだ……!」

 絶対に退いてはいけない。
 たとえ、春彦の声が剣呑に尖り、黒い犬が、燃える赤い目で宵子を捉えても。

(怖くない。怖くないわ……!)

 クラウスの危機に、何もできないこと。彼を目の前で失うこと。
 それに比べれば、春彦の怒りも黒い犬の牙も恐ろしくない。

 がるるっ!

 黒い犬は身体を低くして唸ると、矢のように突っ込んできた。
 巨体が跳んだ時の風が、髪を乱す。黒い影が、鋭い牙が、一秒もしないうちに宵子に届く。

 痛みと衝撃を覚悟して、宵子はぎゅっと目を閉じて身体を強張らせる。盾になってくれようとしているのだろう、腕から逃れようともがくクラウスを、身体全体を使って庇いながら。でも──

 宵子の首元で、何かがぴしり、とひび割れる音がした。ずっと嵌められていたが、砕け散ったかのような。

(……何なの?)

 恐怖と緊張で強張っていた宵子の頬を、何か温かいものが撫でる。少し硬い、毛皮の感触。お日様の匂い。とても懐かしい気配。腕の中にいるクラウスとも違う、この温もりは──

犬神いぬがみ、様?)

 思わず目を開けると、宵子の視界をふさふさの白い尻尾が駆け抜けていった。
 幼いころに、毎日のように触らせてもらったものだ。機嫌良さそうにゆっくりと振られるのを、ずっと眺めていた。

 十年近く前に見たきり、もう二度と会えないと思っていたのに。最後に見たのは、宵子の喉に食らいつく恐ろしい姿だったのに。

 どこからともなく現れた、としか思えないは、一直線に春彦を目指して跳ぶ。

 黒と白と。新旧の犬神、忌まわしい目的のために造られたものと、古くから崇められたものは空中で交差する。

「な──」

 白い犬神は、目を見開いて、立ち竦む春彦の首に噛みついた。先ほど、黒いほうが父にしたのと同じように、血しぶきが上がって満月をかげらせる。

 ぎゃんっ!

 宵子たちに飛び掛かる黒い犬は悲鳴を上げて空中で身体をよじった。まるで、主である春彦の痛みを我が身にも感じているかのように。──その隙を、クラウスは見逃さない。

 宵子の腕をすり抜けて、銀の狼はしなやかに跳んだ。何度も身体をぶつけ合い、牙を剥き合った相手を、今度こそ捉えるために。

 クラウスの牙が、黒い犬の喉笛にしっかりと食い込み、巨体を地面に引きずり倒した。
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