呪い子と銀狼の円舞曲《ワルツ》

悠井すみれ

文字の大きさ
上 下
27 / 31
六章 銀狼は月夜に吼える

黒と銀の交錯

しおりを挟む
 がるるるる──

 銀の犬は、威嚇するように低く唸ると、黒い犬に飛び掛かった。
 そのしなやかな身体が描く軌跡は、鋭い白刃を振り抜いたよう──でも、尖った三日月のような牙は、虚しく宙を噛むだけだった。ほんのわずかな間に、黒い犬も体勢を立て直し、毛皮と同じ色の闇の中へ飛び退すさっていた。

(どうして、ここに……!?)

 恐ろしい人喰い犬の牙は、とりあえずは遠ざかった。でも、宵子しょうこが安心することなんてできない。
 この綺麗な銀の毛皮の犬は、医者のヘルベルトに飼われているはずだ。こんなところで怪我をしたり──まして死んでしまったら、あの人は悲しむだろう。
 いったいどうして助けてくれたのかは分からないけれど、どうにか逃がしてあげなければ。宵子は、そう思ったのだけれど──

「シャッテンヴァルト伯爵か!? これはまた──洒落た格好でお出ましですね!」

 夜空に高らかに響く春彦はるひこの笑い声に、目を見開いた。

「伯爵、様……?」

 銀の犬が現れた時の風圧で尻もちをついていた暁子あきこも、信じられない、といった調子で呟く。

 驚きを露にした双子に対して、春彦は得意げに教えてくれる。

「シャッテンヴァルト伯爵家は、狼の血を引いていると噂されていると言っただろう? あれは、宵子にだけだったかな──まあ、どうでも良いが。よく見てごらん。あの青年と同じ銀の髪──毛皮に、青い目だろう? 犬神いぬがみを操る家があるなら、狼に化ける一族だっているだろうさ」
「嘘……そんな、化物……」

 暁子の声に、嫌悪と恐怖が混ざった。銀の耳の犬がぴくりと動いて、首から背にかけての毛皮がぶわりと逆立つ。

「──っひ」

 青い目に射るように貫かれて、暁子が小さく悲鳴を漏らした。そして、口元に手をあてたまま、ゆっくりと地面に崩れ落ちる。
 立て続けに危ない目に遭ったところに、大きな獣にのだ。精神が限界を迎えたのだろう。

 暁子が頭を打たないよう、慌てて支えながら、宵子は銀の犬──ううん、をまじまじと見つめた。

(クラウス様、なの……?)

 二度も助けてもらったのことを、どうして怖がったりするだろう。
 それに、以前は気付かなかったのが不思議なくらい、神々しいほどの美しい毛並みのその狼がまとうのは、クラウスとまったく同じ色彩だった。
 何より、は暁子の化物、という言葉に反応して怒ってみせた。

(そうよ。あの時だって)

 宵子とヘルベルトのやり取りを理解していたとしか思えなかった。それは、とても賢いからではなくて──銀色に輝く毛皮の下に、人間の理性と知性を宿しているから、なのだろうか。

 銀の狼の青い目と見つめ合いながら。宵子はしばし、考え込んでしまっていた。

 鹿鳴館ろくめいかん円舞曲ワルツを躍った時。
 地下室から助け出してもらった時。
 彼の屋敷で、間近にお互いの国の言葉を教え合った時。

 クラウスとは、もう何度も目を合わせている。彼の優しさ、頼もしさ、礼儀正しさ──それに、控えめな好意もあると、思う。
 色が同じだけでは絶対にない。銀狼の眼差しは、確かにクラウスと同じ感情を宿している。

 真夜中で、周囲は荒れた庭で。人喰い犬が闇の中に身を潜めていて、辺りには血の臭いさえ漂っているのに。
 宵子は、何もかも忘れて狼の──クラウスのほうへ駆け出そうとしていた。でも、彼女の進もうとした道筋を、音もなく飛び出した黒い犬が遮った。宵子の手が届く前に、クラウスも素早く跳躍して敵の爪と牙を避ける。

 二匹の大きな獣の動きが巻き起こした風圧で、宵子は軽くよろめいた。そこへ、春彦の嘲り笑う声が響く。

「怖がっては可哀想だろう、宵子。伯爵は君を助けに来たんだから。ずいぶん惚れられているじゃないか。……もしかしたら、つがいにでもしようと思ってたのかな」

 宵子が立ち竦んでいたのを、怯えているからだと決めつけているらしい。

(私の気持ちを、勝手に決めつけないで……!)

 はっきりと言ってやれないのを心底悔しく思いながら、宵子は春彦を睨んだ。

 この人のことを優しいだなんて思っていたのは、間違いだった。には気にかけてもらっていたと思っていたけれど、見せかけだった。
 春彦は、宵子のことを何も分かっていない。知ろうともしていない。
 兄のように慕っていたのが、こんな男だったなんて。

「僕としても、を渡すつもりはないけどね。──やれ!」

 歯噛みする宵子に軽く微笑んでから、春彦は鋭く命じた。邪悪な計画がすでに成功したかのように、づらするのも気持ち悪いし腹立たしい。
 それに、何より。春彦の声に応じて、黒い犬は再び牙を剥いてクラウスに襲い掛かっている。

(クラウス様……!)

 宵子の目の前で、すさまじい死闘が演じられていた。

 月光を纏って輝く銀の毛皮と、闇を凝らせたような漆黒の毛皮。
 宝石のように涼やかな青の目と、火のついた石炭を思わせておこる紅い目。

 対照的な色の二頭の獣が、ぶつかり合い、交錯する。どちらのものともつかない唸り声が響き、鋭い牙が闇に煌めく。
 争いに使われるのは、爪と牙だけではなかった。
 片方が身体で抑え込もうとしては、もう片方は素早く転がって避ける。黒い影が跳んだと思うと、銀の閃光が着地点を狙って走る。

 巨大な体躯たいく強靭きょうじんな筋肉を兼ね備えた二頭の攻防は一進一退で、宵子は息をすることも忘れていた。
 時おり、銀色の毛が雪のように宙に舞うたびに、彼女自身に牙が迫ったように身体が強張ってしまう。

 何度も地面に転がり、木の幹に叩きつけられるうち、クラウスの毛皮は汚れてしまっている。それは泥の汚れであって、流血ではないと信じたいけれど──暗い中、絶え間なく動く彼が無事なのかどうか、宵子の目では分からない。

(前も、あの犬を追い払ってくれたもの。負けたりしない……!)

 声を張り上げて、声援を送ることができないのがもどかしかった。
 宵子がこぶしを握り締めていること、必死の表情でクラウスを見つめていることに気付いて欲しいと切に願う。
 でも、いっぽうでは、彼女に注意を向けて黒犬に隙を見せてはいけない、とも思う。

 見守ることしかできない恐ろしい時間が、どれだけ過ぎたのだろう。とうとう、クラウスは黒い犬を自らの身体の下に組み敷いた。

 きゃいん!

 甲高い悲鳴は、黒い犬の口から漏れたもの。
 敗者の哀願さえ噛み砕こうとするかのように、クラウスは大きく口を開け、牙を剥き出した。

(やった……!?)

 一秒後には、忌まわしい人喰い犬は喉を食いちぎられている。そうなることを、宵子はほぼ確信していたのに──

 ぎゃん、がっ──

 突然、クラウスがき込んだ。かと思うと、その口から黒っぽい液体が吐き出されて美しい毛並みを汚す。黒──あるいは、濃い、赤?
 色ははっきりとは見えなくても、どろりとした粘りつくような質感なのは、分かってしまう。

(何なの……!?)

 息を呑んだ宵子に、春彦がすかさず教えてくれる。彼女が驚きの表情を見せたのが、楽しくて堪らないとでもいうかのように。

「先日、伯爵が真上家を訪ねた時に、ね。出した茶に蟲毒こどくを入れておいたんだ。宵子──どうも君を探していたようだったからね、上の空で飲んでくださったよ!」

 春彦の愉悦ゆえつと嘲笑は、黒い犬にも力を与えたようだった。先ほどまで地に這わされていたは、身体を翻すと、血とも泥ともつかないものを吐き出して苦しむクラウスに飛び掛かった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

紅屋のフジコちゃん ― 鬼退治、始めました。 ―

木原あざみ
キャラ文芸
この世界で最も安定し、そして最も危険な職業--それが鬼狩り(特殊公務員)である。 ……か、どうかは定かではありませんが、あたしこと藤子奈々は今春から鬼狩り見習いとして政府公認特A事務所「紅屋」で働くことになりました。 小さい頃から憧れていた「鬼狩り」になるため、誠心誠意がんばります! のはずだったのですが、その事務所にいたのは、癖のある上司ばかりで!? どうなる、あたし。みたいな話です。 お仕事小説&ラブコメ(最終的には)の予定でもあります。 第5回キャラ文芸大賞 奨励賞ありがとうございました。

『神山のつくば』〜古代日本を舞台にした歴史ロマンスファンタジー〜

うろこ道
恋愛
【完結まで毎日更新】 時は古墳時代。 北の大国・日高見国の王である那束は、迫る大和連合国東征の前線基地にすべく、吾妻の地の五国を順調に征服していった。 那束は自国を守る為とはいえ他国を侵略することを割り切れず、また人の命を奪うことに嫌悪感を抱いていた。だが、王として国を守りたい気持ちもあり、葛藤に苛まれていた。 吾妻五国のひとつ、播埀国の王の首をとった那束であったが、そこで残された后に魅せられてしまう。 后を救わんとした那束だったが、后はそれを許さなかった。 后は自らの命と引き換えに呪いをかけ、那束は太刀を取れなくなってしまう。 覡の卜占により、次に攻め入る紀国の山神が呪いを解くだろうとの託宣が出る。 那束は従者と共に和議の名目で紀国へ向かう。山にて遭難するが、そこで助けてくれたのが津久葉という洞窟で獣のように暮らしている娘だった。 古代日本を舞台にした歴史ロマンスファンタジー。

崖っぷち令嬢は冷血皇帝のお世話係〜侍女のはずが皇帝妃になるみたいです〜

束原ミヤコ
恋愛
ティディス・クリスティスは、没落寸前の貧乏な伯爵家の令嬢である。 家のために王宮で働く侍女に仕官したは良いけれど、緊張のせいでまともに話せず、面接で落とされそうになってしまう。 「家族のため、なんでもするからどうか働かせてください」と泣きついて、手に入れた仕事は――冷血皇帝と巷で噂されている、冷酷冷血名前を呼んだだけで子供が泣くと言われているレイシールド・ガルディアス皇帝陛下のお世話係だった。 皇帝レイシールドは気難しく、人を傍に置きたがらない。 今まで何人もの侍女が、レイシールドが恐ろしくて泣きながら辞めていったのだという。 ティディスは決意する。なんとしてでも、お仕事をやりとげて、没落から家を救わなければ……! 心根の優しいお世話係の令嬢と、無口で不器用な皇帝陛下の話です。

魔法使いの国で無能だった少年は、魔物使いとして世界を救う旅に出る

ムーン
ファンタジー
完結しました! 魔法使いの国に生まれた少年には、魔法を扱う才能がなかった。 無能と蔑まれ、両親にも愛されず、優秀な兄を頼りに何年も引きこもっていた。 そんなある日、国が魔物の襲撃を受け、少年の魔物を操る能力も目覚める。 能力に呼応し現れた狼は少年だけを助けた。狼は少年を息子のように愛し、少年も狼を母のように慕った。 滅びた故郷を去り、一人と一匹は様々な国を渡り歩く。 悪魔の家畜として扱われる人間、退廃的な生活を送る天使、人との共存を望む悪魔、地の底に封印された堕天使──残酷な呪いを知り、凄惨な日常を知り、少年は自らの能力を平和のために使うと決意する。 悪魔との契約や邪神との接触により少年は人間から離れていく。対価のように精神がすり減り、壊れかけた少年に狼は寄り添い続けた。次第に一人と一匹の絆は親子のようなものから夫婦のようなものに変化する。 狂いかけた少年の精神は狼によって繋ぎ止められる。 やがて少年は数多の天使を取り込んで上位存在へと変転し、出生も狼との出会いもこれまでの旅路も……全てを仕組んだ邪神と対決する。

紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ
恋愛
士農工商の身分制度は、御一新により変化した。 元公家出身の堂上華族、大名家の大名華族、勲功から身分を得た新華族。 明治25年4月、英国視察を終えた官の一行が帰国した。その中には1年前、初恋を成就させる為に宮家との縁談を断った子爵家の従五位、田中光留がいた。 日本に帰ったら1番に、あの方に逢いに行くと断言していた光留の耳に入ってきた噂は、恋い焦がれた尾井坂男爵家の晃子の婚約が整ったというものだった。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】辺境に飛ばされた聖女は角笛を吹く〜氷河の辺境伯様の熱愛で溶けそうです

香練
恋愛
ステラは最も優れた聖女、“首席聖女”、そして“大聖女”になると期待されていた。 後妻と義姉から虐げられ大神殿へ移り住み、厳しい修行に耐えて迎えた聖女認定式。 そこで神から与えられた“聖具”は角笛だった。 他の聖女達がよくある楽器を奏でる中、角笛を吹こうとするが音が出ない。 “底辺聖女”と呼ばれるようになったステラは、『ここで角笛を教えてもらえばいい』と辺境伯領の神殿へ異動を命じられる。『王都には二度と戻れない』とされる左遷人事だった。 落ち込むステラを迎えたのは美しい自然。 しかし“氷河”とも呼ばれる辺境伯のクラヴィは冷たい。 それもあるきっかけで変わっていく。孤独で不器用な二人の恋物語。 ※小説家になろうでも投稿しています。転載禁止。●読者様のおかげをもちまして、2025.1.27、完結小説ランキング1位、ありがとうございます。

よんよんまる

如月芳美
キャラ文芸
東のプリンス・大路詩音。西のウルフ・大神響。 音楽界に燦然と輝く若きピアニストと作曲家。 見た目爽やか王子様(実は負けず嫌い)と、 クールなヴィジュアルの一匹狼(実は超弱気)、 イメージ正反対(中身も正反対)の二人で構成するユニット『よんよんまる』。 だが、これからという時に、二人の前にある男が現われる。 お互いやっと見つけた『欠けたピース』を手放さなければならないのか。 ※作中に登場する団体、ホール、店、コンペなどは、全て架空のものです。 ※音楽モノではありますが、音楽はただのスパイスでしかないので音楽知らない人でも大丈夫です! (医者でもないのに医療モノのドラマを見て理解するのと同じ感覚です)

処理中です...