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五章 幸せな日々は憂いを帯びて
現れた本性
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宵子の寝間着の後襟が引っ張られて、彼女の首を絞めた。クラウスの屋敷の窓を破って現れた黒い大きな犬が、寝間着の生地を咥えて駆けているのだ。地に足をつけて走るのではなく、家々の屋根を跳んで伝って、ほとんど空を飛ぶように高く、速く。
(嫌──怖い……!)
いっそ意識を失ってしまいたいのに、手足や身体が絶え間なくどこかしらにぶつかる痛みに気絶することさえ許されない。
恐怖に見開いた目に、円い月と満天の星空が映る。かと思うと、人形のように振り回されて、地上の灯りが蛍のように光の残像を視界に残す。
人が寝静まる真夜中は、空のほうが明るいのだと宵子は初めて知った。風情の違う光の散らばり方を、美しいと思うことができれば良かったのに。もちろん、そんな余裕は宵子にはなかった。
痛みを恐れてできるだけ身体を縮こめて。耳にかかる犬の息の生臭さに息を詰まらせて。激しい上下の動きに頭を揺さぶられて。
そうして、どれだけの間引きずられていたのだろうか。永遠にも思える恐怖と苦痛の後──黒い犬はようやく宵子の首元を捕えていた牙を緩めた。
(きゃ──)
突然投げ出された宵子は、立つこともできずに地面に転がった。彼女の身体を受け止めるのは、湿った草と土の匂い。
人喰い犬の住処に攫われてしまったのだろうか。犬は──ちょこんと地面に座って、燃えるような赤い目で宵子を見張っている。
(ここは、どこ……?)
月と星の冴え冴えとした光に浮かび上がるのは、木々の黒い影だった。森というよりは林、くらいの木の密度だろうか。周囲に人家の灯りは見えないけれど、郊外にまで連れてこられてしまったのか、それとも広い庭園や公演の片隅のだろうか。
犬の視線に怯えながらきょろきょろと辺りを見渡して──宵子は、朽ちた柱が何本か佇んでいることに気付いた。
使われなくなった納屋とか倉とか、どこにでもあるものだろう。でも、その柱の形や太さ、並び方にはどうにも見覚えがあるように思えてならなかった。
幼いころから何度となく通った、犬神様の祠に、そっくりなような。
(……まさか)
ここは、真上家の庭ではないだろうか。そう思って改めて見ると、木々の並びも、草の生え方もそうだとしか思えなかった。でも、なぜ人喰い犬がこの庭に?
嫌な予感に襲われて、宵子は自分の体を抱き締めた。震える足でどうにか立ち上がろうとすると、足の裏に湿った土の感触がする。室内履きは、とうに脱げてしまっていた。肩掛けが辛うじて引っかかっていたのが、奇跡のようだ。
ぐるるるるる──
と、勝手な動きを咎めるように、黒い犬が唸りながらのっそりと立ち上がった。黄色く汚れた牙が剥き出しになるのを見て、宵子は尻もちをついてしまう。
じわり、と。夜露が寝間着に染み込む感覚が冷たくて気持ち悪くて、宵子が顔を顰めた時──突然、真昼のような明るさがその場に現れて、彼女の目を眩ませた。
「久しぶりね、宵子!」
そして、軽やかな笑い声が響く。
(暁子……!)
聞き間違えようのない双子の妹の声に、宵子は目を見開いた。顔を上げると、洋燈の強い光に、暁子の楽しそうな笑顔が浮かび上がっている。
「私、あんたに謝らなければいけないことがあるの」
動きやすい袴姿で、軽やかな──踊るような足取りで、暁子は進み出た。そして、宵子を見下ろして、首を傾げる。
「犬神なんていないって、ずっと馬鹿にしていたでしょう? でも、本当にいるのね、そういうの! この子、真上家の新しい犬神よ。私の言うことを聞くんですって!」
暁子の言う通りだった。
黒い犬は、ゆっくりと尻尾を振ると、暁子に擦り寄り、頭を撫でられている。
(そんな。危ないわ……!)
暁子だって、人喰い犬の噂は知っていたはずだ。何人もの少女が犠牲になっているのに──その犯人がこの黒い犬だと気付いていないのだろうか。
ううん、それどころではない。
(どうして暁子が、この犬と……!?)
宵子が真上家にいた間、こんな大きな犬なんて見たことがなかった。それに今、暁子は何と言っただろう。
(犬神──)
でも、これは違う。宵子は直感的にそう思った。
彼女が知っている犬神様は、もっと穏やかで優しくて、知性ある眼差しをしていた。夜に溶け込むような漆黒の毛並みのこの犬は、今は大人しく暁子に撫でられているけれど、残忍に少女たちを食い殺したのだ。
真上家が祀ってきた犬神が、こんなものであるはずがない。
(駄目よ、暁子。早く逃げないと)
クラウスの屋敷にいる間に、宵子は紙と鉛筆が手元にあることにすっかり慣れてしまっていた。声を出せないもどかしさをこんなに切実に感じるのは久しぶりだった。
懸命に首や手を振って、危険を伝えようとするけれど──暁子はもう、宵子を見ていなかった。洋燈の光源がもうひとつ現れて、新たな人影をふたつ、浮かび上がらせたのだ。
人影の片方は、暁子の傍らにそっと寄り添った。黒い犬の反対側に、犬と合わせて暁子の護衛のような位置に落ち着いたのは、洋装を纏った春彦だった。
いつもと変わらない穏やかな声と微笑みで、春彦は暁子に話しかける。
「楽しそうだね、暁子」
「だって、この子、本当にすごいんですもの! 宵子を見つけて連れてきてくれるなんて、賢いのね。さすが春彦兄様だわ!」
くすくすと声を立てて笑うと、暁子は洋燈を地面に置いて、甘えるように春彦に腕を絡ませた。
「お褒めにあずかり恐縮だ」
婚約者の髪をそっと撫でてから、春彦は宵子に対しても笑みを向ける。まるで真上家の居間にいるかのような何気ない笑顔だった。
真夜中の庭で、人喰い犬がすぐ傍にいるとは信じられないくらいに、いつも通りの、優しい微笑。
「新城家には、真上家では失伝した技が伝えられていてね。真上家の危機に役立てていただいたという訳だ。君は知らなかったかもしれないが、近ごろ、真上家の家計はだいぶ厳しい状況でね」
呆然として目を見開きながら、宵子は春彦の言葉を聞き、そして理解した。屋敷を偉い方」が訪れた時に漏れ聞いたことの、本当の意味を。
(真上家の犬神の力が頼られるような事件を起こして──それを、自らの手で解決してみせる……? それによって、ご褒美をいただく……?)
「偉い方」には、犬神様の力がまだあるかのようなもの言いをして。いかにも自信たっぷりに振る舞って。殺された少女は、あんなにも無残な姿になってしまったのに。街の人々は、あんなに怯えていたのに。
(ひどいわ……!)
驚きよりも先に、宵子の胸に込み上げたのは激しい怒りだった。声に出して非難することこそできなくても、拳を強く握り、唇を噛み締め、春彦をきっ、と睨め上げる。
「なんだその目は。娘が親に逆らうのか」
宵子を叱りつけたのは、ふたつ目の洋燈を携えていた人影──宵子の父の、真上子爵だった。娘の反抗的な態度が許し難い、というように宵子を睨みつつ、横目でちらちらと黒い犬の様子を窺っている。
春彦や暁子と距離を取った位置に陣取っていることといい、父も黒い犬を恐れているようだった。
(お父様。どうしてこんなことを。許されないことです)
父は、犯した罪を恐れているのだと思いたかった。手柄を捏造するために何人も人を殺すなんて、間違っている。それを、本当は分かっているのだと信じたかった。
宵子が視線に込めた非難の色を読み取ってくれたのだろう。父は、気まずそうにそっぽを向いた。
「真上家は、犬神によって栄えた家だ。老いたからといって死なせるのは惜しかった……父の判断は間違っていたのだ。古くから続く家が絶えてはならんのだ。そのためなら、貧乏人のひとりやふたり──」
父は、罪悪感ゆえの言い訳を垂れ流そうとしていたのだろう。でも、宵子がそれを最後まで聞くことはできなかった。
「役立たずのひとりやふたり、でもありますね」
春彦の穏やかな声が響いたのとほぼ同時、黒い犬が後ろ脚で跳び上がって、父の喉元に噛みついたのだ。
「お父、様……?」
暁子が不思議そうに呟く間に、父は声を立てることもなく崩れ落ちた。ほとんど食いちぎられた父の首から噴き出す血が、雨のように宵子に降り注ぐ。それに、春彦の高らかな笑い声も。
「暁子と結婚して真上家を継ぐ──良いお話ではありますが、それまで待つ必要はどこにもないですよね? 当代の子爵が亡くなれば、すぐにも僕が後を継げるのに」
(嫌──怖い……!)
いっそ意識を失ってしまいたいのに、手足や身体が絶え間なくどこかしらにぶつかる痛みに気絶することさえ許されない。
恐怖に見開いた目に、円い月と満天の星空が映る。かと思うと、人形のように振り回されて、地上の灯りが蛍のように光の残像を視界に残す。
人が寝静まる真夜中は、空のほうが明るいのだと宵子は初めて知った。風情の違う光の散らばり方を、美しいと思うことができれば良かったのに。もちろん、そんな余裕は宵子にはなかった。
痛みを恐れてできるだけ身体を縮こめて。耳にかかる犬の息の生臭さに息を詰まらせて。激しい上下の動きに頭を揺さぶられて。
そうして、どれだけの間引きずられていたのだろうか。永遠にも思える恐怖と苦痛の後──黒い犬はようやく宵子の首元を捕えていた牙を緩めた。
(きゃ──)
突然投げ出された宵子は、立つこともできずに地面に転がった。彼女の身体を受け止めるのは、湿った草と土の匂い。
人喰い犬の住処に攫われてしまったのだろうか。犬は──ちょこんと地面に座って、燃えるような赤い目で宵子を見張っている。
(ここは、どこ……?)
月と星の冴え冴えとした光に浮かび上がるのは、木々の黒い影だった。森というよりは林、くらいの木の密度だろうか。周囲に人家の灯りは見えないけれど、郊外にまで連れてこられてしまったのか、それとも広い庭園や公演の片隅のだろうか。
犬の視線に怯えながらきょろきょろと辺りを見渡して──宵子は、朽ちた柱が何本か佇んでいることに気付いた。
使われなくなった納屋とか倉とか、どこにでもあるものだろう。でも、その柱の形や太さ、並び方にはどうにも見覚えがあるように思えてならなかった。
幼いころから何度となく通った、犬神様の祠に、そっくりなような。
(……まさか)
ここは、真上家の庭ではないだろうか。そう思って改めて見ると、木々の並びも、草の生え方もそうだとしか思えなかった。でも、なぜ人喰い犬がこの庭に?
嫌な予感に襲われて、宵子は自分の体を抱き締めた。震える足でどうにか立ち上がろうとすると、足の裏に湿った土の感触がする。室内履きは、とうに脱げてしまっていた。肩掛けが辛うじて引っかかっていたのが、奇跡のようだ。
ぐるるるるる──
と、勝手な動きを咎めるように、黒い犬が唸りながらのっそりと立ち上がった。黄色く汚れた牙が剥き出しになるのを見て、宵子は尻もちをついてしまう。
じわり、と。夜露が寝間着に染み込む感覚が冷たくて気持ち悪くて、宵子が顔を顰めた時──突然、真昼のような明るさがその場に現れて、彼女の目を眩ませた。
「久しぶりね、宵子!」
そして、軽やかな笑い声が響く。
(暁子……!)
聞き間違えようのない双子の妹の声に、宵子は目を見開いた。顔を上げると、洋燈の強い光に、暁子の楽しそうな笑顔が浮かび上がっている。
「私、あんたに謝らなければいけないことがあるの」
動きやすい袴姿で、軽やかな──踊るような足取りで、暁子は進み出た。そして、宵子を見下ろして、首を傾げる。
「犬神なんていないって、ずっと馬鹿にしていたでしょう? でも、本当にいるのね、そういうの! この子、真上家の新しい犬神よ。私の言うことを聞くんですって!」
暁子の言う通りだった。
黒い犬は、ゆっくりと尻尾を振ると、暁子に擦り寄り、頭を撫でられている。
(そんな。危ないわ……!)
暁子だって、人喰い犬の噂は知っていたはずだ。何人もの少女が犠牲になっているのに──その犯人がこの黒い犬だと気付いていないのだろうか。
ううん、それどころではない。
(どうして暁子が、この犬と……!?)
宵子が真上家にいた間、こんな大きな犬なんて見たことがなかった。それに今、暁子は何と言っただろう。
(犬神──)
でも、これは違う。宵子は直感的にそう思った。
彼女が知っている犬神様は、もっと穏やかで優しくて、知性ある眼差しをしていた。夜に溶け込むような漆黒の毛並みのこの犬は、今は大人しく暁子に撫でられているけれど、残忍に少女たちを食い殺したのだ。
真上家が祀ってきた犬神が、こんなものであるはずがない。
(駄目よ、暁子。早く逃げないと)
クラウスの屋敷にいる間に、宵子は紙と鉛筆が手元にあることにすっかり慣れてしまっていた。声を出せないもどかしさをこんなに切実に感じるのは久しぶりだった。
懸命に首や手を振って、危険を伝えようとするけれど──暁子はもう、宵子を見ていなかった。洋燈の光源がもうひとつ現れて、新たな人影をふたつ、浮かび上がらせたのだ。
人影の片方は、暁子の傍らにそっと寄り添った。黒い犬の反対側に、犬と合わせて暁子の護衛のような位置に落ち着いたのは、洋装を纏った春彦だった。
いつもと変わらない穏やかな声と微笑みで、春彦は暁子に話しかける。
「楽しそうだね、暁子」
「だって、この子、本当にすごいんですもの! 宵子を見つけて連れてきてくれるなんて、賢いのね。さすが春彦兄様だわ!」
くすくすと声を立てて笑うと、暁子は洋燈を地面に置いて、甘えるように春彦に腕を絡ませた。
「お褒めにあずかり恐縮だ」
婚約者の髪をそっと撫でてから、春彦は宵子に対しても笑みを向ける。まるで真上家の居間にいるかのような何気ない笑顔だった。
真夜中の庭で、人喰い犬がすぐ傍にいるとは信じられないくらいに、いつも通りの、優しい微笑。
「新城家には、真上家では失伝した技が伝えられていてね。真上家の危機に役立てていただいたという訳だ。君は知らなかったかもしれないが、近ごろ、真上家の家計はだいぶ厳しい状況でね」
呆然として目を見開きながら、宵子は春彦の言葉を聞き、そして理解した。屋敷を偉い方」が訪れた時に漏れ聞いたことの、本当の意味を。
(真上家の犬神の力が頼られるような事件を起こして──それを、自らの手で解決してみせる……? それによって、ご褒美をいただく……?)
「偉い方」には、犬神様の力がまだあるかのようなもの言いをして。いかにも自信たっぷりに振る舞って。殺された少女は、あんなにも無残な姿になってしまったのに。街の人々は、あんなに怯えていたのに。
(ひどいわ……!)
驚きよりも先に、宵子の胸に込み上げたのは激しい怒りだった。声に出して非難することこそできなくても、拳を強く握り、唇を噛み締め、春彦をきっ、と睨め上げる。
「なんだその目は。娘が親に逆らうのか」
宵子を叱りつけたのは、ふたつ目の洋燈を携えていた人影──宵子の父の、真上子爵だった。娘の反抗的な態度が許し難い、というように宵子を睨みつつ、横目でちらちらと黒い犬の様子を窺っている。
春彦や暁子と距離を取った位置に陣取っていることといい、父も黒い犬を恐れているようだった。
(お父様。どうしてこんなことを。許されないことです)
父は、犯した罪を恐れているのだと思いたかった。手柄を捏造するために何人も人を殺すなんて、間違っている。それを、本当は分かっているのだと信じたかった。
宵子が視線に込めた非難の色を読み取ってくれたのだろう。父は、気まずそうにそっぽを向いた。
「真上家は、犬神によって栄えた家だ。老いたからといって死なせるのは惜しかった……父の判断は間違っていたのだ。古くから続く家が絶えてはならんのだ。そのためなら、貧乏人のひとりやふたり──」
父は、罪悪感ゆえの言い訳を垂れ流そうとしていたのだろう。でも、宵子がそれを最後まで聞くことはできなかった。
「役立たずのひとりやふたり、でもありますね」
春彦の穏やかな声が響いたのとほぼ同時、黒い犬が後ろ脚で跳び上がって、父の喉元に噛みついたのだ。
「お父、様……?」
暁子が不思議そうに呟く間に、父は声を立てることもなく崩れ落ちた。ほとんど食いちぎられた父の首から噴き出す血が、雨のように宵子に降り注ぐ。それに、春彦の高らかな笑い声も。
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