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五章 幸せな日々は憂いを帯びて
黒い影が迫る
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宵子の香りが近づくのを感じて、クラウスは部屋の中で頭を抱えた。
彼は今、床の上で身体を丸めるようにして蹲っている。髪に埋まった指の間からは、ぴんと立った狼の耳が現れている。手足や首筋も、銀の毛皮に覆われ初めているはずだ。
(駄目だ……来てはいけない……!)
声を出せば、唸り声が混ざってしまいそうだった。宵子の香りは、彼の嗅覚にはあまりに甘くて美味しそうで、うっかりすると牙を剥き出してしまいそうになる。だから、歯を食いしばることしかできないのだ。
それでも、メイドのゼルマは、主人であるクラウスの意を汲んで宵子を宥めてくれている。
「宵子、落ち着いて。その格好ではいけません」
ゼルマも、シャッテンヴァルト伯爵家の血をわずかながら引いている。だから、クラウスの状況を分かってくれているのだ。
窓の外に見える月は、欠けるところのない真円だった。満月から降り注ぐ光は白く眩しく、クラウスに流れる狼の血を騒がせる。
先祖たちは、こんな月の夜に狼に姿を変えては森や草原を駆けたのだという。
かつての領民たちは、猛々しい狼の遠吠えを心強く聞いてくれたのかもしれないが──今の時代、街中をうろつく巨大な獣など恐れられて駆除されるだけだ。
同じく「人ではないもの」の末裔であるヘルベルトは、彼のために睡眠薬を処方してくれる。月の光に酔って暴走するくらいなら、深い眠りに落ちて朝までやり過ごしたほうが良い。ゼルマは、その薬を持ってきてくれるはずだったのだが。
(いつもより衝動が強い。宵子が近くにいるからか……!?)
身体の内側で何かが暴れるような感覚が、クラウスを苦しめていた。血が燃えるように熱く、何もかもを食い殺したいと彼を焚きつける。
まるで、飢えた獣に落ちたような無様な姿だ。彼は、理性も節度もある人間のはずなのに。
扉の外では、ゼルマが宵子を宥めるのに苦労しているようだった。
宵子の愛らしい唇が紡ぐ声を、クラウスはまだ知らない。だが、半ば狼となった彼の感覚は研ぎ澄まされて、彼女の匂いに混ざった不安や恐怖が嗅ぎ取れる。──それがまた、魅力的だと感じてしまうのだが。
(宵子は、俺とは違う。この姿を、見られる訳には──)
最初に彼女に注意を惹かれたのは、同族の、狼に似た匂いを感じたからだった。もしや日本にも、彼の家のように狼の血を引く一族がいるのではないか、と。
だが、宵子と接するうちにどうやら違うようだ、と分かった。彼女が月に反応する気配はなく、五感も通常の人間と変わらないようだったから。クラウスやヘルベルトが纏う人外の香りに、彼女はおそらく気付いていない。
身体の機能は健全なのに、封じられたように声が出せないことからしても、何か「人ではないもの」と関りがあるのは間違いないだろうが──少なくとも、それは彼女の血に流れるものではない。
(同族かどうかなんて関係ない。俺は、彼女が──だが、だからこそ……!)
敷物の上でのたうち回りながら、クラウスは呻き声を噛み殺した。宵子が聞いたら、心配のあまりに扉を開けて入ってきてしまうかもしれない。そして、彼が化物だと知ってしまうかも。
あの、夜のように黒く美しい目に恐怖と嫌悪が浮かぶのを見てしまったら、耐えられそうにない。
異国で同族が生き延びていたかもしれない、という喜びは、すぐに運命の相手に出会えたのかもしれない、というより大きな歓喜に変わっていた。
控えめな優しさ、意外なほどの芯の強さ、虐げられた日々の中で異国の言葉を学ぼうとした忍耐強さ。──その強く純粋な想いを、クラウスに寄せてくれたこと。
彼女のすべてを愛しいと思えば思うほど、正体を知られるのが怖くなった。
共に過ごす時間が幸せであればあるほど、後ろめたさに苛まれた。いつまで一緒にいられるのかと、不安になった。
真実を伏せたまま、ぬるま湯のように心地良い日々に浸ろうだなんて、きっとクラウスの我が儘でしかないのだ。そのせいで、扉の向こうでは宵子があんなに心を痛めている。
(朝になれば、話す……話さなければ。だが、今は去ってくれ……!)
狼の血のこと、満月の光で騒ぐ獣の本能のこと。……時として、彼自身が驚く残酷な衝動のこと。
すべて打ち明けなければ。その上で、それでも一緒にいてくれるように乞うのだ。跪いて、心から──そして、拒まれたとしても、宵子が幸せになれるように取り計らわなくては。
でもそれは、朝になってからのこと。クラウスがまともな人間らしい顔が取り繕えるようになってからのこと。
今はどうか、彼を放って安らかな夢を見て欲しい。
荒い息を堪えて、クラウスは扉の外の気配に耳を澄ませた。
メイドのゼルマのお陰で、宵子は納得しつつあるようだった。そうだ、彼女はもう寝間着に着替えているはず。こんな時間に男の前に姿を見せるものではないと、礼儀正しい彼女は分かってくれるはずだ。
「では、宵子。あとは私に任せてお休みなさい」
ゼルマの声と、そして宵子が小さく頷く気配を感じ取って、クラウスはようやく安堵の息を吐いた。
ヘルベルトの薬を呑めば、悪夢を見る余地すらなくぐっすりと寝ることができる。不安も恐れも、ひと晩だけは忘れられる。
(味は、ひどいんだが)
救済となる薬が早く届くと良い、と。ゼルマを迎えるべく、クラウスはよろよろと立ち上がった。
その時──ガラスが砕ける鋭い音が、彼の、今は三角に尖った耳に突き刺さった。次いで、ゼルマの高い悲鳴が。
「──宵子!?」
同時に、クラウスの嗅覚をすさまじい悪臭が襲う。血と肉が腐ったようなその臭いには、覚えがある。真上子爵邸で、春彦とかいう胡散臭い男が漂わせていたものだ。
(宵子に、何が!?)
半ば獣と化した姿を見られることを恐れている場合では、なかった。
クラウスが寝室から飛び出すと、そこには砕け散ったガラスが一面に散らばり、月の光を反射していた。ゼルマが投げ出したらしい盆と水差しも転がっている。
ゼルマは、腰を抜かしてへたり込んでいたが──廊下を見渡しても宵子の姿は、ない。
「何があった」
ゼルマを助け起こしながら短く問うと、メイドはがくがくと震えながら、破れた窓を指さした。
「……狼です。悪魔のように真っ黒で大きな狼……! 宵子を咥えて、攫っていきました……!」
例の悪臭は、確かに窓の外に続いていた。腐汁を滴らせるような痕跡は、クラウスの鼻なら容易く辿ることができるだろう。
(黒い狼……例の、人喰い犬か!)
いつか、街中で宵子を追い回していたおぞましい存在を思い出して、クラウスの全身の毛は怒りに逆立った。
「許さん……!」
低く、唸ると同時に彼の手足は狼の四肢へと変じていく。牙を剥く尖った口から漏れるのは、宣戦布告の遠吠えだ。銀の毛皮の狼になった彼が床を蹴れば、その身体は流星の軌跡を描いて窓から躍り出す。
そして、着地すると同時に全身の筋肉をばねにして、駆ける。不吉なほど明るい月の光は、彼を宵子のところまで導いてくれるだろう。
彼は今、床の上で身体を丸めるようにして蹲っている。髪に埋まった指の間からは、ぴんと立った狼の耳が現れている。手足や首筋も、銀の毛皮に覆われ初めているはずだ。
(駄目だ……来てはいけない……!)
声を出せば、唸り声が混ざってしまいそうだった。宵子の香りは、彼の嗅覚にはあまりに甘くて美味しそうで、うっかりすると牙を剥き出してしまいそうになる。だから、歯を食いしばることしかできないのだ。
それでも、メイドのゼルマは、主人であるクラウスの意を汲んで宵子を宥めてくれている。
「宵子、落ち着いて。その格好ではいけません」
ゼルマも、シャッテンヴァルト伯爵家の血をわずかながら引いている。だから、クラウスの状況を分かってくれているのだ。
窓の外に見える月は、欠けるところのない真円だった。満月から降り注ぐ光は白く眩しく、クラウスに流れる狼の血を騒がせる。
先祖たちは、こんな月の夜に狼に姿を変えては森や草原を駆けたのだという。
かつての領民たちは、猛々しい狼の遠吠えを心強く聞いてくれたのかもしれないが──今の時代、街中をうろつく巨大な獣など恐れられて駆除されるだけだ。
同じく「人ではないもの」の末裔であるヘルベルトは、彼のために睡眠薬を処方してくれる。月の光に酔って暴走するくらいなら、深い眠りに落ちて朝までやり過ごしたほうが良い。ゼルマは、その薬を持ってきてくれるはずだったのだが。
(いつもより衝動が強い。宵子が近くにいるからか……!?)
身体の内側で何かが暴れるような感覚が、クラウスを苦しめていた。血が燃えるように熱く、何もかもを食い殺したいと彼を焚きつける。
まるで、飢えた獣に落ちたような無様な姿だ。彼は、理性も節度もある人間のはずなのに。
扉の外では、ゼルマが宵子を宥めるのに苦労しているようだった。
宵子の愛らしい唇が紡ぐ声を、クラウスはまだ知らない。だが、半ば狼となった彼の感覚は研ぎ澄まされて、彼女の匂いに混ざった不安や恐怖が嗅ぎ取れる。──それがまた、魅力的だと感じてしまうのだが。
(宵子は、俺とは違う。この姿を、見られる訳には──)
最初に彼女に注意を惹かれたのは、同族の、狼に似た匂いを感じたからだった。もしや日本にも、彼の家のように狼の血を引く一族がいるのではないか、と。
だが、宵子と接するうちにどうやら違うようだ、と分かった。彼女が月に反応する気配はなく、五感も通常の人間と変わらないようだったから。クラウスやヘルベルトが纏う人外の香りに、彼女はおそらく気付いていない。
身体の機能は健全なのに、封じられたように声が出せないことからしても、何か「人ではないもの」と関りがあるのは間違いないだろうが──少なくとも、それは彼女の血に流れるものではない。
(同族かどうかなんて関係ない。俺は、彼女が──だが、だからこそ……!)
敷物の上でのたうち回りながら、クラウスは呻き声を噛み殺した。宵子が聞いたら、心配のあまりに扉を開けて入ってきてしまうかもしれない。そして、彼が化物だと知ってしまうかも。
あの、夜のように黒く美しい目に恐怖と嫌悪が浮かぶのを見てしまったら、耐えられそうにない。
異国で同族が生き延びていたかもしれない、という喜びは、すぐに運命の相手に出会えたのかもしれない、というより大きな歓喜に変わっていた。
控えめな優しさ、意外なほどの芯の強さ、虐げられた日々の中で異国の言葉を学ぼうとした忍耐強さ。──その強く純粋な想いを、クラウスに寄せてくれたこと。
彼女のすべてを愛しいと思えば思うほど、正体を知られるのが怖くなった。
共に過ごす時間が幸せであればあるほど、後ろめたさに苛まれた。いつまで一緒にいられるのかと、不安になった。
真実を伏せたまま、ぬるま湯のように心地良い日々に浸ろうだなんて、きっとクラウスの我が儘でしかないのだ。そのせいで、扉の向こうでは宵子があんなに心を痛めている。
(朝になれば、話す……話さなければ。だが、今は去ってくれ……!)
狼の血のこと、満月の光で騒ぐ獣の本能のこと。……時として、彼自身が驚く残酷な衝動のこと。
すべて打ち明けなければ。その上で、それでも一緒にいてくれるように乞うのだ。跪いて、心から──そして、拒まれたとしても、宵子が幸せになれるように取り計らわなくては。
でもそれは、朝になってからのこと。クラウスがまともな人間らしい顔が取り繕えるようになってからのこと。
今はどうか、彼を放って安らかな夢を見て欲しい。
荒い息を堪えて、クラウスは扉の外の気配に耳を澄ませた。
メイドのゼルマのお陰で、宵子は納得しつつあるようだった。そうだ、彼女はもう寝間着に着替えているはず。こんな時間に男の前に姿を見せるものではないと、礼儀正しい彼女は分かってくれるはずだ。
「では、宵子。あとは私に任せてお休みなさい」
ゼルマの声と、そして宵子が小さく頷く気配を感じ取って、クラウスはようやく安堵の息を吐いた。
ヘルベルトの薬を呑めば、悪夢を見る余地すらなくぐっすりと寝ることができる。不安も恐れも、ひと晩だけは忘れられる。
(味は、ひどいんだが)
救済となる薬が早く届くと良い、と。ゼルマを迎えるべく、クラウスはよろよろと立ち上がった。
その時──ガラスが砕ける鋭い音が、彼の、今は三角に尖った耳に突き刺さった。次いで、ゼルマの高い悲鳴が。
「──宵子!?」
同時に、クラウスの嗅覚をすさまじい悪臭が襲う。血と肉が腐ったようなその臭いには、覚えがある。真上子爵邸で、春彦とかいう胡散臭い男が漂わせていたものだ。
(宵子に、何が!?)
半ば獣と化した姿を見られることを恐れている場合では、なかった。
クラウスが寝室から飛び出すと、そこには砕け散ったガラスが一面に散らばり、月の光を反射していた。ゼルマが投げ出したらしい盆と水差しも転がっている。
ゼルマは、腰を抜かしてへたり込んでいたが──廊下を見渡しても宵子の姿は、ない。
「何があった」
ゼルマを助け起こしながら短く問うと、メイドはがくがくと震えながら、破れた窓を指さした。
「……狼です。悪魔のように真っ黒で大きな狼……! 宵子を咥えて、攫っていきました……!」
例の悪臭は、確かに窓の外に続いていた。腐汁を滴らせるような痕跡は、クラウスの鼻なら容易く辿ることができるだろう。
(黒い狼……例の、人喰い犬か!)
いつか、街中で宵子を追い回していたおぞましい存在を思い出して、クラウスの全身の毛は怒りに逆立った。
「許さん……!」
低く、唸ると同時に彼の手足は狼の四肢へと変じていく。牙を剥く尖った口から漏れるのは、宣戦布告の遠吠えだ。銀の毛皮の狼になった彼が床を蹴れば、その身体は流星の軌跡を描いて窓から躍り出す。
そして、着地すると同時に全身の筋肉をばねにして、駆ける。不吉なほど明るい月の光は、彼を宵子のところまで導いてくれるだろう。
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