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四章 暗闇に差し伸べられた手
懇願は退けられて
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クラウスが真上家を訪れる当日、宵子は屋根裏の自室をそっと抜け出した。
足首の鈴を鳴らさないように、細心の注意を払って──向かうのは、二階の暁子の部屋だ。
入室する前には、扉を叩くのが作法だということは承知している。でも、室内から声をかけられても宵子には答えられないし、部屋を抜け出したことが知られたらまともにとりあってもらえない。
だから、思い切って扉を押し開ける。すると、暁子の甲高い声に出迎えられた。
「何しに来たのよ、宵子! 今日はずっと部屋にいなさいって、お父様から聞いてないの!?」
異国のお客様を迎えるにあたって、今日の暁子は洋装を選んだらしい。昼の席では、夜会のときのように肩や胸もとを剥き出しにする意匠のドレスではないこともあるだろう。
化粧も髪型も、和装とは違って慣れている者は少ない。だから女中が総出で着付けを手伝っているのだろう、室内には息苦しくなるほどの人が集っていた。
(……怖い、けど……)
もちろん、誰もが宵子を見て顔を顰めている。 忙しい時に、呪いの子の相手をするなんて嫌に決まっている。
視線の矢に貫かれる思いで、それでも宵子は鈴の音を鳴らしながら暁子の前に進み出た。
「な、何よ。言いたいことでもあるの? 言えない癖に……!」
そう、確かに。宵子は言葉で伝えるということができない。だから代わりに、紙に書いて持ってきていた。宵子は、畳んでおいた紙片を指先で広げて、暁子に差し出した。
──シャッテンヴァルト伯爵様にお渡ししたいものがあるの。少しだけ、あの方と会わせてちょうだい。
ごくささやかな──そのつもりだった──願いを記した紙片を読み上げる暁子の頬に、化粧ではない朱がさっと上り、唇が強く噛み締められた。
(駄目、なの……?)
苛立ちも露に、明らかに不快を示している暁子の表情を見て、宵子の胸はずきんと痛む。そこには、クラウスに宛てた手紙を忍ばせている。
(もう、お会いできるか分からないのに……!)
父の口振りからは、真上家はクラウスと何か重要な取引をするのではないか、という気がしてならなかった。事業のことなのか、外交に関わることなのかは分からないけれど。
もしも、今後も真上家とあの方が親しく交際するというなら──父たちは、宵子の存在を隠しておきたいと思うだろう。父は、夜会で一度会ったことさえ都合が悪いと言いたげな表情だったのだから。
だから、手紙を渡すなら今日が最後の機会になるかもしれないのだ。宵子という娘がいたことを、せめて知って欲しいと伝える手紙。せっかく何日もかけて書いたのに、渡すことすらできないなんて悲しすぎる。
(暁子。お願い……!)
一縷の望みをかけて、勇気を振り絞って、初めてのねだりごとを紙に書いて暁子に渡したのだ。これまでたくさん我が儘を聞いてきたのだから、とは言わなかったけれど──もしも、思い出してくれたなら、と願っていたのに。
「何よ。宵子もあの方が気に入ったの? 私の振りをして近づこうなんて、恥知らずではしたないこと……!」
宵子の渡した紙片を、暁子は思い切り引き裂いた。怒りをぶつけるかのように、何度も、何度も。
小さくちぎられた白い紙の欠片が、雪のように舞う。それが床に落ちる前に、宵子は跪き、暁子のドレスの裾に縋った。
(お願い。少しだけで良いの)
文字での懇願を退けられることくらい、覚悟していた。紙を破られるのも、驚くようなことではない。
書いたもので伝わらないなら、態度で、表情で本気の願いだと示すのだ。胸の前で手を組み合わせて、必死の思いを込めて。宵子は、双子の妹を見上げたのだけれど──
「出しゃばろうとしないでよ。あんたは言われた時に言われたことをやってれば良いの! 私に成り代わろうとしてるんじゃないでしょうね? 嫌だ……怖い! 気持ち悪い!」
頬に熱い衝撃が走って、体勢が崩れる。暑さがじわじわと痛みに代わっていくうちに、平手打ちをされたのだ、と分かる。
頬を抑えて見上げれば、暁子の顔は怒りだけでなく嫌悪によっても歪んでいた。まるで、汚いものに触れてしまったかのような表情が、宵子の胸を抉る。
「暁子、何があった? ──宵子?」
と、暁子の怒声を聞きつけたのか、男の人の声が響いた。春彦の声だ。
宵子が首を捻って扉のほうを見ると、暁子に合わせて洋装した春彦がわずかに眉を寄せて佇んでいた。
怒りに頬を染めた暁子に、床に倒れた宵子。女中たちは息を呑んで遠巻きにして──不思議に思うのも、当然だった。
(兄様……!)
春彦は、父たちや暁子に比べれば宵子に優しかった。
だからもしかしたら、と。ひと筋の希望の光が射した思いで、宵子は春彦に縋ろうとした。でも、暁子が彼に詰め寄るほうが、早い。
「春彦兄様、宵子をどこかに閉じ込めて! この子、私の振りをして何かしようとしてるわ!」
春彦は、数秒の間、床に這うような格好の宵子と、憤然と彼女を指さす暁子を見比べた。そして、小さく溜息を吐く。
「……すまないね、宵子。今日は本当に大事な席なんだ」
遠慮がちな声と裏腹に、宵子の腕を掴んだ春彦の手は力強かった。抗うこともできず、すぐに立たせられてしまうほどに。
(そんな……!)
宵子の唇から漏れた吐息は、声にならない悲鳴だった。だから、誰にも聞いてもらえない。彼女の目に浮かんだ涙に気付いてくれる人も、いない。
「あの、春彦様。どうなさるおつもりですか……?」
「地下室に入っていてもらおう。入り口に重石をしておけば、見張っておく必要もない」
おずおずと問いかけた女中に応じる春彦の声は、もはや迷いなく冷ややかだった。彼の両手は、宵子の肩をしっかりと捉えて逃がしてくれそうにない。
(地下室なんて……!)
虫やネズミが出るかもしれない、湿った場所だ。ふだんは立ち入る人もいないし、宵子のために灯りを点してくれるとも思えない。
(嫌──お願い……!)
真っ暗な中に閉じ込められる。ううん、それより──クラウスに、会えなくなる。
はかない抵抗としてわずかにもがいた──あるいは、よろめいた宵子の足もとで、鈴が小さくりん、と鳴った。
足首の鈴を鳴らさないように、細心の注意を払って──向かうのは、二階の暁子の部屋だ。
入室する前には、扉を叩くのが作法だということは承知している。でも、室内から声をかけられても宵子には答えられないし、部屋を抜け出したことが知られたらまともにとりあってもらえない。
だから、思い切って扉を押し開ける。すると、暁子の甲高い声に出迎えられた。
「何しに来たのよ、宵子! 今日はずっと部屋にいなさいって、お父様から聞いてないの!?」
異国のお客様を迎えるにあたって、今日の暁子は洋装を選んだらしい。昼の席では、夜会のときのように肩や胸もとを剥き出しにする意匠のドレスではないこともあるだろう。
化粧も髪型も、和装とは違って慣れている者は少ない。だから女中が総出で着付けを手伝っているのだろう、室内には息苦しくなるほどの人が集っていた。
(……怖い、けど……)
もちろん、誰もが宵子を見て顔を顰めている。 忙しい時に、呪いの子の相手をするなんて嫌に決まっている。
視線の矢に貫かれる思いで、それでも宵子は鈴の音を鳴らしながら暁子の前に進み出た。
「な、何よ。言いたいことでもあるの? 言えない癖に……!」
そう、確かに。宵子は言葉で伝えるということができない。だから代わりに、紙に書いて持ってきていた。宵子は、畳んでおいた紙片を指先で広げて、暁子に差し出した。
──シャッテンヴァルト伯爵様にお渡ししたいものがあるの。少しだけ、あの方と会わせてちょうだい。
ごくささやかな──そのつもりだった──願いを記した紙片を読み上げる暁子の頬に、化粧ではない朱がさっと上り、唇が強く噛み締められた。
(駄目、なの……?)
苛立ちも露に、明らかに不快を示している暁子の表情を見て、宵子の胸はずきんと痛む。そこには、クラウスに宛てた手紙を忍ばせている。
(もう、お会いできるか分からないのに……!)
父の口振りからは、真上家はクラウスと何か重要な取引をするのではないか、という気がしてならなかった。事業のことなのか、外交に関わることなのかは分からないけれど。
もしも、今後も真上家とあの方が親しく交際するというなら──父たちは、宵子の存在を隠しておきたいと思うだろう。父は、夜会で一度会ったことさえ都合が悪いと言いたげな表情だったのだから。
だから、手紙を渡すなら今日が最後の機会になるかもしれないのだ。宵子という娘がいたことを、せめて知って欲しいと伝える手紙。せっかく何日もかけて書いたのに、渡すことすらできないなんて悲しすぎる。
(暁子。お願い……!)
一縷の望みをかけて、勇気を振り絞って、初めてのねだりごとを紙に書いて暁子に渡したのだ。これまでたくさん我が儘を聞いてきたのだから、とは言わなかったけれど──もしも、思い出してくれたなら、と願っていたのに。
「何よ。宵子もあの方が気に入ったの? 私の振りをして近づこうなんて、恥知らずではしたないこと……!」
宵子の渡した紙片を、暁子は思い切り引き裂いた。怒りをぶつけるかのように、何度も、何度も。
小さくちぎられた白い紙の欠片が、雪のように舞う。それが床に落ちる前に、宵子は跪き、暁子のドレスの裾に縋った。
(お願い。少しだけで良いの)
文字での懇願を退けられることくらい、覚悟していた。紙を破られるのも、驚くようなことではない。
書いたもので伝わらないなら、態度で、表情で本気の願いだと示すのだ。胸の前で手を組み合わせて、必死の思いを込めて。宵子は、双子の妹を見上げたのだけれど──
「出しゃばろうとしないでよ。あんたは言われた時に言われたことをやってれば良いの! 私に成り代わろうとしてるんじゃないでしょうね? 嫌だ……怖い! 気持ち悪い!」
頬に熱い衝撃が走って、体勢が崩れる。暑さがじわじわと痛みに代わっていくうちに、平手打ちをされたのだ、と分かる。
頬を抑えて見上げれば、暁子の顔は怒りだけでなく嫌悪によっても歪んでいた。まるで、汚いものに触れてしまったかのような表情が、宵子の胸を抉る。
「暁子、何があった? ──宵子?」
と、暁子の怒声を聞きつけたのか、男の人の声が響いた。春彦の声だ。
宵子が首を捻って扉のほうを見ると、暁子に合わせて洋装した春彦がわずかに眉を寄せて佇んでいた。
怒りに頬を染めた暁子に、床に倒れた宵子。女中たちは息を呑んで遠巻きにして──不思議に思うのも、当然だった。
(兄様……!)
春彦は、父たちや暁子に比べれば宵子に優しかった。
だからもしかしたら、と。ひと筋の希望の光が射した思いで、宵子は春彦に縋ろうとした。でも、暁子が彼に詰め寄るほうが、早い。
「春彦兄様、宵子をどこかに閉じ込めて! この子、私の振りをして何かしようとしてるわ!」
春彦は、数秒の間、床に這うような格好の宵子と、憤然と彼女を指さす暁子を見比べた。そして、小さく溜息を吐く。
「……すまないね、宵子。今日は本当に大事な席なんだ」
遠慮がちな声と裏腹に、宵子の腕を掴んだ春彦の手は力強かった。抗うこともできず、すぐに立たせられてしまうほどに。
(そんな……!)
宵子の唇から漏れた吐息は、声にならない悲鳴だった。だから、誰にも聞いてもらえない。彼女の目に浮かんだ涙に気付いてくれる人も、いない。
「あの、春彦様。どうなさるおつもりですか……?」
「地下室に入っていてもらおう。入り口に重石をしておけば、見張っておく必要もない」
おずおずと問いかけた女中に応じる春彦の声は、もはや迷いなく冷ややかだった。彼の両手は、宵子の肩をしっかりと捉えて逃がしてくれそうにない。
(地下室なんて……!)
虫やネズミが出るかもしれない、湿った場所だ。ふだんは立ち入る人もいないし、宵子のために灯りを点してくれるとも思えない。
(嫌──お願い……!)
真っ暗な中に閉じ込められる。ううん、それより──クラウスに、会えなくなる。
はかない抵抗としてわずかにもがいた──あるいは、よろめいた宵子の足もとで、鈴が小さくりん、と鳴った。
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