呪い子と銀狼の円舞曲《ワルツ》

悠井すみれ

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三章 伝えたい想い

夜会を待ちわびて

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 宵子しょうこは、何日もの間、暁子あきこのドイツ語の辞書と教科書を借りっぱなしにしていた。でも、双子の妹が文句を言ってくることはなかった。

 これが帯や着物だったら、盗むつもりかと責め立てられていただろう。というか、そもそも宵子に貸してくれはしなかっただろうし、宵子のほうでも身につける機会なんてないからあり得ないことかもしれない。
 それが、勉強に関する本だと存在自体が忘れられているようなのは不思議なことだった。

(学校では使わないのかしら……?)

 この間に、ドイツ語に限らず暁子の宿題を押し付けられているから、預けたままのほうが楽で良い、と思っているのかもしれない。妹の真意はともかく、宵子としては空いた時間を見つけては手紙の翻訳に励むことができるので、都合が良かった。

(次はいつ夜会があるか分からないもの。早く完成させておかないと……!)

 ドイツ人からはどう見えるかはさておき、宵子なりに日本語をドイツ語に置き換える作業は夜ごとに進んでいる。
 筆でアルファベットを綴るのは難しいから、清書する時間も見込まなければいけないだろうけど。もう少しで、とにかくも人に渡せる手紙の形にはできそうだった。

 問題があるとしたら──

「お行儀が悪いわね、宵子。春彦はるひこ兄様の前でそんな眠そうな顔をして!」

 ふわあ、と。小さく欠伸あくびを噛み殺そうとした宵子を、暁子は見逃してはくれなかった。鋭く咎める声を浴びて、宵子は首を竦める。

 春彦が、婚約者の暁子の機嫌伺いに真上まがみ家を訪ねたので、茶菓子を出すところだったのだ。身内同然の彼でなければ、宵子が応接に出ることはない。令嬢に瓜二つの女中──宵子はそうとしか見えない──なんて、お客様には不審でしかないのだから。

(ご、ごめんなさい)

 相手がお客でも身内でも、人前で欠伸をするのはとても失礼なことは分かっている。お盆を持っていたから、口元を隠すことができなかった──なんて言い訳にしかならないだろう。

(昨日も、気付いたら寝ていたから、つい……)

 蝋燭ろうそくの灯りのもとで、異国の文字と表現に取り組んでいる間は、時間なんて気にならない。

 たくさんの用例を眺めるうちに、このほうが上手く伝えられそうだ、と気付いた時は本当に楽しいし、単語の組み合わせによって、もとの意味とかけ離れた熟語ができるのは日本語にもあることで面白い。
 ドイツ語をまともに聞いたこともほとんどない癖に、最近の宵子は夢でもドイツ語の綴りを覚えようとしているくらいだ。

 でも、だからといって目が覚めた時に疲れや寝不足をまったく感じずにいられる訳ではない。水を汲んだ重い桶を抱えた時なんかに、目眩を感じてしまうこともあったし──ほどほどにしたほうが良いのかもしれない。

 気まずい思いで、宵子は暁子と春彦の前に茶器とお菓子の乗った皿を並べた。もちろん宵子の分はない。上等の白小豆を使った練り切りは、見た目にも瑞々しくて美味しそうだけれど。

 美しい花をかたどった練り切りを切なく眺めながら、宵子はぺこりとお辞儀をして退出しようとした。その耳に、春彦と暁子のやり取りが届く。

「宵子は、暁子の代わりに宿題をしていると聞いたが? 君のせいで夜更かしをしているなら、咎めるのは気の毒だろう」
「あら、兄様。でも、宵子だって仕事ができて嬉しいと思うわ? 口が利けないんですもの、ろくな仕事ができないでしょう? 黙って手を動かせば良いんだから大したことではないでしょうに。社交をしなければいけない私のほうがよほど大変よ!」
「……ああ。君も頑張っていると思うが」
「でしょう? お兄様は分かってくださるのね!」

 春彦は、暁子をたしなめようとしてくれたのだろう。でも、分家の立場ゆえか、声の冗談めかした軽いものでしかない。だから、暁子にはまったく伝わっていないようだった。

 暁子の無邪気な笑い声が響く中、春彦がちらりと宵子にすまなそうな視線を向けた。気にしないでください、の意味を込めて、宵子は小さく首を振る。

(春彦兄様は、お婿に入るんだもの。暁子に強く言えないのは当然よ……)

 黒文字くろもじを取って練り切りを口にしようとしている暁子は、婚約者と双子の姉の無言のやり取りにも気を留めていない。
 より、暁子には考えることがたくさんあるのだろう。弾んだ声が、春彦に語り掛ける。

「お父様もね、また夜会だか晩餐会だかにお招きされるかもって仰ってたわ。ドレスを着て外国の方のお相手なんて──また振袖を仕立てていただかないと。今度はどんな模様にしようかしら」

 暁子は、夜会のたびに着物をねだるつもりらしい。ただでさえドレスも仕立てなければならないのに、真上家はそんなに裕福なのだろうか。

(お父様は、暁子を可愛がっているけれど……)

 ねだったのは宵子ではないのだから、心配する必要はないのかもしれないけれど。着る機会もないのだから、私にも、なんて思ったりはしないけれど。

(兄様は、何か言ってくださるかしら?)

 暁子の我が儘も贅沢好きも、さすがに限度を超えている気がして。宵子は、部屋を出る前に一瞬だけ振り向いた。──すると、春彦と目が合ってどきりとする。

「思い切り豪華なのをおねだりすると良い。例の人喰い犬事件では、真上家が頼りにされているからね。解決すれば、たっぷりと褒賞ほうしょうをいただけるだろう」

 暁子は、甘えるように春彦の胸にしなだれかかっている。だから、彼が宵子のほうを向いているのは目に入っていないようだった。宵子を見る春彦の目はどこか皮肉っぽくて──盗み見しようとしたのを揶揄からかわれている気もするし、何も気付かない暁子を嗤っているのではないか、という気もした。

 何だか見てはいけないものを見てしまった気がして、宵子は慌てて扉を閉めた。暁子の高い笑い声は、分厚い木材越しにもよく聞こえたけれど、少なくとも、これで春彦の視線を感じずに済む。

 空いた盆を抱え込んで、宵子はどきどきと高鳴る胸を押さえた。

(あの犬のこと……そんなに大事おおごとになっているの? でも、それならどうして兄様は必ずご褒美がいただけるような言い方をなさったの……?)

 真上家が犬神いぬがみの力で栄えたのは、もう昔のことだ。父も春彦も、不思議な力なんてないはずなのに、どうしてあんなに自信たっぷりなもの言いだったのだろう。

 何だか、嫌な予感がして堪らなかったけれど──それを払いのけるべく、宵子はふるふると首を振った。

(私は……私にできることをやるしかない……)

 暁子が夜会に出るということは、宵子が舞踏の代役を務めるということだ。クラウスとまた会える──会えるかもしれない──機会が、近づいているということでもある。

(……早くお仕事を終わらせないと)

 そして、あの方への手紙を書きあげるのだ。

 そう決意して、宵子は足早に歩き始めた。
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