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三章 伝えたい想い

声が出せなくても

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 宵子しょうこの部屋は、屋根裏部屋にある。
 天井が斜めになった狭い部屋だし、今のように怪我をしていては階段を上るのは辛いけれど、ひとりきりで寛げる場所は貴重だった。

 ずきずきと、擦り傷が痛む。
 りんりんと、足首の鈴が鳴る。

 鈴の音に、傷をちくちくと刺激される思いで、宵子が一段ずつ階段を上っていると──もうすぐ二階に辿り着く、というところで、華奢な人影が立ちはだかった。

「遅かったじゃない、宵子。野犬に襲われたかと思ってたわ」

 数段高いところから宵子を見下ろすのは、暁子あきこだった。友人たちを見送って、夕食も終えたころだからだろうか、振袖ではなく身軽な小袖に着替えている。

(……暁子も、事件のことを知っているのね)

 幅の狭い階段で立ち往生することになって、手すりに縋りながら。宵子は頬を強張らせた。
 外出には馬車や人力車を使う暁子は、野犬に襲われる心配はないだろう。父や春彦はるひこも、恐ろしい事件のことをわざわざ教えたりはしないはず。

 そんな暁子でも知っているくらい──恐らくは、令嬢たちの間でも噂になるくらい、「人喰い犬」の影は帝都ていとを騒がせているのだろうか。

「なんだ、知ってたの? そんな顔して……宵子の癖に怖いの? 子供のころは犬神いぬがみとか変なこと言ってたのに!」

 宵子が怯えた様子を見せたのを嘲るように、暁子は軽やかに笑った。宵子の着物の汚れや、手足の細かな傷にはまったく気付いていないらしい。

(私……本当にその犬に襲われたのよ。すぐそこで……)

 声を出せなくてもしかたがない、と。宵子はずっと思っていた。暁子に何を言われても、言い返せないのが当たり前なのだ、と。

 でも、ヘルベルトという外国人に対して、何も思いを伝えることができなかったのが心にしこっている。気まずいだけでなく、外国人だから話したくないのかと思われかけてしまったし、犬のことももっとちゃんと伝えてあげたかった。

(私に、声を出すことができたら……!)

 何年かぶりに、妹にはっきりと言ってやりたい、という思いがこみ上げて、宵子は口を開いた。

 怖かったし、危ないところだったこと。助けてくれた銀の犬の美しさ。犬神様は確かにいたのだということ。良いことも悪いことも、怖かったことも綺麗なことも、言葉で伝えられたら──

(いいえ。望んではいけないわ。犬神様は真上家に怒っていたのだもの)

 犬神様の呪いがある限り、宵子の声は封じられたまま。そして、真上家が犬神様にひどい仕打ちをしてきた以上、宵子が不満に思うなんていけないこと。

 宵子がきゅっと唇を結んだこと──というか、そもそも口を開いていたことにも、暁子は気付かなかった。横を向きながら、指先で宵子に階段を上るように命じてくる。

「お父様と春彦兄様が、おはらいをするんですってよ。明治にもなって、ばかばかしいけど! だから余計な心配はしないでよ。それより──」

 宵子が上がり切るのを待たず、暁子はぱたぱたと軽い足音を響かせて廊下を数歩、駆けた。
 扇と花を散らした着物の裾が消えたのは、暁子の部屋だ。宵子のそれとは違って広々として、両親に送られた綺麗なものや可愛いものがいっぱいの部屋。

 そして暁子が再び扉から姿を見せた時、彼女は本や帳面ノートを何冊も抱えていた。重そうな紙の束が、遠慮なく宵子に押し付けられる。双子の姉が文句を言わずに受け取ることを、暁子は疑っていないのだ。

「学校の宿題、やってくれるわね? いつも通りに! こんなに帰りが遅いってことは、遊んでたんでしょ? 埋め合わせをしなさいよね」

 どうせ、卒業を待たずに結婚するのだから。
 どうせ、女には学問なんて必要ないから。
 どうせ、宵子にやらせれば良いのだから。

 そう言っては、暁子はほとんどの宿題を宵子に押し付けている。昼間、遊びに来ていた令嬢たちは想像さえしていないだろう。

 宵子がやっている家事なんて簡単なことばかり、毎日学校に行く暁子のほうがよほど苦労している──そう言われれば、拒むことなんてできはしない。父も母も、知っていて何も言わないのだ。

 いつもなら、仕事が終わった後、ひとりの自由な時間を削って机に向かうのは苦痛だった。間違えば叱られ、正解を綴っても褒められることもない、疲れるだけの作業だから。

 でも──今は、違う。ある一冊の背表紙に目を留めて、宵子は口元をほころばせた。

(ドイツ語の、辞書! 教科書もある……!)

 暁子は嫌がっているけれど、華族の令嬢は、外国の貴賓とも卒なく会話ができなくてはならない。鹿鳴館ろくめいかんの夜会も、華やかなだけの席ではない。日本の文化を見せる場なのだ。

 だから、当然のことながら外国語の授業もある。

 これまでは、呪文を書き写すつもりで、訳が分からないままアルファベットとかいう文字をなぞっていたけれど──言葉とは、文字とは、本来は思いを伝えるためのものだった。

(そうよ。手紙なら伝えられるわ)

 簡単なことなのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。

 声が出せないなら、文字で伝えれば良い。
 外国の方なら、その国の言葉を学べば良い。

 ヘルベルトなら、もらった名刺で住まいが分かるだろう。そして、クラウスには──また、夜会で会えるかもしれない。

(その時までに、手紙を書いておかないと……!)

 そう思うと、一秒たりとも無駄にしてはいけない気がした。
 ひったくるような勢いで教科書類を受け取った宵子に、暁子は不思議そうに目を瞬かせている。

「……どうしたのよ。にやにやしちゃって。変な子ね!」

 暁子はきっと、宵子の困った顔が見たかったのだろう。
 この双子の妹は、いつもそうだ。言い返せない宵子に好き放題言って。そして、次第に宵子が俯いて反応を見せなくなったら、どうにか怒ったり泣いたりさせようとして、言葉も態度もどんどんきつくなっていった。……ずっと昔は、仲良く遊んだこともあったのに。

(あてが外れたのね。おあいにく様!)

 心の中でだけとはいえ、強気に舌を出した宵子は、少しだけかつての活発さを取り戻していたかもしれない。
 クラウスに手紙を書こう、という思い付きは、それくらい素敵で浮かれてしまうようなものだった。

 機嫌を損ねた暁子に突き飛ばされたりする前に、宵子は屋根裏に続く狭い階段を駆け上がった。

 傷の痛みも、もう気にならない。りんりんと鈴の音にさえずらせて、心も足取りも軽やかに。

(そうだわ、お夕飯をいただくのを忘れていたわ)

 台所では小言をもらったから、それどころではなかった。
 一瞬だけ、味噌屋でもらった焼おにぎりがもったいなかったな、と思う。

(でも、あの子へのご褒美だったもの。しかたないわね)

 あの銀色の綺麗な犬の、ふわふわとした毛並みの感触を思い出して、宵子の頬は緩んだ。宵子が自分で食べるよりも、危ないところを守ってくれたあの犬へのお礼ができて良かったのだろう。

 それに──

(ひと晩くらい、食べなくたって大丈夫よ!)

 今夜は、空腹なんて気にならないくらい夢中になれるだろう。そんな気がした。
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