呪い子と銀狼の円舞曲《ワルツ》

悠井すみれ

文字の大きさ
上 下
13 / 31
三章 伝えたい想い

声が出せなくても

しおりを挟む
 宵子しょうこの部屋は、屋根裏部屋にある。
 天井が斜めになった狭い部屋だし、今のように怪我をしていては階段を上るのは辛いけれど、ひとりきりで寛げる場所は貴重だった。

 ずきずきと、擦り傷が痛む。
 りんりんと、足首の鈴が鳴る。

 鈴の音に、傷をちくちくと刺激される思いで、宵子が一段ずつ階段を上っていると──もうすぐ二階に辿り着く、というところで、華奢な人影が立ちはだかった。

「遅かったじゃない、宵子。野犬に襲われたかと思ってたわ」

 数段高いところから宵子を見下ろすのは、暁子あきこだった。友人たちを見送って、夕食も終えたころだからだろうか、振袖ではなく身軽な小袖に着替えている。

(……暁子も、事件のことを知っているのね)

 幅の狭い階段で立ち往生することになって、手すりに縋りながら。宵子は頬を強張らせた。
 外出には馬車や人力車を使う暁子は、野犬に襲われる心配はないだろう。父や春彦はるひこも、恐ろしい事件のことをわざわざ教えたりはしないはず。

 そんな暁子でも知っているくらい──恐らくは、令嬢たちの間でも噂になるくらい、「人喰い犬」の影は帝都ていとを騒がせているのだろうか。

「なんだ、知ってたの? そんな顔して……宵子の癖に怖いの? 子供のころは犬神いぬがみとか変なこと言ってたのに!」

 宵子が怯えた様子を見せたのを嘲るように、暁子は軽やかに笑った。宵子の着物の汚れや、手足の細かな傷にはまったく気付いていないらしい。

(私……本当にその犬に襲われたのよ。すぐそこで……)

 声を出せなくてもしかたがない、と。宵子はずっと思っていた。暁子に何を言われても、言い返せないのが当たり前なのだ、と。

 でも、ヘルベルトという外国人に対して、何も思いを伝えることができなかったのが心にしこっている。気まずいだけでなく、外国人だから話したくないのかと思われかけてしまったし、犬のことももっとちゃんと伝えてあげたかった。

(私に、声を出すことができたら……!)

 何年かぶりに、妹にはっきりと言ってやりたい、という思いがこみ上げて、宵子は口を開いた。

 怖かったし、危ないところだったこと。助けてくれた銀の犬の美しさ。犬神様は確かにいたのだということ。良いことも悪いことも、怖かったことも綺麗なことも、言葉で伝えられたら──

(いいえ。望んではいけないわ。犬神様は真上家に怒っていたのだもの)

 犬神様の呪いがある限り、宵子の声は封じられたまま。そして、真上家が犬神様にひどい仕打ちをしてきた以上、宵子が不満に思うなんていけないこと。

 宵子がきゅっと唇を結んだこと──というか、そもそも口を開いていたことにも、暁子は気付かなかった。横を向きながら、指先で宵子に階段を上るように命じてくる。

「お父様と春彦兄様が、おはらいをするんですってよ。明治にもなって、ばかばかしいけど! だから余計な心配はしないでよ。それより──」

 宵子が上がり切るのを待たず、暁子はぱたぱたと軽い足音を響かせて廊下を数歩、駆けた。
 扇と花を散らした着物の裾が消えたのは、暁子の部屋だ。宵子のそれとは違って広々として、両親に送られた綺麗なものや可愛いものがいっぱいの部屋。

 そして暁子が再び扉から姿を見せた時、彼女は本や帳面ノートを何冊も抱えていた。重そうな紙の束が、遠慮なく宵子に押し付けられる。双子の姉が文句を言わずに受け取ることを、暁子は疑っていないのだ。

「学校の宿題、やってくれるわね? いつも通りに! こんなに帰りが遅いってことは、遊んでたんでしょ? 埋め合わせをしなさいよね」

 どうせ、卒業を待たずに結婚するのだから。
 どうせ、女には学問なんて必要ないから。
 どうせ、宵子にやらせれば良いのだから。

 そう言っては、暁子はほとんどの宿題を宵子に押し付けている。昼間、遊びに来ていた令嬢たちは想像さえしていないだろう。

 宵子がやっている家事なんて簡単なことばかり、毎日学校に行く暁子のほうがよほど苦労している──そう言われれば、拒むことなんてできはしない。父も母も、知っていて何も言わないのだ。

 いつもなら、仕事が終わった後、ひとりの自由な時間を削って机に向かうのは苦痛だった。間違えば叱られ、正解を綴っても褒められることもない、疲れるだけの作業だから。

 でも──今は、違う。ある一冊の背表紙に目を留めて、宵子は口元をほころばせた。

(ドイツ語の、辞書! 教科書もある……!)

 暁子は嫌がっているけれど、華族の令嬢は、外国の貴賓とも卒なく会話ができなくてはならない。鹿鳴館ろくめいかんの夜会も、華やかなだけの席ではない。日本の文化を見せる場なのだ。

 だから、当然のことながら外国語の授業もある。

 これまでは、呪文を書き写すつもりで、訳が分からないままアルファベットとかいう文字をなぞっていたけれど──言葉とは、文字とは、本来は思いを伝えるためのものだった。

(そうよ。手紙なら伝えられるわ)

 簡単なことなのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。

 声が出せないなら、文字で伝えれば良い。
 外国の方なら、その国の言葉を学べば良い。

 ヘルベルトなら、もらった名刺で住まいが分かるだろう。そして、クラウスには──また、夜会で会えるかもしれない。

(その時までに、手紙を書いておかないと……!)

 そう思うと、一秒たりとも無駄にしてはいけない気がした。
 ひったくるような勢いで教科書類を受け取った宵子に、暁子は不思議そうに目を瞬かせている。

「……どうしたのよ。にやにやしちゃって。変な子ね!」

 暁子はきっと、宵子の困った顔が見たかったのだろう。
 この双子の妹は、いつもそうだ。言い返せない宵子に好き放題言って。そして、次第に宵子が俯いて反応を見せなくなったら、どうにか怒ったり泣いたりさせようとして、言葉も態度もどんどんきつくなっていった。……ずっと昔は、仲良く遊んだこともあったのに。

(あてが外れたのね。おあいにく様!)

 心の中でだけとはいえ、強気に舌を出した宵子は、少しだけかつての活発さを取り戻していたかもしれない。
 クラウスに手紙を書こう、という思い付きは、それくらい素敵で浮かれてしまうようなものだった。

 機嫌を損ねた暁子に突き飛ばされたりする前に、宵子は屋根裏に続く狭い階段を駆け上がった。

 傷の痛みも、もう気にならない。りんりんと鈴の音にさえずらせて、心も足取りも軽やかに。

(そうだわ、お夕飯をいただくのを忘れていたわ)

 台所では小言をもらったから、それどころではなかった。
 一瞬だけ、味噌屋でもらった焼おにぎりがもったいなかったな、と思う。

(でも、あの子へのご褒美だったもの。しかたないわね)

 あの銀色の綺麗な犬の、ふわふわとした毛並みの感触を思い出して、宵子の頬は緩んだ。宵子が自分で食べるよりも、危ないところを守ってくれたあの犬へのお礼ができて良かったのだろう。

 それに──

(ひと晩くらい、食べなくたって大丈夫よ!)

 今夜は、空腹なんて気にならないくらい夢中になれるだろう。そんな気がした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

紅屋のフジコちゃん ― 鬼退治、始めました。 ―

木原あざみ
キャラ文芸
この世界で最も安定し、そして最も危険な職業--それが鬼狩り(特殊公務員)である。 ……か、どうかは定かではありませんが、あたしこと藤子奈々は今春から鬼狩り見習いとして政府公認特A事務所「紅屋」で働くことになりました。 小さい頃から憧れていた「鬼狩り」になるため、誠心誠意がんばります! のはずだったのですが、その事務所にいたのは、癖のある上司ばかりで!? どうなる、あたし。みたいな話です。 お仕事小説&ラブコメ(最終的には)の予定でもあります。 第5回キャラ文芸大賞 奨励賞ありがとうございました。

『神山のつくば』〜古代日本を舞台にした歴史ロマンスファンタジー〜

うろこ道
恋愛
【完結まで毎日更新】 時は古墳時代。 北の大国・日高見国の王である那束は、迫る大和連合国東征の前線基地にすべく、吾妻の地の五国を順調に征服していった。 那束は自国を守る為とはいえ他国を侵略することを割り切れず、また人の命を奪うことに嫌悪感を抱いていた。だが、王として国を守りたい気持ちもあり、葛藤に苛まれていた。 吾妻五国のひとつ、播埀国の王の首をとった那束であったが、そこで残された后に魅せられてしまう。 后を救わんとした那束だったが、后はそれを許さなかった。 后は自らの命と引き換えに呪いをかけ、那束は太刀を取れなくなってしまう。 覡の卜占により、次に攻め入る紀国の山神が呪いを解くだろうとの託宣が出る。 那束は従者と共に和議の名目で紀国へ向かう。山にて遭難するが、そこで助けてくれたのが津久葉という洞窟で獣のように暮らしている娘だった。 古代日本を舞台にした歴史ロマンスファンタジー。

魔法使いの国で無能だった少年は、魔物使いとして世界を救う旅に出る

ムーン
ファンタジー
完結しました! 魔法使いの国に生まれた少年には、魔法を扱う才能がなかった。 無能と蔑まれ、両親にも愛されず、優秀な兄を頼りに何年も引きこもっていた。 そんなある日、国が魔物の襲撃を受け、少年の魔物を操る能力も目覚める。 能力に呼応し現れた狼は少年だけを助けた。狼は少年を息子のように愛し、少年も狼を母のように慕った。 滅びた故郷を去り、一人と一匹は様々な国を渡り歩く。 悪魔の家畜として扱われる人間、退廃的な生活を送る天使、人との共存を望む悪魔、地の底に封印された堕天使──残酷な呪いを知り、凄惨な日常を知り、少年は自らの能力を平和のために使うと決意する。 悪魔との契約や邪神との接触により少年は人間から離れていく。対価のように精神がすり減り、壊れかけた少年に狼は寄り添い続けた。次第に一人と一匹の絆は親子のようなものから夫婦のようなものに変化する。 狂いかけた少年の精神は狼によって繋ぎ止められる。 やがて少年は数多の天使を取り込んで上位存在へと変転し、出生も狼との出会いもこれまでの旅路も……全てを仕組んだ邪神と対決する。

崖っぷち令嬢は冷血皇帝のお世話係〜侍女のはずが皇帝妃になるみたいです〜

束原ミヤコ
恋愛
ティディス・クリスティスは、没落寸前の貧乏な伯爵家の令嬢である。 家のために王宮で働く侍女に仕官したは良いけれど、緊張のせいでまともに話せず、面接で落とされそうになってしまう。 「家族のため、なんでもするからどうか働かせてください」と泣きついて、手に入れた仕事は――冷血皇帝と巷で噂されている、冷酷冷血名前を呼んだだけで子供が泣くと言われているレイシールド・ガルディアス皇帝陛下のお世話係だった。 皇帝レイシールドは気難しく、人を傍に置きたがらない。 今まで何人もの侍女が、レイシールドが恐ろしくて泣きながら辞めていったのだという。 ティディスは決意する。なんとしてでも、お仕事をやりとげて、没落から家を救わなければ……! 心根の優しいお世話係の令嬢と、無口で不器用な皇帝陛下の話です。

本日、訳あり軍人の彼と結婚します~ド貧乏な軍人伯爵さまと結婚したら、何故か甘く愛されています~

扇 レンナ
キャラ文芸
政略結婚でド貧乏な伯爵家、桐ケ谷《きりがや》家の当主である律哉《りつや》の元に嫁ぐことになった真白《ましろ》は大きな事業を展開している商家の四女。片方はお金を得るため。もう片方は華族という地位を得るため。ありきたりな政略結婚。だから、真白は律哉の邪魔にならない程度に存在していようと思った。どうせ愛されないのだから――と思っていたのに。どうしてか、律哉が真白を見る目には、徐々に甘さがこもっていく。 (雇う余裕はないので)使用人はゼロ。(時間がないので)邸宅は埃まみれ。 そんな場所で始まる新婚生活。苦労人の伯爵さま(軍人)と不遇な娘の政略結婚から始まるとろける和風ラブ。 ▼掲載先→エブリスタ、アルファポリス ※エブリスタさんにて先行公開しております。ある程度ストックはあります。

紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ
恋愛
士農工商の身分制度は、御一新により変化した。 元公家出身の堂上華族、大名家の大名華族、勲功から身分を得た新華族。 明治25年4月、英国視察を終えた官の一行が帰国した。その中には1年前、初恋を成就させる為に宮家との縁談を断った子爵家の従五位、田中光留がいた。 日本に帰ったら1番に、あの方に逢いに行くと断言していた光留の耳に入ってきた噂は、恋い焦がれた尾井坂男爵家の晃子の婚約が整ったというものだった。

【完結】辺境に飛ばされた聖女は角笛を吹く〜氷河の辺境伯様の熱愛で溶けそうです

香練
恋愛
ステラは最も優れた聖女、“首席聖女”、そして“大聖女”になると期待されていた。 後妻と義姉から虐げられ大神殿へ移り住み、厳しい修行に耐えて迎えた聖女認定式。 そこで神から与えられた“聖具”は角笛だった。 他の聖女達がよくある楽器を奏でる中、角笛を吹こうとするが音が出ない。 “底辺聖女”と呼ばれるようになったステラは、『ここで角笛を教えてもらえばいい』と辺境伯領の神殿へ異動を命じられる。『王都には二度と戻れない』とされる左遷人事だった。 落ち込むステラを迎えたのは美しい自然。 しかし“氷河”とも呼ばれる辺境伯のクラヴィは冷たい。 それもあるきっかけで変わっていく。孤独で不器用な二人の恋物語。 ※小説家になろうでも投稿しています。転載禁止。●読者様のおかげをもちまして、2025.1.27、完結小説ランキング1位、ありがとうございます。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...