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一章 鹿鳴館の円舞曲《ワルツ》の調べ
魔法は解けて
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クラウスとしばらく話した後、宵子は春彦に手を引かれて舞踏室に戻った。異国の美しい青年は、もうしばらくバルコニーに留まるようだ。
(私とふたりきりだったなんて、噂にならないため、よね……? 気を遣わせてしまったのね)
暑さや寒さが耐え難い季節ではないとはいえ、夜空の下にひとり佇むクラウスを思うと宵子の胸は痛んだ。──それとも、ときめいた、だろうか。星の光に彩られて、あの方の銀色の髪はとても神秘的に煌めいていたから。
と、勝手な妄想に浸りかけた宵子の耳元に、春彦が口を寄せて囁いた。
「君が、あの伯爵閣下に食べられてしまわなくて良かったよ」
悪戯っぽい口調と裏腹に、その内容は謎めいていて恐ろしくて。宵子は思わず足を止めて、春彦の顔をまじまじと見つめた。
(え……?)
宵子がバルコニーに出ている間に、舞踏の時間は終わっていた。着飾った人々は、階下の大食堂に向かいながら談笑しているところだ。
「シャッテンヴァルト伯爵家には、怪しげな噂がまとわりついている。真上家も、長らく犬神なんてものを崇めていただろう? 似たようなことが、ドイツでもあるらしい」
人の流れの邪魔にならないよう、宵子の腕を引いて歩くことを思い出させながら、春彦は軽い口調で続ける。
鹿鳴館のまばゆいシャンデリアの下で、犬神様のことを聞くのは不思議な気分だった。
(春彦兄様も、犬神様のことを信じていないのね……)
春彦の実家の新城家は、真上家に長く仕えていたのに。当然、犬神様を祀ったりお力を借りたりする諸々の儀式にも、携わってきたのに。
宵子の寂しい思いには気付いていないのだろう、春彦は怪談話をする時のように、わざとらしく低い声で、抑揚をつけてしゃべった。
「あの伯爵家は、代々狼に化けるんだそうだ。月を見ては狼に姿を変えて、若い娘を襲うんだとか。夜会の貴賓の間でも噂になっていたよ。姿が見えないから、どこかで遠吠えでもしてるんじゃないか、とかね。君と一緒にいるのがその狼伯爵だと知った時は、驚いたよ……!」
春彦の軽やかな笑い声が、夜会の喧騒に紛れて弾けた。彼が機嫌良く笑っういっぽうで、宵子の顔は強張ってしまう。春彦の腕に縋ったまま、また、足を止めてしまう。
腕が引っ張られる感覚で、宵子が重石のように動こうとしていないのに気付いたのだろう。春彦は振り向くと、ちらりと苦笑した。
「なんだ、怯えさせてしまったかな? いや、すまないね……君がそんなに信じやすいとは」
困ったような声も表情も、表面だけなのだろう。春彦は、宵子を怖がらせたと思って喜んでいるようだった。闇に紛れて若い娘に忍び寄る化物の狼──確かに、恐ろしい話かもしれないけれど。
「明治の御代に、犬神も狼男もないだろう。みんな、ただの噂、怪談話みたいなものさ」
軽く肩を竦めると、春彦は宵子の腰を抱くようにして再び歩き始めた。目指すのは、ほかの人々と同じ大食堂ではなく、暁子が退屈しながら待っているであろう控室だ。そこで、宵子は双子の妹と入れ替わるのだ。
待ちくたびれた暁子は、機嫌を損ねているかもしれない。宥める手間を考えてか、春彦は少し早足になっていて、これ以上宵子の顔色を窺うつもりはないようだった。
だから、宵子がひっそりと唇を噛み締めたのは、誰も知らない。
(違うの、兄様。そんなことは思ってないの……)
宵子は、怯えてなんかいない。
それよりも、春彦が犬神様を馬鹿にするようなことを言ったのが悲しくて寂しかった。宵子は何年もひと言も言葉をしゃべれないのに。それは犬神様の呪いで、だから犬神様はちゃんと実在するということのはずなのに。
それに──嫌だった。
あの綺麗で優しいクラウスのことを、恐ろしい怪物のように噂したことが。宵子を揶揄う怪談話の種にしたことが──許せないとさえ、感じたかもしれない。
(今日の私は……何だか、おかしいかもしれないわね……)
俯いて何も言えないことに、慣れ切っていたと思ったのに。今夜に限って、クラウスに対しても春彦に対しても、もっとこう言えたら、ともどかしさを感じてしまっている。
犬神様に呪われた身で、そんなことを考えてはいけないはずなのに。
* * *
「遅いじゃない! 晩餐にまで出ようとしていたんじゃないでしょうね? 何も言えない癖に。それでどうやって社交する気よ!?」
分不相応なことを考えてしまっていたから、暁子に怒鳴られて、宵子はいっそほっとした。
鹿鳴館の控室は、本来は崩れた衣装や化粧を直したり、ちょっとした休憩をするための小さな部屋だ。夜会が始まってから舞踏の時間が終わるまで、目立たないように閉じこもっているというのは、暁子にとっては監禁されたような気分だったのだろう。
「宵子の癖に。私に嫌がらせしようとしたんでしょう!」
妹に罵倒されて、八つ当たりでクッションを投げられるのもいつものことだ。
先ほどまでの華やかな夜会はただの幻だったかのように、宵子の視界はどこかくすんで、色褪せていく。でも、この灰色の世界こそが宵子が慣れ親しんだ世界だった。
(ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの)
確かに、舞踏室を退出したのは予定よりも遅れた時間になってしまった。宵子が勝手にバルコニーに出たから、春彦が探すのに手間取ってしまったのだ。
見知らぬ異国の貴公子とふたりきりだった、なんて言えば暁子の苛立ちに油を注ぐだけだから、春彦は伏せてくれていた。それでも暁子は収まらなくて、可愛らしい頬を膨らませて春彦にも当たり散らしている。
「春彦兄様、どうしてもっとちゃんと宵子を見張っていなかったの? 私の居場所を乗っ取ろうとしていたのよ。これも犬神の呪いじゃないかしら? お父様に言って、閉じ込めてもらったほうが良いかしら!?」
暁子も、春彦と同じだ。犬神様を信じていないのに、都合の良い──それとも悪い? ──時だけ、大げさに呪いを怖がる。
(だって。そもそもは暁子が言い出したのに)
俯くことしかできない宵子の代わりに、春彦が暁子を宥めてくれた。
「人が多くて見失ってしまってね。舞踏の間は、相手が次々変わるものだし。暁子だって、考えられないと言ってただろう? 熱気もひどかったよ。ここで待っていて正解だった」
宵子が夜会に出たのは、そもそもは暁子が知らない殿方との舞踏を嫌がったからだ。何も、彼女が妹の立場を奪おうとした訳ではない。暁子も、一応はその経緯を思い出してくれたようだった。
「そうね。見ず知らずの方と手を繋ぐなんてぞっとするわ。宵子はよく平気だったわね。私はそれほど図太くも恥知らずにもなれないわ……!」
宵子とまったく同じドレスを纏って、剥き出しになった肩を震わせながら。暁子が双子の姉に向けた眼差しは嫌悪と蔑みに満ちていた。
冷たい視線に貫かれた思いで目を伏せる宵子には構わず、春彦はあやすような微笑みで暁子に語り掛けている。
「落ち着いて、暁子。晩餐に遅れてはいけない。──フランス風の豪華な料理だそうだよ。食後にはシャーベットも出るとか。楽しみだろう?」
「そのご馳走を、宵子に取られるかと思い始めていたのよ。本当、のろまな子なんだから」
ナイフやフォークやスプーンを使った欧州式の食卓は、実のところ暁子の好むものではない。でも、珍しい甘味にはさすがに心が動いたのだろう。暁子は、ずっと尖らせていた唇をほんの少しだけ微笑ませて、春彦にしなだれかかった。
「行きましょう、春彦兄様。コルセットが苦しくてあまり食べられそうにないけど!」
「ご機嫌を直してくれて良かった、お姫様。靴が辛かったら僕を頼って良いからね」
仲睦まじく笑い合いながら、暁子と春彦は控室を出て行った。
宵子を、ちらりとでも見ることがなかったのは、当たり前のことだ。苛立ちをぶつけ切ってしまえば、暁子は宵子を気にかけたりしない。春彦も、彼女を気遣う素振りを見せて、また暁子を怒らせてしまうのを恐れたのだろう。
(予定通りのことよ。私も、やっとゆっくりできるんじゃない……)
そう自分に言い聞かせてみても、取り残された、という気分が拭えなかった。コルセットが急にきつくなった気がして息が苦しいし、髪を結った頭も、硬い靴に押し込めた爪先も痛いことに気付いてしまう。
何曲も踊った疲れも、手足の端から忍び寄ってきた。音楽に乗ってさざ波のように翻っていたドレスが、今は泥に変じて彼女を引きずり込もうとしているかのような。
優雅な円舞曲と華やかな舞踏の魔法は、解けてしまった。
それに──クラウスの銀の髪も青い宝石の眼差しも、もう遠い。
(私は……今日は、暁子として夜会に出ていたのだもの)
晩餐では、あの方は暁子とも語らうのだろうか。言葉は通じなくても、春彦が通訳してくれるだろう。朗らかな暁子のほうが、あの方も会話を楽しめるのかもしれない。
宵子が切ない溜息をこぼした時──
「宵子様。何をぼんやりなさっているのですか」
控えていた女中の冷ややかな声とともに、布の塊がばさりとかけられて、宵子の視界を翳らせた。
慌ててその塊を広げると、着慣れた、そして古びた絣模様の着物だった。宵子が、真上家の屋敷で下働きをする時にいつも着ているものだった。
女中が、乱暴な手つきで宵子の背中の留め具を外し、コルセットの紐を緩めた。汗で湿った肌に涼気が触れて、宵子はふるりと震える。
「夜会が終わるまでにお着替えを。おひとりで、できますね?」
そう言い捨てて、女中も控室から出て行った。
(そうだわ、『暁子』がふたりいてはいけないから……)
鹿鳴館を辞する時には、宵子は盛装した令嬢の姿をしていてはいけないのだ。地味で目立たない、女中に紛れなければならないから。
そそくさと着物に着替えた後は、宵子は晩餐会が終わるまで息を潜めて過ごした。
貴賓には豪華な料理が出されるし、使用人にも何かしらの賄いは用意されているのだろう。でも、宵子はそのどちらでもないからか、誰も食べるものを持ってきてはくれなかった。
情けなく鳴るお腹を抱えて、身体を縮めていると、ひどくみじめな思いがした。
(私とふたりきりだったなんて、噂にならないため、よね……? 気を遣わせてしまったのね)
暑さや寒さが耐え難い季節ではないとはいえ、夜空の下にひとり佇むクラウスを思うと宵子の胸は痛んだ。──それとも、ときめいた、だろうか。星の光に彩られて、あの方の銀色の髪はとても神秘的に煌めいていたから。
と、勝手な妄想に浸りかけた宵子の耳元に、春彦が口を寄せて囁いた。
「君が、あの伯爵閣下に食べられてしまわなくて良かったよ」
悪戯っぽい口調と裏腹に、その内容は謎めいていて恐ろしくて。宵子は思わず足を止めて、春彦の顔をまじまじと見つめた。
(え……?)
宵子がバルコニーに出ている間に、舞踏の時間は終わっていた。着飾った人々は、階下の大食堂に向かいながら談笑しているところだ。
「シャッテンヴァルト伯爵家には、怪しげな噂がまとわりついている。真上家も、長らく犬神なんてものを崇めていただろう? 似たようなことが、ドイツでもあるらしい」
人の流れの邪魔にならないよう、宵子の腕を引いて歩くことを思い出させながら、春彦は軽い口調で続ける。
鹿鳴館のまばゆいシャンデリアの下で、犬神様のことを聞くのは不思議な気分だった。
(春彦兄様も、犬神様のことを信じていないのね……)
春彦の実家の新城家は、真上家に長く仕えていたのに。当然、犬神様を祀ったりお力を借りたりする諸々の儀式にも、携わってきたのに。
宵子の寂しい思いには気付いていないのだろう、春彦は怪談話をする時のように、わざとらしく低い声で、抑揚をつけてしゃべった。
「あの伯爵家は、代々狼に化けるんだそうだ。月を見ては狼に姿を変えて、若い娘を襲うんだとか。夜会の貴賓の間でも噂になっていたよ。姿が見えないから、どこかで遠吠えでもしてるんじゃないか、とかね。君と一緒にいるのがその狼伯爵だと知った時は、驚いたよ……!」
春彦の軽やかな笑い声が、夜会の喧騒に紛れて弾けた。彼が機嫌良く笑っういっぽうで、宵子の顔は強張ってしまう。春彦の腕に縋ったまま、また、足を止めてしまう。
腕が引っ張られる感覚で、宵子が重石のように動こうとしていないのに気付いたのだろう。春彦は振り向くと、ちらりと苦笑した。
「なんだ、怯えさせてしまったかな? いや、すまないね……君がそんなに信じやすいとは」
困ったような声も表情も、表面だけなのだろう。春彦は、宵子を怖がらせたと思って喜んでいるようだった。闇に紛れて若い娘に忍び寄る化物の狼──確かに、恐ろしい話かもしれないけれど。
「明治の御代に、犬神も狼男もないだろう。みんな、ただの噂、怪談話みたいなものさ」
軽く肩を竦めると、春彦は宵子の腰を抱くようにして再び歩き始めた。目指すのは、ほかの人々と同じ大食堂ではなく、暁子が退屈しながら待っているであろう控室だ。そこで、宵子は双子の妹と入れ替わるのだ。
待ちくたびれた暁子は、機嫌を損ねているかもしれない。宥める手間を考えてか、春彦は少し早足になっていて、これ以上宵子の顔色を窺うつもりはないようだった。
だから、宵子がひっそりと唇を噛み締めたのは、誰も知らない。
(違うの、兄様。そんなことは思ってないの……)
宵子は、怯えてなんかいない。
それよりも、春彦が犬神様を馬鹿にするようなことを言ったのが悲しくて寂しかった。宵子は何年もひと言も言葉をしゃべれないのに。それは犬神様の呪いで、だから犬神様はちゃんと実在するということのはずなのに。
それに──嫌だった。
あの綺麗で優しいクラウスのことを、恐ろしい怪物のように噂したことが。宵子を揶揄う怪談話の種にしたことが──許せないとさえ、感じたかもしれない。
(今日の私は……何だか、おかしいかもしれないわね……)
俯いて何も言えないことに、慣れ切っていたと思ったのに。今夜に限って、クラウスに対しても春彦に対しても、もっとこう言えたら、ともどかしさを感じてしまっている。
犬神様に呪われた身で、そんなことを考えてはいけないはずなのに。
* * *
「遅いじゃない! 晩餐にまで出ようとしていたんじゃないでしょうね? 何も言えない癖に。それでどうやって社交する気よ!?」
分不相応なことを考えてしまっていたから、暁子に怒鳴られて、宵子はいっそほっとした。
鹿鳴館の控室は、本来は崩れた衣装や化粧を直したり、ちょっとした休憩をするための小さな部屋だ。夜会が始まってから舞踏の時間が終わるまで、目立たないように閉じこもっているというのは、暁子にとっては監禁されたような気分だったのだろう。
「宵子の癖に。私に嫌がらせしようとしたんでしょう!」
妹に罵倒されて、八つ当たりでクッションを投げられるのもいつものことだ。
先ほどまでの華やかな夜会はただの幻だったかのように、宵子の視界はどこかくすんで、色褪せていく。でも、この灰色の世界こそが宵子が慣れ親しんだ世界だった。
(ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの)
確かに、舞踏室を退出したのは予定よりも遅れた時間になってしまった。宵子が勝手にバルコニーに出たから、春彦が探すのに手間取ってしまったのだ。
見知らぬ異国の貴公子とふたりきりだった、なんて言えば暁子の苛立ちに油を注ぐだけだから、春彦は伏せてくれていた。それでも暁子は収まらなくて、可愛らしい頬を膨らませて春彦にも当たり散らしている。
「春彦兄様、どうしてもっとちゃんと宵子を見張っていなかったの? 私の居場所を乗っ取ろうとしていたのよ。これも犬神の呪いじゃないかしら? お父様に言って、閉じ込めてもらったほうが良いかしら!?」
暁子も、春彦と同じだ。犬神様を信じていないのに、都合の良い──それとも悪い? ──時だけ、大げさに呪いを怖がる。
(だって。そもそもは暁子が言い出したのに)
俯くことしかできない宵子の代わりに、春彦が暁子を宥めてくれた。
「人が多くて見失ってしまってね。舞踏の間は、相手が次々変わるものだし。暁子だって、考えられないと言ってただろう? 熱気もひどかったよ。ここで待っていて正解だった」
宵子が夜会に出たのは、そもそもは暁子が知らない殿方との舞踏を嫌がったからだ。何も、彼女が妹の立場を奪おうとした訳ではない。暁子も、一応はその経緯を思い出してくれたようだった。
「そうね。見ず知らずの方と手を繋ぐなんてぞっとするわ。宵子はよく平気だったわね。私はそれほど図太くも恥知らずにもなれないわ……!」
宵子とまったく同じドレスを纏って、剥き出しになった肩を震わせながら。暁子が双子の姉に向けた眼差しは嫌悪と蔑みに満ちていた。
冷たい視線に貫かれた思いで目を伏せる宵子には構わず、春彦はあやすような微笑みで暁子に語り掛けている。
「落ち着いて、暁子。晩餐に遅れてはいけない。──フランス風の豪華な料理だそうだよ。食後にはシャーベットも出るとか。楽しみだろう?」
「そのご馳走を、宵子に取られるかと思い始めていたのよ。本当、のろまな子なんだから」
ナイフやフォークやスプーンを使った欧州式の食卓は、実のところ暁子の好むものではない。でも、珍しい甘味にはさすがに心が動いたのだろう。暁子は、ずっと尖らせていた唇をほんの少しだけ微笑ませて、春彦にしなだれかかった。
「行きましょう、春彦兄様。コルセットが苦しくてあまり食べられそうにないけど!」
「ご機嫌を直してくれて良かった、お姫様。靴が辛かったら僕を頼って良いからね」
仲睦まじく笑い合いながら、暁子と春彦は控室を出て行った。
宵子を、ちらりとでも見ることがなかったのは、当たり前のことだ。苛立ちをぶつけ切ってしまえば、暁子は宵子を気にかけたりしない。春彦も、彼女を気遣う素振りを見せて、また暁子を怒らせてしまうのを恐れたのだろう。
(予定通りのことよ。私も、やっとゆっくりできるんじゃない……)
そう自分に言い聞かせてみても、取り残された、という気分が拭えなかった。コルセットが急にきつくなった気がして息が苦しいし、髪を結った頭も、硬い靴に押し込めた爪先も痛いことに気付いてしまう。
何曲も踊った疲れも、手足の端から忍び寄ってきた。音楽に乗ってさざ波のように翻っていたドレスが、今は泥に変じて彼女を引きずり込もうとしているかのような。
優雅な円舞曲と華やかな舞踏の魔法は、解けてしまった。
それに──クラウスの銀の髪も青い宝石の眼差しも、もう遠い。
(私は……今日は、暁子として夜会に出ていたのだもの)
晩餐では、あの方は暁子とも語らうのだろうか。言葉は通じなくても、春彦が通訳してくれるだろう。朗らかな暁子のほうが、あの方も会話を楽しめるのかもしれない。
宵子が切ない溜息をこぼした時──
「宵子様。何をぼんやりなさっているのですか」
控えていた女中の冷ややかな声とともに、布の塊がばさりとかけられて、宵子の視界を翳らせた。
慌ててその塊を広げると、着慣れた、そして古びた絣模様の着物だった。宵子が、真上家の屋敷で下働きをする時にいつも着ているものだった。
女中が、乱暴な手つきで宵子の背中の留め具を外し、コルセットの紐を緩めた。汗で湿った肌に涼気が触れて、宵子はふるりと震える。
「夜会が終わるまでにお着替えを。おひとりで、できますね?」
そう言い捨てて、女中も控室から出て行った。
(そうだわ、『暁子』がふたりいてはいけないから……)
鹿鳴館を辞する時には、宵子は盛装した令嬢の姿をしていてはいけないのだ。地味で目立たない、女中に紛れなければならないから。
そそくさと着物に着替えた後は、宵子は晩餐会が終わるまで息を潜めて過ごした。
貴賓には豪華な料理が出されるし、使用人にも何かしらの賄いは用意されているのだろう。でも、宵子はそのどちらでもないからか、誰も食べるものを持ってきてはくれなかった。
情けなく鳴るお腹を抱えて、身体を縮めていると、ひどくみじめな思いがした。
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