呪い子と銀狼の円舞曲《ワルツ》

悠井すみれ

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一章 鹿鳴館の円舞曲《ワルツ》の調べ

舞踏の誘い

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 宵子しょうこは、鹿鳴館ろくめいかんに向かう馬車に揺られていた。

 今夜はお父様はお仕事ということで、暁子あきこの婚約者の新城しんじょう春彦はるひこが付き添ってくれることになっている。欧州ヨーロッパでは、こういうのをエスコート、と言うそうだ。

 新城家は、古くから真上まがみ家に仕えてくれた一族だという。だから、春彦も何もかもを承知している。
 犬神いぬがみ様の呪いのことも、宵子の扱いのことも。妹の暁子ので、舞踏をこなさなければならないということも。

 宵子の装いに合わせて、西洋風の燕尾服えんびふくを纏った春彦が、気遣うような微笑を向けてくれる。

「宵子も大変だね。暁子の我が儘に付き合わされて」

 「真上家のご令嬢」がふたりいるところを人に見られる訳にはいかないから、暁子は使用人に混ざって別の馬車に乗っている。

『どうして宵子が春彦兄様と一緒なの!?』

 馬車に乗り込むにあたって、機嫌を損ねた暁子を春彦が宥める一幕もあったのだけれど。これは何も「浮気」だなんてことではなくて、今夜の宵子はあくまでも「暁子の影」なのだ、ということで納得してもらった。

(我が儘だなんて。暁子も、ドレスや夜会が不安なんでしょうから)

 口に出して伝えることができない代わり、宵子はふるふると首を振る。軽く目を伏せて、口元はほんの少しだけ微笑んで。暁子の婚約者として、もう何年も真上家に親しく出入りしている春彦なら、これで分かってくれるだろう。

「犬神の呪いのせいで、可哀想に。……父上も母上も暁子も、君につらく当たり過ぎている。僕が真上子爵ししゃくになったら、助けてあげるからね、宵子」

 春彦の声は優しいけれど、いったい何をどうしてくれるつもりなのか分からなくて、宵子は首を傾げた。

(春彦兄様はお婿に入るのに。暁子をなだめられるかしら……?)

 春彦の実家の新城家は、長年真上家に仕えてきた家。その経緯もあって、暁子は春彦にも高圧的に接しているのに。でも、そう言ってくれる気持ちだけでも、嬉しい。

(ありがとう、ございます)

 感謝の想いを込めて、宵子が微笑んだ時──眩しい光が車内に差し込んだ。

 目を細めて窓の外を見ると、無数にも思える提灯ちょうちんが連なって、夜を昼のように明るく照らしている。馬車が今まさに通り過ぎようとしている門には、国旗が誇らしくたなびいている。
 馬車は、宵子たちが乗る一台だけではなく、何台もが連なって貴人を降ろす順番待ちをしている。華やかな気配が馬たちにも伝わっているのか、ひづめを踏み鳴らす音や高いいななきの声も賑やかだ。それに──

(ここが、あの──)

 真昼の明るさに、その建物の白い壁がいっそう輝かしく見えた。イギリスの建築家を招いて設計したという、煉瓦れんが造りの壮麗な西洋建築。優美なアーチが連なる窓からは、もう音楽の調べが夜風に乗って聞こえてくる。

 宵子は、鹿鳴館に到着したのだ。

      * * *

 鹿鳴館の管内に入ると、宵子はシャンデリアが見下ろす玄関ホールを抜けて大階段を上った。
 国が威信をかけて造った建物だから当たり前だけど、絨毯の柔らかさ、階段の手すりの細工の見事さ、壁を飾る絵画の鮮やかさ、どれをとっても真上家のお屋敷とは比べ物にならない豪華さで眩しかった。

 ドレスにかかとの高い靴を履いて階段を上るのは、着物の時以上に不安定で怖かった。でも、春彦が宵子の手を取って支えてくれる。

 そして二階に辿り着いた宵子の目の前には、色彩と音楽が激しく華やかに渦巻いていた。

(まあ……!)

 燕尾服や礼装の軍服を纏った紳士たちと、色とりどりのドレスで着飾った貴婦人たちが手を取り合って踊っている。欧州ヨーロッパの宮廷さながらの光景が広がる大舞踏室を前にすると、日本にいるとは思えない

 殿方の胸を飾る勲章の煌めき。花びらが散るようにひるがえるドレスの裾。シャンデリアの灯りを受けて、いっそう輝くティアラや首飾り。
 優雅な円舞曲ワルツの調べに合わせて盛装した人たちがくるくると回るたび、目が眩むような美しい色と光がはじける。まるで、万華鏡の中に迷いこんだよう。

(わ、私もあの中に入るの……?)

 目がちかちかするのを宥めようと、宵子は壁のほうに目を向けた。そこでは、和装の女性が舞踏には加わらずに歓談している。暁子のように、知らない殿方と手を触れ合うのがどうしても嫌な人も多いのだろう。
 よく見れば、踊る相手がいなくてきょろきょろしている殿方も目についた。──そんな方々にとっては、新しく到着した宵子は格好ののようだった。

「おや、可愛らしいご令嬢だ」
「若いのに洋装とは感心ですな」

 お父様と同じくらいの年の方たちに馴れ馴れしく話しかけられて、宵子は固まってしまう。

(……どなた? お父様のお知り合い? 春彦兄様は──)

 春彦は、知り合いらしい紳士に挨拶をしていて宵子のほうを見ていない。手を振って注意を引くのもはしたない気がして縮こまっていると、殿方たちはぐっと間近に宵子を取り囲んでしまう。

「慣れていないのかな、そこもまた愛らしいが」
「さあさあ、こっちへ来なさい」

 殿方のひとりが、宵子の手をぐいと引っ張った。

(きゃ!?)

 ダンスの誘いがこんなに強引で不躾ぶしつけだなんて聞いていない。場を華やがせるために呼ばれた芸者だとでも思われてしまった気がする。

(私、そんなんじゃ──)

 腰にまで手を伸ばされて、宵子の肌があわ立った。声が出せないから、悲鳴を上げることもできない彼女を助けてくれたのは、春彦だった。

「真上子爵令嬢の様です。今宵が初めての夜会なので、緊張していらっしゃるようですね。どうぞお手柔らかに」

 宵子を背中に庇った春彦の言葉で、殿方たちはようやく彼女がれっきとした華族の令嬢だと分かってくれたようだった。宵子を狙って伸ばされた手が引っ込んで、ようやくひと息つくことができる。

「おお、真上子爵にこんな愛らしい令嬢がいらっしゃったとは」
「それならそうと、言ってくだされば良かったのに」

 子爵令嬢でなければべたべた身体を触っても良い、と言いたげなのはどうかと思う。でも、立派な身なりからして高い身分なのであろう殿方たちに対して、春彦はにこやかで丁寧な態度で答えた。

「内気でいらっしゃるのですよ。家族以外の殿方と話すことは滅多にないので」
「大和撫子は奥ゆかしいのが美徳ですからな」
「ですが、今宵を楽しみにして舞踏の特訓をしていたそうで。──暁子、披露して差し上げなさい」

 暁子の代わりに、舞踏の先生に教わったのは本当だ。夜会の場での礼儀作法も、しっかり叩き込まれている。

(殿方と踊るのは、初めてだけど……)

 舞踏の先生は女性だったし、こんなにねばりつくような目で見られるなんて考えてもいなかった。でも──これが宵子の役目なのだ。真上家の娘のひとりとして、妹の負担を減らしてあげないと。

 小さく頷いて、教わった通りにドレスのをつまんで膝を折るお辞儀をすると、殿方たちはほう、と感嘆の息を漏らした。

「で、では、まずは私と──」

 宵子の手を取った紳士の、手のひらの変な熱さと汗のべとつく感じは、手袋ごしにも伝わってきた。嫌で、怖いけれど逃げることはできない。

 強張った表情で、ぎくしゃくとした動きで、宵子は大舞踏室の真ん中に進み出た。

      * * *

 楽団が奏でる音楽に合わせて、宵子は何人もの殿方と踊った。軽快な調べに早い拍子のポルカ。男女の列が入り交ざって舞踏室全体に波や花のような模様を描くマズルカ。
 外から眺めるだけならきっと美しい夜なのだろう。でも、渦中の宵子にとっては、知らない殿方に次から次へと身体を触れられるのは苦痛だった。

(まだ、終わらないのかしら……)

 くるくると回るうちに、春彦がどこにいるのか分からなくなってしまった。ひとりでは何も言えない宵子は、好んで舞踏に繰り出す大胆な娘にでも見えているのだろう、相手の殿方によっては、下心を丸出しにした表情や手つきで迫ってくる人もいる。

 やけに強く手を握られたり、腰や背中を撫でられたり。香水を頭からかぶったような強い匂いの人に当たると、舞踏室の熱気もあいまって頭がくらくらとしてしまう。

(真上家の評判を落としてはいけないわ。笑顔で踊らないと……!)

 今夜、ここに集っているのは名誉も身分もある方たちばかり。嫌な顔は見せてはいけないし、無様に転ぶなんてもってのほかだ。
 でも──慣れない靴で踊る疲れが出たのだろう。曲の合間に、相手の殿方から逃れてひとりになった瞬間、宵子はドレスの裾に足をもつれさせて、よろけてしまった。

(いけない──)

 絨毯を敷いてあるとはいえ、床はきっと硬いだろう。宵子はぎゅっと目をつむった。
 けれど、いつまで経っても痛みも衝撃も感じなかった。それどころか、温かいにふわりと支えられた。恐る恐る目蓋を開けると──宝石のような蒼が、宵子を見下ろしている。

気をパッセン・ジー付けて・アウフ──大丈夫か」

 耳に飛び込むのは、異国の言葉。すこし考えるような間を置いてから掛けられた日本語も、は言い辛そうに発音した。真昼のように明るい照明に、銀色の髪が輝いて星が降ってくるよう、だなんて思う。

(外国の方──そうよね、来ていてもおかしくないわ……)

 鹿鳴館の華やかな夜会は、外国の貴賓に見せるためのものなのだから。
 その人が纏っているのは、どの国の礼服なのだろう。ドイツか、フランスか、イギリスか──どの国であっても、胸に輝く数々の勲章くんしょうからして、高い身分の方に違いない。

(人形……いえ、彫刻のように綺麗な方)

 銀髪の貴公子の腕に収まったまま、宵子はその人の端整な顔に見蕩れていた。白粉おしろいなんて塗っていないだろうに、頬は白くて滑らかで。高い鼻筋も整った頬や顎の線も、芸術家が心を込めて削り出したかのよう。

 日本人の宵子の目には見慣れない髪や目の色も、怖いだなんて思わない。こんなに綺麗で神秘的な色は、いつまでだって見ていたい。

(──嫌だわ、私、失礼な……!)

 支えてもらった御礼も言わずに、相手の顔をじろじろ見つめていたことに気付いて、宵子の頬が熱くなった。欧州ではこんな時にどうするんだっけ、なんて考えている余裕はない。慌てて日本風にお辞儀をすると、くすりと微笑む吐息が下げた頭に降ってきた。

ワルツケネン・ジーは踊れ・ヴァルツァー・るかタンツェン?」

 また、宵子の知らない国の言葉だった。でも、不思議と意味が分かる。

 ちょうど流れ始めた、ゆったりした三拍子の曲。銀髪の貴公子が、宵子に差し出した手。彼女の表情を窺うように、軽く傾げた首と、少し悪戯っぽく微笑む口元。それらのすべてが教えてくれる。

 ──舞踏の誘いを、受けたのだ。
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