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エピローグ 碧玉の目と燿(かが)やく髪の
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珀雅は、またしても碧燿の前で麗しく微笑んでいた。ふらりと自家の別荘にでも足を運んだかのような、気負いも緊張もない態度である。まあ、怪我をした義妹の見舞い、というのは後宮を訪ねる割と正当な理由ではある。もちろん、皇帝の覚えがめでたくなければできないことではあるけれど。
「万事丸く収まったな。後宮も風通しが良くなったし、お前の怪我も無事に癒えるとのこと、大変めでたい」
手土産の菓子を卓に広げながらの義兄の言葉に、素直に頷くことができなくて。碧燿はじっとりと目の前の貴公子を睨んだ。
「義兄様……やはり、すべてお見通しだったのでは? 後宮から白鷺家の影響を一掃したことがめでたいと、そう仰っているように聞こえます」
今回の件では、結局のところ巫馬家が得をしたのではないかと思えてならないのだ。
皇帝・藍熾と白鷺家の絆は、以前ほど強いものではなくなった。後宮でただひとり皇帝の──愛情ではなくとも──好意を受けていた貴妃も去った。さらには、自家の娘、つまりは碧燿を皇帝に強く印象付けることにも成功している。あまりにもできすぎではないだろうか。
(分かっていたなら、最初から教えていただきたかったのですが?)
抗議を込めた視線は、けれど、珀雅の輝くばかりの笑顔にはね返されて、まるで答えた様子がなかった。
「白鷺家が焦ってしでかしたことかな、とは思った。手段の詳細はさておき、考えそうなことなら、想像がつく」
あっさりと認めながら、彼が茶を淹れる手つきも淀みない。素早く茶器を渡す手際の良さといい、瞬く間に皮肉っぽい表情を浮かべたことといい、実に的確に碧燿の口を塞いでくる。さすが、義妹の扱いに慣れているだけのことはある。
「男と女がいれば自然とそういう仲になるだろう、とは浅はかなことだ」
藍熾と白鷺貴妃の関係を、自分たちに重ねたのは珀雅も同じだったらしい。きょうだいと認識した相手に対して男女の想いを抱くことはない、と──その点、珀雅は白鷺家よりも主君のことをよく理解していたのだろう。
(良い義兄様なのよ。それは、間違いないんだけど)
父を殺され母を亡くし、短い間とはいえ奴隷として扱われた碧燿は、巫馬家に引き取られた当初はひどい有り様だったらしい。自分ではよく覚えていないけれど。そこを、何を思ったか可愛がり甘やかし倒し、世話を焼いて何とか人間に戻したのが珀雅だった。だから、碧燿の巫馬家での記憶は彼の笑顔から始まっている。彼は、義父と並んで碧燿の恩人なのだ。
優雅な所作で茶器を口元に運ぶ珀雅は、どうにも軽薄で、信用しきれない雰囲気を漂わせてはいるのだけれど。
「だが、後宮の奥を探る手段は限られているし、何より、下手な者が調べても陛下はお聞き入れくださらなかっただろう。白鷺家を追い落とすことで、利がある者が言っても逆効果だ」
「だから私、ですか……?」
「そう。裏も表もない娘だと、すぐに分かってくださるだろうからな」
……それでは、藍熾が鳳凰の記録に目を留めたことさえ、珀雅の思い通りだったようだ。さらには盗難事件にまで発展して、さぞ喜んだのではないだろうか。
(綬帯を取るために、楼閣に登るくらいなんでもなかったのね……)
碧燿の頼みごとが無理難題であればあるほど、彼女の性格を藍熾に見せつけることができたのだから。何となく、あの時礼を言って損をした気分になりながら、碧燿も茶器に口をつける。茶の芳香で気分を落ち着けてから、指摘してみる。
「……陛下はご傷心なのでしょう。新しい妃嬪など、お考えにはならないと思います」
あの傲慢な皇帝陛下は、きっと臣下に見せたりはしないのだろうけれど。家族だと思っていた相手に心を寄せられていたこと。それを拒絶し、その相手と決別しなければならなかったこと。いずれもなかなかに堪えることだろう。
(傷心のところに、つけこむ? ……まさか。図々しい)
義父や義兄もそこまでは言わないだろう。頭に過ぎった考えを振り払って、碧燿は続ける。
「それに私は、彤史の務めが──」
「少なくとも、陛下と繋ぎを持っておくのは良いことだろう? ご威光をお借りすれば、何かとやりやすくなるだろう」
「庇護を得てしまっては、陛下に都合の悪いことがあった場合に筆が鈍ってしまいます。それはよろしくありません」
彤史として仕えるのはどうか、と仄めかされたのにも首を振って。碧燿は誤魔化すように土産の菓子に手を伸ばした。口の中に広がる甘い香りに、その源をあえて呼んでみる。強い香りは、味わうまでもなく明らかではあったのだけれど。
「肉桂の香りですね」
「好きだろう?」
「はい。ありがとうございます」
義兄は、本当に彼女の好みを把握しているのだ。ただ──懐かしい甘味は、今は少し苦くもある。
「……貴妃様のところでもいただいたので、ちょっと」
父を思い出させられたすぐ後に、母の好んだ味を舌に乗せた。それが、どうにも引っかかっていた。──その理由に思い当たったのは、炎に巻かれて意識がもうろうとした時、だった。母の声が、耳に蘇った気がしたのだ。
「懐妊中は避けるべき食べ物が多いそうで。肉桂もそのひとつです。母が言っていました」
父が殺された時、母は懐妊していたのだ。碧燿の弟になるはずの子だった。無事に産まれていたら、母が生きる気力にもなっていただろうか。
「菓子のひとつやふたつなら良いのかもしれないのですが。どうせ堕胎させられるのだから好きに食べよう、という方には見えなかったので……」
私はもう良いから、あとは食べなさい。そう言って、娘に菓子を食べさせてから、口元を拭い、頬を撫でていく。その、母の指先を感じた気がして、碧燿は顔を両手で包み込んだ。何という非礼だろう、白鷺貴妃は、母を重ねるほど年上の方ではない。
(お伝えしておけば良かった? 優しい方に見えたから、って……)
だからこそ違和感を持ったのだ、と。でも、碧燿の目からどう見えたかなどと、あの方には何の慰めにもならないだろう。
「それでは、母君が教えてくれたようなものなのだな」
「はい」
「危険なことをされては、泉下で休まれる暇もあるまい。……ほどほどに、するように」
「……はい」
母を引き合いに出されては強情を通すにはいかず、碧燿は大人しく頷いた。
「まあ……今回は特別でしたでしょう。私も、陛下が仰るところの些事の担当に戻りましたし。陛下を欺く陰謀など、そうそう起きないでしょう。というか、義父様と義兄様がそのようになさってくださるのですよね?」
「そうだな。むろん、そのように努めるとも。私のほうでは、な」
義兄の綺麗な笑顔が、どこか胡散臭いのはいつものことだ。だから、碧燿は深く考えなかった。義妹から釘を刺されて、さすがに少々痛かったのだろう、ていどにしか思わなかった。これで、平穏な日々が戻るのだ、と。
その時は、信じていたのだ。
* * *
数日後、碧燿は墨痕いまだ乾かぬ書簡の上で、頭を抱えていた。袖の辺りに墨がついたかもしれないけれど、構う余裕はなかった。彼女の手元に影を落とす、長身の人物を前にしては、頭を抱えぬ訳にはいかない。
「……どうしていらっしゃるのですか」
「いて悪いか? 俺を何者と心得る」
初対面の時に発した言葉を、あの時の苛立ちではなく揶揄う響きで再び繰り返したのは、二度と会うことはないと思っていた藍熾だったのだ。してやったり、の喜びに煌めく深い青の目を見れば、珀雅はすでに承知していたことが察せられる。次に義兄にあったら文句を言わなければ、と決意すると同時に、碧燿は密かに思う。
(……割と元気そうじゃない……!)
白鷺貴妃と決別して、傷心中ではなかったのか。それは、碧燿が勝手にそうだろうと思っていただけのことだし、彼女に弱みを見せるような方ではないのだろうけど。
「……重々心得てはおりますが、だからこそ軽々しく口にできません。……どうして、そのような格好でいらっしゃるのですか」
質問の内容を増やして、もう一度問う。藍熾は、これまた最初の時のように、下級官吏の格好をしていた。また記録を誤魔化して抜け出したのだろう。碧燿の職務に対する挑戦だろうか。
「使えるものは使う、と言っただろう。お前を遊ばせておくなど損失だ」
「遊んでいる訳ではございません」
神聖な職務を軽んじられることにも、既視感がある。碧燿が声と視線を尖らせても、もちろん顧みられることはない。せめてもの抗議に座ったままの彼女に対し、藍熾は直立した高みから一方的に宣告してくる。
「お前の主義は理解したから、彤史の役は取り上げぬ。ただし、担当は皇帝の近辺に。男装なのもちょうど良いし、珀雅も喜ぶ。何かあれば呼び出す暇を省ける。何も悪くはあるまい?」
けれど、藍熾の言葉の途中で、碧燿は耐えきれなくなって立ち上がった。強い意志を湛えた青い目が、近い。皇帝に詰め寄るのは重罪に当たるかもしれないけれど──高貴な御方がこんな場所にいるはずがない。いない、ことになっているはず。だから遠慮せずに物申す。
「あの、もしや外朝にまで連れ回すおつもりですか? 彤史の努めとは、後宮の記録であって──」
「真実を記すことではなかったのか?」
「……はい。仰せの通りです」
……物申すつもりが、怪訝そうに首を傾けられて、頷いてしまう。
(覚えていたんだ……)
正直に言って、多忙と傲慢を極める皇帝が、彼女の言葉をいちいち記憶しているとは思っていなかった。けれど、それを言われては否定することは碧燿にはできはしない。
「進御の記録を命じるのはさすがに憚りがあろう」
「当たり前です!」
夜伽の記録は、閨でのやり取りも含まれるのだ。他人の閨を覗き見るなど、それを若い娘に命じるなど、考えられない、あり得ないことだ。
「ならば問題はあるまい。お前は目端が利くようだから、余人では気付かぬことを見つけられよう。そうして分かったことを、思う存分記せば良い」
当然のようにのたまう藍熾に、珀雅に告げたことを繰り返しても良かった。皇帝の庇護下にあっては真実を記す筆が鈍る、と。でも──
(この方は、私の言葉を容れてくれた。罰することもしなかった)
大切な白鷺貴妃を、後宮から追うことになった原因とも言えるだろうに。八つ当たりの的にすることもできただろうに。耳に痛い言葉だからこそ口にする者は貴重なのだと──炎から救われたあの夜に言われたことを、信じても良いのだろうか。
(たまたまかもしれない。巫馬家への遠慮かもしれない。この先も変わらないとは誰にも言えない)
疑う理由は、いくらでもあった。高貴な方々にとって、碧燿のような者の命はごく軽いのだ。いずれ、彼女も父のように死を賜ることになるかも。
「……はい。謹んでお受けいたします。光栄でございます」
──でも、構うまい。藍熾は、直々に姿を見せてまで碧燿が記す真実を求めてくれた。少なくとも、今のところは。この先ずっと変わらないという確信は、まだ持てないけれど。まあ、万一の時は、義父や義兄が逃げる時間くらいは稼いでくれるのではないだろうか。
「色々と、煩いことも申し上げるつもりです。心してくださいますように」
「口の減らぬことだ。だが──その調子だからわざわざ迎えに来てやったのだ」
不吉な未来は、まだ考えずとも良いだろう。今はただ、不敵に笑う藍熾のために筆を執るのが楽しみだった。
* * *
藍熾のもとで何を記すか、で頭がいっぱいの碧燿は、気付いていない。彼女自身も記録される対象になり得ることに。
皇帝の傍近くに仕える、碧玉の目に燿く赤い髪の男装の麗人が、どのような逸話で後世に語られるのか──それはまだ、誰も知らない。
「万事丸く収まったな。後宮も風通しが良くなったし、お前の怪我も無事に癒えるとのこと、大変めでたい」
手土産の菓子を卓に広げながらの義兄の言葉に、素直に頷くことができなくて。碧燿はじっとりと目の前の貴公子を睨んだ。
「義兄様……やはり、すべてお見通しだったのでは? 後宮から白鷺家の影響を一掃したことがめでたいと、そう仰っているように聞こえます」
今回の件では、結局のところ巫馬家が得をしたのではないかと思えてならないのだ。
皇帝・藍熾と白鷺家の絆は、以前ほど強いものではなくなった。後宮でただひとり皇帝の──愛情ではなくとも──好意を受けていた貴妃も去った。さらには、自家の娘、つまりは碧燿を皇帝に強く印象付けることにも成功している。あまりにもできすぎではないだろうか。
(分かっていたなら、最初から教えていただきたかったのですが?)
抗議を込めた視線は、けれど、珀雅の輝くばかりの笑顔にはね返されて、まるで答えた様子がなかった。
「白鷺家が焦ってしでかしたことかな、とは思った。手段の詳細はさておき、考えそうなことなら、想像がつく」
あっさりと認めながら、彼が茶を淹れる手つきも淀みない。素早く茶器を渡す手際の良さといい、瞬く間に皮肉っぽい表情を浮かべたことといい、実に的確に碧燿の口を塞いでくる。さすが、義妹の扱いに慣れているだけのことはある。
「男と女がいれば自然とそういう仲になるだろう、とは浅はかなことだ」
藍熾と白鷺貴妃の関係を、自分たちに重ねたのは珀雅も同じだったらしい。きょうだいと認識した相手に対して男女の想いを抱くことはない、と──その点、珀雅は白鷺家よりも主君のことをよく理解していたのだろう。
(良い義兄様なのよ。それは、間違いないんだけど)
父を殺され母を亡くし、短い間とはいえ奴隷として扱われた碧燿は、巫馬家に引き取られた当初はひどい有り様だったらしい。自分ではよく覚えていないけれど。そこを、何を思ったか可愛がり甘やかし倒し、世話を焼いて何とか人間に戻したのが珀雅だった。だから、碧燿の巫馬家での記憶は彼の笑顔から始まっている。彼は、義父と並んで碧燿の恩人なのだ。
優雅な所作で茶器を口元に運ぶ珀雅は、どうにも軽薄で、信用しきれない雰囲気を漂わせてはいるのだけれど。
「だが、後宮の奥を探る手段は限られているし、何より、下手な者が調べても陛下はお聞き入れくださらなかっただろう。白鷺家を追い落とすことで、利がある者が言っても逆効果だ」
「だから私、ですか……?」
「そう。裏も表もない娘だと、すぐに分かってくださるだろうからな」
……それでは、藍熾が鳳凰の記録に目を留めたことさえ、珀雅の思い通りだったようだ。さらには盗難事件にまで発展して、さぞ喜んだのではないだろうか。
(綬帯を取るために、楼閣に登るくらいなんでもなかったのね……)
碧燿の頼みごとが無理難題であればあるほど、彼女の性格を藍熾に見せつけることができたのだから。何となく、あの時礼を言って損をした気分になりながら、碧燿も茶器に口をつける。茶の芳香で気分を落ち着けてから、指摘してみる。
「……陛下はご傷心なのでしょう。新しい妃嬪など、お考えにはならないと思います」
あの傲慢な皇帝陛下は、きっと臣下に見せたりはしないのだろうけれど。家族だと思っていた相手に心を寄せられていたこと。それを拒絶し、その相手と決別しなければならなかったこと。いずれもなかなかに堪えることだろう。
(傷心のところに、つけこむ? ……まさか。図々しい)
義父や義兄もそこまでは言わないだろう。頭に過ぎった考えを振り払って、碧燿は続ける。
「それに私は、彤史の務めが──」
「少なくとも、陛下と繋ぎを持っておくのは良いことだろう? ご威光をお借りすれば、何かとやりやすくなるだろう」
「庇護を得てしまっては、陛下に都合の悪いことがあった場合に筆が鈍ってしまいます。それはよろしくありません」
彤史として仕えるのはどうか、と仄めかされたのにも首を振って。碧燿は誤魔化すように土産の菓子に手を伸ばした。口の中に広がる甘い香りに、その源をあえて呼んでみる。強い香りは、味わうまでもなく明らかではあったのだけれど。
「肉桂の香りですね」
「好きだろう?」
「はい。ありがとうございます」
義兄は、本当に彼女の好みを把握しているのだ。ただ──懐かしい甘味は、今は少し苦くもある。
「……貴妃様のところでもいただいたので、ちょっと」
父を思い出させられたすぐ後に、母の好んだ味を舌に乗せた。それが、どうにも引っかかっていた。──その理由に思い当たったのは、炎に巻かれて意識がもうろうとした時、だった。母の声が、耳に蘇った気がしたのだ。
「懐妊中は避けるべき食べ物が多いそうで。肉桂もそのひとつです。母が言っていました」
父が殺された時、母は懐妊していたのだ。碧燿の弟になるはずの子だった。無事に産まれていたら、母が生きる気力にもなっていただろうか。
「菓子のひとつやふたつなら良いのかもしれないのですが。どうせ堕胎させられるのだから好きに食べよう、という方には見えなかったので……」
私はもう良いから、あとは食べなさい。そう言って、娘に菓子を食べさせてから、口元を拭い、頬を撫でていく。その、母の指先を感じた気がして、碧燿は顔を両手で包み込んだ。何という非礼だろう、白鷺貴妃は、母を重ねるほど年上の方ではない。
(お伝えしておけば良かった? 優しい方に見えたから、って……)
だからこそ違和感を持ったのだ、と。でも、碧燿の目からどう見えたかなどと、あの方には何の慰めにもならないだろう。
「それでは、母君が教えてくれたようなものなのだな」
「はい」
「危険なことをされては、泉下で休まれる暇もあるまい。……ほどほどに、するように」
「……はい」
母を引き合いに出されては強情を通すにはいかず、碧燿は大人しく頷いた。
「まあ……今回は特別でしたでしょう。私も、陛下が仰るところの些事の担当に戻りましたし。陛下を欺く陰謀など、そうそう起きないでしょう。というか、義父様と義兄様がそのようになさってくださるのですよね?」
「そうだな。むろん、そのように努めるとも。私のほうでは、な」
義兄の綺麗な笑顔が、どこか胡散臭いのはいつものことだ。だから、碧燿は深く考えなかった。義妹から釘を刺されて、さすがに少々痛かったのだろう、ていどにしか思わなかった。これで、平穏な日々が戻るのだ、と。
その時は、信じていたのだ。
* * *
数日後、碧燿は墨痕いまだ乾かぬ書簡の上で、頭を抱えていた。袖の辺りに墨がついたかもしれないけれど、構う余裕はなかった。彼女の手元に影を落とす、長身の人物を前にしては、頭を抱えぬ訳にはいかない。
「……どうしていらっしゃるのですか」
「いて悪いか? 俺を何者と心得る」
初対面の時に発した言葉を、あの時の苛立ちではなく揶揄う響きで再び繰り返したのは、二度と会うことはないと思っていた藍熾だったのだ。してやったり、の喜びに煌めく深い青の目を見れば、珀雅はすでに承知していたことが察せられる。次に義兄にあったら文句を言わなければ、と決意すると同時に、碧燿は密かに思う。
(……割と元気そうじゃない……!)
白鷺貴妃と決別して、傷心中ではなかったのか。それは、碧燿が勝手にそうだろうと思っていただけのことだし、彼女に弱みを見せるような方ではないのだろうけど。
「……重々心得てはおりますが、だからこそ軽々しく口にできません。……どうして、そのような格好でいらっしゃるのですか」
質問の内容を増やして、もう一度問う。藍熾は、これまた最初の時のように、下級官吏の格好をしていた。また記録を誤魔化して抜け出したのだろう。碧燿の職務に対する挑戦だろうか。
「使えるものは使う、と言っただろう。お前を遊ばせておくなど損失だ」
「遊んでいる訳ではございません」
神聖な職務を軽んじられることにも、既視感がある。碧燿が声と視線を尖らせても、もちろん顧みられることはない。せめてもの抗議に座ったままの彼女に対し、藍熾は直立した高みから一方的に宣告してくる。
「お前の主義は理解したから、彤史の役は取り上げぬ。ただし、担当は皇帝の近辺に。男装なのもちょうど良いし、珀雅も喜ぶ。何かあれば呼び出す暇を省ける。何も悪くはあるまい?」
けれど、藍熾の言葉の途中で、碧燿は耐えきれなくなって立ち上がった。強い意志を湛えた青い目が、近い。皇帝に詰め寄るのは重罪に当たるかもしれないけれど──高貴な御方がこんな場所にいるはずがない。いない、ことになっているはず。だから遠慮せずに物申す。
「あの、もしや外朝にまで連れ回すおつもりですか? 彤史の努めとは、後宮の記録であって──」
「真実を記すことではなかったのか?」
「……はい。仰せの通りです」
……物申すつもりが、怪訝そうに首を傾けられて、頷いてしまう。
(覚えていたんだ……)
正直に言って、多忙と傲慢を極める皇帝が、彼女の言葉をいちいち記憶しているとは思っていなかった。けれど、それを言われては否定することは碧燿にはできはしない。
「進御の記録を命じるのはさすがに憚りがあろう」
「当たり前です!」
夜伽の記録は、閨でのやり取りも含まれるのだ。他人の閨を覗き見るなど、それを若い娘に命じるなど、考えられない、あり得ないことだ。
「ならば問題はあるまい。お前は目端が利くようだから、余人では気付かぬことを見つけられよう。そうして分かったことを、思う存分記せば良い」
当然のようにのたまう藍熾に、珀雅に告げたことを繰り返しても良かった。皇帝の庇護下にあっては真実を記す筆が鈍る、と。でも──
(この方は、私の言葉を容れてくれた。罰することもしなかった)
大切な白鷺貴妃を、後宮から追うことになった原因とも言えるだろうに。八つ当たりの的にすることもできただろうに。耳に痛い言葉だからこそ口にする者は貴重なのだと──炎から救われたあの夜に言われたことを、信じても良いのだろうか。
(たまたまかもしれない。巫馬家への遠慮かもしれない。この先も変わらないとは誰にも言えない)
疑う理由は、いくらでもあった。高貴な方々にとって、碧燿のような者の命はごく軽いのだ。いずれ、彼女も父のように死を賜ることになるかも。
「……はい。謹んでお受けいたします。光栄でございます」
──でも、構うまい。藍熾は、直々に姿を見せてまで碧燿が記す真実を求めてくれた。少なくとも、今のところは。この先ずっと変わらないという確信は、まだ持てないけれど。まあ、万一の時は、義父や義兄が逃げる時間くらいは稼いでくれるのではないだろうか。
「色々と、煩いことも申し上げるつもりです。心してくださいますように」
「口の減らぬことだ。だが──その調子だからわざわざ迎えに来てやったのだ」
不吉な未来は、まだ考えずとも良いだろう。今はただ、不敵に笑う藍熾のために筆を執るのが楽しみだった。
* * *
藍熾のもとで何を記すか、で頭がいっぱいの碧燿は、気付いていない。彼女自身も記録される対象になり得ることに。
皇帝の傍近くに仕える、碧玉の目に燿く赤い髪の男装の麗人が、どのような逸話で後世に語られるのか──それはまだ、誰も知らない。
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