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第12話 炎の烙印

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「──これがどれほどの罪になるか、私は存じません。陛下を欺いたとなれば重罪ですが、一方で、宮女きゅうじょであっても寵を受ける僥倖に恵まれるのはままあることです。陛下のご聖断せいだんがどうなるか、安易な推測は僭越せんえつというものでしょう」

 唯一自由になる口を必死に動かしながら、碧燿へきようは内心で頭を抱えていた。

(私、どこまでも説得が下手だ……)

 罪にはならないだろう、とか。義父や義兄に執り成しを頼むから、とか。そういうことを言ったほうが、まだきょう充媛じゅうえんの心が動く可能性があるだろうに。彼女の唇が紡ぐのは、どこまでも硬直した正論でしかなかった。これで命乞いになるとは、我ながら信じがたい。それでも、何も言わずに諦めることなどできなかった。

「とにかく──罪を隠すために罪を重ねることこそ、重罪であり愚行と存じます。私が今述べた仮説を立証するのに参照した記録は、今は一か所に集められております。貴女様にも手の届かない、紫霓しげい殿に……! 私の姿が消えれば、巫馬家じっかも黙っておりません。どうか、なさったことを余すことなくおおやけにしてくださいますように……!」

 碧燿の訴えを、姜充媛じゅうえんは表情を変えずに聞き終えた──と思ったのも束の間、形良く紅をかれた唇が、不吉な色の三日月のように弧を描く。そこから漏れる軽やかな笑声は、美しいのに耳障りで、どこかひび割れた響きがした。

「罪を重ねるな、ですって? おかしなこと、無駄なこと! ……わたくし、もう罪を重ねているのよ……?」

 笑いながら、姜充媛じゅうえんは辛うじて上体を起こしていた碧燿を突き飛ばした。縛られた姿では抗うこともできず、くるりと逆側に身体を転がされ──碧燿は、目を見開いた。

桃児とうじさん──」

 床に片頬をつけた状態で、桃児が目の前に倒れていた。あんなに怯えていた彼女がこれまで沈黙を守っていたのは、何も言えなくなっていたからだ。苦悶の表情を浮かべて固まった顔、力なく投げ出された手足。──首をぐるりと囲む、無惨な赤い痕。

 どれだけの時間、碧燿が意識を失っていたかは分からない。ただ、姜充媛じゅうえんが桃児を殺させる──自らの手でやったはずはない──には十分だったということなのだろう。黙らせる必要こそあれ、この気の毒な宮女から聞き出すべき情報などなかったのだろうから。

「この女は、わたくしから陛下の寵を盗もうとした。わたくしに成り代わろうとした! 許せない……!」

 遺体と顔を合わせて硬直していた碧燿は、姜充媛じゅうえんが立ち上がる衣擦れの音と、甲高い笑い声にようやく我に返った。再び身体を捻って、美しいのに歪んだ顔を睨め上げる。表情と同じくいびつで醜悪な言い分に、反駁はんばくする。

「……貴女様が命じたことではないですか。この人は、とても怯えて──っ」

 腹を強く踏まれて、最後まで言い切ることはできなかったけれど。身体を丸めて痛みを堪える碧燿に、なおも罵声と蹴りが浴びせられる。何度も、何度も。

「お前も、何様のつもり? 巫馬ふば家の娘が彤史とうしですって? わたくしを陥れて、邪魔者を除こうとして入り込んだのでしょう! 紫霓しげい殿? あまつさえ貴妃様に取り入ってどうするの? あの方はねえ、ただの飾り、置き物なのに! 白紗はくしゃを纏ったのほうが、よほど……!」

 姜充媛じゅうえんの主張は、何もかもが間違っている。そうに違いない、という邪推と、そうであったら良い、という願望と。後宮という鳥籠に閉じ込められるうち、あらゆる負の感情を煮凝にこごらせた者の目には、すべてが歪んで見えるかのよう。

(違う、のに……)

 ひとつひとつ、その誤りを正したい。道理を説いて聞かせたい。でも、姜充媛じゅうえんの言葉の勢いも暴力の激しさも、碧燿に口を挟む隙を与えなかった。

 ようやく暴力が止んでも、しばらくの間、碧燿は息を整えるので精いっぱいだった。動くか、喋るか──命を繋ぐために、何かをしなければならないと思うのに、頭がまともに働いてくれない。周囲に、何か液体を注ぐ音と気配がする、と思った時も。匂いからして油のようだ、と理解した時も。

 碧燿の思考がようやく焦点を結んだのは、姜充媛じゅうえんが燭台を取り出した時。揺らめく赤い炎が、彼女が浮かべる暗い笑みを危うく照らし出した時だった。遺体と、始末したい者と、たっぷりと撒いた油と──次に起きる事態を予見した碧燿の喉から、悲鳴が漏れる。

「──後宮ですよ!? お止めください!」

 皇帝の住まいである場所への敬意と遠慮と、延焼の不安が真っ先に出た辺り、彼女はやはり説得には向いていなかった。姜充媛じゅうえんは、碧燿の必死さを見下ろした愉しげに笑う。きらきらと輝く目は、祭りの篝火に夢中になる子供のようですら、あった。

げじょの、火の不始末でしょう。罰しないと、ね?」

 またも使用人に罪を着せることを仄めかしながら、姜充媛じゅうえんは燭台を無造作に床に放った。と、瞬く間に炎の壁が立ち上がり、彼我を隔てる。赤と橙の色に染まった衣を翻して、美しい女は軽やかに回った。ぱちぱちと、爆ぜる炎の音が楽の調べでもあるかのように。紡ぐ声さえ、歌うように。

「わたくしは、懐妊しているかもしれない妃嬪だもの。陛下はお見舞いくださるわ。動転して……煤で汚れた顔ですもの、閨とは違って見えるでしょうねえ」
「……せめて、早く消火を! いったいどこまで広がるか──」

 自分のためではなく、芳林ほうりん殿や周囲の殿舎の住人のために、碧燿は訴えた。けれど、芋虫のように無様に転がる彼女の言葉に耳を貸さず、姜充媛じゅうえんは高らかに笑いながら炎と煙の向こうに消えていった。

      * * *

 室内に充満する黒煙を避けて、碧燿へきようは床に張りついていた。床を舐める炎を避けて、縛られた手足で不器用に這う。桃児とうじの遺体はすでに炎に包まれたのか、髪やあぶらが焦げる嫌な臭いも漂い始めた。

 彼女も遠からず、同じく炭の塊となり果てるのだ。ろくな身動きも取れない癖にもがいても、わずかな時間稼ぎにしかならないだろう。それどころか、苦しみが伸びるだけかも。でも──

(死ねない……!)

 その一念で、碧燿はまだ火の手が小さい方向を探して必死に瞬き、肌を焦がす熱に耐えて、這う。炎が縄を焼き切ってくれるのではないかと願って、少しでも手足を動かそうと努めながら。

 真実を求めることで、疎まれるのは望むところだった。父に倣って、死を賜ることさえ異存はない。けれど、それは真実を公表するのと引き換えであれば、の話だ。

 ここで碧燿が燃え尽きれば、姜充媛じゅうえんの所業を訴える者はいなくなる。桃児の死は、単に火事から逃げ遅れただけになってしまう。
 先ほどは証拠が揃っていると言ってはみたけれど、彼女のほかに、情報を組み合わせようと考える者がそうそう出てくれるとは限らない。それに──

白鷺はくろ貴妃様のことも、まだ……)

 姜充媛じゅうえんと話していて、何か掴みかけた気がするのだ。

 夜伽の記録と、尚食司しょうしょくしの薬の処方の記録、芳林ほうりん殿の人の行き来の記録。碧燿自身が記した、鳳凰ほうおう騒ぎと、綬帯じゅたいの紛失と発見の記録。それぞれの記録は正しく為されていたのに、身代わりが入る余地があった。

(それは、妃嬪として記録されたのが、実は別人だったから)

 その名で記録された者が間違いなく本人だということを、誰がどうやって判断するのだろう。偽証の意図があるなら、名乗りはもはや信用できない。貴人の顔は、誰もが知るものではない。位階に相応しい衣装や装飾も、実は誰だって纏うことができるのだ。桃児が姜充媛じゅうえんとして皇帝の閨に上がることができたように、どこかで何かのすり替えが行われたのだとしたら。

(貴妃様のお茶とお菓子──茉莉花まつりかと、肉桂シナモンの……母様が、好きだった)

 亡き人の記憶が頭を過ぎったことに、碧燿は愕然とした。これではまるで、死に惹かれているかのよう。現実逃避で、何の憂いもなかった過去に想いを馳せているかのよう。──違う。彼女は、まだ考えるのを止めていない。母が、何か言っていたと思うのだ。それが、白鷺はくろ貴妃にどう関係するのか──とりとめのない思考を繋ぐ糸が見える前に、碧燿の顔に熱風が吹き付けた。

(どこか、崩れた……!?)

 思わず目を閉じれば乾いた眼球が痛み、灼けた空気を呑み込んだ喉が耐えきれずに咳き込んだ。姜充媛じゅうえんは、碧燿と桃児が燃えるまで火事を傍観するだろう。建物自体が燃え落ち始めたなら、もはや希望はない、のだろうか。絶望に、全身から力が抜けた時──

「──見つけた」
「……え?」

 聞こえた声は涼やかで平静で、そして、再び開いた碧燿の目に映った色は、冷たい色をしていた。深い、青──藍。火の粉が映えるその目の色は、まさにの名を表している。でも──力強い腕で碧燿を助け起こすその人は、こんなところにいて良い御方ではないはずだ。

「へい、か……?」
「担いでいくから大人しくしていろ」

 信じられない、と。呆然と呟く碧燿に軽く顔を顰め、藍熾らんしは彼女を抱え上げた。言葉通り、荷物のように担がれて移動する速さは、風のように思えた。訳が分からなくて──脱力して、畏れ多くも皇帝の背に、頬を休める。すると濡れた感触があって、一応は水を被ってきたらしいことが分かる。

(消火が始まってる? 助かった……?)

 そっと息を吸って、吐いてみると、身体中が熱く、痛かった。けれどそれは、生きていることの証なのだろう。

      * * *

 煙と炎を逃れて建物の外に出ると、すでに夜の帳が降りていた。暗い夜空に立ち上る火柱は、恐ろしくも美しい。芳林ほうりん殿の倒壊は、もはや目前に迫っているようだった。

(怪我人はどれだけ出たんだろう。きょう充媛じゅうえんは……?)

 藍熾らんしの肩から下ろされて、よろめく足で地を踏みしめながら、碧燿へきようはぼんやりと考えた。──と、頭からざぶりと冷水を浴びせられる。

「早く冷やしなされ。火傷が残ってしまいます」

 男にしては高く、女にしては低い声は、宦官のようだ。彼らの力は男の時のままだから、火災という一大事とあって、女は下がらせて宦官を呼び集めたのだろうか。耳に水が入る違和感に、碧燿が首を振る間にも、二度、三度と水音が盛大に響き、皮膚の熱が拭われていく。

「失礼ですがお召し物を脱いでくださいますよう。手当をいたします」
「え──構いません。後回しで」

 皇帝自ら救い出した女だからか、医官らしい宦官の物腰はやたらと丁重だった。それでも、焼け焦げた上に水の滴る衣装に伸びる手は遠慮がなく、碧燿は慌てて逃れようと足をもつれさせた。よろめいたところを藍熾に捕らえられ、耳元に不機嫌な声が降ってくる。

「恥じらっている場合か。どうせもう衣服の用を為していない。傷が残れば珀雅はくがに顔向けできなくなるだろうが」
義兄あには──義父ちちも、承知しておりますから。あの、私のことを。だから怒ったりはいたしません」

 では、藍熾は巫馬ふば家の機嫌を取るために火中に飛び込んだのだろうか。有力な家の娘を焼死させる訳にはいかない、と? それにしても軽挙というべきで、後で諫言かんげんしなければならないだろうけれど。

(今は、それよりも……!)

 肌を人前に晒すまいと、碧燿は必死に手を振った。

「本当にお構いなく」
「くどい」

 火傷を負って煙を吸った小娘の抵抗など虚しく、藍熾は苛立ったように吐き捨てると、碧燿のブラウスの合わせに手をかけた。

(ああ……)

 絶望に目を閉じた碧燿の肌に、藍熾が息を呑む気配が伝わった。いくら夜とはいえ、殿舎を燃やし尽くす炎の勢いはまだ強いし、消火にあたる者たちもそれぞれ灯りを携えている。

 だから、藍熾の目ははっきりと捉えてしまっただろう。碧燿の胸元に刻まれた、官奴かんどの焼き印を。
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