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第10話 気付いてしまった

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 しばらくの間、碧燿へきようの目は、文字を追ってはいてもその意味を捉えてはいなかった。白鷺はくろ貴妃きひが去り、真実をほじくる&彤史とうしの部屋に好んで近づく者もなく。しんとした沈黙が耳に痛くなったところで──ようやく、彼女は机に突っ伏す。そして、溜息と共に悔恨の言葉を漏らす。

「やってしまった……」

 貴妃のもの言いは、碧燿自身の矜持と父の非業の死を踏み躙るものではあった。けれど、言わなくても良いことを言ってしまった自覚も、重々ある。

 取引や交渉で偽証を行う余地がないと、教えてしまったこと。尊い身分の、それも皇帝の覚えめでたい御方に対し、非礼な態度を取ってしまったこと。いずれも良い結果をもたらすはずもない。
 彼女の出自だって、何も教える必要はなかった。碧燿にとっても古傷を抉る思いがしたし、聞かされるほうだって良い気分にはならないだろうし。

 口を滑らせたことへの後悔は、舌に残る菓子の後味さえ、苦く感じられてしまうほど。
 でも、思い悩んだところで、口を出た言葉をなかったことにすることはできないのだ。もう一度深く溜息を吐き──碧燿は、広げるだけだった巻物を片付けながら自分に言い聞かせるように呟いた。

「やってしまったものは仕方ない……貴重な御言葉をいただけたと思うべき。信じられなくても──どうしてそんなを吐いたのかは、真実への足掛かりになる……」

 建前抜きで話したい、なんて言っていたけれど、碧燿は白鷺はくろ貴妃が語ったことを丸呑みにしてはいない。皇帝にとって不都合な者に、密通の罪を着せて始末する──そんなことが、不義の理由というか目的だなんて。君側くんそくかんを除きたい、というのが本心だとしても、命を賭けてまでやることではないと思う。

(懐妊したから──不義のができてしまったから、利用しようとしている? 罪滅ぼしとして……?)

 それはまだ、仮説のひとつ。ほかにも、貴妃の声や表情から窺えたことがある。あの清らかな美姫は、皇帝の寵を狙う妃嬪たちへほのかな悪意を抱いていた。

 いまだによる沈んだ気分を引きずったまま、碧燿はまた新たな巻物を紐解いた。白鷺はくろ貴妃とのやり取りで、確かめたいことができたのだ。

白鷺貴妃あのかたが皇帝に召されることを、ほかの妃嬪ひひんは警戒するはず……」

 即位前からの縁と、姉弟同然の絆がある貴妃にお召しがあれば、ほかの女が割って入る余地はなくなる。その事態を避けるために、不義の相手を手引きした、だなんて──それもまた、現実的な案ではないだろうけれど。特に皇帝のお手付きの妃嬪なら、貴妃を陥れる動機があるのかもしれない。

 だから、広げるのは進御しんぎょの記録だ。白鷺はくろ貴妃の名が記されていないのは分かっていたし、皇帝の閨に関わる事柄を好んで見たいとは思わなかったから積んでおいたものだ。

(念のため、持ち出しておいて良かった)

 ──と思ったのだけれど。碧燿の弾んだ気持ちは、すぐに萎んでしまうことになった。特別に怪しいと考えられる者がいないことに、すぐ気づいたのだ。

 藍熾らんしの即位以来の記録は、たいへん淡白で素っ気なく、規則正しいものだった。妃嬪の容姿にも家名にも興味を持っていないことは明らかで、一度や二度、召されたからといって野心を抱く者がいるとは考えづらい。
 手詰まりになってしまう一方で、生々しい閨のやり取りを読まずに済んだ──つまり、あの男は閨で女と語らったりはしないらしい──のは、一応は若い娘の身としては幸いだった。

 無駄なことを知りつつ、それこそ念のために記された妃嬪の名と階級を書き写しながら、碧燿はまた溜息を吐いた。

(……本当に順番に、かつ適当に選んでいるだけなんだ……)

 白鷺はくろ貴妃を除いた四夫人よんふじんの次は、九嬪きゅうひんから。さらにその次は二十七世婦せいふ、八十一御妻ぎょさい。召される妃嬪の位は下っていき、下り切るとまた初めに戻る。下の位ほど同格の者が多いから、競争率は上がる。おそらく、月の障りだとか体調だとかの運も大いに絡むのだろう。四夫人でさえ順番が来るのは二か月に一度ていど、これでは後宮に御子の産声が響くのは当分先のことだろう。

「だから、最初の懐妊の報が不義の子になるんじゃ?」

 さすがに人の耳を憚って小声で毒づきながら、碧燿は白鷺はくろ貴妃が下げずに残していった菓子を、ちゃっかりと口に放り込んだ。肉桂シナモンの甘い香りは亡き母が好んだものだった。懐かしさに少しだけ胸が乱れ、それでも苛立ちはいくらか収まる。

 今回の件の顛末てんまつがどうなろうと、皇帝にはもっと後宮に目を向けてもらわなければ。義兄たちから、重々叱ってもらうことにしよう。指先を拭ってそう決意した時──碧燿の目は、またも見知った女性の名を捉えた。

きょう充媛じゅうえんが召されたのは、本当に最近なんだ)

 例の綬帯じゅたいを盗んだ犯人は、ずいぶんと早く嫌がらせに踏み切ったらしい、と思うと後宮の闇の深さに暗澹とする。鳳凰ほうおう騒ぎの日付を思い出すと、皇帝のお召しから何日も空いていない。でも、一方で──これなら、姜充媛じゅうえんの証言を借りずとも、容疑者の特定は意外と簡単かもしれない。
 今の碧燿は、皇帝直々の命令を帯びて調査にあたっていることでもあるし。どんな記録も一々許可を取らずに閲覧し放題なのは、なかなかない好機だ。

「……もしかして?」

 呟くと、碧燿はにんまりと微笑んだ。雲をつかむような間男探しよりは、後宮の中での盗難事件の解決はずっと簡単なことのはずだ。今度こそわくわくとした期待を持って、碧燿は巻物の山をひっくり返す。

芳林ほうりん殿の記録は、っと──」

 貴妃の紫霓しげい殿以外の記録の量はたかが知れているから、纏めて運んでいたのが幸いした。目当ての巻物を無事に見つけて、早速広げる。お召しのあった妃嬪を祝うという名目で、探りを入れたい者は多かっただろう。その中の誰かが、良からぬことを考えたのだ。

(来客が分かったら、そっちの動向も見比べて──)

 もしかしたらまた書庫に出向く必要も出てくるかもしれない。次の行動の予定を頭の中で組み立てながら、碧燿は文字をなぞり──

「──あれ?」

 首を傾げた。そして、、何度読み返しても記述が変わらないことを──当たり前だけど──確かめて、逆の方向に首を傾ける。気を紛らわせるために、残っていた菓子を摘まんで──甘味を堪能しながら考える。

(まさか。まさか、ね?)

 そんなことはあり得ない──とは、碧燿が言って良いことではない。彼女の父は、あり得ないはずの皇帝の死を指摘して、そして殺された。不審や疑問、欺瞞や偽証に目をつむっては、何も変わらないのだ。たとえ命と引き換えでも、真実を述べる──それこそが、彼女の血に流れる教えのはずだ。

 だから──仮説に気付いてしまったからには、検証しなければ。

(というか、急がないと……!)

 巻物を慌ただしく片付け、部屋を飛び出した碧燿は、危うく人影にぶつかりそうになった。名前と顔はまだ一致していないけれど、白鷺はくろ貴妃の侍女のひとりのようだ。

「お前、どこに行くの!? 貴妃様にいったい何を──」

 巫馬ふば家の間諜──碧燿のことだ──を探りに行った女主人が、手ぶらで戻ったのが不審だったのだろう。ひと言文句を言いたくなったのかもしれないし、確かに非礼を犯したから当然ではある。でも、今は時間がなかった。

「ちょっと芳林ほうりん殿に行って参ります! お話があるなら後ほど伺います!」
芳林ほうりん殿!? なぜ、そんな──」

 相手が納得する説明では到底ないのも、承知。それでもこれ以上言葉を費やすことはできない。背後で喚く声を置き去りにして、碧燿はスカートの裾を掴むようにして走り出した。動きづらい衣装を送ってきた義兄が、今は恨めしかった。
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