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第9話 間が悪かった

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 鈍くうずく頭痛を散らすべく眉間を揉みながら、碧燿へきようはひとりごちた。

「勝手が違う……」

 紫霓しげい殿に来てからの日々は、これまでとは何もかも。彤史とうしの肩書は変わらずとも、持ち場が変われば粛々と筆と墨と紙を相手にするという訳にはいかなかった。まして今の碧燿は、貴妃きひの密通の真実を探るという役目を帯びている。新たに記録を綴るだけでなく、少なくとも直近の数か月の記録を洗い直さなければならなかった。書庫から私室に持ち出し、山のように積んだ巻物の中に、貴妃の、あるいはその侵入経路を示唆する手掛かりが潜んでいるはずなのだから。

(来客、皇帝の渡り、モノの出入り……)

 ただ、後宮の最高位の女性だけに、とにかく情報の量が多い。機嫌伺いなのか何なのか、下位の妃嬪が引きも切らずに訪れているようだし、後宮の外からも貢物もが絶えない。貴妃の権威の余光よこうで、紫霓しげい殿の侍女たち宛の客や品もあるようだし、すべてを精査するのだと思えば頭痛もしてくる。

(でも、手掛かりなしに聞き込んでも無駄だろうし)

 の者たちの冷ややかな態度もまた、これまでとは違うことのひとつだった。今の紫霓しげい殿においては、真実を求めることなど誰も望んでいないから仕方ない。せめて何らかの仮説を立ててからでなくては、次の段階に進むことはできないだろう。

 息を吐いて──腕まくりをする。例によって動きづらい女の衣装にもうんざりしているけれど、仕方ない。

「さて、次、っと」

 義兄たちも皇帝も、そう長くは待ってくれないだろうからのんびりしている訳にはいかない。新たな巻物を広げて──そこに知った名前があるのを見てとって、碧燿はそっとその文字をなぞった。

きょう充媛じゅうえんも、来てたんだ)

 多くの妃嬪がそうしているのだから、別に驚くことではない。ただ、嫌がらせで綬帯じゅたいを盗まれて、それでも訴えようとはしなかった佳人の姿を思い出すと──やる気が出る、かもしれない。真実は必ず明かされるのだと示すことができれば、かの人の心も変わるだろう。

 そう、気合を入れ直した時──紙の匂いに満ちた部屋に、春の薫風くんぷうが吹き込んだ。あるいは、そのように錯覚させる柔らかく美しい声が響いた。

「ずいぶん根を詰めているようね?」
「──貴妃きひ様」

 飛び跳ねるように振り向くと、殿舎の主たる白鷺はくろ貴妃が優美を極めた風情で佇んでいた。芳しい風、と思ったのも道理、その白い手は、茶菓が載った盆をこちらに差し出している。茉莉花まつりか肉桂シナモンの甘い香が、強張った碧燿の神経を和らげてくれる。

(……なんで?)

 驚き固まる碧燿に微笑んで、貴妃は盆を机の空いていたところに置いた。

「差し入れを持ってきたのよ。甘いものが欲しくならない?」
「もったいのうございます」

 宮官きゅうかんへの差し入れなんて、貴妃がすることではない。恐縮する以上に怪しすぎて、碧燿は慌てて手と首を振った。

「良いのよ」

 けれど、貴妃は聞かずに居座る構えだった。積んでいた巻物を除けて、碧燿の向かいに勝手に椅子を据えて、掛ける。白魚の指先が、花を摘むような繊細な手つきで菓子を摘まみ上げた。

「毒なんて入っていないのよ。──ほら」

 小さな菓子を呑み込む唇は、今日はきちんと紅がかれている。初日に拝謁はいえつした時は可哀想なほど色がなかったのに。
 彤史とうしの、狭い上に墨がある部屋を訪ねるのを想定してだろう、衣装やかんざしの華やかさは控えめなようだけれど──だからこそ、思い付きでふらりとやってきたのではないのが、分かる。

(武装は万端、ということ……?)

 貴妃の背後に目を凝らしても、侍女を引き連れている気配はない。ならば、碧燿とふたりだけで何かしらを話したい、ということらしい。

「もったいないお心遣いでございます。心より感謝申し上げます」

 ならば受けるしかないだろう。というより、望むところだ。固い声で応えると、碧燿は椅子を下りて跪拝きはいした。

      * * *

 白鷺はくろ貴妃きひの気だるげな眼差しが、巻物の山を興味深げに撫でた。黒々とした瞳の艶めいた様は、しっとりと夜露に濡れた花を秘めた闇を思わせる。

「何を調べていたの?」
「殿舎の、人の出入りなどを……妃嬪ひひんの方々のおでが多いので驚きました」

 きょう充媛じゅうえんを思い出しつつ碧燿へきようが言ってみると、麗人の整った口元に含みのある笑みが浮かんだ。

「そうね。皆様、藍熾らんし様のお好みが知りたくて仕方ないようなの」
「それは──」

 図々しい、のではないだろうか。後宮の女が皇帝の寵を望むのも、そのために必死になるのも当然のこと。とはいえ、白鷺はくろ貴妃も競争相手のひとりのはず。その御方に教えを乞うということは、皇帝は貴妃を女としては見てと、想いのほかに多くの者が知っていたのかもしれない。

きょう充媛じゅうえんも、そうだったのかな)

 貴妃が助言を与えたのかどうか、それに効果があったのかはともかく。その必死の努力の結果が、同輩からの嫌がらせとは。何があっても何がなくても、後宮の女のおおかたは不幸なのではないか、という気がする。

 とはいえ、下手な哀れみも慰めも貴妃の望むところではないだろう。花の香が漂う茶で口を湿す間に、碧燿は無難な答えを捻り出した。

「貴妃様は、陛下と最も近しい御方ですから」
白紗はくしゃ越しの眺めも知らないのにね。閨の作法ならほかの方々のほうがご存知でしょう」

 皇帝の寝所しんじょに届けられる女は、武器や毒物を携行できぬように、裸になって白い紗で包まれて運ばれるのだとか。

(装うこともできない、顔もろくに見えないかもしれないってことだよね)

 今上帝、藍熾らんしのもとでは、目立って寵愛を受ける妃嬪はまだいない。荷物のような扱いを受ける女たちより、目の前の貴妃は遥かに皇帝の好意を得てはいるのだろうに。

「あの方の御心をとらえるにはどうすれば良いか──わたくしが教えて欲しいくらい」

 白鷺はくろ貴妃の目に試すような色が浮かんだ気がして、碧燿は無言で菓子をかじった。女として顧みられない孤閨こけいえんが不義の動機なのか、その自白なのか。はっきりそうと問うても良いものかどうか。次の手を悩む間に、紅い唇が、また動く。

「職務に忠実に、とは言ったけれど、本当に励んでいるのね。こんなにたくさんの文書を持ち出すなんて」
彤史とうしの務めは真実を記すことです。まずは、過去の事実を把握しておきたいと思いました」

 どうもこの方も碧燿の職務を誤解しているのでは、と思いながら述べると、貴妃はおっとりと首を傾げた。

「事実が記されていると、信じているの?」
「はい。彤史とうしとはそういうものですから」

 やや皮肉げな表情を浮かべる相手に、碧燿は迷いなく頷いた。強がりではなく、記録を疑う理由はまったくない。前任の彤史とうしが皇帝の圧力に屈して節を曲げるような人物なら、そもそも彼女に話が回って来ていないのだから。

「……貴女がするのは形ばかりの調査だとばかり思っていたわ? いえ、そうなのよね? ここにはわたくしのほかに誰もいないわ。建前抜きで話したいの」

(やっぱり、何か思い違いをなさっている)

「──お望みのままに」

 確信しながらも、碧燿は再び頷く。貴妃が本音を語ってくれるなら、何も誤解を訂正する必要はない。この御方が考えているのとは違ったとしても、彼女のほうでも本音の話ができるなら歓迎だ。

 碧燿の返事を都合よく捉えたのだろう、貴妃は軽く身を乗り出し、声を潜めた。

「わたくしの──その、のことよ。巫馬ふば家の好きな名前を選んで良いのよ。大罪を犯した者の、心当たりは多いのではないかしら」

 政敵に冤罪を着せて始末すれば良い、と言っているらしい。彼女自身だけでなく実家をも巻き込んだひどい誤解に、碧燿は心の中で顔を顰めた。

義父様とうさまたちは、世間にどう思われているの?)

 誤解の余地が大いに発生するだけのことをしているのだろうな、と思うと、声に呆れを出さないようにするのは難しかった。そもそも、現実的な提案とは思えない。

「その男は、どのようにこの殿舎に忍び込んだのでしょうか。私にはまだ見当もついておりません」


 貴妃はそれこそ呆れの目を碧燿に向けた。聞き分けのない子供に対するような、分からないことこそ分からない、とでも言いたげな表情だった。

「些細なことよ。少し前まで、死者を皇帝と呼び、空の玉座をみんなして崇め奉っていたことにくらべれば」

 言い聞かせるように続ける貴妃は、碧燿が両手を膝の上に揃えたのに気付いていない。彼女が静かに心を閉ざし、歯を噛み締めて感情を抑えようとしていることにも。

(そう……確かに。そのころは、記録も平然と偽りを述べていた。死者を生者と、皇太后の言葉を皇帝のそれだと──)

 けれど、それはあってはならないことだった。前例があるのだから今回も、だなんて──碧燿には何よりも受け入れがたいことだ。彼女の意思によらず、指が拳の形を作り、義兄が送った繊細な生地に皺を刻む。

白鷺はくろ家は力をつけすぎた。ほかにも、良からぬことを企むやからも多い。藍熾様の治世の礎になれるなら、わたくしは──」
「我が家を、罪を捏造して喜ぶ家風と思わないでくださいませ。いかに大義があろうとも、卑劣な行いでございます。……確かに、何かと企む方々ではございますが」

 鋭く遮られて初めて、白鷺はくろ貴妃は目を見開いた。呆けてもなお美しいその麗貌に、碧燿は斬りつけるように言葉を叩きつけた。

「私は養女です。両親が亡くなったため、父の知己であった巫馬ふば家に引き取られました」
「そう、なの……?」

 だから何だ、と問いたくて、けれど気圧されてできないのだろう。呆然と呟く貴妃に、碧燿は形だけ唇を笑ませて見せる。

「もとの姓を巴公はこう、父の名を文偉ぶんいと言います。……刑部けいぶ侍郎じろうを拝命しておりました」

 言葉を重ねるうちに、白鷺はくろ貴妃の顔色が、化粧の甲斐もなく青褪めていく。その様を、碧燿はいっそ愉しく見つめた。父の名が記憶されていると確かめられるのは、間違いなく喜ばしく光栄なことでは、ある。

「……ごめんなさい。父君を侮辱するつもりではなかったの」
「存じております」

 女怪の時代に、皇帝は既に死んでいると告発して死を賜った官吏のことを、偉業と称える者もいれば愚直に過ぎると嗤う者もいる。とにかく、その娘が目の前にいることを想定できる者はいないだろうし、する必要もない。。今回は──まあ、間が悪かったというやつだ。

「お陰様で良い休息になりました。仕事もはかどりそうです」

 これ以上話すことはない、と。言外の拒絶を込めて碧燿は笑みを深めた。

 白鷺はくろ貴妃は、しばらくは何か言いたそうに留まっていたけれど──巻物に目を落として顔を上げようとしない碧燿の姿に、無駄を悟ったのだろう。やがて、さやかな衣擦れの音がして、退出する気配が伝わった。
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