乙の子

ariya

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真田家~武田家臣時代

赤い空-設楽原に散る-

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※乙の子よりも何年も前の話。真田家が武田家家臣だった頃、大八の大伯父が真田家当主だった頃の話です。
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 天正3年(1575年) 5月21日 長篠の合戦。

 武田勝頼が率いる武田軍が徳川家の長篠城を占拠したことによりはじまった戦である。
 織田軍の援軍を得て、織田・徳川軍が長篠城手前の設楽原にて陣を敷き武田軍をおびき寄せたことから設楽原の戦いとも呼ばれている。
 織田軍は丘陵地がいくつも入り組んだ土地を利用し、途切れ途切れに陣を敷き、馬防柵と配置させる。
 霧も深く武田軍は織田軍の陣配置を把握するのに時間がかかり、攻略に難航した。
 ようやく柵を越え、陣に至れたとしても失った兵の数、指揮する武将すらも深く傷を負い次々と敵の刃・鉛玉の犠牲となった。

 武田軍最右翼を任されていた信濃先方衆も例に漏れずである。
 この信濃先方衆の大将は真田信綱、武田信玄の知将・真田幸隆の嫡男である。副将はその弟・真田昌輝である。

 織田軍鉄砲隊の銃撃の中何とか生き延びた信綱は隊の乱れを直していた。
 丁度いい丘陵地に気を失った弟・昌輝を横たわらせる。

 損傷した兵の数を把握し、状況苦しいことに信綱は止む得ないと感じ入った。
 自分自身も鉄砲玉を腹に受けた。甲冑を貫通する威力である。
 昔は中らなければ意味はないと特別見向きもしなかったが、これほどの威力とは思わなかった。

 ようやく目を覚ました昌輝は兄に頭を下げた。

「申し……わけありません」 

 兄者の手間をかけさせて……。

 信綱はふと昌輝の懐脇を見つめた。じんわりと血が彼の陣羽織を染め上げた。鎧にはいくつもの穴が開いており自分よりも重傷であるのがわかった。
 織田軍の鉄砲玉の嵐の中、昌輝は直撃をくらい馬から落ちた。 信綱はすぐに昌輝を拾い自分の馬に乗せた。
 自分は信綱の盾であると信じて疑わなかった昌輝はまさかの兄の助けに恥じた。

「何も言うな……」

 信綱は家臣の白河に向き、尋ねた。

「お館様はまだ退陣なされてないのか?」 
「今忍の話によると馬場様の説得により退陣を始めました。馬場様をはじめ生き残った隊がお館様の殿を勤め織田の奴らの追撃を抑えようとしています」
「そうか……」

 信綱はきゅっと目を閉じ、すぐに目を開く。

「白河……」 

 信綱は白河兄弟に言う。

「俺は隊が整い次第、……佐久間の動きを封じる」

 自分も馬場に続き殿を勤めよう。
 昌輝はそれに頷き立ち上がった。 

「次郎、お前は昌輝と供に隊を離れろ」

 それを聞いて昌輝は眼を見開いた。

「なっ……兄者!」
「お前は生き残れ。そして後の真田家を任せる」
「それでしたら兄者が隊をお離れ下さい。佐久間は私が抑えます!!」

 信綱は無言のまま昌輝の左腕を引っ張った。

「っ……」

 昌輝はそれが引き金に身体中いたるところに走る痛みに声をあげた。

「その身でどうやって殿が務まる。足手まといだ」
「この程度ならまだ戦えます」
「死に急ぐな」
「ここで生き延びてもこの傷なれば長くもちません」

 なおも昌輝の身体から流れ続ける血の気配に信綱はきゅっと眉を寄せた。
 自分自身多くの戦場を潜り抜けた身である。
 傷をみて昌輝が逃げられても生きられないとわかっていた。

「ですので、この命……お館様の殿に使わせてもらいます。兄者は真田家当主……私と違い生き残らねばなりません」

 昌輝の言葉の方がまだ自分より現実的である。
 昌輝より助かるのは信綱の方だ。隊を離れた方がいいのは信綱であろう。
 この状況で冷静なのは昌輝である。

「馬鹿」

 信綱は昌輝の頬を撫でた。

「お前を残して行けるわけない」

 信綱は手ぬぐいを取り、昌輝の傷の応急処置を行った。
 布をあてただけの意味のない処置、ただの気休めでしかないだろう。
 信綱は既に決めて居た。ここで弟を残していくのではなく共に最期を迎えると。



 信綱・昌輝は生き残りの信濃先方衆を率い、佐久間隊に向って突進した。
 すでに瓦解したものと思われていた隊の猛攻に虚を突かれ佐久間隊の兵士は一気に乱れてしまった。
 しかし、それでも兵の数・兵の体力に大きな差があった。真田・望月・根津の将兵が次々と討取られていった。

「昌輝、まだ戦えるか!」
「はい!!」

 信綱と昌輝は次から次へと押し寄せる兵卒をなぎ倒していった。
 名のある敵将も何人か討取って行った。傷を負っているとはいえ、昌輝は最後の力を振るい敵を倒していった。

「これが終わったら里で酒をあびるほど飲むぞ。簡単に寝れると思うなよ」

 信綱のその言葉に昌輝は苦笑いした。先に負った傷の為助からない。お互いわかっていた。
 昌輝は頷いたと同時に頭が白くなっていくのを感じくらりと倒れこんだ。

「昌輝!!」

 昌輝の胸に槍を突き刺し倒れこませた兵が昌輝の頭を掴んでいるのを見た。それを見た信綱は陣刀でその男の首を刎ねた。

「昌輝!!」

 信綱は昌輝の頬に触れたが、昌輝は微動だにしない。こと切れていた。
 もしかしたら既に死んでいたかもしれない。それでも兄についていこうと必死についてきていたのか。

「……」
 
 信綱に向って刃を振り下ろす兵士に向い信綱は陣刀でその足をなぎ払った。

「がぁあ……」 
「く……くくくくく…はははははっ」

 信綱は箍が外れたように哄笑した。敵兵たちは信綱の不可解な行動に手を出すのに躊躇した。

「馬鹿……俺より6つも年下のくせに俺より先に死ぬ奴があるか」

 先の傷を見て覚悟はしていたが、それでも昌輝の死は信綱には衝撃的であった。
 信綱にとって昌輝がどんな存在であるかを。

 ただの弟ではない。 
 自分の背中を預けることができるこの世で最も信頼できる全てを曝け出せる存在なのだ。

 目の前で銃弾に倒れ息絶えた姿を見た時、鼓動が早まり息をするのも困難だった。
 まるで自分の身体の大事な部分がすっぽり消えうせたような気分だ。

「おい、どうした?」 

 陣刀を手に、信綱はにやりと笑った。

「俺は信濃先方衆の真田源太左衛門尉信綱……俺の首が欲しくないのか」

 そう言うと兵士が何人か襲いかかって来た。信綱はその攻撃を払いのけまとめて倒した。

「弱い……こんなんじゃ俺の首はやらんぞ」

 けたけたと笑った信綱は左手を自分の首にあてがいながら叫んだ。


 男たちの喚き声と共に走る刃先。
 刃が踊るごとに紅い血があたり一面を染めた。

 まだか……。

 斬っても斬っても敵はわいて出てくる。
 信綱の口端は思い出し笑いに歪めた。

 不思議だな。

 人間ってこんな深手を負ってもまだ動けるんだ。まだ人を殺すだけの精神力と体力が残っているんだ。

 いや、もう残ってなどなかった。
 わかっている。
 これが最後なんだ。 
 これが終わっても直に自分は死ぬ。

 わかっているから身体がこんなに動くんだ。
 今までの経験で身体と頭に叩き込まれた基準動作だけで今は動けているのだ。
 昌輝が死んでどのくらい時間がたったか。もう何年も経っているのでは? と思うほど長く感じた。
 何度も襲いかかる攻撃に全て払い切れるわけもなく、いくつか傷を負った。
 遠くより鉄砲をくらい胸に風穴も開いた。
 これで昌輝はまだあんなにも戦えたのか。 
 我が弟の辛抱強さに信綱は驚嘆した。

 まだ足りない……。

 まだこのくらいじゃ俺の首はやれない。

 そう何度も口で呟きながら敵の襲来に応えた。

 ん? なんか視界が赤いな。

 気づけば自分は叢の上にあおむけに倒れた。

 空はこんなに赤かかったか。

 信綱はのんきに空を仰いだ。
 動こうと思っても動けなかった。

「ああ、限界か……」

 我ながらよくあんなに戦えたものだ。

「そろそろお館様も逃げのびれたかな」 

 そう言ったが、はたして口が動いて声が出ているのか実際わからなかった。

 設楽原の戦にて真田信綱・昌輝兄弟は壮絶な最期を迎えたと言われている。
 信綱の首は真田家家臣白河兄弟によって奪い返され、信綱の白い陣羽織に包まれ信濃の真田の故郷へと持ち帰られた。
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