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17 狂った誘拐犯
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ラルゥ町に到着してクラウスはあたりを探し回った。
ダークブロンドの長い髪に、薄いアメジストの瞳をした18歳の女性を探している。
クラウスは紙にデッサンしアデルの顔を書いてそれを周りに見せた。
なかなか情報を得られなかった。
アデルを誘拐したのはエドガール・アルヴィエ伯爵。エミルの話ではアデルを首都ファリスへと連れていきたいと言っていた。このまま首都に向かうべきだろう。
「伯爵」
ヴィムはクラウスの方へ近づいた。彼には国境超えまでの道のりで役目を負えていたが、一緒にアデル捜索を名乗り出してくれた。
アルフォス団には既に長期休暇届けを出しているという。
この時、ヴィムはクラウスの臨時の部下として動くこととなった。
同じく情報は得られていないと聞きクラウスは落胆した。
「とりあえず必要なものをそろえましょう」
「まずは服だな」
長い山道を通った為服が泥だらけである。この状態で捜索を続けても怪しい奴と思われて情報を得にくくなるかもしれない。
折角だしメルティーナの衣装を手に入れよう。
仕立て屋に入り既製品の紳士服をいくつか見繕う。ヴィムは平素な恰好を望んだが、クラウスは彼の衣装も選んでやった。質のいい服にヴィムは慣れない様子であった。社交界の時は任務だと受け入れていたのだが。
そういえばこの店の人には聞いていなかった。
衣装をそろえてくれる女性店主をみてクラウスは思い出した。50歳過ぎたきびきびと動く女性だ。
クラウスはアデルのイラストをみせてみると店主は「あ」と驚いたように叫んだ。
「ずいぶん前に来たわよ。マリーによく似ていたから覚えているわ」
マリーという名前にクラウスはアデルの母親の名前だと思い出す。
「マリーさんというのは」
「私は近くの病院で働いていたんだよ。その時一緒に働いていたのがマリー、外国の負傷兵を看護していて迎えに来た息子さんと恋をして結婚したんだよ。息子さんはちょっと頼りない感じだけど素敵な人でね、幸せそうだったんだけど……」
トンネル工事の事故に巻き込まれて夫は亡くなり、マリー自身も後を追うように出産後の出血で亡くなった。残された子供は祖父の負傷兵が引き取って連れて帰った。
「もしかしてマリーの娘なのかな。でも何で……あんな貴族と、もしかしてマリーは貴族の娘だったのかな」
店主は納得したようにうなずいた。あながち間違ってはいない。
「その貴族はこの子と一緒にどこへ行きましたか?」
「ファリスへ行くと言っていたよ。急がない旅だから馬車でゆっくりと行く予定だって」
どのくらいゆっくりかは不明であるが、馬で急いで駆ければ追い付けるかもしれない。
「ヴィム、馬の手配を頼む。金は気にしないでおけ」
クラウスの指示にヴィムは早速馬を用意した。早く歩ける良い馬を選んでくれていた。
町で仕入れたメルティーナの地図を確認する。ファリスまでの道のりで途中の町を確認する。
「おそらくこの順序で行くと考えて……」
ぶつぶつとクラウスは道のりの確認をしていく。ヴィムは地図を確認してこくこくと頷いた。
早速馬を駆けさせる。夕暮れ時になってしまったが、それでも休む時間はない。二人は先の町へと急いだ。
◇◇◇
アデルたちがファリスへ向かう足取りはゆっくりであった。アルヴィエ伯爵のいう通りアデルがメルティーナに足を踏み入れることが第一の目的だ。
景色の良い田舎農園に通りかかればランチをするために馬車を止め、木陰にシートを敷いて食事を楽しんだ。
誘拐された現状、おとなしくしていれば危害を加える気はない為、アデルはサンドイッチを口にする。
確かに美味しい。見栄えもよい。商品として出せるだろう。これが田舎農園の使用人が作ったものとは思えない。
若い令嬢たちのお茶会でメルティーナ風の喫茶店が流行っていたというのが理解できる。
農園の風景も良かった。遠くに見える丘ものどかな風情がある。20年前は民衆の暴徒化で治安が酷いものだったというのが信じられない。
のどかな田舎農園の風景を見ながらの食事はアルヴィエの誘拐の最中ではなければ楽しめた。
もそもそとサンドイッチを口にする。ルネからお茶を淹れてもらい喉を潤すのはただの作業のように感じ楽しめなかった。
一刻も早く逃げ出さなければ。
アデルはひたすら逃げる方法を考えていた。
宿泊先で世話をしてくれるメイドに同情を買い身代わりを頼みメイドの衣装で脱出する、という方法も考えた。
いざメイドに作戦を持ちかけようとすると穏やかな性格の自分より年下の少女であると躊躇してしまう。
もし逃げられたとして、その後のメイドはどうなるのだろうか。
メルティーナの暴動の件を思い出す。民衆の怒りは王族と貴族に対してであるが、その矛先はそれてしまった。パンを独り占めしていた罪のない主婦が八つ裂きにされ、税金徴収に従じた元公務員が頭をかち割られた例を思い出した。そして思い出したくないのはただ王族の友人であったという富裕層の令嬢が首を切断されて路頭に飾られた。
メルティーナの残虐性をここぞとばかりに記載された雑誌を読んだことがあったため、計画をもちかけたメイドはどうなってしまうのだろうかと想像してしまう。恐ろしくて話をもちかけることすらもできなかった。
さすがに暴徒と化した民衆のような行為は行われないと思いたいが、ただでは済まされないだろう。
協力を得るのは辞めて、強要したというのであれば違うかもしれない。
賑やかな大きな街にたどり着いたところで今までの宿泊した場所よりも豪華なホテルに泊まることとなった。
「この街はヴェガ。商業で栄えており、美術商も盛んなのですよ。美術館、オペラハウス、競馬もあります。すぐ街を出れば農場や牧場もあり、ワインとチーズを楽しめる。貴族の人気のヴァカンス地の一つです」
アルヴィエ伯爵が上機嫌に語っていた。観光の為3日滞在することを教えてくれた。
まず連れ出されたのは美術館であった。
「20年前の暴動で多くの美術品が焼失してしまいましたが、それでも残っているものが展示されています。最近は才能ある画家たちが戻ってきた為新作も出ており見ごたえありますよ」
美術館で残された絵画をアルヴィエ伯爵は説明した。早めにメルティーナの生活に慣れるためメルティーナの言葉での説明であるが、難しい内容はルネがオーガストの言葉で補足した。
アデルは軽く話を聞く程度で頭の中ではどこで逃げられるかと考えていた。あまり周りを見ていたらルネあたりに気づかれそうである。そうなると見張りが厳重になる。
とにかく今は諦めて同行するふりをしておくしかない。
オペラハウスに入って観劇をしていた方がまだ気楽であった。話の内容はおおまかに覚えている。8年間の教育で覚えさせられた内容だ。途中でアルヴィエ伯爵が語り掛ける内容にアデルが軽く答えると彼は満足げに笑った。もしかするとアデルの基礎教養がどの程度かを推し量っているのだろう。
だからゆっくりと首都へ向かおうとしているのか。
急いで首都へ行かずに済む方がアデルとしては願ってもいない。緊張感は次第にゆるやかなものに変わりつつあり、ここから誘拐犯たちの気が緩んでいくであろう。
今がその頃合いかもしれない。
トイレに行きたいとアデルは席を立ち、ルネの案内の元化粧室へと入った。化粧室には開け閉め可能な窓が設置されている。
アデルはそれを開けてみる。2階であるが足場もあり、排水管までつたって歩いてそこから下へ降りられる。
今日は外出用のドレスで華美さは少なく地味目である。人込みの中に入り込めれば彼らの手から離れられる。これだけ大きい街なのだし。
今程の好機は次から訪れないかもしれない。
アデルは窓から身を乗り出し外へと出た。足場は狭いがゆっくり気を付ければ通れなくない。ゆっくりと落ち着いて足が外れないように伝い歩きしていく。
この程度の高さであれば怖くはない。
アルフォス山脈でヴィムと共に山羊と駆け巡った時、何度も足場の悪い場所に入り込んだかしれない。その度ヴィムに叱られてしまったのだが。高い場所には慣れているつもりである。
2階以上だったらちょっと怖いかもしれないが。
排水管までたどり着き、それにしがみつきながら下へと降りる。がこっと排水管の外れる音がしてひやりとするが、同時に地面に着陸できたからよしとしよう。路地裏を走り一直線で人の行き来の激しい大通りの中へと入る。
いける!
そう思ったと同時に右腕を掴まれた。衝撃で身が崩れそうになったのを男に支えられる。
邪魔をした男はルネであった。
「お怪我はありませんか。アリス様」
アデルの行動は予測されていたことのようで、逃亡劇は失敗に終わってしまう。
その晩、アデルはホテルの一室で軟禁された。
しばらくは逃亡が難しくなってしまった。
次の機会はいつ訪れるか。今の街がファリスまでどのくらいの距離かを考える。その間の町を必死に思い出す。
夜6時になった頃、アルヴィエ伯爵が部屋へと訪れた。
アデルは警戒の目を来訪者に向けた。
「やれやれ、まさか2階から逃げ出すとはとんだお転婆ですね」
アルヴィエ伯爵は困ったことだと言わんばかりに嘆息した。
「まだ私を信じていないのですね」
「ええ、誘拐をする男の言うことなんて信じられないわ」
「私はあなたを大事に想っているのですよ。公女様の遺児であるあなたを」
「関係ないわ。長くオーガストで過ごしていたのよ。突然公女の娘と言われても、だからどうしたというのよ」
今まで奥に潜めていた反感をあらわにした。
「お願いだから私を帰してちょうだい」
「帰すとは、この国があなたの故郷ですよ。アリス様」
アデルは椅子から立ち上がり叫んだ。
「私はアデルよ! アデル、もしくはアーデルハイト。アリスではないわ」
アルヴィエ伯爵の言葉に耳を貸そうとしないアデルに対して彼は深くため息をついた。
「丁重に扱いたかったのですが、また逃げ出すかもしれませんし仕方ありません」
アルヴィエ伯爵はルネに目配せをした。ルネは冷たくアデルをみた。今まで見たことのないほどの冷たい視線にアデルは後ろへと逃げようとする。すぐに取り押さえられ床にがんじがらめとなった。
「いたぃ……危害を加えないと言わなかった!?」
「ええ、そのつもりでした。ですが、あなたは未だに隙あらば逃げようと考える。元は山羊飼いの娘、突拍子もない行動に出るかもしれません。それならば早い段階逃げる為の足は潰しておきましょう」
足を潰すという言葉で何をされるかアデルは想像して暴れた。
何とかルネの拘束から逃れようとするが腰から下がぴくりとも動かない。ばんばんとアデルを拘束するルネの足を叩いた。
「ひっ、あああああああっ!!」
鈍い音と共にアデルは泣き叫んだ。左足から激痛が走った。山で何度か怪我をしたことがあるがあの時の比ではないほどの痛みである。
本当にルネはアデルの左足を折った。ためらいもなく。
喉の奥から泣叫ぶ。痛いと叫んでいるが言葉にならず喚き散らしてしまった。
「痛いでしょう。アリス様。次悪さをしたら右足です」
なだめるような口調でありながら恐ろしいことをいうアルヴィエにアデルはぞくりと身を震わせた。
「危害、加えな、いって」
息を切らしながらアデルはアルヴィエに抗議した。そこには怯えの色がみてとれてアルヴィエ伯爵は何のこともないと笑った。
「はい、できればあなたの身を万全な状態でファリスへ送り届けたかった。ですが足は必要ありませんね。むしろ邪魔なものです」
この男はおかしい。どうかしている。
改めてこの男に誘拐されてしまった自分を悔いた。あの時、仕事の話の確認のためにアルヴィエ伯爵の元へ訪れなければ良かった。
エミルのいう通りクラウスが戻ってくるまで待っていれば良かった。
それでも一人で生きると決めた手前自分のことは自分で決めようとしたのが良くなかった。
「大丈夫です。すぐに治療を開始してもらいましょう。数か月すれば足も治りますよ。しばらくは自力で歩けませんが」
ファリスにたどり着けば良い治療を受けさせる。リハビリも万全に行われると慰められるが、危害を加えた男から言われて何も安心などできない。
寝台に横たわらされてアデルはアルヴィエ伯爵があらかじめ呼んでいた医者の治療を直ちに受けた。アルヴィエ伯爵の指示で麻酔は使わないままの状態でその場の手術となる。暴れないように両手と右足を拘束されハンカチを口に押し込められてアデルは治療を受けた。
長く続く痛みは耐え難く、最後の段階になったところで医者が鎮静をしなければ出血で死んでしまうと訴え許可をとっていたところまでは覚えている。そこからうっすらと意識を手放し処置は終了した。
治療が終わった数日後にアデルはすっかり大人しくなった。それでもアルヴィエ伯爵への反抗的な態度は変わらない。
「アリス様はたいへんタフな精神をお持ちのようだ。体力もありますし、これであれば丈夫な良き子を産めるでしょう」
アルヴィエ伯爵の称賛の言葉が煩わしくてたまらない。何か言ってやりたいと思うが、散々泣叫んだ数日で喉はすっかりと枯れ、声を出せずにいた。
「ああ、そうだ。バルテル公爵が今各地巡礼中でヴェガの近くを通る予定です。その時にバルテル公爵と顔を合わせるのもようでしょう」
出発はその後にしようとアルヴィエ伯爵は滞在中のスケジュールを考えた。
「手術後の感染症がでないか観察もしておきたいですし」
手術をする羽目になった原因がよくいう。アデルは心の中で悪態をついた。
「観劇もありますし、サロンハウスに行くのも良いでしょう。そうだ、国立図書館がありますよ。去年再建されたばかりで立派なもので見るのも楽しいでしょう」
アデルの興味があるかどうかなどおかまいなしにアルヴィエ伯爵は観光の続きを提案してくる。好きにしたらいいとアデルはそっぽ向いた。
傍らにはルネが控えており、目が合いアデルは瞼を閉ざした。
目が合うと未だにあの時の恐怖が思い浮かび震えてしまう。気づかれないように必死だった。
ダークブロンドの長い髪に、薄いアメジストの瞳をした18歳の女性を探している。
クラウスは紙にデッサンしアデルの顔を書いてそれを周りに見せた。
なかなか情報を得られなかった。
アデルを誘拐したのはエドガール・アルヴィエ伯爵。エミルの話ではアデルを首都ファリスへと連れていきたいと言っていた。このまま首都に向かうべきだろう。
「伯爵」
ヴィムはクラウスの方へ近づいた。彼には国境超えまでの道のりで役目を負えていたが、一緒にアデル捜索を名乗り出してくれた。
アルフォス団には既に長期休暇届けを出しているという。
この時、ヴィムはクラウスの臨時の部下として動くこととなった。
同じく情報は得られていないと聞きクラウスは落胆した。
「とりあえず必要なものをそろえましょう」
「まずは服だな」
長い山道を通った為服が泥だらけである。この状態で捜索を続けても怪しい奴と思われて情報を得にくくなるかもしれない。
折角だしメルティーナの衣装を手に入れよう。
仕立て屋に入り既製品の紳士服をいくつか見繕う。ヴィムは平素な恰好を望んだが、クラウスは彼の衣装も選んでやった。質のいい服にヴィムは慣れない様子であった。社交界の時は任務だと受け入れていたのだが。
そういえばこの店の人には聞いていなかった。
衣装をそろえてくれる女性店主をみてクラウスは思い出した。50歳過ぎたきびきびと動く女性だ。
クラウスはアデルのイラストをみせてみると店主は「あ」と驚いたように叫んだ。
「ずいぶん前に来たわよ。マリーによく似ていたから覚えているわ」
マリーという名前にクラウスはアデルの母親の名前だと思い出す。
「マリーさんというのは」
「私は近くの病院で働いていたんだよ。その時一緒に働いていたのがマリー、外国の負傷兵を看護していて迎えに来た息子さんと恋をして結婚したんだよ。息子さんはちょっと頼りない感じだけど素敵な人でね、幸せそうだったんだけど……」
トンネル工事の事故に巻き込まれて夫は亡くなり、マリー自身も後を追うように出産後の出血で亡くなった。残された子供は祖父の負傷兵が引き取って連れて帰った。
「もしかしてマリーの娘なのかな。でも何で……あんな貴族と、もしかしてマリーは貴族の娘だったのかな」
店主は納得したようにうなずいた。あながち間違ってはいない。
「その貴族はこの子と一緒にどこへ行きましたか?」
「ファリスへ行くと言っていたよ。急がない旅だから馬車でゆっくりと行く予定だって」
どのくらいゆっくりかは不明であるが、馬で急いで駆ければ追い付けるかもしれない。
「ヴィム、馬の手配を頼む。金は気にしないでおけ」
クラウスの指示にヴィムは早速馬を用意した。早く歩ける良い馬を選んでくれていた。
町で仕入れたメルティーナの地図を確認する。ファリスまでの道のりで途中の町を確認する。
「おそらくこの順序で行くと考えて……」
ぶつぶつとクラウスは道のりの確認をしていく。ヴィムは地図を確認してこくこくと頷いた。
早速馬を駆けさせる。夕暮れ時になってしまったが、それでも休む時間はない。二人は先の町へと急いだ。
◇◇◇
アデルたちがファリスへ向かう足取りはゆっくりであった。アルヴィエ伯爵のいう通りアデルがメルティーナに足を踏み入れることが第一の目的だ。
景色の良い田舎農園に通りかかればランチをするために馬車を止め、木陰にシートを敷いて食事を楽しんだ。
誘拐された現状、おとなしくしていれば危害を加える気はない為、アデルはサンドイッチを口にする。
確かに美味しい。見栄えもよい。商品として出せるだろう。これが田舎農園の使用人が作ったものとは思えない。
若い令嬢たちのお茶会でメルティーナ風の喫茶店が流行っていたというのが理解できる。
農園の風景も良かった。遠くに見える丘ものどかな風情がある。20年前は民衆の暴徒化で治安が酷いものだったというのが信じられない。
のどかな田舎農園の風景を見ながらの食事はアルヴィエの誘拐の最中ではなければ楽しめた。
もそもそとサンドイッチを口にする。ルネからお茶を淹れてもらい喉を潤すのはただの作業のように感じ楽しめなかった。
一刻も早く逃げ出さなければ。
アデルはひたすら逃げる方法を考えていた。
宿泊先で世話をしてくれるメイドに同情を買い身代わりを頼みメイドの衣装で脱出する、という方法も考えた。
いざメイドに作戦を持ちかけようとすると穏やかな性格の自分より年下の少女であると躊躇してしまう。
もし逃げられたとして、その後のメイドはどうなるのだろうか。
メルティーナの暴動の件を思い出す。民衆の怒りは王族と貴族に対してであるが、その矛先はそれてしまった。パンを独り占めしていた罪のない主婦が八つ裂きにされ、税金徴収に従じた元公務員が頭をかち割られた例を思い出した。そして思い出したくないのはただ王族の友人であったという富裕層の令嬢が首を切断されて路頭に飾られた。
メルティーナの残虐性をここぞとばかりに記載された雑誌を読んだことがあったため、計画をもちかけたメイドはどうなってしまうのだろうかと想像してしまう。恐ろしくて話をもちかけることすらもできなかった。
さすがに暴徒と化した民衆のような行為は行われないと思いたいが、ただでは済まされないだろう。
協力を得るのは辞めて、強要したというのであれば違うかもしれない。
賑やかな大きな街にたどり着いたところで今までの宿泊した場所よりも豪華なホテルに泊まることとなった。
「この街はヴェガ。商業で栄えており、美術商も盛んなのですよ。美術館、オペラハウス、競馬もあります。すぐ街を出れば農場や牧場もあり、ワインとチーズを楽しめる。貴族の人気のヴァカンス地の一つです」
アルヴィエ伯爵が上機嫌に語っていた。観光の為3日滞在することを教えてくれた。
まず連れ出されたのは美術館であった。
「20年前の暴動で多くの美術品が焼失してしまいましたが、それでも残っているものが展示されています。最近は才能ある画家たちが戻ってきた為新作も出ており見ごたえありますよ」
美術館で残された絵画をアルヴィエ伯爵は説明した。早めにメルティーナの生活に慣れるためメルティーナの言葉での説明であるが、難しい内容はルネがオーガストの言葉で補足した。
アデルは軽く話を聞く程度で頭の中ではどこで逃げられるかと考えていた。あまり周りを見ていたらルネあたりに気づかれそうである。そうなると見張りが厳重になる。
とにかく今は諦めて同行するふりをしておくしかない。
オペラハウスに入って観劇をしていた方がまだ気楽であった。話の内容はおおまかに覚えている。8年間の教育で覚えさせられた内容だ。途中でアルヴィエ伯爵が語り掛ける内容にアデルが軽く答えると彼は満足げに笑った。もしかするとアデルの基礎教養がどの程度かを推し量っているのだろう。
だからゆっくりと首都へ向かおうとしているのか。
急いで首都へ行かずに済む方がアデルとしては願ってもいない。緊張感は次第にゆるやかなものに変わりつつあり、ここから誘拐犯たちの気が緩んでいくであろう。
今がその頃合いかもしれない。
トイレに行きたいとアデルは席を立ち、ルネの案内の元化粧室へと入った。化粧室には開け閉め可能な窓が設置されている。
アデルはそれを開けてみる。2階であるが足場もあり、排水管までつたって歩いてそこから下へ降りられる。
今日は外出用のドレスで華美さは少なく地味目である。人込みの中に入り込めれば彼らの手から離れられる。これだけ大きい街なのだし。
今程の好機は次から訪れないかもしれない。
アデルは窓から身を乗り出し外へと出た。足場は狭いがゆっくり気を付ければ通れなくない。ゆっくりと落ち着いて足が外れないように伝い歩きしていく。
この程度の高さであれば怖くはない。
アルフォス山脈でヴィムと共に山羊と駆け巡った時、何度も足場の悪い場所に入り込んだかしれない。その度ヴィムに叱られてしまったのだが。高い場所には慣れているつもりである。
2階以上だったらちょっと怖いかもしれないが。
排水管までたどり着き、それにしがみつきながら下へと降りる。がこっと排水管の外れる音がしてひやりとするが、同時に地面に着陸できたからよしとしよう。路地裏を走り一直線で人の行き来の激しい大通りの中へと入る。
いける!
そう思ったと同時に右腕を掴まれた。衝撃で身が崩れそうになったのを男に支えられる。
邪魔をした男はルネであった。
「お怪我はありませんか。アリス様」
アデルの行動は予測されていたことのようで、逃亡劇は失敗に終わってしまう。
その晩、アデルはホテルの一室で軟禁された。
しばらくは逃亡が難しくなってしまった。
次の機会はいつ訪れるか。今の街がファリスまでどのくらいの距離かを考える。その間の町を必死に思い出す。
夜6時になった頃、アルヴィエ伯爵が部屋へと訪れた。
アデルは警戒の目を来訪者に向けた。
「やれやれ、まさか2階から逃げ出すとはとんだお転婆ですね」
アルヴィエ伯爵は困ったことだと言わんばかりに嘆息した。
「まだ私を信じていないのですね」
「ええ、誘拐をする男の言うことなんて信じられないわ」
「私はあなたを大事に想っているのですよ。公女様の遺児であるあなたを」
「関係ないわ。長くオーガストで過ごしていたのよ。突然公女の娘と言われても、だからどうしたというのよ」
今まで奥に潜めていた反感をあらわにした。
「お願いだから私を帰してちょうだい」
「帰すとは、この国があなたの故郷ですよ。アリス様」
アデルは椅子から立ち上がり叫んだ。
「私はアデルよ! アデル、もしくはアーデルハイト。アリスではないわ」
アルヴィエ伯爵の言葉に耳を貸そうとしないアデルに対して彼は深くため息をついた。
「丁重に扱いたかったのですが、また逃げ出すかもしれませんし仕方ありません」
アルヴィエ伯爵はルネに目配せをした。ルネは冷たくアデルをみた。今まで見たことのないほどの冷たい視線にアデルは後ろへと逃げようとする。すぐに取り押さえられ床にがんじがらめとなった。
「いたぃ……危害を加えないと言わなかった!?」
「ええ、そのつもりでした。ですが、あなたは未だに隙あらば逃げようと考える。元は山羊飼いの娘、突拍子もない行動に出るかもしれません。それならば早い段階逃げる為の足は潰しておきましょう」
足を潰すという言葉で何をされるかアデルは想像して暴れた。
何とかルネの拘束から逃れようとするが腰から下がぴくりとも動かない。ばんばんとアデルを拘束するルネの足を叩いた。
「ひっ、あああああああっ!!」
鈍い音と共にアデルは泣き叫んだ。左足から激痛が走った。山で何度か怪我をしたことがあるがあの時の比ではないほどの痛みである。
本当にルネはアデルの左足を折った。ためらいもなく。
喉の奥から泣叫ぶ。痛いと叫んでいるが言葉にならず喚き散らしてしまった。
「痛いでしょう。アリス様。次悪さをしたら右足です」
なだめるような口調でありながら恐ろしいことをいうアルヴィエにアデルはぞくりと身を震わせた。
「危害、加えな、いって」
息を切らしながらアデルはアルヴィエに抗議した。そこには怯えの色がみてとれてアルヴィエ伯爵は何のこともないと笑った。
「はい、できればあなたの身を万全な状態でファリスへ送り届けたかった。ですが足は必要ありませんね。むしろ邪魔なものです」
この男はおかしい。どうかしている。
改めてこの男に誘拐されてしまった自分を悔いた。あの時、仕事の話の確認のためにアルヴィエ伯爵の元へ訪れなければ良かった。
エミルのいう通りクラウスが戻ってくるまで待っていれば良かった。
それでも一人で生きると決めた手前自分のことは自分で決めようとしたのが良くなかった。
「大丈夫です。すぐに治療を開始してもらいましょう。数か月すれば足も治りますよ。しばらくは自力で歩けませんが」
ファリスにたどり着けば良い治療を受けさせる。リハビリも万全に行われると慰められるが、危害を加えた男から言われて何も安心などできない。
寝台に横たわらされてアデルはアルヴィエ伯爵があらかじめ呼んでいた医者の治療を直ちに受けた。アルヴィエ伯爵の指示で麻酔は使わないままの状態でその場の手術となる。暴れないように両手と右足を拘束されハンカチを口に押し込められてアデルは治療を受けた。
長く続く痛みは耐え難く、最後の段階になったところで医者が鎮静をしなければ出血で死んでしまうと訴え許可をとっていたところまでは覚えている。そこからうっすらと意識を手放し処置は終了した。
治療が終わった数日後にアデルはすっかり大人しくなった。それでもアルヴィエ伯爵への反抗的な態度は変わらない。
「アリス様はたいへんタフな精神をお持ちのようだ。体力もありますし、これであれば丈夫な良き子を産めるでしょう」
アルヴィエ伯爵の称賛の言葉が煩わしくてたまらない。何か言ってやりたいと思うが、散々泣叫んだ数日で喉はすっかりと枯れ、声を出せずにいた。
「ああ、そうだ。バルテル公爵が今各地巡礼中でヴェガの近くを通る予定です。その時にバルテル公爵と顔を合わせるのもようでしょう」
出発はその後にしようとアルヴィエ伯爵は滞在中のスケジュールを考えた。
「手術後の感染症がでないか観察もしておきたいですし」
手術をする羽目になった原因がよくいう。アデルは心の中で悪態をついた。
「観劇もありますし、サロンハウスに行くのも良いでしょう。そうだ、国立図書館がありますよ。去年再建されたばかりで立派なもので見るのも楽しいでしょう」
アデルの興味があるかどうかなどおかまいなしにアルヴィエ伯爵は観光の続きを提案してくる。好きにしたらいいとアデルはそっぽ向いた。
傍らにはルネが控えており、目が合いアデルは瞼を閉ざした。
目が合うと未だにあの時の恐怖が思い浮かび震えてしまう。気づかれないように必死だった。
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16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
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