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10 閑話 アルベルト・バイエルの家族
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アデルの祖父、アルベルト・バイエルは偏屈な男と言われていた。頑固で、人とよく喧嘩する。尊大で扱いが難しい。
彼の血筋はバイエル伯爵家という領地を持つ貴族であった。
事業の失敗により多額の借金を抱え、領地と爵位を手放すことになった。心労が元で病死した夫妻には3つになったばかりの令息がいた。アルベルトの曽祖父である。
バイエル伯爵家令息は両親亡きあと引き取り手もなく、修道院で辛い思いをするのであればとメイドが故郷へと連れった。父親の日記が唯一の財産であるが、令息は貴族として再起を図ろうとしなかった。山羊の世話が性に合っていたようである。気の合う村娘と結婚し、令息の血はアルベルトへと繋がる。
話はアルベルトに戻そう。
アルベルト・バイエルは誰よりも山羊の放牧がうまく、山の自然についても詳しい。ブラン村の人たちはアルベルトの山羊の放牧に関してだけは信用していた。
山羊を扱う時だけはアルベルトは穏やかな性格で、人に対してもこうであったらどんなに良いかと人々は嘆息した。
きっと山羊男なのだろうと揶揄する者もいるが、それに関してはアルベルトは怒らなかった。ただし、父母のこと、祖父のことを揶揄われると自分よりも大きな男にも容赦なく殴りかかった。彼が暴れると誰にも手がつけられない。
そんな彼が唯一心を許したのはアルマという女性だけであった。
彼女は快活で面倒見がよく、アルベルトが喧嘩をするといつも飛び出して仲裁に入る。周りが止めるのをやめずアルベルトの山羊の放牧についていっていた。
アルベルトはアルマには心を許しており、二人は大人になって結婚し男児を設けた。男児の名はゲルトである。
アルマが死んだ後はこのゲルトがアルベルトと村を繋ぐ仲介人となっていた。アルベルトと違い温厚で優しい男である。頭がよく、ゴート市の学校に通い語学の教師となった。村の中で5か国語を話せるのはゲルトくらいだと言われている。
何もない山羊飼いの村、ブラン村に大きな転機が訪れる。村近くに鉱山が見つかり、そこから得られる鉱物は良質なものであった。
蒸気を利用した機関車が開発され、鉱物を利用した便利な機械も出てきており、需要は高まっていった。
ロッシュ辺境伯家は投資を呼びかけ、この村の開発を進めた。その時にブラン村はブラン町となった。
隣国メルティーナ王国はこのブラン町の鉱山を欲した。元々四方山に囲まれているロッシュ辺境伯領は交通の便が不便であるが、肥沃な大地として有名であった。大昔は国として成立している。ロッシュ辺境伯の祖先がオーガスト国の国王に忠誠を誓い、オーガスト国の一部になった。
メルティーナはこのブラン町の鉱山、そしてロッシュ辺境伯領を強く欲した。度々、ロッシュ辺境伯の懐柔を試みるがロッシュ辺境伯の忠誠は変わらず業を煮やし戦争が開始された。
ロッシュ辺境伯の騎士団だけではなく、他の地方からも傭兵を募り激戦となる。冬でも変わらず戦争は続き3年の時を費やした。
ブラン町の若者たちはアルフォス団に入り、ゲルトにも誘いがかかる。ゲルトはブラン町の中では体力のない男であった。戦いに向いていないゲルトの参戦にアルベルトは反対し、ゲルトが戦わなければならないなら自分が出ると武器を持ち飛び出した。彼はアルフォス団に入らず、傭兵団の方へ入りアルフォス山脈のふもと、メルティーナ王国側の最前線に立つ。
善戦を敷くも負傷し捕虜となりアルベルトは死を覚悟した。メルティーナ王国側の将軍であったオベル=バルパス侯爵は人道主義であり、捕虜を丁重に扱う。アルベルトは治療施設に運ばれ、看護を受けることになる。
アルベルトが捕虜になった後、戦争は終了した。メルティーナ王国首都で暴動が起き、国王一族が処刑されたという。戦争が長引き、税の徴収が厳しくなり蜂起し、民主主義化が掲げられた。残された貴族の中で戦争に反対していた者らが暴動を治め、戦争の終了、庶民の生活改善を約束する。
戦争が終わった後、治療が終わった兵士たちは故郷へ帰ることになった。オーガストとメルティーナの友好条約は結ばれ、トンネル開通の計画があげられる。ここに汽車が通るようになれば二国の交流はますます栄えるであろう。その為の労働力が必要であり、金が入用な男たちは小さな集落を作りトンネル開通工事に参加していた。この工事で怪我人が出ることも予想されるためアルベルトが収容されている治療施設はそのまま規模を拡大し病院として作り替えられていく。
終戦後、アルベルトがなかなか故郷に帰らなかったのはこの工事の為ではない。怪我が酷く、そこから感染症を繰り返していた為治療が長引いていたのである。
アルベルトは何度も山を越え帰ろうと起き上がるが、その都度看護師が止めに入った。医者からも許可が下りていない為、山を越えることを黙ってみるわけにはいかないと。
「お願いだから聞いてください。とても危ないの」
マリーという名の看護師であった。やせ細った自分より不健康そうな娘である。自分よりも大きな老人のアルベルトに彼女は頑と譲らずアルベルトの脱出を防いでいった。自分より小柄な看護師であるが、頑固な性格は自分以上だとアルベルトは諦めて彼女の言うことを聞くこととなる。感染症を繰り返す為アルベルトの体力は落ちていく一方であった。終戦1年以上経とうとしているのにアルベルトは苛立ちを覚えていた。
「お父さん、大丈夫かい? 先生たちを困らせてはダメだよ」
1年が経過したところでゲルトがアルベルトの入院している病院を訪れた。何故ここにとアルベルトは考えるが口にしない。
「マリーさんがお父さんの居場所を教えてくれたんだ。全く手紙くらい送ってくれればすぐに来たのに」
終戦後アルベルトは死んだのだろうと噂されていた。前線地から戻ってきた傭兵たちの話を聞いてアルベルトがどこへ収容されたかはわからないという。ゲルトは国境付近に山を越えアルベルトの行方を捜す。体力のないゲルトには無理だと町の人からは止められたが、ゲルトはただ一人の父の行方を捜しに出た。
「ふん、お前のようなひ弱な男がよく山を越えられたものだ。山羊の世話はどうした?」
「山羊は町の人たちにお願いして預かってもらっている」
ゲルトが来てからアルベルトは治療を大人しく受けるようになった。医者と喧嘩することもなくなり、周りは安心した。
ゲルトは父の看護以外にリハビリ中の患者たちに文字を教えるボランティアをしていた。古典や聖書にも詳しく、彼らに慕われる。
新しくできた集落の子どもたちにも勉強を教え、先生と呼ばれるようになる。
そしてマリーと一緒に過ごすことが増えてきた。二人は恋人同士になっていたのだ。おそらく初めて出会った時から二人は惹かれあっていたのだろう。
「ゲルトと一緒にいて楽しいのか?」
感染症はようやく落ち着いてきており、アルベルトの足は治り始めていた。リハビリを開始し、マリーが介助にあたった。その時にアルベルトはぼそぼそっとマリーに質問してきた。
「はい、話がよくあって……ええっと」
最近のゲルトからマリーの名がよく出てくるようになった。どんな鈍感な者でも気づくであろう。
二人はアルベルトにどう報告しようか悩んでいた。
「マリー、あいつは勉強できるが結局は山羊飼いだ」
「はい」
「あれと一緒になるのなら山羊の世話ができるようになった方がいい。集落に山羊を飼っている家があっただろう。世話の仕方をみてみろ」
その言葉を聞きマリーは瞼が熱くなり、アルベルトに抱き着いた。
「ありがとう。お義父さん!」
若い娘に抱き着かれアルベルトは険しい表情を一層険しくした。かなり照れているようだ。
ゲルトとマリーは集落に建てられた小さな教会で結婚式をあげ、ほどなくマリーは妊娠する。
アルベルトが退院したらブラン町へ帰る予定であったが、延期となった。集落の仮小屋で子供が生まれるのを待つしかない。
周囲からはこのまま定着すればいいと言うが、アルベルトも、ゲルトも故郷へ帰る気持ちは変わらなかった。
アルベルトはともかくゲルトも帰りたいなど意外である。そう、アルベルトがいうとゲルトは笑った。
「マリーがブラン町の景色をみたいというんだ。ゴート市の花祭りも見せたいし……ああ、そういえば亡くなった兄の友人がオーガストにいると言っていた。ブラン町から手紙を出した方が便利だろうって」
「そうか、ではしっかりと食べて体力をつけんとな」
体力のないゲルトは一応山を越える体力はあるとわかった。マリーはかなり痩せている。お産後に山を越える体力がないかもしれない。
「トンネル開通工事に参加しようかな」
ゲルトはぽつりとつぶやいた。
「給金が良いからマリーの食べるものを少しでもよくしたい」
アルベルトは無理だろうと言ったが、見学してから決めたいとゲルトは工事現場に行った。監督もメルティーナ人とオーガスト人の扱いに悩んでいるようでゲルトに仲介の仕事を頼みたいという。見学の予定を組み、ゲルトは早朝に工事現場へと向かった。
それが数日後のことであればどんなに良かっただろうか。
土砂崩れが起き、工事現場に働いていた人たちが巻き込まれた。そこにゲルトもいてゲルトは命を落とす。
アルベルトはゲルトの亡骸に何度も殴りかかろうとし周りが止めに入った。
「馬鹿ゲルト。何のために戦争へ行かせなかったのかを考えろ。折角の利口な頭を台無しにしおって!」
何度もゲルトを罵倒し続け、マリーが泣き始めた。
「ごめんなさい。お義父さん。私がいなかったらゲルトは死ななかったのに、ごめんなさい」
マリーの泣き声でアルベルトはようやく冷静になった。大きくなる腹を抱えマリーは今どんな気持ちであろうか。
アルベルトが怒れば怒るだけマリーは自分を責めてしまう。
「すまなかった。言い過ぎた……マリー、どうか元気な子を産んでくれ。一緒にブランへ帰ろう」
マリーも大事な家族である。アルベルトはマリーのお腹の子を守ると決めた。
マリーのお腹が大きくなるにつれてアルベルトはマリーを気遣った。重いものを持つな、甘い果物を買ってきた、スープは俺の方がうまく作れる、お前は皿でも並べておけとぶっきらぼうな言い方が続く。マリーは自分の体を第一に考えてくれているとわかっていたのでアルベルトのきつい言い方にいつも笑顔であった。
アルベルトは病院の下働きと集落の建築業の手伝いをしてマリーを支えた。それでもマリーの為に柔らかいパンを購入できない不甲斐なさを恥じた。
マリーはアルベルトの作る食事を美味しそうに食べた。固いパンは何よりものご馳走だと笑った。
「お義父さんの買ってきてくれたパンはこの子の肉になります。作ってくれたスープはこの子の血になります」
日々の糧に感謝するその姿は敬虔なロマ教信者であった。マリーの所作は時折上品で、聖母のような気高さを感じる。
子供が生まれるまでの日々、繰り返されるマリーとの会話でマリーは教養高い女性であったのに気づかされる。
ただの看護師とは思えなかった。もしかすると自分の家と同じく没落貴族の血筋だったのかもしれない。
「子供の名前は何にしましょう」
予定日が近づく中マリーはアルベルトに尋ねた。生まれてくる子供が男か、女かわからないのに決められない。
「お前の子なんだ。お前の好きにしなさい」
それじゃあとマリーは顎に手をあてて考えた。
「男の子だったらゲルトがいいです。女の子だったら……」
親の名前をつけるのはよくあることだ。母親の名前からマリアにでもするのだろうか。
「アーデルハイト、アデルとかどうでしょう」
「悪くない」
アルベルトは特に異論を感じなかった。
生まれてくる子供はゲルトか、アデル。呼ぶのが楽しみであった。
アルベルトの苦難は再度繰り返された。
マリーの状況が思わしくなく、彼女を背負い病院へと訪れる。看護師に着替えを用意してもらいアルベルトは首を傾げると腰あたりに血がべったりとついていた。さぁっとアルベルトは青ざめた。
この時ばかりは必死に神に祈りを捧げていた。
嫌な予感はあたってしまった。
マリーは大量の出血で亡くなってしまった。子供も危ない状態であったという。
無事生まれたのは奇跡だったと医者はいう。お互い素直に喜べない面持ちであった。
それでもアルベルトは生まれてきた子供、アデルを守らなければならない。
病院のボランティアで母乳を与えられアデルはすくすくと成長した。母乳離れした2歳の頃にアルベルトはアデルを連れて山を越えブラン町へと帰った。
アデルは母親に似た容姿であった。おそらくマリーの幼少時と瓜二つであろう。
彼女と同じダークブラウンの髪。マリーと同じ薄い紫の瞳を持っていた。不思議な色だとアルベルトは何度もアデルの瞳を見つめた。
性格はアルマに似ている気がする。
「おじいちゃん、行ってくるね」
アデルは山羊使いのヴィムと山羊の放牧にでかけるのが日課になっていた。
ヴィムは不思議なくらいアルベルトに似ている。血は繋がりなどないが、ゲルトよりもアルベルトに似ているとパン屋は言っていた。おじいちゃん子のアデルはヴィムによく懐いていた。ふとアルマといた日を思い出す。
アデルがいない間にアルベルトは荷物の整理をはじめた。アデルが生まれてから息をつく暇もなかったが、大きくなりヴィムと共に山へ行くようになった。アルベルトに一人の時間が増えた。
この前、メルティーナと繋ぐトンネル開通したと聞いた。メルティーナから持ち込んだ荷物の整理ができていなかった。
ブランに持ち帰ったマリーの持ち物を取り出した。
出産後すぐにブラン町へ出発できるようにとマリーは荷造りをしていた。子供の着替えに、熱を出した時の薬、清潔な布、そして未開封の手紙。それだけがマリーの持ち物であり、袋ごとアルベルトはブラン町へ持ち帰った。実際アデルの為の持ち物で悩まずにすみ助かった。
袋に入っていた未開封の手紙。マリーにとって大事なものだろう。
光をあててみると文字がみえない。随分と上質な紙で、中には濃い目の紙が入っており透かせないようにしてある。
封筒には「我が親愛なる友・レガルド」と書かれている。
マリーの字ではないな。
マリーはこの手紙をブラン町に着いたら送る予定だったのだろう。ゲルトとマリーの会話を思い出す。確かオーガストにマリーの友人がいたと。
レガルドがどこの誰だかわからない。マリーには悪いが、中身を確認してみた。
マリーの知り合いレガルドに届けたい。
アルベルトがマリーにしてやれる最後のこととして手紙の封を切った。
そしてアルベルトはマリーの秘密を知ることとなる。
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バイエル伯爵家令息は両親亡きあと引き取り手もなく、修道院で辛い思いをするのであればとメイドが故郷へと連れった。父親の日記が唯一の財産であるが、令息は貴族として再起を図ろうとしなかった。山羊の世話が性に合っていたようである。気の合う村娘と結婚し、令息の血はアルベルトへと繋がる。
話はアルベルトに戻そう。
アルベルト・バイエルは誰よりも山羊の放牧がうまく、山の自然についても詳しい。ブラン村の人たちはアルベルトの山羊の放牧に関してだけは信用していた。
山羊を扱う時だけはアルベルトは穏やかな性格で、人に対してもこうであったらどんなに良いかと人々は嘆息した。
きっと山羊男なのだろうと揶揄する者もいるが、それに関してはアルベルトは怒らなかった。ただし、父母のこと、祖父のことを揶揄われると自分よりも大きな男にも容赦なく殴りかかった。彼が暴れると誰にも手がつけられない。
そんな彼が唯一心を許したのはアルマという女性だけであった。
彼女は快活で面倒見がよく、アルベルトが喧嘩をするといつも飛び出して仲裁に入る。周りが止めるのをやめずアルベルトの山羊の放牧についていっていた。
アルベルトはアルマには心を許しており、二人は大人になって結婚し男児を設けた。男児の名はゲルトである。
アルマが死んだ後はこのゲルトがアルベルトと村を繋ぐ仲介人となっていた。アルベルトと違い温厚で優しい男である。頭がよく、ゴート市の学校に通い語学の教師となった。村の中で5か国語を話せるのはゲルトくらいだと言われている。
何もない山羊飼いの村、ブラン村に大きな転機が訪れる。村近くに鉱山が見つかり、そこから得られる鉱物は良質なものであった。
蒸気を利用した機関車が開発され、鉱物を利用した便利な機械も出てきており、需要は高まっていった。
ロッシュ辺境伯家は投資を呼びかけ、この村の開発を進めた。その時にブラン村はブラン町となった。
隣国メルティーナ王国はこのブラン町の鉱山を欲した。元々四方山に囲まれているロッシュ辺境伯領は交通の便が不便であるが、肥沃な大地として有名であった。大昔は国として成立している。ロッシュ辺境伯の祖先がオーガスト国の国王に忠誠を誓い、オーガスト国の一部になった。
メルティーナはこのブラン町の鉱山、そしてロッシュ辺境伯領を強く欲した。度々、ロッシュ辺境伯の懐柔を試みるがロッシュ辺境伯の忠誠は変わらず業を煮やし戦争が開始された。
ロッシュ辺境伯の騎士団だけではなく、他の地方からも傭兵を募り激戦となる。冬でも変わらず戦争は続き3年の時を費やした。
ブラン町の若者たちはアルフォス団に入り、ゲルトにも誘いがかかる。ゲルトはブラン町の中では体力のない男であった。戦いに向いていないゲルトの参戦にアルベルトは反対し、ゲルトが戦わなければならないなら自分が出ると武器を持ち飛び出した。彼はアルフォス団に入らず、傭兵団の方へ入りアルフォス山脈のふもと、メルティーナ王国側の最前線に立つ。
善戦を敷くも負傷し捕虜となりアルベルトは死を覚悟した。メルティーナ王国側の将軍であったオベル=バルパス侯爵は人道主義であり、捕虜を丁重に扱う。アルベルトは治療施設に運ばれ、看護を受けることになる。
アルベルトが捕虜になった後、戦争は終了した。メルティーナ王国首都で暴動が起き、国王一族が処刑されたという。戦争が長引き、税の徴収が厳しくなり蜂起し、民主主義化が掲げられた。残された貴族の中で戦争に反対していた者らが暴動を治め、戦争の終了、庶民の生活改善を約束する。
戦争が終わった後、治療が終わった兵士たちは故郷へ帰ることになった。オーガストとメルティーナの友好条約は結ばれ、トンネル開通の計画があげられる。ここに汽車が通るようになれば二国の交流はますます栄えるであろう。その為の労働力が必要であり、金が入用な男たちは小さな集落を作りトンネル開通工事に参加していた。この工事で怪我人が出ることも予想されるためアルベルトが収容されている治療施設はそのまま規模を拡大し病院として作り替えられていく。
終戦後、アルベルトがなかなか故郷に帰らなかったのはこの工事の為ではない。怪我が酷く、そこから感染症を繰り返していた為治療が長引いていたのである。
アルベルトは何度も山を越え帰ろうと起き上がるが、その都度看護師が止めに入った。医者からも許可が下りていない為、山を越えることを黙ってみるわけにはいかないと。
「お願いだから聞いてください。とても危ないの」
マリーという名の看護師であった。やせ細った自分より不健康そうな娘である。自分よりも大きな老人のアルベルトに彼女は頑と譲らずアルベルトの脱出を防いでいった。自分より小柄な看護師であるが、頑固な性格は自分以上だとアルベルトは諦めて彼女の言うことを聞くこととなる。感染症を繰り返す為アルベルトの体力は落ちていく一方であった。終戦1年以上経とうとしているのにアルベルトは苛立ちを覚えていた。
「お父さん、大丈夫かい? 先生たちを困らせてはダメだよ」
1年が経過したところでゲルトがアルベルトの入院している病院を訪れた。何故ここにとアルベルトは考えるが口にしない。
「マリーさんがお父さんの居場所を教えてくれたんだ。全く手紙くらい送ってくれればすぐに来たのに」
終戦後アルベルトは死んだのだろうと噂されていた。前線地から戻ってきた傭兵たちの話を聞いてアルベルトがどこへ収容されたかはわからないという。ゲルトは国境付近に山を越えアルベルトの行方を捜す。体力のないゲルトには無理だと町の人からは止められたが、ゲルトはただ一人の父の行方を捜しに出た。
「ふん、お前のようなひ弱な男がよく山を越えられたものだ。山羊の世話はどうした?」
「山羊は町の人たちにお願いして預かってもらっている」
ゲルトが来てからアルベルトは治療を大人しく受けるようになった。医者と喧嘩することもなくなり、周りは安心した。
ゲルトは父の看護以外にリハビリ中の患者たちに文字を教えるボランティアをしていた。古典や聖書にも詳しく、彼らに慕われる。
新しくできた集落の子どもたちにも勉強を教え、先生と呼ばれるようになる。
そしてマリーと一緒に過ごすことが増えてきた。二人は恋人同士になっていたのだ。おそらく初めて出会った時から二人は惹かれあっていたのだろう。
「ゲルトと一緒にいて楽しいのか?」
感染症はようやく落ち着いてきており、アルベルトの足は治り始めていた。リハビリを開始し、マリーが介助にあたった。その時にアルベルトはぼそぼそっとマリーに質問してきた。
「はい、話がよくあって……ええっと」
最近のゲルトからマリーの名がよく出てくるようになった。どんな鈍感な者でも気づくであろう。
二人はアルベルトにどう報告しようか悩んでいた。
「マリー、あいつは勉強できるが結局は山羊飼いだ」
「はい」
「あれと一緒になるのなら山羊の世話ができるようになった方がいい。集落に山羊を飼っている家があっただろう。世話の仕方をみてみろ」
その言葉を聞きマリーは瞼が熱くなり、アルベルトに抱き着いた。
「ありがとう。お義父さん!」
若い娘に抱き着かれアルベルトは険しい表情を一層険しくした。かなり照れているようだ。
ゲルトとマリーは集落に建てられた小さな教会で結婚式をあげ、ほどなくマリーは妊娠する。
アルベルトが退院したらブラン町へ帰る予定であったが、延期となった。集落の仮小屋で子供が生まれるのを待つしかない。
周囲からはこのまま定着すればいいと言うが、アルベルトも、ゲルトも故郷へ帰る気持ちは変わらなかった。
アルベルトはともかくゲルトも帰りたいなど意外である。そう、アルベルトがいうとゲルトは笑った。
「マリーがブラン町の景色をみたいというんだ。ゴート市の花祭りも見せたいし……ああ、そういえば亡くなった兄の友人がオーガストにいると言っていた。ブラン町から手紙を出した方が便利だろうって」
「そうか、ではしっかりと食べて体力をつけんとな」
体力のないゲルトは一応山を越える体力はあるとわかった。マリーはかなり痩せている。お産後に山を越える体力がないかもしれない。
「トンネル開通工事に参加しようかな」
ゲルトはぽつりとつぶやいた。
「給金が良いからマリーの食べるものを少しでもよくしたい」
アルベルトは無理だろうと言ったが、見学してから決めたいとゲルトは工事現場に行った。監督もメルティーナ人とオーガスト人の扱いに悩んでいるようでゲルトに仲介の仕事を頼みたいという。見学の予定を組み、ゲルトは早朝に工事現場へと向かった。
それが数日後のことであればどんなに良かっただろうか。
土砂崩れが起き、工事現場に働いていた人たちが巻き込まれた。そこにゲルトもいてゲルトは命を落とす。
アルベルトはゲルトの亡骸に何度も殴りかかろうとし周りが止めに入った。
「馬鹿ゲルト。何のために戦争へ行かせなかったのかを考えろ。折角の利口な頭を台無しにしおって!」
何度もゲルトを罵倒し続け、マリーが泣き始めた。
「ごめんなさい。お義父さん。私がいなかったらゲルトは死ななかったのに、ごめんなさい」
マリーの泣き声でアルベルトはようやく冷静になった。大きくなる腹を抱えマリーは今どんな気持ちであろうか。
アルベルトが怒れば怒るだけマリーは自分を責めてしまう。
「すまなかった。言い過ぎた……マリー、どうか元気な子を産んでくれ。一緒にブランへ帰ろう」
マリーも大事な家族である。アルベルトはマリーのお腹の子を守ると決めた。
マリーのお腹が大きくなるにつれてアルベルトはマリーを気遣った。重いものを持つな、甘い果物を買ってきた、スープは俺の方がうまく作れる、お前は皿でも並べておけとぶっきらぼうな言い方が続く。マリーは自分の体を第一に考えてくれているとわかっていたのでアルベルトのきつい言い方にいつも笑顔であった。
アルベルトは病院の下働きと集落の建築業の手伝いをしてマリーを支えた。それでもマリーの為に柔らかいパンを購入できない不甲斐なさを恥じた。
マリーはアルベルトの作る食事を美味しそうに食べた。固いパンは何よりものご馳走だと笑った。
「お義父さんの買ってきてくれたパンはこの子の肉になります。作ってくれたスープはこの子の血になります」
日々の糧に感謝するその姿は敬虔なロマ教信者であった。マリーの所作は時折上品で、聖母のような気高さを感じる。
子供が生まれるまでの日々、繰り返されるマリーとの会話でマリーは教養高い女性であったのに気づかされる。
ただの看護師とは思えなかった。もしかすると自分の家と同じく没落貴族の血筋だったのかもしれない。
「子供の名前は何にしましょう」
予定日が近づく中マリーはアルベルトに尋ねた。生まれてくる子供が男か、女かわからないのに決められない。
「お前の子なんだ。お前の好きにしなさい」
それじゃあとマリーは顎に手をあてて考えた。
「男の子だったらゲルトがいいです。女の子だったら……」
親の名前をつけるのはよくあることだ。母親の名前からマリアにでもするのだろうか。
「アーデルハイト、アデルとかどうでしょう」
「悪くない」
アルベルトは特に異論を感じなかった。
生まれてくる子供はゲルトか、アデル。呼ぶのが楽しみであった。
アルベルトの苦難は再度繰り返された。
マリーの状況が思わしくなく、彼女を背負い病院へと訪れる。看護師に着替えを用意してもらいアルベルトは首を傾げると腰あたりに血がべったりとついていた。さぁっとアルベルトは青ざめた。
この時ばかりは必死に神に祈りを捧げていた。
嫌な予感はあたってしまった。
マリーは大量の出血で亡くなってしまった。子供も危ない状態であったという。
無事生まれたのは奇跡だったと医者はいう。お互い素直に喜べない面持ちであった。
それでもアルベルトは生まれてきた子供、アデルを守らなければならない。
病院のボランティアで母乳を与えられアデルはすくすくと成長した。母乳離れした2歳の頃にアルベルトはアデルを連れて山を越えブラン町へと帰った。
アデルは母親に似た容姿であった。おそらくマリーの幼少時と瓜二つであろう。
彼女と同じダークブラウンの髪。マリーと同じ薄い紫の瞳を持っていた。不思議な色だとアルベルトは何度もアデルの瞳を見つめた。
性格はアルマに似ている気がする。
「おじいちゃん、行ってくるね」
アデルは山羊使いのヴィムと山羊の放牧にでかけるのが日課になっていた。
ヴィムは不思議なくらいアルベルトに似ている。血は繋がりなどないが、ゲルトよりもアルベルトに似ているとパン屋は言っていた。おじいちゃん子のアデルはヴィムによく懐いていた。ふとアルマといた日を思い出す。
アデルがいない間にアルベルトは荷物の整理をはじめた。アデルが生まれてから息をつく暇もなかったが、大きくなりヴィムと共に山へ行くようになった。アルベルトに一人の時間が増えた。
この前、メルティーナと繋ぐトンネル開通したと聞いた。メルティーナから持ち込んだ荷物の整理ができていなかった。
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袋に入っていた未開封の手紙。マリーにとって大事なものだろう。
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封筒には「我が親愛なる友・レガルド」と書かれている。
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マリーはこの手紙をブラン町に着いたら送る予定だったのだろう。ゲルトとマリーの会話を思い出す。確かオーガストにマリーの友人がいたと。
レガルドがどこの誰だかわからない。マリーには悪いが、中身を確認してみた。
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そして。夫に剣で胸を貫かれて死んだエトワールが次に目が覚めたとき、彼と出会った日に戻っていて……?
──二度目の人生、私を裏切ったあなたを絶対に愛しません。
★小説家になろうさまでも公開中
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if 主人公の性格が変わります(元サヤ編になります)
※こちらの作品カクヨムにも掲載します
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