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早速俺は情報を共有すべくハーピスを呼び出した。
場所はもちろん盗聴されない島の最西端の浜辺だ。
「貴方に大切なことを伝えなければなりません」
俺はすぐに本題に入る。
一刻も早く伝えなければと心が逸ってしまって余裕がない。
その焦りをハーピスも感じたのだろう。
彼は沈黙を以って話の続きを促した。
「ドクトは、私たちの敵です」
突然の俺の報告にハーピスは目を見開く。
いくら冷静な彼でも、こんな話をされれば面を喰らうはずだ。
俺よりも前から一緒に過ごしていたドクトが何故、と疑問にも思うはず。
しかし彼から発せられたのは意外な言葉だった。
「ああー、なるほど」
握った手を反対の手のひらにポンと打ち、「だからかー」と一人納得した様子。
あ、あれ?
思っていた反応と違っていたことに、面を喰らったのも、何故と思ったのも俺の方だった。
「え、えっと、驚かない、んですか?」
俺は動じない彼に狼狽えながらも問うた。
何故その反応なのかと。
「だって、あいつ夜にたまにネージュの部屋の前にいるから」
そりゃわかるってー、とぱたぱた手を振る彼に、俺はしばし理解が追い付かなかった。
「………は?」
俺が発せたのは辛うじてその一音だけだった。
考えてもみてほしい。
敵側にいる、力も強く頭も良く、さらには人体の急所にも精通している成人男性が夜に自分の部屋の前に立っていたのだという。
つまり彼はその気になればいつだって俺を殺せたということで。
…それはもうただのホラーだろう。
なんならそいつ、映画とかなら連続殺人犯だろ。
しかも猟奇的なやつ。
思い至った瞬間、ぞわっとした。
俺は生殺与奪権を握られたまま、一体何日過ごしていたのか。
「いやー、ネージュの寝込みを襲おうか迷ってるのかなとは思ってたけど、まさか狙ってたのが身体じゃなく命だったとは、びっくりだよねー」
狙われていなかったハーピスは随分と軽く言ってくれるが、びっくりしたなんてものじゃない。
俺は自分の身体が震え、どんどん冷えていくのがわかった。
こんなに明確な恐怖を覚えたのは暗殺者に刺された時以来だ。
「でも俺は大丈夫だと思ったんだよね」
そんな俺を宥めるためにか、ハーピスはなおも軽い調子で言う。
その見え難い目に嘘の色はなく、俺は真意を問うように彼の目を覗き込んだ。
「あいつに殺気はなかったし、なんていうか、ふらっと来ただけみたいな感じだったから」
肩を竦め、だから警戒はしていなかったと説明するようにハーピスは俺を見つめ返す。
「ただその割には頻繁だったし、時間が時間だから気にはしてたんだけどね」
だから見殺しにしようとしていたわけじゃないよと、そういうことだろう。
彼は「それに」と言葉を続けると、
「下手に知らせて怯えさせたり警戒させたりしたら、ドクトに気がついていることを気づかれそうで、俺もどうしたらいいか迷ってたんだ」
と俺に伏せていた理由を教えてくれた。
それは感情の面ではともかく、理性では納得のいくものだったので、俺はそれについてはスルーすることにした。
ハーピスの行動は俺を守るためでもあったのだから、責めるのはお門違いだし。
「んで、敵って言ってたけど、具体的にはどういうこと?」
俺がため息一つでこの件を収めたことを察したハーピスは話を戻す。
俺もいつまでも引き摺っていられないので気持ちを切り替えて、彼に詳細を説明する。
「食堂で、彼の妹が王城のメイドだという話があったでしょう」
「あー、何かそんなこと言ってたね」
その時彼は興味なさげにバッシルと話していたので、ちゃんと聞いていなかったのであろう。
それが何?と顔に書かれている。
「彼女は今、側妃の侍女となっています」
けれど俺の言葉を聞いて、すぐにハッとしたようだ。
「ドクトは妹を人質に取られ、側妃の言うことを聞いているのです」
俺はハーピスに頷きながらドクトの事情を語る。

彼の妹は兄が監獄島送りとなったのが側妃のせいであることを知らない。
ただ貴族を怒らせただけだと思っており、それを聞いても正義感の強い兄らしい話だとしか思っていない。
しかし側妃はネージュを亡き者にするための方法を探るうちに彼女の存在に気がついた。
自分が監獄島送りにした男の妹が、特に自分を恨みもせず傍にいる奇跡を彼女は神の贈り物と喜んだ。
彼女を侍女に取り立て、自分の傍に置く。
そして監獄島にいるドクトをわざわざ呼び出し、「私の言うことに従いなさい。可愛い妹を失いたくはないでしょう」と高笑いをしながら告げたのだ。
それから1年半、側妃からは特に指示がなかったので、ドクトは側妃が自分の存在を忘れていて、このまま何事もなく刑期が終わるのではないかとすら思っていた。
けれど3ヶ月前、とうとう側妃から指示が来た。
『今度赴任してくるネージュという名の修道女を始末なさい』
そして知らされた通りネージュという修道女が島に来たところから彼の苦悩は始まるのだ。

「いくら妹を人質に取られていると言っても彼は医者ですから、人の命を奪うことに抵抗があったのでしょう」
俺は胸の前で祈るように手を組み、ドクトの性格上、このことをどれだけ悩んだのかと思いを馳せる。
もっと早くにこのことを思い出していれば、ドクトの憂いを払うことができたかもしれないのに。
そう、何故俺がこの島に派遣されることになったのかを思い出していれば。
正確には何故俺の配属先の島を側妃が決めたのかを思い出していれば。
ドクトを傷つけることもなかったのに。
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