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(ヴァン・マスティマリエ視点)5
しおりを挟むそれから暫くしての事だった。
真夜中に父より手渡された執務を自室で確認していた時のことだ。
机から目を上げたヴァンは廊下より微かな気配を感じ、じっと神経を尖らせた。彼は幼い頃より早くも武術を嗜んできた為か、常人よりも気配や物音に敏感な類だった。
自室の前を通り過ぎていく、侍女や騎士ではない、小さな足音。
ふらふらと、どこか千鳥足のようにリズムも歩幅もバラバラなそれに、ヴァンは戸惑いながらも自室の扉へと近づき、それを音が立たないようにそっと開けた。そして暗い廊下に目を凝らし、驚きで声を上げそうになったところを寸での所で堪えた。
ヴァンの部屋は、公爵家の二階の西側に位置している。公爵家は十字の形をしており、彼の部屋のある階には、姉のレイラミアと妹のティアリーネの部屋がそれぞれ南と東に位置していた。父と母の部屋は更に一階上に存在している。
その西の、一番端にあるヴァンの部屋の前の廊下にティアリーネが佇んでいた。一瞬、幽霊か魔物かと慄いた自分を恥ずかしく思いながらも、ふといつもとは違う様子の少女に気がついた。
「ティア…?」
呼んだ声が聞こえたのだろう。頭をぎこちなく動かしこちらを振り返ったティアリーネの頬は、その目からぽろぽろとこぼれ落ちる大粒の涙に濡れていて、見てはいけないものを見てしまったかのように少年はぎくりと固まる。
けれど本人は泣いていることなど気にしていない、もしくは気がついていないように小首を傾げてヴァンを見つめ返した。
その様子のおかしさに少年はどこか不穏さを感じて、少女を怯えさせないよう、何処までも優しくティアリーネに微笑むと穏やかな声で話しかけた。
「…どうしたの?こんな夜中に…散歩?」
じっと自分を見つめたままの、光の宿らない水色の瞳に不安が込上げるが、ヴァンは笑みを崩さずに言葉を続けた。
「ティア、こっちにおいでよ。ほら、廊下は寒いよ」
自分の伸ばした手のひらをじっと見つめて。そしておずおずと伸ばされた小さな手は初めて会った時よりも幾分かふっくらしたけれど、とても冷たくて。手に触れた瞬間、ティアリーネが目を溢れんばかりに見開いた事に気がついたけれど、それよりもその氷のような冷たさに驚いたヴァンは少女の身体を慌てて自室へと引き込んだ。
「ティア、身体が冷えてしまってるじゃないか。直ぐにあたためないと」
「…て」
「え?」
ティアリーネが公爵家へとやって来て二年間、一度も聞いた事のなかった声がヴァンの耳へと転がり込んできた。それは少し掠れていて、そして高くまだ幼い少女の声で。けれど、その音よりも言葉の意味を少年の耳はいち早く拾った。
「たす、けて」
顔をくしゃりと苦しそうに歪め涙を零しながら、繋いでいる手の反対の手を自分へと伸ばし、助けを求めるティアリーネをヴァンはひしと強く抱き締めた。
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