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しおりを挟む蛙が蛇に睨み付けられて動けずにいる。それを容易に想像できる、そんな重たい空気が部屋の中を圧迫している。
(お兄様…)
怒りを顕にしているヴァンの姿に、ティアリーネは驚いていた。穏やかで人当たりの良い彼が怒ったところなど少女は今まで見たことがなかったから。
「マスティマリエ卿…」
セロの顔が、目に見えて引き攣るのが分かった。先程までの小憎たらしい顔つきから一転、怯えと焦りが表情に浮かび上がり、年相応に見える。
セロは十二歳。ヴァンは十九歳。歳の差は勿論歴然としているが、只でさえ花のように美しいと言われる美貌の兄がその優しげな微笑みを一切消すと、絶対的な圧力と皮膚が切れそうな緊張感が生まれる。
それは公爵家の嫡男に相応しいオーラと威厳だ。
「我が家の敷地内で妹を貶める言葉を使うなど、貴殿は侯爵家できちんとした教育を受けられずに育っているようだ。」
「いえ僕は…マスティマリエ公爵家を貶めようとした訳ではなく…」
「ではどういう意味だ?」
「だ、だって、この女は『偽聖女』の娘で公爵家の娘では…」
「誰がそんな事を言った?」
「……」
セロは話をしながら、その問への返答は流石に不味いと考えたのだろう。青い顔をして口を噤んだ。まるで大人に叱られている子どものようにぎゅっとジレの裾を握りしめているのが後ろにいるティアリーネに見えた。
実際、叱られているのだが。
「アレナトゥア侯爵に君は何と言われてここへ来たんだ?
まさか、今扉の向こう側で聞いていたような『顔だけは良い』だの『結婚してやるつもりは無かった』だの『穀潰し』だのと言うように言われてきたのか?」
(最初の方から聞いていたの?)
どうやら兄はずっと部屋の前で待機していたらしい。気が付かなかった。
「い、いえ…」
「そうか。それでは先ず私の妹に謝って頂こうか」
「は、す、すみませんでした」
「こっちに向かって謝るな。妹の方を見ろ」
言われるがままにこちらを振り返ると、セロはティアリーネに向き合った。ところが彼女と目が合うと、やはり忌々しげにこちらを睨みつけてくる。ティアリーネは小さく溜息をついた。
「…お兄様。この方からの謝罪は結構です」
「なぜ?」
「謝る気がないって顔していらっしゃいますもの」
「ご、ごめんなさい!!」
ティアリーネが告げ口するとは思わなかったのだろう。一転慌てたように少年は頭を下げた。
「この期に及んで、まだアレナトゥアの子息殿は分かっていないようだ。この事はきっちりと侯爵に伝えさせて頂こう。貴殿の息子は親に言われた事も守れない愚か者だと」
「そ、そんな。で、でもこのおん、この方は公爵家の令嬢ではないと父が」
ああ、言ってしまった。賢い子どもであればこうなる前に謝罪をして終わらせるものなのに、どうやら彼はその機会を逃してしまったようだ。
ティアリーネはこの縁が結ばれることがなく心よりほっとした。とんだ見合い話であったが、会わずに決めてしまわなくて良かったと心の底から思った。
「ふぅん。そうか。それで?」
「え?それでって…」
「何も知らないんだな。この婚約はお前の父よりこちらへと申し込んできたものだったのだぞ。」
「う、嘘だ…」
「ティアリーネも伝えていただろう?こちらからそちらに申し込む道理はない。なんの旨みもない契約を持ちかける必要も無いのと同じことだ。
お前は親の面子を潰した。まあ、それはお前の親のせいでもあるだろうが、その歳で言葉の表面しか捉えられていない自身の不甲斐なさを思い知るが良い」
話は終わりだ、と部屋から従者に連れていかれる際。最後は若干涙目になっていたセロに、ティアリーネは少し同情を覚えた。
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