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1巻
1-1
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「あっれー? お前まだ生きてたの?」
「……おはようアムール」
来たよ。今日も来たよ大きな猫が。
俺はため息を吐き、こっそりバッグに手を入れる。
バッグの中にはわずかな金と譲ってもらった古い地図と干し肉などが入っている。
その中から硬くて薄い長方形の物を探し出し、俺はひっそりとバッグの中で起動させた。
「お前っていつまでここにいんの? いい加減こんなチンチクリンじゃ冒険者は無理だって気づけよなー」
「アムールには関係ないだろ」
俺がアムールと呼んだ男は、焦げ茶色の耳をピクピクと動かした。
彼は一見普通の青年に見えるが、頭には三角お耳、尻にはしなやかに動く長い尻尾が生えている猫獣人の上級冒険者である。正確には猫科の猛獣の獣人らしいが、詳しくは分からない。
なんたってこの世界では、狼と兎の獣人から蛇の獣人が生まれてくることすらあるらしい。ご先祖のどこかの血が突然出てくるのだとか。
ちなみに本人は獅子だと言っているけど、たぶん違う気がする。
そんな猫獣人のアムールは、座っていた俺の頭に腕を乗せてさらに絡んでくる。
「まぁ確かに、俺みたいな最強冒険者は底辺のお前なんか関係ねぇけど」
「……じゃあ話しかけないでよ……」
「ばーか、お前みたいな弱っちいのが冒険者なんて笑っちまうから、さっさと冒険者辞めろってアドバイスしてやってんだよ」
余計なお世話だ……と言い返した所でさらに悪口が降ってくるだけだと分かっているので、俺は口を閉ざしてそっぽを向く。
「……そんじゃ、俺はお前と違って忙しいから行くわ。次に俺が来る時までには冒険者なんか辞めちまえよ」
するとアムールは俺の頭を小突き、長い尻尾を振りながら去っていった。
視界から彼が居なくなって、俺はほっと息をつく。そしてずっと握りしめていた物をバッグから取り出した。無機質な手触りのこれは、今の自分の唯一の相棒、スマートフォン。俺がこの異世界に飛んでしまった際に、唯一持っていた物だ。
俺はその画面を見て――
「……っ」
テーブルに頭をぶつける勢いで突っ伏した。
画面に並んでいたのは、俺にとっては摩訶不思議な言葉の数々。
『かまって』から始まって、『しあわせ!』『私を見て』『愛する人、聞こえてる?』と熱烈な言葉が並ぶ。
「やっぱ壊れてんのかなぁ……」
起動しているのは猫語翻訳アプリ。翻訳されているのはアムールの声。
今日も俺は、はた迷惑な猫獣人と明らかにおかしい猫語翻訳アプリに翻弄されている。
第一章 猫獣人に出会った
さて、猫本良が俺の名前だ。通っていた高校の指導担当が厳しかったので、黒髪のまま過ごしていた。高校を卒業したら金髪に……いやいきなりそれはハードルが高いから、茶髪から徐々に明るくしていこうと思っていた。
そしてついに卒業式。
卒業式定番の歌を終え、校長からの有り難いお言葉にうとうとしていたのは覚えている。
そして……なぜか俺は見知らぬ森に居た。
校長の話を聞かなかった罰なのか。それとも別の要因か。
まさか異世界に来てしまったなんて思わなかったけれど、目が十個ぐらいあって、俺の二倍ぐらいある謎の生き物が涎を垂らして俺の前で口を広げる光景に、すぐに事実を理解することになった。
――あれ、俺ここで死ぬ?
「何ぼーっとしてんだっ!!」
ありえない光景に呆然としていたら、赤髪の男に乱暴に服を引っ張られ、身体が地面に沈む。
視線だけで上を見ると、彼は羽が生えているかのように舞った。
彼の短剣が身体を貫き、謎の生き物が悲鳴を上げる。彼の黄金の瞳はその生き物だけを映して、しなやかな身体は驚くほど簡単に宙を駆け巡る。
あまりの軽やかな姿に恐怖も忘れて釘付けになるが、戦闘はあっさり終わってしまった。
「お前、死にてーのかよバカ!」
彼は戦闘が終わると、地面に倒れて呆気にとられていた俺に怒鳴り、すぐにどこかへ去ってしまった。
「でも……そう言われても……」
ここはどこで、あなたは誰で、俺はどうしたら……?
未だ状況がつかめず呆然としていたら、彼を追いかけてきた二人組の冒険者が俺を街まで連れていってくれたのだった。
辿り着いたのは、明らかに日本じゃない石造りの街。
道行く人々の髪色は派手で、動物のような耳や尻尾が生えた人も居る。
まるでゲームの中の世界だ。
「えー……何これ……」
ファンタジーな世界に感動……なんてしている余裕はなかった。
俺はようやく、違う世界に来てしまったのだと実感した。
なんだよこれ。夢だろこれ。腹減ったからそろそろ起きなきゃ。卒業式終わったら友達とファミリーレストランで飯食ってカラオケ行く約束してるんだから。
しかし頬をつねっても、瞬きを繰り返しても景色は変わらない。夢から起きる術が分からず、俺は一人でただウロウロと街をさまよう。
さまよってさまよって、最初に出会った冒険者の二人組に再び会い、その場で捕獲された。
「お前何やってんだ」
疲れを訴える足、頬を抜ける冷たい風、掴まれた腕の痛み。
そのどれもこれもが夢じゃないのだと俺に現実を突き付けて――
「……ゔっ」
「ちょっ、えぇ、泣くなよ……っ」
「エモワ、何泣かせてるのよ!」
「えぇー……これ俺のせい?」
それからはまたこの冒険者たちに助けてもらった。エモワとトワと名乗る二人は、二十代半ばのベテラン冒険者で面倒見の良い人たちだった。二人のアドバイスを受けて、まず俺は着ていた制服を売る。
「ほら坊主、高く買ってやるからもう泣くな」
「あ、ありがどうございまず……」
店の親父さんは良い人で、生地がいいからと見慣れないはずの制服を買い取ってくれた。俺がべそをかいていたせいもあるかもしれない。
銀貨四枚。受け取ったお金が高いのか安いのかは分からなかったけれど、宿を取るには十分だと言ってエモワとトワは肩を叩いてくれた。
次に連れていかれたのが冒険者ギルド。
もし、なんの身分もないようならここで冒険者としての身分を手に入れた方がいいと彼らは教えてくれた。目まぐるしい展開に脳が悲鳴を上げていたけれど、不思議とギルドに着く頃にはどこか俺の中で諦めみたいなものが生まれていた。住んでいた町では嗅いだことのない匂い。見たことがあるようで、全然違う食べ物。行き交う人たちのカラフルな髪色。それら全てがお前は別の世界にやってきて――ここで生きていくしかないと告げていた。
「冒険者……。俺にやれるかな」
「薬草採取とか掃除の依頼とかなら大丈夫だろ」
「仕事が見つかるまでは、ギルドに世話になると良いわ」
二人は登録に付き添ってくれて、なんと見ず知らずの俺の保証人にまでなってくれたのだ。
出会って数時間なのに、もう二人に頭が上がらない。煩雑な手順を噛み砕いて教えてもらい、なんとか俺はこの世界で「冒険者」という立ち位置を手にしたのだった。
「あの……ホントにありがとうございました」
「いいってことよ。冒険者は助け合うもんだからな」
「私達も昔は先輩冒険者にたくさん助けられたの。リョウも困ってる人が居たら助けてあげてね」
「……ゔぅ~っ」
「だから泣くなって!」
訳の分からない場所に、訳の分からないまま放り出されて、俺は思っていた以上にいっぱいいっぱいだったらしい。だからなおさら二人の優しさが沁みて、俺はみっともなく泣いてしまった。
そんな俺が泣き止むまで、二人はそばに居てくれた。
それから、この世界に訳も分からず飛ばされてからの数日間。
俺はエモワとトワに言われた通り、薬草採取と街の雑用を中心に依頼を受けた。
どうやらここは剣と魔法の世界のようだけれど、俺には凄い能力なんてない。異世界という空間に驚いていた時間が終われば、俺に訪れたのは至極現実的な心配だった。
つまりお金である。
最初に着ていた制服を売ってしまったので、手元に残ったのはポケットに入れていたスマートフォンのみ。それも電池がなくなればただの板になってしまうだろう。
充電の減りを見る度に、だんだんと元の世界から遠のいているようで心細くなった。それでも働かなくては生活出来ない。悲しんでいる暇などないのだ。この歳になって親のありがたさを思い知る。
しかし、剣も魔法も使えないと、仕事が限られる。
それでも一瞬、自分を助けてくれた赤髪の人の姿が瞼の裏をよぎるのだ。
あんな風に格好よく戦えたら……。そんな願望が俺を毎朝ギルドの受付に向かわせた。どう考えても自分があんなにかっこよく戦えるはずはないのだが、憧れるだけなら別にいいだろう。
今日もいつも居るウサ耳獣人のお姉さんが出迎えてくれる。
「薬草採取ですね」
「はい、いつもこんなのばっかりですみません」
「謝ることないわ! リョウさんが採ってきてくれる薬草はいつも丁寧に扱われてて、余計な草も混じってないので助かっています!」
そんな風に励まされ、少しだけ自信を付けて森に入る。
褒められたのが嬉しくて、今日はいつにも増して丁寧に薬草を採取した。
規定の数を束にして、それが十ほどできた頃には日が傾いていた。
今日はこれで終わりにしようと一歩踏み出した時、後ろから突然衝撃に襲われる。
「……っ!?」
森の中での衝撃だ。まさか魔物!? とパニックになりかける俺にからかうような声がかかった。
「ダッサ……何パニクってんだよチビ」
「はぇ……っ!?」
慌てふためく俺の首に腕をまわして鼻で笑う人物。魔物ではないと安堵して振り返れば、赤髪の人がニヤニヤ笑いながら俺を見ていた。
「あ……」
見覚えのある人だった。金色の瞳は力強くも綺麗だ。
それに、忘れようもない赤髪。俺がこの世界にやってきた初日、魔物に喰われそうになっている所を助けてくれた冒険者だった。
「あの、あの時は……」
特徴的な赤髪をなびかせて颯爽と助けてくれた姿は今も忘れられない。
戦闘を終えると役目は終わったとばかりに去ってしまった姿すらクールでかっこよくて憧れた。
もう一度会いたい。会ってお礼が言いたい。
ずっとそう思っていたから、念願叶った俺はさっそくお礼を言おうとしたのだけれど――
「お前この歳でまーだガキの使いしてんだって? ダッセーよなー」
「……はい?」
あまりにも分かりやすく馬鹿にされて、出かかった言葉が行き場を失う。
憧れの存在からのひどい言葉に唖然としていると、さらなる暴言が浴びせられた。
「まぁこんなヒョロヒョロのちんちくりんじゃ角ウサギにすら負けそうだもんなー。それで冒険者名乗るとか、同じ冒険者として恥だからさっさと辞めろよ」
わざとらしく顔を覗き込み、彼は嫌な笑いを浮かべる。
次第に腹が立ってきた。
いくら命の恩人だからって、あんまりな言いようじゃないか。
確かに俺は弱い。周りに比べて背も低いし魔物と戦うどころか喧嘩すらしたことがないから、他の冒険者に比べればヒョロヒョロかもしれない。しかし、しかしだ。
役には立たないかもしれないが迷惑もかけていない。
最初に助けてもらったのは有り難かったけど、ここまで言われる筋合いはないはずだ。
「なんとか言えよちんちくりーん」
俺の頭に腕を乗せて煽る彼に向かって、一瞬突風が吹いた。
彼の三角の茶色いフサフサな耳が揺れる。
そんな彼を、気合を入れて睨み、そして思う。
……三角お耳が可愛い。
「あー? 何睨んでんだチビ」
「……チビじゃない。リョウって名前があります」
こんな時なのについ出てしまった猫好きの性。
そう、彼は猫獣人だったのだ。ピコピコ動く耳が可愛すぎだろ。おまけにフサフサの長い尻尾まであるじゃないか。睨みつけているつもりだが、どうしても耳と尻尾に目が行ってしまう。
猫。それは魅惑の生き物。ずっと猫が大好きだった。俺が中学を卒業するころにお別れしてしまったけれど、猫と戯れるのが大好きで、他の家で飼われていた子にもよく話しかけていた。
ただ、高校に入ってからはいろんなことで忙しく、責任をもって世話ができないからと猫を飼えないままでいた。
――そんな矢先に、彼は現れたのだ。
ピンと立った三角お耳も、俺に興味津々ですと言いたげな瞳孔の細くなった瞳も、しなやかに動く尻尾もたまらない。
少しでいいから触れないかな――
「……お前なんかちんちくりんで充分だっての」
じっ、と見つめていると、猫獣人は俺の視線が気に入らなかったのか口をへの字にしてそっぽを向いてしまった。
「さっさと帰れよなチビ」
そう言うと彼は森の中へと進んでいく。猫獣人が離れると同時に、長い尻尾がスルリと俺の体を撫でていくのが少しだけ嬉しかった。
また会えるだろうか、と考えて、会いたいような会いたくないような複雑な心境におちいった。
けれど、やっぱり助けてもらったのだから礼ぐらい言わなくてはいけない。また嫌味を言われるかもしれないが、次に見かけたら、いの一番に礼を言ってすぐに離れよう。
そう思っていたけれど、実際はそう上手く行かないものだ。
「よーうチビ。今日もガキの使いかよ」
「……ちゃんとした仕事だよ」
猫獣人と再会して数日。俺は未だに礼を言えていない。
礼を言う間もないほど、猫獣人は俺を目ざとく見つけては、誰よりも何よりも早く嫌味を言ってくるようになったからだ。
お気に入りなのかそれとも高さがちょうどいいのか、いつも俺の頭に顎や腕を乗せて小馬鹿にしてくる。
この手が肉球ならご褒美なのに、と思ったことも数知れない。
「お前このちっせーナイフしか持ってねえの? さすがおこちゃまだな」
「薬草が採れればいいんだから問題ないだろ……それにエモワさんが譲ってくれた大切なナイフなんだから、馬鹿にするなよ」
「は? お前ナイフも買えねーの? やっぱり冒険者なんか辞めちまえよ」
「……魔物と戦うだけが冒険者の仕事じゃないだろ」
今日もまたチクチクと嫌味が降ってくる。
猫獣人の名はアムールというらしく、上級冒険者だと自慢していた。
そんな人物からしたら、魔物と戦わない俺なんて冒険者として認めたくないのかもしれない。
それでもギルドに魔物退治以外の依頼があるのは事実だ。
子供の冒険者だけでは手が回らないし、ベテラン冒険者は雑用の依頼なんて受けない。
だから雑用だけ受ける冒険者も需要はあるわけで、受付のお姉さんだって褒めてくれる。
そう思ってそっぽを向こうとすると、さらに頭の上に重みがかかる。
「まぁお前がどうしてもって言うなら、少しぐらい魔物退治手伝ってやってもいいけどー?」
「い、いいよ……俺は雑用とか薬草採取だけで」
「はっ、ダッセー」
どこまで本気なのかも分からないのでとりあえずお断りをしたら、アムールは鼻で笑って去っていった。
去り際、いつも長い尻尾が俺の体に絡んでいくのは少しだけ嬉しい。嫌味にダメージは受けるが、彼が猫獣人なのが救いだ。ダメージを受けた分だけ、尻尾や耳に癒やしてもらえる。
だが相手にするのは面倒くさいので出来れば関わりたくないのが本音である。
しかし俺の思いなどお構いなしにアムールと遭遇する頻度は増え、今ではほぼ毎日絡まれるようになっていた。
そんな日々からさらに数日。
午前中は依頼がなくて、俺はギルドの隅で椅子に腰掛けて手の中の物を眺めていた。
スマートフォン。手元に残った唯一の相棒。
しかしこの世界に電波なんてもちろん飛んでないので、使える機能は限られている。この世界に来た時点では、幸運なことに充電は満タンだったけど、それもそろそろ半分を切った。なるべく電源を切っているが、いつかは使えなくなるだろう。
それでも時折しげしげと眺めてしまうのは、何もかもが変わってしまった中で、これが唯一元の世界を思い出させてくれるものだからだ。子供のころに飼っていた猫の写真を眺め、よく使っていた機能を開いては昔を懐かしんでいた。
せめて自分に凄い能力でもあれば少しはこの世界も楽しめたのに……と神様に八つ当たりをしてしまう。
異世界に突然トリップしたというのに、なぜチート能力の一つでもくれなかったんだ神様。ラノベならお約束の筈だろう。
「おっすー、今日も役立たずは役立たずのままか?」
能力の一つでもくれていたらこんな嫌味もなかっただろうに。
「……今日は早いんだアムール」
この世界では異質なスマートフォンを慌ててポケットに戻し、うんざりした顔を猫獣人に向けた。
もし俺が小説の主人公のように凄い能力を持っていたなら、きっと今頃ばんばん活躍して「あの新人はいったい何者だ!?」ってなっていた事だろう。
「なになに、今日の依頼は街の溝の清掃? ショボい依頼だなー」
少なくとも猫獣人から頭に顎を乗っけられて、小バカにされる日々は送っていなかったはずだ。
くそう、せっかくいつもより早めに来て会わないようにしたのに。感傷に浸らないでさっさと仕事に行っていれば良かったな。
八つ当たりのように、ポケットに入れたスマートフォンを握りしめる。
使える機能が限られた役に立たない相棒。まったく、自分の相棒にピッタリだ。
「何ぼーっとしてんだよ。どんくせーな」
「なーなー、何食ったらこんなにちんちくりんになんの? 参考にしないから教えて」
「あーあ、こんなちんちくりんと喋ってても何も楽しくねーなー。逆にイライラするっつーか」
だったら話しかけるなよ。と何度思ったか分からない。
よくもまぁ、喋っても何も楽しくない相手にここまで話しかけられるものだ。
しかもなんか楽しそうだし。どこがイライラしてるんだ。イライラしてるのは俺だよ。
そのイライラを、彼の耳と尻尾を目で追うことで緩和させながら嵐が去るのを待つ。
「それじゃ、俺はチビと違って忙しいからよ」
いつも通りの捨て台詞を吐いて、アムールが去っていく。
彼の背を見送ってから、スマートフォンを取り出して目を見開いた。
やばい、アプリを起動させっぱなしだった。電池がもったいない。
起動させていたのは飼い猫や近所の野良猫によく使って楽しんでいた猫語翻訳アプリ。最近は過去の翻訳履歴を見ながら懐かしい感傷に浸っていた。そんなアプリをまたゆっくり眺めようとした所で、違和感に気づいた。
「あれ?」
見覚えのない翻訳履歴が表示されている。
──かまって
──しあわせ!
──愛する人、聞こえてる?
──恋をしているの!
なんだこの熱烈な言葉は。飼い猫にすら言われたことないぞ。
画面をスクロールして履歴を遡ると、見覚えのある翻訳履歴が表れる。
と、いうことは、目の前に映るこれはたった今翻訳されたものだ。
しかし周りに猫なんて居ない──と思っていたら、ぴょこんと脳内に三角耳が現れた。
「──……アムールって猫だよな……」
いや、猫と猫獣人を一緒にするなんて失礼だろう。というかありえない。
仮にこのアプリで猫獣人の内心を翻訳出来たとしても、この翻訳はないだろ。
きっと誤作動したのだろうけれど、もしアムールの言葉を訳したのだとしたら面白いな。またこっそりアプリを起動させてアムールに使ってみるのも面白いかもしれない。
その安易な考えが、後に俺を混乱の渦におとしいれるのだった。
***
この世界で初めて猫語翻訳アプリを使った日から数日経った。
「おはようございますリョウさん。今日は指名依頼が出ていますよ」
「ホントですか?」
今や俺が受ける依頼は薬草採取が中心になっていた。今では稀に薬師から指名されることもある。
せめて与えられた仕事を精一杯こなそう。そう思ってこの頃は薬草についての知識や採取方法も調べ始めた。図鑑を眺めて必死に覚えた薬草が見つかると、ちょっと嬉しい。
それに指名で依頼を受けられると、報酬を上乗せしてもらえるのでありがたいのだ。
依頼書をいつものように受け取ると、受付のお姉さんが微笑んだ。
「最近は聖女様のおかげで魔物は減ってるみたいだけど、気を付けてね」
「聖女様?」
つい聞き返すと、受付のお姉さんは「あら知らないの?」とウサ耳をピコピコ動かした。
「少し前にね、なんとこの街に聖女様が現れたそうなんですよ! それから森なんかも随分安全になったって話なの」
「へー……、いつ現れたんですか?」
「二十日ほど前だから……ちょうどリョウさんがこの街に来られた頃ですね。リョウさんも慣れない街で忙しかったでしょうし、知らないのも無理ないわ」
「そうなんですか」
話を終え、受付のお姉さんに頭を下げてギルドを出る。聖女様の話は興味深いが、それより気になることがあった。俺はポケットに入れていたスマートフォンを取り出し画面を見る。
「……やっぱり訳されてない」
こっそり起動させていた猫語通訳アプリの通訳履歴は増えていない。
ウサ耳ではやっぱり猫語通訳には当てはまらないのか……と思っていた時だった。
「うっわ! 今日は朝から冒険者の穀潰しに会っちまったよ」
「……今日は、って……毎日会ってる気がするけど」
からかう声を受けて、俺は咄嗟にスマートフォンをポケットへ入れる。
振り向けば、やっぱりにやにやと笑う猫獣人がいた。
「まーたお花摘みかよ。女子供じゃあるまいし」
「……それは女性に失礼だよアムール」
「リョウの言う通りよね」
「トワさん!」
今から依頼を受けるのか、トワがエモワと共にこちらへとやってきてアムールを睨む。アムールはトワの姿を見ると、ニヤニヤしていた顔を不機嫌に歪めた。どうやらトワの事は苦手なようだ。
「女だって戦闘に携わってるわ。子供と一緒にされちゃ黙ってられないわね」
「ま、まぁまぁトワ……アムールも言葉の綾ってやつで──」
「エモワは黙ってて」
「うん……」
睨むトワ、面倒くさそうに頭を掻くアムール、とりあえず愛想笑いを浮かべるエモワ。
そんな三人の様子に冷や汗をかきつつ、俺はこっそりポケットの中を覗き見る。
「別にトワに言ったわけじゃねーじゃん。あーやだやだコレだから女は……」
──あっちいって
猫語翻訳アプリが反応していた。見た目通りの言葉にちょっと安堵する。
「やっぱり馬鹿にしてるんじゃない。昔は泣き虫猫ちゃんだったくせに随分偉くなったもんね」
──……
猫語翻訳アプリは反応していない。
「はぁ!? いつの話してんだよ! 昔のことをネチネチネチネチ……あと俺は猫じゃねえ! 獅子の獣人だっ!」
──怒ってるぞ!
猫語翻訳アプリが反応した。
「どう見ても猫でしょ。百歩譲っても山猫ね」
「いやいや、アムールは獅子だって。本人がそう言ってるんだし、な?」
「アナタがそうやって甘やかすから生意気な猫が調子に乗るんでしょ!」
──……
猫語翻訳アプリは反応しない。
「てめぇらいい加減にしろよ……っ」
──かかってこい! ケンカだ!
猫語翻訳アプリが反応し──
「──ああーっと、そう言えばまだエモワさんとトワさんにお礼してませんでしたよね!? 今度ご飯でもごちそうしたいのですがご予定は!」
翻訳が物騒なものに変わってきたのを見て、俺は慌てて三人の会話に割り込む。
するとエモワとトワが一瞬きょとんとした顔になり、同時に噴き出した。
「ごめんなさいねリョウ。ついヒートアップしちゃった」
「すまないな。こんな所で喧嘩するつもりはないから安心してくれ」
――いや、アムールは喧嘩する気だったぞ。
俺の頭を撫でるエモワを見ながら、とりあえず喧嘩勃発を阻止できたことに安堵する。それから、別に喧嘩を止めるために誘ったわけではない、とアピールするように二人を見上げた。
「でも、本当に前からお礼がしたかったんです。空いてる日と、できたらお店を教えてもらえたら助かりますけど……」
「前にも言ったでしょ? 新人を助けるのはベテラン冒険者の義務よ。別にお礼なんて」
「でもそれじゃあ俺の気が済まないんです!」
これは絶対に譲らないぞと気合を入れて二人を見ると、エモワとトワは顔を見合わせてからにっこりと笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えるとするか。今日の夜とかどうだ?」
「美味しいお店に連れていってあげるわ」
「分かりました! 依頼が終わったらギルドで待ってます」
何やら初めて両親にプレゼントを贈る子供を見るような微笑ましい視線を浴びているが、二人が楽しそうなので良しとしよう。
そして「また夜に」と声を交わして二人と別れた。すると、背後から不貞腐された声がかかる。
「……おいチビ」
振り返れば、不機嫌そうなアムールが尻尾を地面にたしたしと当てながらこっちを見つめていた。
そうだ、確かにそもそも俺を助けてくれたのってアムールだった。
いつもちょっかいを出してくるけれど、その恩は忘れちゃいけない。俺は慌てて身体の向きを反転させてアムールを見つめる。
「ごめん、アムール。アムールには今度お礼するからさ」
「……ふん」
すると不満たらたらな顔をしたアムールは踵を返して去っていってしまった。
依頼を受けに来たんじゃないのだろうか。
そう思いつつ、一人になった俺は道の隅に寄って、スマートフォンを取り出す。
エモワやトワの言葉には反応せず、アムールの言葉だけ反応した猫語通訳アプリの画面がしっかりとそこには残っている。
やはりアムールが猫獣人だからなのだろうか。今日の訳はそれなりに合っていたように思える。
ちなみに最後の翻訳履歴は『こっちに来て』だった。うん、ごめんなアムール。
忙しくて相手をしてやれなかった時の不貞腐された飼い猫を思い出しながら、俺も薬草採取に向かった。
聖女様のおかげなのか今日も安全に依頼を終える。
この生活にもすっかり慣れてしまった。
受付のお姉さんに薬草を納品し、報酬を受け取って上機嫌で宿に戻ろうとしたところ、お決まりの声に呼び止められる。
「……調子に乗ってんなぁ、チビ」
そこには、不機嫌を隠そうともしないアムールが腕を組んで壁に寄りかかっていた。長い尻尾の先がテシテシと壁を叩いている。
口の悪い彼は周囲から恐れられているのかいつも一人だ。
俺はそんな彼を見て猫語翻訳アプリをこっそり起動させた。
「今日は何も依頼受けないの?」
「そんな毎日受けなくても金には困らねーからな。お前と違って」
「あっそぉ……」
いちいち嫌味を言わないと会話出来ないのか。そりゃ友達もいないよ、なんて思いつつ生返事をする。
しかし、俺には見えてしまった。ポケットの隙間からスマートフォンの画面が表示する文字。
──かまって
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皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。
表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。
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