恋に落ちる

雨宮 瑞樹

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恋に落ちる

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 雨の匂いがする。
 朝の気怠い微睡みの中、ゆっくり浮上していく意識の中一番最初に感じた香りは重く湿った水の匂い。
 重い身体を起こし肩くらい伸びた自由に跳ね回っている髪を撫でつけながらベッドから這い出る。窓を開け空を見 上げれば薄雲のカーテンの向こうに太陽がほんのり顔を出していた。
 もう一度深く息を吸い込んでみれば、やっぱり胸一杯になるくらい色濃く立ち上る雨の匂いがした。
 間違いない。
 雨が降る。

 窓を閉めてキッチンに行き、トーストを焼きながらテレビの電源を入れると、可愛いお天気キャスターが『今日は、雨の心配はありません。お帰りの際も傘は必要ないでしょう。安心してお出かけください』とキラキラの笑顔で語りかけていた。
 キッチンで食パンを頬張りながら、そんなハッキリ言ったら、明日謝ることになるのにな。思いながら食べ終えると、急いで着替えて出かける準備に取り掛かった。

 大学生になってするようになった化粧を五分ほどで終えると、ティシャツとジーンズに着替え、桜色の傘と折り畳み傘を手に取り、水玉レインブーツを履いて私はアパートを出た。
 空は先ほどよりも明るく、雲もさらに薄くなり時折日差しが出ている。初夏特有の若葉の香も充満する中に確かに感じる雨の気配。
 道行く人が、雨と無縁そうな空模様に似つかわしくない私の出で立ちに怪訝な顔を向けていたのを無視しながら、駅へと向かった。

 大学につけば沙也加が着席していた。
「沙也加、おはよう。」
 声をかけながらその横に腰を下ろした途端、私の服装と傘を見てぎょっとした顔で見返してきた。
「雪乃が、そんなに重装備してるっていうことは…。まさか今日強めの雨降るの?」
 漂う空気を嗅ぐと、あと数時間で雨が降るあの独特な重めの湿気が鼻の奥でツーンとついた。頷きながら、私は水色の折り畳み傘を鞄から取り出して沙也加に差し出す。
「間違いなく夕立がくるわ。これ、使う?」
 眉間に皺をよせていた沙也加の顔は、少しだけ緩んで安堵の表情を浮かべていた。
「さすが! いつもありがとう!
……にしても、ほんとに嘘っぱち天気予報には頭にくるわ!雪乃の天気予報は百発百中じゃない。こんなに正確に天気を言い当てられる人こそが、天気予報について述べる権利があるってもんよ。雪乃、絶対気象予報士向いてるわよ」
「私が当てられるのはその日の天気だけだし、ムリよ」
 苦笑しながらそう答えると、机に置いてあった沙也加のスマホが震えて画面に灯った。沙也加はスマホを弾けるように手に取り、指先を滑らせた途端、溶けたアイスクリームのように顔が崩れていった。その顔を見れば、スマホの向こう側に繋がっている相手なんて容易に想像がつく。
「彼?」
「そうよ」
 目じりを下げて笑う沙也加。
 居酒屋で隣の席に座った人に一目ぼれをして、声をかけたのが付き合いの始まりだったらしい。勇気を出して、本当によかったと顔を火照らせてはしゃいでいたのを思い出す。
「雪乃、やっぱり折り畳み傘今日はいいわ。」
「いいの?」
 いつもなら迷わず持っていくのにと、怪訝な顔をしていると。
「だって、彼がいるからさ。突然、雨に降られて二人でキャッキャするのも、またいいじゃない?」
 そう言いながら、顔を赤らめる沙也加。
 どうやら私には想像もつかないような世界が、彼女の頭には広がっているようだ。
 突然降られるなんて、そういえば私の人生で一度もないと思い返しながら、返された畳み傘を丁寧に鞄に仕舞いこんだ。
「恋っていいわよ~。世界が見間違えるほど、明るくなるんだから。雪乃も恋しなさいよ。好い人いないの?」
「私は……見ての通りこんな石橋を叩いても渡らない性格だからさ」
「叩いて、叩いて、叩き壊す性格ね。でもね、恋はある日突然落ちるものよ」
 沙也加は夢見心地の顔で思いに浸るような声。 
 私は女子中高一貫に通っていたから男の子とは無縁の世界で暮らしてきたし、大学に入ってからもそういった出会いは無縁で、気付けば恋愛なんてすることなく、二十歳になっていた。
 まともに恋なんてしたことのない私にとって沙也加のいう『恋に落ちる』という感覚は全く理解できない。

「もちろん、そんな出会いをするためにアンテナ張って撒き餌はしないとね。
 たまには、雪乃も傘をわざと置いてくるとかしてみたら? そしたら、素敵な男性が傘を差し出してくれるかもよ?」
 そんな話の最中教授が静かに授業の始まり、まともに頭に授業内容は入らないまま、終わりを告げていた。



「やっと終わったわね。雪乃はこの後、どうするの?」
「今日はもう授業もないし、お昼食べて帰ろうかな。沙也加はデートでしょ?」
「うふふ。そうよ。ちなみに、雨いつから降るの?」
「あと一時間くらいかな」
「そっか。じゃあ、そのくらいの時間に外歩くようにするわ!また明日ね!」
 沙也加と別れたあと、私は電車に乗って新宿東口を出て数分歩いた場所にある大型書店に足を向けた。

 黒い雲が頭上に立ち込め、雨の匂いは一段と濃く漂っていた。
 まだ雨は降っていないけれど、私が本屋を出る頃にはきっと本格的な雨が降っているはずだ。そう思いながら、私は本屋の中へ入る。この書店はよくサイン会が行われている。本好きとしては欠かせない今週のゲストをチェックすると今話題の恋愛小説家の名前が書かれていた。私には縁のない人だと思い素通りして、本来の用を済ませて再び本屋の軒先まで出ると。
 案の定、雨がザーザー激しい音を立てて降り始めていた。大きな雨粒がアスファルトを叩きつけ、跳ね返ってくる。やっぱりレインブーツで正解ね。そう思っていると、私より頭一つ分背の高い黒いスーツを着た男性が青い顔をして呆然とその光景を眺めていた。ゴロゴロと遠くで雷の音まで響いてくる。
「参ったな……」
 小さく呟く男性の手には紙袋。
 あの青ざめた顔を見る限り、中にはとんでもなく大事な資料が入っているのかもしれない。男性は忙しなく腕に巻かれている腕時計と泣いている空を険しい顔をして見ていた。時間も差し迫っているのか、落ち着きのない様子でいたが、意を決したのか紙袋を背広の上着に隠し、忌々しそうに雨を睨みつけ一歩踏み出そうとしていた。外に飛び出す一瞬早く、私は男性に声をかけていた。
「あの。よかったらこれ、使ってください」
 私は鞄から水色の折り畳み傘を差し出した。
「え?……でも……」
「私は、この通りちゃんとした傘を持っているので大丈夫です」
 私は右手に持っていた桃色の傘を持ち上げて見せた。少し迷いながらも彼は申し訳なさそうに
「では、お言葉に甘えてしまっていいかな?」
 目じりが少しだけ下がった二重の目を揺らし
「ありがとう」
 包み込むような温かい声。整った顔立ちの頬を、少しだけ赤くして照れ臭そうに頭を掻く。透き通った焦げ茶色の瞳がバチリと合った時、轟音と空気を切り裂くような雷鳴が耳が痛くなるほどに響いていた。
 その音量のせいで心臓が驚いたのか。鼓動が早まり身体は金縛りにあったかのように身体は言うことをきいてくれない。完全に動きを停止してしまった私に、彼は「どうかしましたか?」と顔をまじまじと見つめてくる。それが術を解く呪文だったかのように、慌てて彼から視線をはずして早口で捲し立てた。
「急いでいるんですよね? どうぞ、持って行ってください。では」
 私は折り畳み傘を彼の手に押し付けて一礼すると、さくら色の傘を開かせてまだ激しく鳴り響く雷雨の中に飛び込んだ。
 何かまだ言いたそうな彼に気付かぬふりをして、私は急いで雨に紛れていった。ドキドキ煩いくらい脈打つ音が、私の足を速めていた。駅に辿り着き傘を閉じ、胸に手を当てると未だに胸が高鳴り続けていた。深呼吸をして息を整えても落ち着かない。

 もしかして、これが恋?

 電車に揺られながら、上がっていた心臓を元の場所に戻す頃には自宅駅に着く頃だった。
 電車を降り、改札を抜けるとあれだけ激しく降っていた雨は止んで、雲の切れ目から光が差し込み始めていた。水溜まりをレインブーツで弾くと水しぶきがに光に照らされて輝きながら飛び散っていく。
 空を見上げながら胸の中心に手を当てると、疼くような甘い鼓動に変わっていた。


「それは恋よ! とうとう、雪乃にも春が来たわね!」

 翌日学校に行って、昨日の話をぼそり話したら、沙也加は盛大にそう叫んだ。
 本当にこれが恋というものなんだろうか。このドキドキは確かよんな気もするし、ただの憧れな気もする。 滅多に男性を意識したことがなかった私には、この気持ちの答えがよくわからなかった。
 だけど、もう一度会えれば、この感情に明瞭な名が付くはずだ。そう思ったら、いてもたってもいられなくなって昨日と同じくらいの時刻に新宿の本屋に足を運んだ。
 梅雨のこの時期。今日は朝からしとしと雨が降っていて、未だにやむことなくだらだらと落ちていた。本屋にたどり着き、軒先でぼんやりと雨で煙る道の奥からあの彼の姿を探しながら、ため息を付く。
 もしも奇跡的に彼に会えたとして、そのあとは何がしたいんだろう? こんにちは。私のこと覚えていますか? なんて、気持ち悪いことを言うんだろうか。それとも、貸した傘返してください。なんて、借金の取り立てやのように攻め立てるんだろうか。そうやっていくら逡巡しても彼は現れなかった。当たり前だ。そんな都合よく物事が動いてくれるはずがない。
 私、何やってるんだろう。
 惨めさと後ろめたさと期待が自嘲に変わり、諦めようと店を出ようとした矢先。

 雨で靄のかかった通りの奥。青い傘の下綺麗な白いスーツに身を包んだ女性と背の高い男性が談笑しながら歩いてきた。青い傘は隣にいる背の高い男性が持っていて、相合傘をしているようだ。
 横にいる男性の顔は、傘が邪魔してよく見えないけれど、うんうんと女性の話をやさしく聞いているようで、その雰囲気だけでお似合いのカップルに見えた。
 もし、あんな風に私も彼の横にいられたら。そんなこと、考え始めてしまう自分が恥ずかしくて、頭を振って想像を掻き消した。

 段々こちらに近づいてくる二人。
 私との距離が縮まるほど、女性の美しさが眩しいくらいその魅力を解き放っていた。
 湿っぽい私とは大違いだ。大人っぽくて、ハキハキしてて。女性の溌剌とした声と美しい黒髪が笑うたびに、優しく揺れていた。
 二人の歩みが本屋の軒先の私から数歩のところ止まると、女性は「ありがとう、斎藤くん」と親しげに傘をさしていた男性に声をかけいた。それに続いて男性も女性の隣に立って傘を閉じた奥から見えた男性の顔。私は、目が痛くなるくらい大きく見開いた。
 整った顔立ち。優しげな目。それは、ずっと待っていた彼だった。
 だけど……穏やかに微笑んでいるその顔は決して私に向けてくれているものではなくて。黒髪の美しい女性に向けられたまま。
 それなのに私の鼓動は惨めにも早くなる。けれど、あの時とは違って私の胸はぎゅっと掴まれたように、苦しく痛みが鋭く走っていた。手も足も震えて、頭は真っ白になっていく。
 女性が先導して、本屋に入っていくと斎藤と呼ばれた彼も彼女の小さな背中を追うように本屋の入口へと向かっていった。私は無意識に彼の大きな背中を追いかけ見つめていると、突然彼の顔がこちらに向けてきた。彼の茶色い瞳が大きく見開かれていることに気付いて、私は弾けるように背を向けて慌てて桃色の傘を開こうとする。だけど、手が震えてうまくいかない。傘をさすことも濡れていく身体も気にする余裕もなく、私は雨の中を走っていた。

 何で走っているんだろう。
 この思いの名前を知りたくてやって来た。その名前を知るだけで、それだけでよかったはずなのに。
 雨に濡れた私の頬は涙の跡さえも残さず流れて、心に灯っていた火も白い煙を残し消えていこうとしていた。


――翌朝
 いつも目覚めると同時に天気の匂いがするのに、今日はなんだか薄くてよくわからなった。昨夜は、布団の中で泣きすぎたせいかもしれないと情けなく思いながら、部屋の窓を開けて思い切り空気を吸い込んでみる。と、一点の曇りのない晴れ渡った匂いが胸いっぱいに広がった。ホッと息を付いて空を見上げれば、雲は所々に見えるだけで、太陽が燦々と輝いていた。
 今日は、雨の心配なしね。
 そう確信して私は身支度を整え、いつものように学校へと向かった。もうあの本屋に足を向けまい。欲しい本があれば、学校の近所にある個人経営のこじんまりとした本屋に行くようにしよう。そう、誓いながら。

 学校にたどり着きいつものように沙也加と談笑して、その日の講義を終えいつものように終わる……かと思いきや、教授は珍しくレポート二十枚という課題を出してきた。
「この量のレポートたった一週間書けって、酷いわよね!」
「本当にね……」
 そう叫ぶ沙也加の横で、私も腹の底からため息をついた。
 これだけの量を書くには、資料集めも必須になる。それには、学校近くの個人書店では確実に足りない。
 本当はあそこに行きたくない。
 彼の顔を思い出すと隣にいた女性の輝くような笑顔が、電球が切れる一瞬の閃光のように脳裏に蘇る。
 その度に私の心は深く光の届かない暗く寒い海の底に沈んでいく。恋に落ちれば、景色は明るく変わる。なんて沙也加はいつか言っていたけれど。
 遂げられない恋に落ちた惨めな人間は、色褪せた景色に変わって湿っぽく狭く暗い穴に落ちるだけだと知った。

「ねぇ、雪乃。今日って……雨降らないわよね?」
 沙也加は、空を見上げながら聞いてくる。
 私はいつものように匂いを拾っていけば、今朝の匂いと変わらない晴れ渡る太陽の匂いがしてた。
「うん。今日は、雨の匂いはしないから、降らない……はず。でも、おかしいなぁ。今日はずっと晴れる匂いがしていたんだけど……」
 空を見上げれば、どんよりとした雲が垂れ込めていた。
「まさか、雪乃がとうとう天気予測を外す日がきた? もしかして、天地がひっくり返るようなことがこれから起こるのかもね」
 そういい残して、沙也加は笑顔で手を振って蝶が優雅に跳ぶように消えていった。

 私は頼りない細い足を引きずるように、新宿へと向かった。
 相変わらず空気は太陽の匂いで充満している。絶対降るはずのない匂い。なのに、空は怪しげな黒い雲。だけど、私は自分の勘を信じてそのまま本屋へと向かった。

 どうしてもあの時、彼を見かけた本屋の軒先に視線が走ってしまう。当然、姿なんてあるはずもなかった。会いたくないって言ってたのはどこのどいつだと苦笑し入っていくと、店の入り口でサイン会が行われていた。そういえば、この前みた恋愛小説家のサイン会の張り紙に今日の日付が書かれていたことをぼんやりと思い出す。
 群がる人の隙間を抜けて、さっき出たレポートの資料を探しに本屋の中へと入って探し物を購入する。そして、また元の入り口に戻る頃にはサイン会は終わっていて撤収が行われていた。忙しなく行き来する人たち。その喧騒が耳に入らないほどに、外は雨が滝のように降っていた。おまけに遠雷さえも轟いている。なのに、私の鼻は相変わらず一点の曇りのない清々しい太陽の匂いがしていていることに衝撃を受けて茫然とするしかなかった。

 このままこの中に入ったら、ずぶ濡れになるんだろうな。そんなことを考えたら、一気に気が重くなっていく。この分だと、雨は当分やみそうにない。このまま待つのは御免だ。一刻も早く立ち去りたかった。どうしても彼の顔が思い出されるから。
 意を決して一歩踏み出すと、容赦ない雨が頭上に落ちてきた。私はそのままその先へ駆け出そうとしたとき、突然落ちてきていた水がやんで、雨が弾かれる音。上を見上げれば私の身体はビニール傘の下。驚きながら差し出してくれている人物を確認しようと、柄を持つ大きな手、腕、肩へと辿っていく。そして、顔に行き着き、私は目が痛くなる程に見開いた。

「一緒に入りませんか?」

 包み込むような優しい声が、傘を叩きつける激しい雨の音をもかき消して私の胸の奥底まで届いて響いた。声も出ず、ただその透き通った焦げ茶色の瞳を見返していると、あの日みた美しい彼女が現れ彼の背中に声をかけていた。
「お疲れさま、斎藤くん。次のサイン会の仕切りまたよろしくね」
 そこまでいって言葉を切ると彼女は私の方に視線を滑らせていたずらっぽく微笑んでいた。私はどんな顔をすればいいのかわからず、視線を彷徨わせていると
「あら、この前言ってた彼女? やっぱり、恋の神様っているのねぇ。是非その先の話聞かせなさいよ」
 彼女は手にもっていた一冊の本を私の手に押し付け、書店の前に停められていた車に乗り込んでいった。そして、車のドアが閉まる直前。
「小説のネタ、楽しみにしているわ」
 彼女はそんな言葉を残し、颯爽と雨の中走り去っていった。

 そして、彼は徐に鞄の中からあの日渡した水色の折り畳み傘が私に差し出して
「この折り畳み傘は、そのまましまって……よかったら、このままこの傘に入っていきませんか?」
 彼は私に照れ臭そうな微笑みを向けていた。
 受け取った水色の折り畳み傘を抱き締めて私は静かに頷き、彼女から貰ったサイン入りの本に目を落とす。その帯には先程の美しい彼女が満面の笑みを浮かべていた。
 その本の名は『恋に落ちる』

 何もかも見透かされ導かれているかのように、遠雷がまた響いていた。
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