背中越しの恋人

雨宮 瑞樹

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諸刃の剣9

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「なぁ。よく考えてみろよ。これ以上俺の機嫌を損ねるようなことをしたら、宮川亮は地獄から一生這い出きなくなるんだぞ? ……お前は、宮川亮がそうならないようにここに来たんじゃないのか?」

 大阪は唯の手から滑り落ちた紙を踏みつけ、薄い唇の右端を引き上げて顔を寄せて耳元で囁いた。悪魔の囁きというのは、こんなにも生ぬるい吐息で、こんなにも気分が悪く、戦慄を覚えるものなのだと知る。
 がっちりと掴まれた手首の大阪の体温が血液に伝わり嫌悪感が体中に巡り暴れまわる。左肩にかけられていたショルダーバッグがずるずると落ちていく。金縛りにあったかのように体が動かないのに、睫毛だけは小刻みに震えていた。
 大阪はそんな唯を冷ややかに笑って、唯の手首を解いた。

「お前が宮川亮と手を切って俺のところにくるというのなら、取り下げてやってもいい」
 急に自由になった右手で唯はバッグを拾い上げて、お守りのように胸の中に力任せに抱きしめた。そうでもしないと、両手が情けないほどに震えてしまう。必死に震えを抑え込もうとしている唯から視線を外して、大阪は唯から少し距離をあけた。そして、横にあったカーテンを開け放つと冷気が窓の隙間から、流れ込んできた。
 大阪は美しく輝くネオンを眼下に「だが、もし拒否するのなら……」と、冷えきった声が楽し気に跳ね始める。

「そうだなぁ。まずは、このままあの記事も出す。そして、宮川と映王の契約を打ち切る。イメージの悪い監督と契約なんて、何のメリットもないからな。どうせ、映画も誰も見る気がしないだろう? 映王は、映画業界最大手の配給会社。そこが手を引くとなったら、他社も足並みをそろえる……いや、俺が揃えさせる。その後は、しつくこく記事を出させて、あいつのイメージを粉々にして、扱いにくい人間というレッテルをべったりと張ってやるよ。そして、二度とこの業界に戻ってこれないようにしてやる。いや、映画業界だけじゃない。社会に出てこられないほどの地獄の底の底に落としてやる」
 自分のでっち上げた未来のストーリーを雄弁に語る大阪の声は、唯の肝が冷えるほどに明るかった。

 誰かの背中を押せば命を奪ってしまう局面でも、この人は迷いなく押せる人間だ。そして、落とした人のことさえもすぐに忘れてしまうのだ。人を憎み、落とすことでしかこの人は生きる価値を見いだせない。今この人の目には、亮の背中しか見えていない。


 その時思い出した。
 高校の時の一片のもどかしい記憶。
 
 高校二年の放課後。亮が当時所属していた三年生のテニス部部長に呼び出された。最初は教室で話し込んでいた二人だったけれど、徐々に重々しい空気が漂い始めた。同じクラスだった私はそれを遠目から見ていると、二人は教室から出て行った。

 教室を出て、階段を上がり、先導する先輩の後を無言で亮が続いた。気づかれないように距離を取りながら唯もそのあとをついった。たどり着いたのは屋上。階段部屋のドアを開け、二人はその奥へ歩いて中央で立ち止まった。閉まる直前のドアをすり抜けて壁に身を隠すと、先輩が亮へと向き直った。だいぶ二人から距離があるから、何を話しているか聞こえるかな? そう思った矢先、先輩の荒だった声がすぐに聞こえてきてその憂慮はすぐに解消された。

「お前がいるだけで、周りがざわつき、人が集まってくる。こっちは静かにやりたいっていうのに。人気取りだけのために、入ってきただけなんだろ? いい加減、出てけよ! 練習もままならないんだよ、お前のせいで!」
 文武両道は昔からの亮は、テニスでも大いに活躍。インターハイにも出場し、準優勝を果たしていた。そのせいで、もとより人気があった亮のファンが格段に増え、他校の女子まで集まるようになっていった。と同時に、それを妬む男子も日に日に増していった。この部長もその一人。
 亮がそんな安っぽい理由で、入部するはずがない。純粋に自分の興味に従って足を踏み入れた。ただそれだけのことだ。そして、何事も全力で取り組む亮についてきた結果が、あの人気につながっただけの話だ。この部長が言っていることは完全なるやっかみだ。
 沸き立つ怒りを手に握りしめ、飛び出す準備をしながら私は二人の様子を見続けた。

「人が集まっているという認識はあります。それについては、反論できません。申し訳ないと思っています。でも、俺は人気取りのためとか、そういう理由で入部したわけじゃありません。純粋に挑戦したいから、楽しみたいから入りました。だから、練習だって手を抜いたことがないし、全力で取り組んでいるつもりです」
 亮の正論がまっすぐに部長に向けられる。
 その通りだ。亮が言っていることは一点の曇りのない事実。私はうんうんと頷いていると、部長の溜息が聞こえた。
「だったら、いつもお前の後ろでちょろちょろしている水島をどうにかしろよ」
 まるで、こちらの方が本題だとでも言いたげな口調でそういう部長。突然出された自分の名前に驚いて、肩がはねた。まさか、今ここで立ち聞きしているのがばれていた? そう思って、壁からそっと顔を出すとそういうことではないようだった。こちらに注目することなく、未だに二人は対峙するように向き合っていた。
「唯は関係ないでしょう」
「俺はな、あぁいう女が嫌いなんだよ。目障りだ。自分ではどうにかしようとしない。人の助けを待っているだけ。あいつもそうやって、お前の気を引こうとしてる陰湿な女。俺はそういう奴が大嫌いなんだ」

 雲一つない爽快な青い空の上から、爆弾が落ちてくる。それをまともに受けて、私はその衝撃に耐えることしかできなかった。
 ここから飛び出し、反論すればいい。なのに、足が竦んで動かない。私のせいで責められている亮を目の目にしているというのに、見ていることしかできない。私はいつも亮に迷惑をかけてばっかりだ。あの部長の言っていることは、全部本当だ。
「唯は関係ない。あいつのことを悪く言わないでください」
「だったら、二人一緒に俺の前から消えてくれ」
 部長は唾と一緒に吐き捨てて、屋上から消えていった。残されたの亮の背中は、しばらく動かなかった。亮の白いワイシャツの背中は、風に靡いて揺れていた。
 私は、あの時。どうしたらいいのかわからなかった。部長を呼び止めて、何か言うべきだったのか。佇む亮のところに行って、何か言葉をかけるべきだったのか。どれもできず私は見ていることしかできなかった。私だけ傷つかない。亮ばかり傷ついていく。
 こんなに煤けた気分なのに、ぬけるような青い空が広がっていて、すべてが皮肉に見えた。
 それ以来、青い空は私にとって気分を明るくするものではなく、どこか重苦しい気分にさせるものとなっていった。
 だけど、ずっと私は願っていた。あの青の清々しさを取り戻したい。

 大阪のどす黒い空気が漂う。唯は数歩後ろに下がり早まる鼓動を落ち着けながら息を吐いた。
「……あなたは、そんなに亮を陥れたいの? 何が目的なの?」
「宮川? そんなのどうだっていい」
 吐き捨てるそういう大阪の横顔は、見たくもないものを突き付けられたかのような憎悪に満ちていた。
「簡単な話だよ。君を手に入れたい。それだけだ」
 窓から唯に向けてくる漆黒の瞳には、やはり亮以外に目に入っていないことに気付いて、唯は眉を顰めた。
「あなたは、私に対して興味なんてないことくらいわかる」
「心外だなぁ。嘘は言っていないよ。君がバイトに入ってきた時、その美しさに真っ先に目を奪われた惹かれ、手に入れたいと思ったことは間違いない。最初は。純粋にな」
 そういう大阪は、ほんの少しだけ人間の目をしているように見えたが、それは一瞬で消え失せる。すぐにまたあの薄笑いを浮かべ、切れ長の目までも歪んでいく。唯の背筋に戦慄が走った。
 その眼鏡に映っている、自分を見て唯は唐突に理解した。私はただの人形だ。いや、人の形にも満たないかもしれない。ただ亮を壊すための、スイッチにしか見えていない。
大阪は、唯との距離を詰めてゆく。唯の手から離れ踏まれた紙がまた踏みつぶされて、破れていく。
 
「さぁ。いい加減、自分の選ぶべき道が見えたか? いや、最初からわかってたんだろう?」
 大阪は手を伸ばせば唯に届くところまでくると、その手を差し伸べた。 
「宮川亮を助けたいんだったら、俺の手を取れ」
 
 大阪のいう通りだ。私は何よりも亮を助けたいからここに来た。これまで一つ一つ丁寧に積み上げてきたものを、こんな薄汚い男のせいで何もかも崩されるなんて冗談じゃない。それを壊させないために、私はここにいる。
 私がこの手を振り払えば、この粘着質な男はどこまでもしつこく亮を陥れてくるのだろう。大阪が雄弁に語っていた汚れ切った夢は、この男の黒い手にかかれば現実にすることなんてきっととてつもなく容易なことなのかもしれない。なんの苦労も努力もしてこず、人を動かす力だけをもってしまった人間は、人を踏みにじることなんて簡単にできるのだろう。人を傷つけることを何とも思わないこの男は、痛みを知らないこの人間はもう人じゃない。
 差し伸べられた悪魔の手が迫り、立ち止まる。唯はそれをじっと見つめた。
「……私は……亮を助けたい」
 唯はそう呟き、固く両手で抱きしめていたバッグから右手を離した。その手は、あるべき場所へと向かおうと動き始める。
 大阪はその行先を見守りながら、勝ち誇った嘲笑いを浮かべていた。

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