背中越しの恋人

雨宮 瑞樹

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追跡3

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 淡いピンク色の表紙を開くとどこか懐かしい香りが漂ってきて、その中に吸い込まれるような感覚に陥った。亮は導かれるがままに目を落とすと唯の綺麗な文字が飛び込んできた。
 三月九日『とうとう、亮が行ってしまった。やっぱり寂しい』
 三月十日『亮と電話。声が聞けて嬉しい。だけど、やっぱり遠い』
 言葉少ないながらも、簡潔に唯の心境が綴られていた。次に書かれたのはその一週間後。高校卒業の日付。
 三月十五日『今日は高校の卒業式。まさか、この日に亮がいないなんて、数ヵ月前は考えもしなかった。亮と一緒に歩いた通学路。これが最後。そう思って、胸に刻むようにゆっくり家に帰っていたら、オレンジに染まった夕焼け空がとても綺麗だった。どこかで、亮も空を見上げてくれたらいい』
 普段、あまり自分の感情を口にすることのない唯の率直な言葉。多くを語らないその文字がすべての感情や思いが凝縮されている気がして、ぐっと心臓が掴まれたように苦しくなる。

 その後は、数週間、時には数か月空いている日もある。唯の中で心に収まりきらない時だけ、ここに綴っているようだった。そして、そのどれもに亮の名前が記されていた。
『亮が帰って来た。嬉しい』
『やっぱり、亮を見送るのはいつも涙が出そうになる。今日はいっぱい泣けて仕方かった。亮に見られなくてよかった』
『珍しく亮が泣き言を言っていた。本当なら昔やっていたみたいに背中をドンと叩いて励ましてあげたいところだけど、それもできず、もどかしい。私なりにできる限り励ましてみたけれどけど、ちゃんと伝えられただろうか。少し不安だけど、亮なら絶対に乗り越えられると、私は信じている』
『最近は嫌なことばかりだけど、亮があんなに頑張っているのに泣き言なんかいえない』
 
 この手の中に、自分の知らない唯がいた。いつも、本心をなかなか打ち明けない決して弱音を吐かない唯の本当の姿。そんな強がらない唯の中にも必ず俺がいたことを知り、込み上げてきそうな思いを押し殺しながら、震える指先でパラパラと先に進めていく。すると、そのページだけ水に濡らし後の紙のように皴皴になっていたところがあった。捲っていた指を止めて、そこを開く。
 それは俺が賞を受賞した日付けだった。

 一月五日『亮が賞を受賞した! 言葉にならないほど嬉しい。凄いよ亮!!おめでとう!!』
 という書き出しから始まって、唯の喜びと祝福が長文で書かれていた。きっといつもの目がなくなるほどの満面の笑顔でこれを書いていたのだろうと想像したら、自然と亮の顔は綻んでいた。
 だが、そのあと数行空けて書かれた日記には日付がなかった。そこに書かれた唯の文字が薄く滲んでいるように見えた。
『だけど、時間が経ってみたら、亮は今よりもずっと遠くに行っちゃったことに気付いた。もうあの頃のような日々は二度と戻らない』
 そこを機に、書かれている内容が徐々に変わっていっていた。
 『連絡がないのは、成功の証』から始まって、そのうちに唯が付き合うことへの罪悪感と葛藤が書かれるようになっていった。
『本当に私はこのまま付き合ってていいのだろうか』『亮の陰になれば、嘘で塗り固めれば、一緒にいることは許されるのかな』
『でもやっぱり、好きなだけじゃダメなことは、たくさんある。私も覚悟を決めなきゃ』『それでも、好きだと思う気持ちはどうすればいいんだろう』
 しばらく日付のない言葉が散発的に書かれた後、日付が再び記されていたのは亮が帰国してから二日後の日付だった。
 
『やっと亮に会えた。本当に嬉しかった。やっぱり、私は亮が好きだ。だけど、私は亮の足を引っ張りたくない。亮を思うのなら、やっぱり私から身を引くのが一番だ。言われなくてもちゃんとわかってる。ずっと前から分かっていたし、覚悟していたつもりだった。なのに、涙が止まらない。流した涙の分だけ亮との日々を忘れられたらいいのに。今日も亮からの着信。別れを切り出したいけど、亮の声を聞いたらこの決意が揺らぎそうで、涙で遮られそうで……できない。ごめんね、亮。もう少しだけ、時間をちょうだい……』
 そこで、唯の日記は終わっていた。唯がずっと隠してきた思いを、言えなかった感情を一つでも取りこぼしたくなくて、亮は色が変わるほど唇を噛んでいた。それと同時に、湧き上がる自分への怒りでうるさいほどに、脈が速くなっていた。
 俺は今まで何をしてたんだ。今まで唯の何を見てきた? 本当に自分はどこまでも自分本位だったことを思い知り、あまりの情けなさで、視界が歪みそうになる。
 ゆっくりノートを閉じ元の場所に戻すと、亮は震える手を固く握りしめ唯の部屋を後にした。
 
 玄関のドアを出て、鍵をかける。カチャリと閉じられたどこまでも遠く届きそうな金属音。その音で、ここ数日間のずっとかかっていた深い霧が一気に晴れ渡った気がした。自分の行くべき道を亮は鮮明に見据え、唯の家の門を閉じた。そして踵を返そうとする直前、背後から聞き覚えのありすぎる声が亮の中心を一直線に貫いていた。

「お久しぶりです。ずーっと、お待ちしておりましたのよ」
 その声に亮の心臓が嫌な方向に飛び跳ねる。額と背筋に冷たい汗が滑り落ちるのを感じながら、渋々振り向いた。
「あの。行く家、間違えてるんじゃないですかねぇ?」
 こめかみに青筋を浮かべ笑顔を浮かべるの我が母親の不気味な顔が亮をがっちりと拘束していた。 

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