背中越しの恋人

雨宮 瑞樹

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――亮の帰国当日

「すごい……」
 唯は帝東ホテルの通りの向こう側。ホテル入り口が一望できる場所までやってきていた。
 驚嘆の声を上げているのは、人生初めての高級ホテルを目の前に怖気づいているというわけではない。そうならないために、昨晩は粗相のないようにときちんとシミュレーションしてきていたし、洋服には一段と気を遣った。今日のために奮発していつもより一段上の値段の紺色ワンピースと白のパンプスも用意した。準備万端。……のはずだった。今、目の前に起こっている状況以外は。

 もの凄いマスコミの数と、亮のファンらしき女性の人だかりがとんでもないことになっていた。人込みで全く入口が見えない。昨晩の突然の電話はこのことだったのか、と唯は思った。
 昨晩、亮のマネージャーで徳島と名乗る女性から電話があった。
「当日は、水島さんは宮川さんより早めに帝東ホテルに入るようお願いします。到着しましたら、車を誘導しているホテルスタッフに『徳島に言われた』とお伝えください。それだけで、事情が伝わるようにしておきますので」
 機械的な感情の薄そうな声を唯は頭に叩き込みながら、何で車を誘導しているスタッフなんだろうとふと思う。普通は、ドアボーイとかフロントスタッフなんじゃないのだろうか。
「今は宮川さんの大事な時期です。節度ある行動をくれぐれもお願いします」
 最後にそう付け加えられ、一切の隙のない徳島の物の言い方に唯は成す術もないまま、電話はピシャリと切られていた。

 この状況を見たら、大いに納得だ。こんなんじゃ、入り口に近づけもしないし、全く関係なさそうな宿泊客にまでカメラを向けインタビューしている記者もいる。
 あんなのに捕まったらとんでもない。ぞわりと鳥肌が立って、唯はホテルから一番遠くに立っていそうなホテルの制服を着た中年男性スタッフを見つけた。ホテルの紋章の入ったパリッとした黒い背広に仕立てのいいズボンを着ているものだから、声をかけるのにも躊躇しそうになる。金色のネームプレートには斎藤と印字されていた。それが、日光に当たって眩しい。唯は思い切って声を上げた。

「あの。私、徳島さんという……」
 マネージャーの方に言われてきた水島といいます。と続く言葉を全部いう前に、斎藤は鋭い視線でさっと唯の頭から足先まで確認し、さっと周囲に目を配り、誰もいないことを確認してから
「水島様ですね? 伺っております」
 という答えが返ってきた。唯はほっとしながら頷くと「ご案内します」ととても綺麗にお辞儀した。なんだか、やけに後ろめたい気分になってきて「なんだか、すみません」という言葉を添えて唯も頭を下げた。
「お待ちしておりました」
 いつの間にか斎藤の目じりは下がっていて、とても親しみやすそうな笑顔を浮かべていた。

 黒い背広を見ながら、唯はその後をついていく。行先はホテルだが、どうやら人ごみのある入り口には向かっていないようだと思っていると
「今当ホテルは、あのような状態ですので水島様は、裏道からホテルに入っていただきます。ご迷惑おかけして、大変申し訳ございません」
「いえ。こちらこそご面倒おかけして、すみません」
「水島様は、何もご心配なさらずに。わたくし斎藤が、サポートさせていただきますので、お困りなことがありましたら何なりとお申し付けくださいませ」
 気を使ってそう言ってくれた言葉だったはずなのに、唯は少し安心したような居心地の悪いような気分になる。
 本来の私はこんな高級ホテルに入れるような身分でも、何でもない。ただ普通の学生で、亮のような名誉も何も持っていない。急に履きなれていないヒールのせいか足が痛くなってくる。
 時折、笑いを交えながら唯を気遣うように話してくれる斎藤に相槌を打ちながら、たどり着いた先は。
 ホテルの最上階にあるスイートルーム。入った途端、飛び込んできたのは大理石の床と緻密に彫刻された陶器。
 その奥には、高級ソファや壁画、絨毯……東京を一望できる窓。リビング、ベッドルーム、書斎と何部屋もあることにも、圧倒されている唯に男性はゆっくりとお辞儀をしていた。
「宮川さまは到着次第こちらにお越しになられますので、それまでごゆっくりお過ごしください」

 斎藤は退室し、分厚い部屋のドアが閉じられる。
 一人残された唯は身の置き所がなくて、落ち着かない。こんなに広い空間なはずなのに、やけに息苦しくズキズキ足が痛くて仕方がなかった。
 だけど、亮に会える。その嬉しさがこの場に唯一の居場所を作ってくれている。そんな気がした。

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