背中越しの恋人

雨宮 瑞樹

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 二十二時過ぎ。母はまだ帰らない。いつものように残業でもしているんだろう。
 唯は軽くシャワーを浴び、疲れ果てた身体を自室のベッドに投げ出していた。
 今日は異常に疲れた。すべてあの大阪に体力を奪われた気がする。感情的になってしまった自分自身の失態とその後の受け答えばかりがぐるぐる頭の中で回っている。ろくに連絡をよこさない奴のために、何やってるんだろう。最初に交わした約束。ちゃんと守られているの約束は、何個あるのだろう。そんなこと考えたらどんどん惨めになりそうで、そのまま眠りにつこうと電気を消した。そこにスマホが光り震えていた。
 こんな時間に誰? 
 サイドテーブルに置いてあったスマホにのろのろと手を伸ばして画面を見る。そこにあった名前に、眠気は一気に吹き飛ばされる。細かく震える指先を何とか落ち着けさせて画面に滑らせた。

「唯、久しぶり。寝てた?」
「ううん、大丈夫。……久しぶり」
 久々の亮の声。自分の声が震えてないか心配だった。その震えは、どういった感情によるものなのかもよくわからなかった。
 喜びなのか、不安なのか、緊張なのか。
「ごめん、ずっと連絡できなくて。本当に立て込んでてさ……」
「うん、わかってる。気にしないで。来月帰ってくるんだよね?」
「連絡できなくて本当にごめん」
……本当だよ。と嫌みのひとつでもいいたかったけれど、たった今のその言葉だけで複雑に混ざり合っていた感情すべてが解消されていく単純さに呆れそうだ。やっぱり、ただただ嬉しかった。
「私を誰だと思ってるの? 亮の性格くらい重々承知しているわ。……それに今電話をくれたんだから許す」
 よかった、という呟きとともに、本当にほっとしたような亮の息遣い。唯の気持ちはふわりと浮かぶ。
 やっぱり、私は亮のことが好きなんだと悔しいくらいそう思う。けれど、その後の少しの沈黙が空に浮かんでいきそうな気持を押しとどめていた。

「いつもなら空港で待ってて来てくれるだろ? ……悪いけど、空港は来ないでほしいんだ。マスコミがいっぱい来ているだろうし……。
 その……何て言うかスポンサーがそういうの嫌っててさ」
 言いにくそうにしている声。電話越しでも、今どんな表情をしているのか手に取るようにわかる。
 その途端、先ほどとは真逆の黒い感情が数倍になって湧き上がった。
 あぁ、その為の久しぶりの連絡か……。そういうときだけは、すぐに電話するんだね。こっちが、どんな思いでいたのか考えたことあるの?
 『そういうの嫌う』って、どういうの? 私は亮の何? そう本当は聞きたかった。
いちいち、言葉を濁さなくたって私にだって大人の事情くらい分かっている。
 色んなものが絡んでくるのは仕方のないことだ。私だって場所は違えど同じだけ時間を積み重ねて、大人になっている。それに、私はひなの前で今まで通りにはいかないと、私は亮の影にならないといけないんだととっくに覚悟していたことだ。
 そんな中でもやっとこの電話で、ずっと沈んで いた顔を水面に出して息ができたと思っていたのに。今度は大きな波がまた覆い被さり、全身が深海に沈んでいきそうだ。

 涙と一緒に勢いよく沸き上がってきた言葉の数々が溢れ、口を開ことした一歩早く、亮はいった。
「だから、俺がその日に泊まるホテルで待っててほしいんだ」
「……えっ?」
 慌てて押し戻した言葉が喉に詰まって目を白黒させていると、亮は淀みなくその先を続けていた。
「俺、唯のところに胸を張って帰れる日をずっと楽しみにしてたんだぜ? そのために、今日まで頑張ってきたんだ。
 ……だから、待っててくれないかな? 連絡できなかったことは、本当に悪かったって思ってる。その上、帰ってきたときもいつも空港じゃなく、隠れさせるような真似をさせて……。けど、勘違いしないでほしいんだ。俺の気持ちはずっと変わってない。俺は、唯以外頭にない。どんなことがあっても」
 亮の直球に気圧されて、唯の視界は滲みそうになる。
 ……何なのよ、それ。
 狡いよ、亮。気持ちが浮いたり沈んだり激しすぎて、もういつ息をすればいいのかもわからない。なのにそんなこと言われたら、この鬱々とした数ヶ月の感情も跡形もなく消える決まってる。
 そんな憎まれ口も叩けないほど、安堵と嬉しさで上書きされてしまう唯は呆れるほど亮に一筋だと思い知っていた。
 
 やっぱり、私には亮しかいない。


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