2 / 57
距離1
しおりを挟む
「そっちはどう?」
「まぁ、そりゃあ最初からうまくはいかないよ。覚えることも多くて余裕がない感じかな」
亮は映画美術監督を専攻。セットや舞台の装飾、大道具や小道具など映画に登場する全ての美術を学んでいる。アメリカでの勉強法は机の上ではなく、実践あるのみだという。実際に映画作りに参加して、その眼で見て吸収し、地道に培った実力を少しずつ積み重ねていく。それが誰かの目に止まった暁には、また新たな制作に携われる。唯が聞いた亮の話によると甘えのない完全実力主義の世界だ。でも、きっと亮の才能は誰かの目に留まり、開花する。どこか確信めいたものが唯の中に常にあったから唯は心配なんてしていなかった。
「で、唯は? どうなんだ?」
そう聞かれて、うーんと唸る。亮ほど刺激的な出来事はないけれど、高校から学生になった新たな環境に新たな世界が広がった気はしていた。高校生までの自由がない時間が嘘のように、自由だ。亮の大変さとは雲泥の差の環境に唯は気を遣って言葉を濁す。
「こっちは、まぁまぁかな。バイトでも始めようかと思ってるところ」
「バイト?」
「だって、そっちに行きたいって思っても先立つものがないと、行きたくても行かれないでしょ?」
「そのくらい俺が出すよ。」
宮川亮の父親・光夫《みつお》おじさんは、有名映画監督だ。だからと言って、典型的な厳しい監督という世間一般的なイメージとは程遠く、とても優しい。唯も亮家族と一緒に出掛けたりしてきたが、一度も怒った顔をみせたことはない。そんな優しく人のいい光夫おじさんは、夜な夜な後輩を引き連れて飲みに行ったり、奢ったりというのは当たり前らしい。それも仕事だ。人材育成の一環。それに対して亮の母・あかりさんはよく思っていないらしい。時々、唯にも愚痴ってくる。だがサバサバした性格のあかりさは、いくら愚痴をこぼしても鬱々とはしない。そんなあかりさんを唯は自分の母親・美穂よりも慕っている。
そんな環境で育った亮は、裕福な家庭ではある。だが、亮は決して親の脛をかじってきたわけじゃないことは唯はよく知っている。だが、時折太っ腹になる。それは、やっぱり父親の影響に思う。
「そういうのよくないよ。ダメダメ。もう大学生なんだから。自分のことは自分でやらないと。ついでにもう少ししたら一人暮らしでもしてみよう思ってる」
「一人暮らし!?」
亮の声は人一倍よく通る。叫びに近い驚きの声が耳にぶつかって、唯は顔をしかめた。スマホ耳元から外してもうるさい声が響いてきた。
「そんなの、危ないだろ。今のご時世いくら日本とはいえ女一人暮らしはやめろよ。美穂おばさん心配するにきまってる」
まったく。亮はいつからそんな心配症になったんだか。そう考えたら、あぁそれは私のせいかと唯は思う。亮が振り向いてくれないという女性たちの不満は、全部幼馴染の私に向けられた。それを見続けてきた亮はいつの間にか唯のことを過剰に心配するようになった……と唯は思っている。
「……うちのお母さんは、心配はしないよ。自分の世話してくれる人がいなくなるのは嫌だとは思うかもしれないけど」
母の美穂は、夫。つまり、唯の父を病気で亡くしてから、人が変わったように仕事に打ち込むようになった。その分、家事をはじめ娘である唯にまで気が回らなくなっていった。最初は仕方がないと唯は思っていた。夫を亡くした、寂しさを紛らわすためには仕方のないことだと。だけど、何もかも家事を任せられるようになって、どんどん仕事にのめりこんでいく母。中学のころふと思った。娘である私の存在って何だろう。私はただ母の身の回りのことをするためだけにいるのではないか。そんな風にどこか冷めた目で見るようになっていった。
「なら、うちの母さんが心配する」
亮の声がまた響く。確かに私のことをこれまでに一番に心配してくれるのは自分の母ではなく、いつだってあかりさんだった。
「あぁ、それはそうかも」
素直に頷く唯に、亮は「だろ?」と勝ち誇ったように言ってくる。
「ともかく、俺は反対」
まぁそんな反応が返ってくるだろうと予想していた。だから、頭にくることもなかったが、どこか心に靄がかかるのをぼんやりと感じていた。だけど、いちいち喧嘩するのも馬鹿馬鹿しくて、唯はこの話題を上げることもなく、一人暮らしというささやかな希望はやんわりと消えていった。
最初は、そんなやり取りをよくしていた。何気ない日常。今日はこうで、明日は……。そして、長期休みが取れると亮は必ず日本に帰ってくる。唯はその度に空港へ迎えに行って亮が帰って来るのをドキドキしながら待ち構えていた。
「お帰り」
「ただいま」
二人は再会は、いつだって人目をはば憚るることなく抱きついて喜び合う。そんなことを何度も繰り返した。
そして、月日は流れて三年が経ったある日の秋。
一気に亮が携わったミュージカル映画作品が最も名誉あるとされる賞を受賞した。その作品の美術監督に大抜擢されていた亮も美術賞を見事に獲得。それだけでも物凄いことなのに、日本人初で史上最年少という記録まで樹立。日本でも大々的にそのニュースは流れた。トロフィーを持って、本当にうれしそうな笑顔を見せている亮。とてつもない快挙だと、テレビでは特集まで組まれた。
「あの有名監督の息子さんが携わった映画があのグランド賞を受賞したんです!しかも、史上最年少。すごい快挙です。やはり、父親の才能を引き継いでいるんですね」
受賞したことは素直にうれしい。こんなにテレビで長々と時間を費やして紹介されていると、気持ちが浮ついて何も手につかなくなってしまうほどだ。けれど、その報道の仕方についての疑問が、唯の浮き上がる気持ちに重しをかけていた。
亮は自分の努力で勝ち取ったのであって、あの有名監督の息子という肩書なんて必要ないはずだ。なぜ、わざわざそんな情報を付け足すのだろうか。
キラキラした目で綺麗な声で紹介している女性アナウンサーを睨む。別にこの人が悪いわけじゃないけれど、どこにぶつけていいのかわからないこのもやもやした感情をぶつけたかった。だが、テレビの画面に跳ね返されて結局その靄はそのまま唯の胸の奥に残り続けた。
そして、テレビの向こう側の女子アナは満面の笑みで続けていた。
「しかも、彼とってもカッコいいんですよ!」
そんな情報もっといらない。燻っていた煙に火が付きそうになる。なぜか湧き上がってくる怒り。どうしてそんな感情を抱くのかわからないなまま、唯はテレビの電源を切っていた。
そうして、亮の周りはどんどん騒がしくなり、今までのような時間は失われていった。亮の電話をしても、立て込んでいると出られないことも多くなり、亮から連絡が来ることも極端に減っていった。
でも、それはうまくいっている証拠だと喜んでいたつもりだった。けれど、あまりの周囲の騒がしさに唯は戸惑いを隠せなかった。
雑誌に、新聞、SNS……至る処で名前や顔を見る度に、本当にそれは私の知っていた亮なのかよくわからなくなりそうになる。
そんな矢先。
亮がとうとう修行を終えて日本に帰ってくる。それを知ったのは、亮からではなく、大学の講義室で友達が持っていた雑誌からだった。
「まぁ、そりゃあ最初からうまくはいかないよ。覚えることも多くて余裕がない感じかな」
亮は映画美術監督を専攻。セットや舞台の装飾、大道具や小道具など映画に登場する全ての美術を学んでいる。アメリカでの勉強法は机の上ではなく、実践あるのみだという。実際に映画作りに参加して、その眼で見て吸収し、地道に培った実力を少しずつ積み重ねていく。それが誰かの目に止まった暁には、また新たな制作に携われる。唯が聞いた亮の話によると甘えのない完全実力主義の世界だ。でも、きっと亮の才能は誰かの目に留まり、開花する。どこか確信めいたものが唯の中に常にあったから唯は心配なんてしていなかった。
「で、唯は? どうなんだ?」
そう聞かれて、うーんと唸る。亮ほど刺激的な出来事はないけれど、高校から学生になった新たな環境に新たな世界が広がった気はしていた。高校生までの自由がない時間が嘘のように、自由だ。亮の大変さとは雲泥の差の環境に唯は気を遣って言葉を濁す。
「こっちは、まぁまぁかな。バイトでも始めようかと思ってるところ」
「バイト?」
「だって、そっちに行きたいって思っても先立つものがないと、行きたくても行かれないでしょ?」
「そのくらい俺が出すよ。」
宮川亮の父親・光夫《みつお》おじさんは、有名映画監督だ。だからと言って、典型的な厳しい監督という世間一般的なイメージとは程遠く、とても優しい。唯も亮家族と一緒に出掛けたりしてきたが、一度も怒った顔をみせたことはない。そんな優しく人のいい光夫おじさんは、夜な夜な後輩を引き連れて飲みに行ったり、奢ったりというのは当たり前らしい。それも仕事だ。人材育成の一環。それに対して亮の母・あかりさんはよく思っていないらしい。時々、唯にも愚痴ってくる。だがサバサバした性格のあかりさは、いくら愚痴をこぼしても鬱々とはしない。そんなあかりさんを唯は自分の母親・美穂よりも慕っている。
そんな環境で育った亮は、裕福な家庭ではある。だが、亮は決して親の脛をかじってきたわけじゃないことは唯はよく知っている。だが、時折太っ腹になる。それは、やっぱり父親の影響に思う。
「そういうのよくないよ。ダメダメ。もう大学生なんだから。自分のことは自分でやらないと。ついでにもう少ししたら一人暮らしでもしてみよう思ってる」
「一人暮らし!?」
亮の声は人一倍よく通る。叫びに近い驚きの声が耳にぶつかって、唯は顔をしかめた。スマホ耳元から外してもうるさい声が響いてきた。
「そんなの、危ないだろ。今のご時世いくら日本とはいえ女一人暮らしはやめろよ。美穂おばさん心配するにきまってる」
まったく。亮はいつからそんな心配症になったんだか。そう考えたら、あぁそれは私のせいかと唯は思う。亮が振り向いてくれないという女性たちの不満は、全部幼馴染の私に向けられた。それを見続けてきた亮はいつの間にか唯のことを過剰に心配するようになった……と唯は思っている。
「……うちのお母さんは、心配はしないよ。自分の世話してくれる人がいなくなるのは嫌だとは思うかもしれないけど」
母の美穂は、夫。つまり、唯の父を病気で亡くしてから、人が変わったように仕事に打ち込むようになった。その分、家事をはじめ娘である唯にまで気が回らなくなっていった。最初は仕方がないと唯は思っていた。夫を亡くした、寂しさを紛らわすためには仕方のないことだと。だけど、何もかも家事を任せられるようになって、どんどん仕事にのめりこんでいく母。中学のころふと思った。娘である私の存在って何だろう。私はただ母の身の回りのことをするためだけにいるのではないか。そんな風にどこか冷めた目で見るようになっていった。
「なら、うちの母さんが心配する」
亮の声がまた響く。確かに私のことをこれまでに一番に心配してくれるのは自分の母ではなく、いつだってあかりさんだった。
「あぁ、それはそうかも」
素直に頷く唯に、亮は「だろ?」と勝ち誇ったように言ってくる。
「ともかく、俺は反対」
まぁそんな反応が返ってくるだろうと予想していた。だから、頭にくることもなかったが、どこか心に靄がかかるのをぼんやりと感じていた。だけど、いちいち喧嘩するのも馬鹿馬鹿しくて、唯はこの話題を上げることもなく、一人暮らしというささやかな希望はやんわりと消えていった。
最初は、そんなやり取りをよくしていた。何気ない日常。今日はこうで、明日は……。そして、長期休みが取れると亮は必ず日本に帰ってくる。唯はその度に空港へ迎えに行って亮が帰って来るのをドキドキしながら待ち構えていた。
「お帰り」
「ただいま」
二人は再会は、いつだって人目をはば憚るることなく抱きついて喜び合う。そんなことを何度も繰り返した。
そして、月日は流れて三年が経ったある日の秋。
一気に亮が携わったミュージカル映画作品が最も名誉あるとされる賞を受賞した。その作品の美術監督に大抜擢されていた亮も美術賞を見事に獲得。それだけでも物凄いことなのに、日本人初で史上最年少という記録まで樹立。日本でも大々的にそのニュースは流れた。トロフィーを持って、本当にうれしそうな笑顔を見せている亮。とてつもない快挙だと、テレビでは特集まで組まれた。
「あの有名監督の息子さんが携わった映画があのグランド賞を受賞したんです!しかも、史上最年少。すごい快挙です。やはり、父親の才能を引き継いでいるんですね」
受賞したことは素直にうれしい。こんなにテレビで長々と時間を費やして紹介されていると、気持ちが浮ついて何も手につかなくなってしまうほどだ。けれど、その報道の仕方についての疑問が、唯の浮き上がる気持ちに重しをかけていた。
亮は自分の努力で勝ち取ったのであって、あの有名監督の息子という肩書なんて必要ないはずだ。なぜ、わざわざそんな情報を付け足すのだろうか。
キラキラした目で綺麗な声で紹介している女性アナウンサーを睨む。別にこの人が悪いわけじゃないけれど、どこにぶつけていいのかわからないこのもやもやした感情をぶつけたかった。だが、テレビの画面に跳ね返されて結局その靄はそのまま唯の胸の奥に残り続けた。
そして、テレビの向こう側の女子アナは満面の笑みで続けていた。
「しかも、彼とってもカッコいいんですよ!」
そんな情報もっといらない。燻っていた煙に火が付きそうになる。なぜか湧き上がってくる怒り。どうしてそんな感情を抱くのかわからないなまま、唯はテレビの電源を切っていた。
そうして、亮の周りはどんどん騒がしくなり、今までのような時間は失われていった。亮の電話をしても、立て込んでいると出られないことも多くなり、亮から連絡が来ることも極端に減っていった。
でも、それはうまくいっている証拠だと喜んでいたつもりだった。けれど、あまりの周囲の騒がしさに唯は戸惑いを隠せなかった。
雑誌に、新聞、SNS……至る処で名前や顔を見る度に、本当にそれは私の知っていた亮なのかよくわからなくなりそうになる。
そんな矢先。
亮がとうとう修行を終えて日本に帰ってくる。それを知ったのは、亮からではなく、大学の講義室で友達が持っていた雑誌からだった。
0
お気に入りに追加
36
あなたにおすすめの小説

【完結】365日後の花言葉
Ringo
恋愛
許せなかった。
幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。
あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。
“ごめんなさい”
言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの?
※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます
おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」
そう書き残してエアリーはいなくなった……
緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。
そう思っていたのに。
エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて……
※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。
命を狙われたお飾り妃の最後の願い
幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】
重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。
イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。
短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。
『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

覚悟はありますか?
翔王(とわ)
恋愛
私は王太子の婚約者として10年以上すぎ、王太子妃教育も終わり、学園卒業後に結婚し王妃教育が始まる間近に1人の令嬢が発した言葉で王族貴族社会が荒れた……。
「あたし、王太子妃になりたいんですぅ。」
ご都合主義な創作作品です。
異世界版ギャル風な感じの話し方も混じりますのでご了承ください。
恋愛カテゴリーにしてますが、恋愛要素は薄めです。
【完結】この胸が痛むのは
Mimi
恋愛
「アグネス嬢なら」
彼がそう言ったので。
私は縁組をお受けすることにしました。
そのひとは、亡くなった姉の恋人だった方でした。
亡き姉クラリスと婚約間近だった第三王子アシュフォード殿下。
殿下と出会ったのは私が先でしたのに。
幼い私をきっかけに、顔を合わせた姉に殿下は恋をしたのです……
姉が亡くなって7年。
政略婚を拒否したい王弟アシュフォードが
『彼女なら結婚してもいい』と、指名したのが最愛のひとクラリスの妹アグネスだった。
亡くなった恋人と同い年になり、彼女の面影をまとうアグネスに、アシュフォードは……
*****
サイドストーリー
『この胸に抱えたものは』全13話も公開しています。
こちらの結末ネタバレを含んだ内容です。
読了後にお立ち寄りいただけましたら、幸いです
* 他サイトで公開しています。
どうぞよろしくお願い致します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる