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作戦決行2
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先導していた庵野翔太が、立ち止まる。そして、すっと身体を横へ引いた。
正面に、目当ての二人はいた。わざわざ高校の制服を着て、第一ボタンもきっちり閉めて。
庵野翔太の白さとは、真逆の日に焼けた黒さだ。夜の闇の中へ簡単に身を隠せるように、準備しているかのように。
「はじめまして」
少し茶色みがかった髪の短髪が、笑みを浮かべながらいうと、手を前に出して握手を求めてきた。富永が持ってきてくれた写真を思い出す。河合樹の方だ。よく日焼けした肌に、たれ目の奥二重をただ、無言で見返す。応じない私に、やれやれと息をついた河合に代わって、隣で立っていた男が一歩前へ出た。
「噂は、かねがね」
河合より一回り体も大きい。目にかかるくらいのパーマの髪。
庵野青に間違いなかった。肌の色と体格は、翔太と似ても似つかないが、切れ長の瞳は、瓜二つ。
私の嫌いな目だ。
「喫茶店では、弟が大変お世話になりました」
笑顔を浮かべて恭しくお辞儀までしてくる。
なんなんだ、こいつら。そう思ったところで、おもむろに青が自分のスマホを私に向けていた。身を固くして、どんなものが来ても動揺しないように身構える。
真っ暗な画面から、流れてきたのは、弟の翔太と私が喫茶店でやり合った時の音声だった。かなり大きな音量で流れる。
翔太へ放った暴言が、スマホのスピーカーから垂れ流されていく。
あの時、翔太は私に録音するなといったくせに、自分はきっちり録っていたということだ。そのことに関しては、頭にくるが、一方で冷静な自分もしっかりそこにいた。
今持っているスマホから喫茶店で、翔太とやりあったときの音声が流れているということは、あの翼を突き落とした動画もそこに入っているのではないだろうか。だとしたら、ターゲットは青のスマホ一つに絞れる。相手が青一人となれば、何とかなるのではないだろうか。そんな希望が見え始めるが、すぐにまた曇り始める。いや、でも。実際に、この目であの動画が青の持っているスマホに入っていることを確認しなければ、作戦変更はダメだ。
ならば、どうやって確認すればいいのか。
うーんと頭を捻らせていると、自分が怒り狂っている音声が大きく聞こえてきていた。
犯罪者、悪魔、クソ野郎……、すごいこと言っている自分の声が滑稽に聞こえてくる。灰本の口の悪さがうつったのかもしれないなんて余裕まで出てきて、少し笑ってしまう。
そんな私の反応に、青は興ざめだといわんばかりに、目じりを鋭くとがらせて、目つきは変わっていた。
こいつも弟と同じか。思い通りに進まないと、面倒くさくなるタイプ。
私は慌てて、両手を挙げてお手上げのポーズをする。
「あの時、翔太君が来ていた制服、青君のだったのね。高校の制服着ていたから、完全に信じ切っちゃったわよ。あの時は、完全に私の負け戦だった。あの筋書きは、やっぱり青君が考えたの?」
「だいたいの筋書きは。でも、セリフは俺じゃないですよ。翔太が、考えたんです。弟も、なかなか頭の回転が速いでしょう?」
「そうね。やっぱり、優秀な血は争えないのね」
狡賢く、腐った性格の方ねという文言は、伏せてそういうと、わかりやすく口角がきゅっとあがっていた。
あぁ、もうこれ以上このむかつく顔なんて拝みたくない。さっさと、終わらせてしまいたいのに。
どうやって、動画を確認すればいいのだろう。突然、見せろなんて言い出したら、怪しまれそうだ。自然な会話の流れに持っていきたいのに、全然思いつかない。行くべき道筋は、見えそうなのに、何の悩みもなさそうな能天気な人々のせいで、塞がれてしまっている。もう段々、イライラしてくる。
そもそも、ここから人がいなくなれば、全部解決する話なのに。人がいるから悪い。いますぐ、どっかに行ってください、スイッチ押しますよと、叫びたいくらいだ。
段々体温が上がってくる。
手が熱くなってくるが、ポケットの中の固い感触は、頭を冷やせとばかりにひんやりしていた。
灰本は「無理そうだったら、絶対に無茶せず一度切り上げてこい」と口酸っぱく言われている。仕方なく「わかってますよ」とは、返事はしておいたけれど。下唇をかむ。
青が、スマホを弄っている。
「ねぇ、お姉さんに、是非見てほしいものがあるんだ」
そんなことを言いながら、画面に指先を滑らせている。手を伸ばせばすぐ手に入れられる距離。そこにたぶん、あるのだ。喉から手が出るほど欲しいものが。紐でぶら下がった餌みたいに。実物は見えないけれど、いい匂いだけは、ぷんぷんさせている。
それを手にしないまま逃すなんて、あり得ないでしょう。
いい考えが浮かばない代わりに、不満ばかりポンポン浮かんでくる。苛々していると、青は見つけたと呟いて、画面を再び私へ向けてきた。
鏡なんかで自分の顔をいちいち確認しなくても、よくわかった。自分の眉間に、信じられないくらい深い皺が寄っている。
「この遊び、どう思う?」
画面の中がゆらりと動いて、捉える。
翼だ。私の冷静さは、一気に吹き飛んだ。
すぐに分かった。依頼人の翼の顔はちゃんと確認したことがないのに、一瞬で理解する。
なぜなら、画面いっぱいに映る翼の顔は、絶望で歪んでいたからだ。そこに、水を浴びせられる。氷のような四角いものも混ざっていた。次から次へ。容赦なく浴びせる。
私の全身回っている血液まで、凍りつく。音声は消えている。しかし、はっきりと聞こえてきた。
やめてくれ! 頼むから、やめてくれ!
青い顔をして、唇も青白くさせて、大きく口を震わせている。
少しずつ、カメラは引いて、翼の全身が映し出される。両手足を縛られていた。そして、またアップになる翼の顔。
青白く苦しそうに歪んで、目は真っ赤に充血していた。そこで、動画は止まる。
息ができなかった。全身鳥肌が立っていた。それが、いつまでたっても消えない。髪の毛まで逆立っている。
「こんなの遊びどころじゃない。いじめ……いえ、違う。人殺しと同じじゃない」
凍っていた血液が元に戻ると、心拍数が一気に上昇していた。息がしにくいくらい、早い。
「こんなんじゃ、人間死なないよ。つまり、これはただの遊びだ」
「どうして、こんなことができるの? 人間のすることとは、思えない」
怒りが大きくなりすぎて、声が震えた。きっと睨む。
そんな私を青は、興味深げに見返していた。
「理由? そんなの、気に入らないからに決まってるでしょ。どうしようもなく、痛めつけてやりたいっていう衝動に駆られるんだよ。仕方ないじゃないか。どこにだってある話さ。本能だよ。どうやら哺乳類の動物には、みんな備わっているらしいよ。イルカの話をこの前聞いたんだけどさ、すごく興味深いんだ」
青は、私を煽るように、笑顔になる。
ダメだ。ダメだ。感情を殺せ。爪に肉が食い込むほど強く握って、理性を保とうするのに、青の声が煩い。
「仲間意識は強く、群れで行動するけれど、気に入らない奴がいると、人間と同じようにいじめるんだ。同種のイルカや小型のイルカ、弱った個体を集団で噛みついて殺したり。弱った魚を殺さない程度に噛みついて、結局食べずに捨てたり。メスのイルカを集団で襲ったりもする。すごくない? 聞いて驚いたよ。人間と全く一緒。これは、哺乳類の宿命なんだなって思った」
だったら、仕方ないじゃん。いじめは、なくならないよ。実際、なくなるどころか、増えてるし。
青は、そういって、笑う。
頭の中にあった理性を繋ぎとめている糸がブチブチっと、数本切れていく音がした。
そこへずっと、黙っていた河合と翔太の二人が口を挟んできた。
「お姉さん、そういう話になると目の色が変わるよね。昔なんかあったんでしょ?」
河合がいう。残りの理性の糸は電流が流れていたのかもしれない。火花を散らし、派手な音を立てて、切れていく。
「お姉さん自身も、いじめられていたんじゃない?」
翔太は、絶対そうだよと、嬉しそうに言う。
「あぁ、確かに。そういうタイプだ。面倒くせえ女」
理性をつないでいる糸は、あと一本。
私は俯き、耐えるように手のひらを見せる。
「あのさ……ちょっと、黙ってくれるかな」
何としても、繋ぎとめなければならない。今すぐ、殴りかかってやればいい。冷静になれ。顔の形がわからなくなるほど、殴って、あわよくば死ねばいい。自分を抑えろ。相反する声が、鬩ぎあう。悪魔の声に負けまいとしているのに。
「あ、やっぱり図星?」
「あとちょっとで、手が出るかな?」
楽しそうに誰かが言う。じゃあ、次の動画何がいいかな? 青がそういって、またスマホを弄る気配がする。ゆっくり顔を上げる。 後ろに控えている二人にも、スマホ向けている。楽しそうに盛り上がっている声が、雑踏をかき分けてまっすぐに聞こえてくる。
最後の糸がどんどん細く、頼りなくなって、私は顔を上げる。
「ねぇ、私もう我慢の限界なんだけど。理性をつなぎとめてる最後の糸が切れそう」
溜息と一緒にそう言ってみると、嘘のように怒りが消えていた。
周りも、よく見えた。近くの交差点の信号は、赤色になっていること。人波が、せき止められていること。そして、おそらく。全部会話を聞いている灰本が、苛々していることも。
「そっか。その一本を切るには、どうしたらいいかな?」
満面の笑顔で、聞き返してくる。
「そんなの簡単よ」
先ほどまで、震えていた声も、よく通っていた。
「この前、翼君を突き落とした動画を見せたら、一発に決まってるじゃない」
「あぁ、なるほどね」
青は、スマホをさっと操作する。そして、ものの数秒で、私の方へ印籠のようにスマホの画面を、私の眼前に突き付けた。
海の防波堤の岸壁。目の前にいる二人の背中に挟まれて立つ翼。釣り竿を持って立っている。あの時見たものと、同じだ。あの時は、翼の顔を知らなかった。でも、今はよくわかる。
誰かが翼の背中にむかって、足を突き出した。背中にドンと衝撃を受けて、翼の背中が大きく傾いた。
ふいに視界が滲んで前が霞む。そこには、翼の顔は映っていない。あるのは背中だけ。でも、私には翼の表情が、鮮明に見えた。それは、絶望の表情だ。翼の背中が、海の中へ落ちていく。
何繋ぎとめていた最後の糸がプチっと、切れた。
そして、私は手を前へ突き出した。
正面に、目当ての二人はいた。わざわざ高校の制服を着て、第一ボタンもきっちり閉めて。
庵野翔太の白さとは、真逆の日に焼けた黒さだ。夜の闇の中へ簡単に身を隠せるように、準備しているかのように。
「はじめまして」
少し茶色みがかった髪の短髪が、笑みを浮かべながらいうと、手を前に出して握手を求めてきた。富永が持ってきてくれた写真を思い出す。河合樹の方だ。よく日焼けした肌に、たれ目の奥二重をただ、無言で見返す。応じない私に、やれやれと息をついた河合に代わって、隣で立っていた男が一歩前へ出た。
「噂は、かねがね」
河合より一回り体も大きい。目にかかるくらいのパーマの髪。
庵野青に間違いなかった。肌の色と体格は、翔太と似ても似つかないが、切れ長の瞳は、瓜二つ。
私の嫌いな目だ。
「喫茶店では、弟が大変お世話になりました」
笑顔を浮かべて恭しくお辞儀までしてくる。
なんなんだ、こいつら。そう思ったところで、おもむろに青が自分のスマホを私に向けていた。身を固くして、どんなものが来ても動揺しないように身構える。
真っ暗な画面から、流れてきたのは、弟の翔太と私が喫茶店でやり合った時の音声だった。かなり大きな音量で流れる。
翔太へ放った暴言が、スマホのスピーカーから垂れ流されていく。
あの時、翔太は私に録音するなといったくせに、自分はきっちり録っていたということだ。そのことに関しては、頭にくるが、一方で冷静な自分もしっかりそこにいた。
今持っているスマホから喫茶店で、翔太とやりあったときの音声が流れているということは、あの翼を突き落とした動画もそこに入っているのではないだろうか。だとしたら、ターゲットは青のスマホ一つに絞れる。相手が青一人となれば、何とかなるのではないだろうか。そんな希望が見え始めるが、すぐにまた曇り始める。いや、でも。実際に、この目であの動画が青の持っているスマホに入っていることを確認しなければ、作戦変更はダメだ。
ならば、どうやって確認すればいいのか。
うーんと頭を捻らせていると、自分が怒り狂っている音声が大きく聞こえてきていた。
犯罪者、悪魔、クソ野郎……、すごいこと言っている自分の声が滑稽に聞こえてくる。灰本の口の悪さがうつったのかもしれないなんて余裕まで出てきて、少し笑ってしまう。
そんな私の反応に、青は興ざめだといわんばかりに、目じりを鋭くとがらせて、目つきは変わっていた。
こいつも弟と同じか。思い通りに進まないと、面倒くさくなるタイプ。
私は慌てて、両手を挙げてお手上げのポーズをする。
「あの時、翔太君が来ていた制服、青君のだったのね。高校の制服着ていたから、完全に信じ切っちゃったわよ。あの時は、完全に私の負け戦だった。あの筋書きは、やっぱり青君が考えたの?」
「だいたいの筋書きは。でも、セリフは俺じゃないですよ。翔太が、考えたんです。弟も、なかなか頭の回転が速いでしょう?」
「そうね。やっぱり、優秀な血は争えないのね」
狡賢く、腐った性格の方ねという文言は、伏せてそういうと、わかりやすく口角がきゅっとあがっていた。
あぁ、もうこれ以上このむかつく顔なんて拝みたくない。さっさと、終わらせてしまいたいのに。
どうやって、動画を確認すればいいのだろう。突然、見せろなんて言い出したら、怪しまれそうだ。自然な会話の流れに持っていきたいのに、全然思いつかない。行くべき道筋は、見えそうなのに、何の悩みもなさそうな能天気な人々のせいで、塞がれてしまっている。もう段々、イライラしてくる。
そもそも、ここから人がいなくなれば、全部解決する話なのに。人がいるから悪い。いますぐ、どっかに行ってください、スイッチ押しますよと、叫びたいくらいだ。
段々体温が上がってくる。
手が熱くなってくるが、ポケットの中の固い感触は、頭を冷やせとばかりにひんやりしていた。
灰本は「無理そうだったら、絶対に無茶せず一度切り上げてこい」と口酸っぱく言われている。仕方なく「わかってますよ」とは、返事はしておいたけれど。下唇をかむ。
青が、スマホを弄っている。
「ねぇ、お姉さんに、是非見てほしいものがあるんだ」
そんなことを言いながら、画面に指先を滑らせている。手を伸ばせばすぐ手に入れられる距離。そこにたぶん、あるのだ。喉から手が出るほど欲しいものが。紐でぶら下がった餌みたいに。実物は見えないけれど、いい匂いだけは、ぷんぷんさせている。
それを手にしないまま逃すなんて、あり得ないでしょう。
いい考えが浮かばない代わりに、不満ばかりポンポン浮かんでくる。苛々していると、青は見つけたと呟いて、画面を再び私へ向けてきた。
鏡なんかで自分の顔をいちいち確認しなくても、よくわかった。自分の眉間に、信じられないくらい深い皺が寄っている。
「この遊び、どう思う?」
画面の中がゆらりと動いて、捉える。
翼だ。私の冷静さは、一気に吹き飛んだ。
すぐに分かった。依頼人の翼の顔はちゃんと確認したことがないのに、一瞬で理解する。
なぜなら、画面いっぱいに映る翼の顔は、絶望で歪んでいたからだ。そこに、水を浴びせられる。氷のような四角いものも混ざっていた。次から次へ。容赦なく浴びせる。
私の全身回っている血液まで、凍りつく。音声は消えている。しかし、はっきりと聞こえてきた。
やめてくれ! 頼むから、やめてくれ!
青い顔をして、唇も青白くさせて、大きく口を震わせている。
少しずつ、カメラは引いて、翼の全身が映し出される。両手足を縛られていた。そして、またアップになる翼の顔。
青白く苦しそうに歪んで、目は真っ赤に充血していた。そこで、動画は止まる。
息ができなかった。全身鳥肌が立っていた。それが、いつまでたっても消えない。髪の毛まで逆立っている。
「こんなの遊びどころじゃない。いじめ……いえ、違う。人殺しと同じじゃない」
凍っていた血液が元に戻ると、心拍数が一気に上昇していた。息がしにくいくらい、早い。
「こんなんじゃ、人間死なないよ。つまり、これはただの遊びだ」
「どうして、こんなことができるの? 人間のすることとは、思えない」
怒りが大きくなりすぎて、声が震えた。きっと睨む。
そんな私を青は、興味深げに見返していた。
「理由? そんなの、気に入らないからに決まってるでしょ。どうしようもなく、痛めつけてやりたいっていう衝動に駆られるんだよ。仕方ないじゃないか。どこにだってある話さ。本能だよ。どうやら哺乳類の動物には、みんな備わっているらしいよ。イルカの話をこの前聞いたんだけどさ、すごく興味深いんだ」
青は、私を煽るように、笑顔になる。
ダメだ。ダメだ。感情を殺せ。爪に肉が食い込むほど強く握って、理性を保とうするのに、青の声が煩い。
「仲間意識は強く、群れで行動するけれど、気に入らない奴がいると、人間と同じようにいじめるんだ。同種のイルカや小型のイルカ、弱った個体を集団で噛みついて殺したり。弱った魚を殺さない程度に噛みついて、結局食べずに捨てたり。メスのイルカを集団で襲ったりもする。すごくない? 聞いて驚いたよ。人間と全く一緒。これは、哺乳類の宿命なんだなって思った」
だったら、仕方ないじゃん。いじめは、なくならないよ。実際、なくなるどころか、増えてるし。
青は、そういって、笑う。
頭の中にあった理性を繋ぎとめている糸がブチブチっと、数本切れていく音がした。
そこへずっと、黙っていた河合と翔太の二人が口を挟んできた。
「お姉さん、そういう話になると目の色が変わるよね。昔なんかあったんでしょ?」
河合がいう。残りの理性の糸は電流が流れていたのかもしれない。火花を散らし、派手な音を立てて、切れていく。
「お姉さん自身も、いじめられていたんじゃない?」
翔太は、絶対そうだよと、嬉しそうに言う。
「あぁ、確かに。そういうタイプだ。面倒くせえ女」
理性をつないでいる糸は、あと一本。
私は俯き、耐えるように手のひらを見せる。
「あのさ……ちょっと、黙ってくれるかな」
何としても、繋ぎとめなければならない。今すぐ、殴りかかってやればいい。冷静になれ。顔の形がわからなくなるほど、殴って、あわよくば死ねばいい。自分を抑えろ。相反する声が、鬩ぎあう。悪魔の声に負けまいとしているのに。
「あ、やっぱり図星?」
「あとちょっとで、手が出るかな?」
楽しそうに誰かが言う。じゃあ、次の動画何がいいかな? 青がそういって、またスマホを弄る気配がする。ゆっくり顔を上げる。 後ろに控えている二人にも、スマホ向けている。楽しそうに盛り上がっている声が、雑踏をかき分けてまっすぐに聞こえてくる。
最後の糸がどんどん細く、頼りなくなって、私は顔を上げる。
「ねぇ、私もう我慢の限界なんだけど。理性をつなぎとめてる最後の糸が切れそう」
溜息と一緒にそう言ってみると、嘘のように怒りが消えていた。
周りも、よく見えた。近くの交差点の信号は、赤色になっていること。人波が、せき止められていること。そして、おそらく。全部会話を聞いている灰本が、苛々していることも。
「そっか。その一本を切るには、どうしたらいいかな?」
満面の笑顔で、聞き返してくる。
「そんなの簡単よ」
先ほどまで、震えていた声も、よく通っていた。
「この前、翼君を突き落とした動画を見せたら、一発に決まってるじゃない」
「あぁ、なるほどね」
青は、スマホをさっと操作する。そして、ものの数秒で、私の方へ印籠のようにスマホの画面を、私の眼前に突き付けた。
海の防波堤の岸壁。目の前にいる二人の背中に挟まれて立つ翼。釣り竿を持って立っている。あの時見たものと、同じだ。あの時は、翼の顔を知らなかった。でも、今はよくわかる。
誰かが翼の背中にむかって、足を突き出した。背中にドンと衝撃を受けて、翼の背中が大きく傾いた。
ふいに視界が滲んで前が霞む。そこには、翼の顔は映っていない。あるのは背中だけ。でも、私には翼の表情が、鮮明に見えた。それは、絶望の表情だ。翼の背中が、海の中へ落ちていく。
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そして、私は手を前へ突き出した。
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