サラシ屋

雨宮 瑞樹

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変わる勇気

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 このコメントを残した人物は、一体誰だろう。
 母親の唐澤樹里という可能性もあるが、それは違うだろう。この頃、息子は病院に運ばれていて、親も焦っていたはずだ。悠長にこのサイトを見つけて、書き込める余裕などあるはずがない。
 だとしたら、この学校の生徒の誰か。翼の同級生で、いじめられていたことを知っていたであろう人物。いじめを見て見ぬふりをしていた生徒。良心の呵責で、ここに書き込んだ。その可能性が一番高いのではないだろうか。
 予想通りだとしたら、翼がいじめられていた具体的な内容を聞き出せるかもしれない。
 一か八か。私は、キーボードを無心で打ち込んだ。
『この件について、調べているものです。一度、連絡いただけませんか?』
 
 メールアドレスを添えて、書き込みを終える。ほっと息をついたところで、スマホが鳴った。表示されている久しぶりの名前。どっぷり浸かっていた暗い世界に、束の間の穏やかさに包まれていた。
「明日の夕方、ぜひ店に来てくれ。定休日だから、一緒に飲もう」
 以前、バイトをしていた居酒屋の岩城店長からだった。

 もくもくと焼き鳥を焼く煙の奥から、目がなくなるほどの満面の笑みがあった。自然と私の顔も、笑顔になる。
「わざわざ連絡しないと来てくれないんて、冷たいじゃないか」
「色々、忙しくって。すみません」
 店長とバイトをしていたいたのは、たった数か月前だというのに、ずいぶん懐かしく感じる。ずっと連絡は取り合っていたが、なかなか行く時間が取れなかった。
「その辺は、灰本君から聞いたよ」
「え? 灰本さん?」
 焼き終えた鶏肉を、さらに盛り付けると、それを手にもって私を席へ誘導してくれた。椅子に腰を下ろす。岩城店長はニコニコしていた。
「実は一昨日くらいに、灰本さんが来てくれたんだよ」
「本当ですか?」
 そんな話まったく聞いていない。まぁ、今は謹慎みたいな処分を受けているから、仕方のない話かもしれないが。それにしても、意外だ。目を丸くしていると、店長は目尻を下げてくる。
「近くに来たから、寄ってみただけだって言って、ふらっとね。あれは、わざわざ来てくれたんだろうと思ったよ。本当に優しくて親切だよねぇ」
「私には、ずいぶん意地悪ですけどね」
 ふんっと鼻を鳴らすと、岩城店長は声を上げて笑っていた。ビールでも飲もうかと、席を立って、ビールサーバーからジョッキを持ってきてくれる。

「乾杯」
 カキンと、グラスを合わせて、口をつける。久々に飲んだせいか、とてものど越しがよくて、ここのところずっと靄がかかっていた気分がパーッと晴れていく気がした。
「めちゃくちゃ、おいしい」
 半分くらい一気飲みして、ドンっと机に置く。
「相変わらず、男前だね」
 店長は笑っていた。
「灰本君がね。あいつの取り扱いにいつも頭を悩まされているって、愚痴ってたよ。どうやって扱うのか教えてくれってさ」
「そんなこと言ってたんですか?」
 口を尖らせて、焼き鳥を手にして、口に放り込む。じゅわっとした肉汁が、あっという間に今生まれた不満を消していた。幸せだとさえ思えてしまう。
 やっぱり、店長の焼き鳥は最高だ。口を緩んでいく。
「そんなにおいしそうに食べると、こちらまでうれしくなるね」
「店長の焼き鳥は、やっぱり絶品ですもん」
 ほくほく笑顔でいうと、店長は少し照れてビールを空にしていた。
 二つ分のグラスと、日本酒と枝豆や、揚げ出し豆腐を持ってきてくれた。
「おいしそう!」
 目を輝かせる私を子供を見てるような穏やかな眼差しを向けてくれる。
 そして、店長は日本酒を注ぎながら、さりげなくいった。

「灰本君、すごく心配していたよ」
「心配?」
 一瞬疑問符浮かぶが、すぐに理解する。
「私のせいで、仕事を邪魔されることを心配してるって意味ですね」
 焼き鳥を手に取り口に運んで咀嚼する。
「いや、あの顔は、そういう類の心配じゃないと思うよ」
「じゃあ、何の心配ですか?」
「はっきりとは言ってなかったけれど、あの顔は、柴田ちゃんが傷つくのを心配しているっていう感じだったよ」
 これまで、確かに窮地に陥ってきた。実際殴られたし、危なく連れ去れそうになったこともあった。その失態を繰り返すことを気にしているということか。それに関しては、確かに申し訳なかったなと思う。
 おいしさに支配されて上がっていた気分に蓋をされるような気がした。口の中の鶏肉をごくりと飲み込む。
「困らせている自覚はあるんです。私すぐカッとなっちゃうの、店長も知ってるでしょ? 店にいた時、理不尽なクレーム男にしびれを切らして、食って掛かったりして……」
「柴田ちゃんは、正義感が勝っちゃうもんねぇ」
「私、ただのこらえ性のない子供みたいですよね……」
「そんなこと言うなんて、柴田ちゃんも随分変わったね」
 店長は日本酒をごくりと一口飲むと、目を丸くしていた。
 変わった? いやいや。そんな自覚、微塵もない。むしろ、全くと言っていいほど、変わっていないだろう。それなのに、店長はにっこりする。
「あの時は、確かに何一つ間違ったことは言っていなかったよ。でも、僕が『少し抑えようか』と、進言したら『そういう自分なんだから、仕方ない。自分は一生この自分を変えることはできないと思う』はっきりと、そう言ったんだよ。覚えてる?」
 聞かれて、苦い記憶が蘇る。
 確かに私は、言った。しかも、かなり強い口調で、半ばきれ気味に。
「ごめんなさい。生意気なことを」
 注いでくれた日本酒グラスをちびちび飲みながら、縮こまる。
「いや、いいんだよ。懐かしい思い出だ。あの頃は若さもあって、尖っていたというのもあるんだろう。でも、それから四年間。バイトしている間、柴田ちゃんは本当にそのままだった」
 耳が痛すぎて、出してくれた揚げ出し豆腐に箸をつける。出来立てのせいで、口の中は火傷寸前。涙目になりながら、慌てて水を口に含んだ。口の中がひりひりする。
 店長は枝豆を食べながら、そういうところは相変わらずだけどと、笑いながら言う。
 
「ここ数か月で、こんなに意識が変わるとは、ちょっと驚きだよ。今の柴田ちゃんは、すごくいい感じだよ。そうやって、葛藤しながら、人は少しずついい方向に変わっていくものなんだと思うよ。だから、焦ることはない。大丈夫さ」
「そう、なんですかね……」
 全然、実感もないし未だに打開策も言い出せていないのに。そんなことを思っていたら、店長は「灰本君もね」と付け加えていた。
 どうして、そこに灰本の名前が出てきたのかわからない。
「灰本さんも?」
 聞き返すと、店長はグラスの日本酒を飲み干していた。
 そこに私がお代わりを注ぐ。すると、少し思慮していう。
「彼はとてもよくできた男だ。だけど、何かにつけて自分を取り繕いがちだ。自分を守ろうとしている……というよりかは、誰かが傷つくことを恐れているんだろう。だから、回りくどくなって、素直じゃない。それは、ある意味、彼の弱さの表れなのだと思う」
 灰本は、誰かが傷つくことを恐れている。その理由は、いつか聞かされた灰本にかかったという呪いのせいだと思う。
 突然、親友の天海を失ったあの苦しみだ。
 今まで私には、灰本からそんな弱さは全然気づかなかったが、店長はそれが見えるという。
 首を傾げる私に、店長は笑っていた。
「これがわかるのは、たくさんの人を相手に商売をしてきた僕の年の功ってやつだからだろうね」
 そして、店長は続ける。これはね、灰本君にも言ったんだけど。店長がグラスへ手を伸ばす。私もつられて、グラスを傾けごくりと飲み込む。
 
「取り繕う必要のない相手が、咄嗟に素を曝け出してしまえる相手が、お互いの目の前にいる。六十年間生きてきた僕でさえ、そんな人と家内以外に、出会ったことがない。つまり、この出会いは、とても希少で幸運なことだ。一生にあるか、ないかだ。だから、いくらカッコ悪いと思っても、何でも素直に、隠さず話すといい。今抱えている葛藤そのものも、打ち明ければいい。お互いにその思いをくみ取って、咀嚼して、自分の血と肉となって、また変わっていける。二人とも若いから、その勇気を出すのは、なかなか大変なことだと思うけどね」
 そういって、酔いが回ってきた店長の顔は赤くなっていた。
 私は、横に置いてあった水を差し出しつつ、私は日本酒を手にして、一気に飲み干してはぁっと息を吐きだす。そんな私を、父親のような眼差しを向けられることなど、気付きもしなかった。
「面倒だからと遠ざけるのは、逃げと同じ。遠ざけられたからといって、裏でコソコソするのも違うよ。次来るときは、二人でおいで」
 店を出る直前、心臓に釘を刺される。
 
 裏でコソコソするのも違う。その言葉は、耳どころか、鼓膜まで痛みそうだった。
 家路につきながら、ふとスマホを灯す。深いため息が出た。
 まさに、今私がしていることは、それだと思う。
 関わるなと言われて遠ざけられたから、隠れて情報を集めようとしている。
 でも、そうはいっても。仕方ないじゃない。ぎゅっと眉根を寄せて、あの掲示板のページを開いた。そこに返信がついていた。
『今度、会って話せませんか? 僕は、彼のクラスメイト。翼の親友です』
 その下に、フリーメールアドレスが添えられていた。すべての酔いも、店長の言葉も一気に冷める。
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