サラシ屋

雨宮 瑞樹

文字の大きさ
上 下
10 / 35

しおりを挟む
 話を終えた蛇池が帰ると、入れ替わるように看護師が病室に入ってきた。彼女はテキパキと体温と血圧、それからフェロモンの数値を計り点滴の残量を確認すると、すぐに出ていってしまった。
 早苗は起こしていた体を再び硬いベッドに沈め目を閉じる。すると意識はすぐに早苗の元から離れていった。

 次に目を開けると窓の外からオレンジ色の光が差し込んできていた。時計を確認してみると3時間ほど経っていた。

「結構長い時間寝てたみたいだな」

 寝起きを繰り返していたので、早苗はまだ少しぼんやりとしていた。

 体を起こして首を回すと、頸のあたりに違和感があることに気がついた。恐る恐るその場所に触れてみると、毒虫に刺されたような熱を持ったしこりがある。
 中和剤を打たれた時の傷だろう。

 痛痒い感じがしたから中指の爪で引っ掻くと、ビリリと強い痛みが走った。慌てて手を離したが、ヒリヒリとした痛みがしばらくあとを引いた。下手に傷をつけてしまっただろうか? と不安になりながら優しく手を当てていると、痛みがだんだん弱くなっていくのでホッとする。

 蛇池の話を、ふと思い返してみると早苗は不思議な感覚に陥った。俊哉との番契約は解除されているらしいのだが、早苗はそれを実感できないでいたのである。

 一般的に番を失ったオメガには、かなりの精神的な負荷がかかるとされている。虚脱状態に陥ったり、最悪の場合ストレスによる衰弱で命を落とすケースもあるということを、早苗は知っていた。しかし、早苗にはそういった傾向が全く見られないのだ。

 考えてみれば俊哉と番になった時も、番を得たことによる幸福感を早苗は感じることは無かった。俊哉の態度が浮かれすぎなどと思っていたが、本来番を得るとなるのが普通なのではないだろうか、などと言う考えが浮かんできた。

 早苗の身体に残っているのは、発情期明けのような倦怠感と、見知らぬ男に弄られたという嫌悪感だけだった。一度意識してしまうと、あの時の嫌悪感がじわじわと身体を這い回り嫌な汗が出てくる。

 心臓が迫り上がってくるような感覚を覚え、途端に正しい呼吸の仕方が思い出せなくなった。息苦しさに悶えながら、早苗はナースコールを探す。

「は……っく」

 しかしなかなかそれを見つけることが出来なかった。絶望の文字が脳裏に浮かんだ次の瞬間、床頭台が低い音を立てて振動した。正しくは、その上に置いてある携帯が震えたのだ。

 驚いて一瞬息が止まったことがきっかけになって、早苗は呼吸の仕方を思い出すことが出来た。肺に空気が十分に送り込まれる。心臓は全力疾走をした後のように大きな音を立てていたが、息苦しさはなくなった。

 座り直して携帯を手に取ると、俊哉からのメッセージが届いていた。

【起きてる?】

 俊哉が何を思ってそんなメッセージを送ったのか早苗は分からなかったが、早苗は素直に【はい】とだけ返した。
 メッセージが送信されると直ぐに既読が付いた。早苗も直ぐに既読を付けたから、きっとアプリを開いたまま早苗の返信を待っていたのだろう。

 指先に付いたガラスの破片を払いながら、早苗は俊哉からの返信を待っていた。しかし、既読が付いたにも関わらず俊哉がメッセージを入力する気配はなかった。

 早苗が不思議に思っていると、病室のドアが3回、控えめにノックされる。

「はい」

 早苗が首を傾げながら返事をすると、ゆっくりとドアが開く。その向こうにいた人物は少し窶れた俊哉だった。

「あ……」

 早苗が言葉を発する前に、病室に立ち入ってきた俊哉は倒れ込むように地に額を擦り付けた。
 一連の流れるような俊哉の行動を早苗はただ眺めていることしか出来なかった。驚きのあまり一瞬思考が止まってしまったからである。

「な、何してるんですか!」

 早苗は慌てて起き上がろうとする。

「……ごめん。ごめんなさい、早苗くん」

 そのままの体勢のまま、絞り出すように俊哉が謝罪の言葉を述べる。早苗の動きがはたと止まる。俊哉に返す言葉が見つからなかったからだ。

「先輩」

 謝罪に対して何と返すのが正解なのか分からずとも、俊哉をそのままにしておく訳にも行かないので声をかける。
 しかし、俊哉は顔をあげようとしなかった。

 こうなった相手に対してどういう対応が正解なのか早苗は知らない。だから少し考えて、今すべきことをそのまま言葉にした。

「俊哉先輩、そのままじゃ何も話せません」

 その言葉に俊哉はようやく顔を上げた。いつも自信に溢れていた彼の表情が今にも泣き出してしまいそうなくらい歪んでいて、口の端には痛々しい痣が出来ていた。

「こっちに来てください」

 早苗が呼ぶと俊哉はよたよたと近づいてきて、ベッドの横に膝をついて早苗を見上げる。

「早苗くん……」
「この怪我は?」

 再び自分の名前を呼び謝ろうとする俊哉の言葉を遮るように早苗は、彼の口の端にある赤黒い痣に触れながら問う。

「……早苗くんをあんな目に合わせた罰だよ」
「俊哉先輩は何があったか知ってるんですか?」
「……」

 早苗の問いに俊哉は顔をクシャりと歪める。その瞳の縁に涙が浮かんでいる。泣き顔ですら整っているなんて、卑怯だなと早苗は少しズレた感想を抱く。
 悠長にそんなことを考えていると、俊哉の頬を透明な雫がつたう。早苗は慌てて言葉を発した。

「俊哉先輩、オレは先輩の事を責め立てるつもりは無いんですよ」
「どうして……」
「だって、俊哉先輩の提案に乗ると決めたのはオレです。それに、先輩はこの提案をする時、本当は凄く迷ってましたよね」

 俊哉は少し動揺しているようだった。早苗は更に言葉を続ける。

「俊哉先輩、まさかオレが自分の提案に乗るってくるなんて思ってなかったんじゃないですか?」

 早苗を見つめていた俊哉の目が大きく開かれる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

パラダイス・ロスト

真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。 ※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

リモート刑事 笹本翔

雨垂 一滴
ミステリー
 『リモート刑事 笹本翔』は、過去のトラウマと戦う一人の刑事が、リモート捜査で事件を解決していく、刑事ドラマです。  主人公の笹本翔は、かつて警察組織の中でトップクラスの捜査官でしたが、ある事件で仲間を失い、自身も重傷を負ったことで、外出恐怖症(アゴラフォビア)に陥り、現場に出ることができなくなってしまいます。  それでも、彼の卓越した分析力と冷静な判断力は衰えず、リモートで捜査指示を出しながら、次々と難事件を解決していきます。  物語の鍵を握るのは、翔の若き相棒・竹内優斗。熱血漢で行動力に満ちた優斗と、過去の傷を抱えながらも冷静に捜査を指揮する翔。二人の対照的なキャラクターが織りなすバディストーリーです。  翔は果たして過去のトラウマを克服し、再び現場に立つことができるのか?  翔と優斗が数々の難事件に挑戦します!

僕とお父さん

麻木香豆
キャラ文芸
剣道少年の小学一年生、ミモリ。お父さんに剣道を教えてもらおうと尋ねるが……。 お父さんはもう家族ではなかった。 来年の春には新しい父親と共に東京へ。 でも新しいお父さんが好きになれない。だからお母さんとお父さんによりを戻してもらいたいのだが……。 現代ドラマです。

カフェ・シュガーパインの事件簿

山いい奈
ミステリー
大阪長居の住宅街に佇むカフェ・シュガーパイン。 個性豊かな兄姉弟が営むこのカフェには穏やかな時間が流れる。 だが兄姉弟それぞれの持ち前の好奇心やちょっとした特殊能力が、巻き込まれる事件を解決に導くのだった。

【ショートショート】おやすみ

樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
恋愛
◆こちらは声劇用台本になりますが普通に読んで頂いても癒される作品になっています。 声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。 ⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠ ・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します) ・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。 その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。

仮の彼女

詩織
恋愛
恋人に振られ仕事一本で必死に頑張ったら33歳だった。 周りも結婚してて、完全に乗り遅れてしまった。

処理中です...