別れの伝達者

雨宮 瑞樹

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雨の惜別

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「この度はご愁傷様です。心よりお悔やみ申し上げます」

 泣き腫らした目と鼻を真っ赤にさせた女性に声をかけ、私は深々と頭を下げた。
 亡くなった男性の恋人だったという彼女の憔悴は激しく、私の声は彼女に届かない。
 葬儀場のホールでは、故人の父が並べられた席に座って冷ややかな目で咽び泣く彼女を見つめていた。
 彼女の激しい慟哭と冷たく静かな雨の音だけが広いホールに響く。

 震える彼女の背中より、少し高い場所にある棺を私はそっと見つめる。
 ここからは、収められている故人の身体を見ることはできない。
 だけど、私にははっきりと見える。
 彼女を案じ悲しげな表情を浮かべた若い男性が。
 棺の横で、佇んでいる。



別れの伝達人




 葬儀場の外でしとしと降る雨の中、黒いワンピース姿のその女性は一人咽び泣いていた。
 彼女の悲しみと冷たい雨の音が式場のホールの中まで届いて木霊する。
 その中で、もうこの世にはいない彼の父親が神経質そうな切れ長の目と細い身体を震わせながら、彼女の悲しみの音を打ち消すように吠えていた。

「あいつのせいで、隼人は死んだんだ。隼人を弄びやがって。神聖な場所が汚れる」
そんな様子の父に困り果てた顔をした隼人の母がたしなめていた。
「あなた、あの子も隼人のことが好きだったんですよ。かわいそうじゃありませんか」
父の威圧的な声とは正反対な母の声はとても柔らかく優しいのに、それをまた打ち消してゆく。
「絶対に許さん。おい、お前絶対あいつを入れてくれるなよ」
 隼人の父は、怒りのやり場を見つけたように隼人の母の横で立っていた私を睨み、ぶつけてきた。 

 会話の内容から推測するにどうやら今式場の前で咽び泣いている女性は、亡くなった息子の恋人でその父からは嫌われている存在のようだ。
 別れの間際ほど、諍いが起こることをこの仕事に就いてから嫌でも思い知らされている。最後なのだから、故人が安らかに旅立ってもらえるよう、もっと穏便にいかないものかと思うが、生者は死者よりも目の前に差し迫った現実に忙しい。それが現実だ。
 本来なら遺族に反論や意見してはならない。会社からもトラブルがあった際は、あくまでも遺族の意向に沿うようにと言われている。だけど、式場の扉の前で中に入ることも許されず泣いている彼女を放っておけるほど、私は冷徹にはなれる力量は持ち合わせていない。
 私はあくまでも、低姿勢に。神経を逆なでしないように隼人の父に丁寧に頭を下げる。

「息子さんの身体はこの後、空へと還ります。もう二度と、お顔を見ることはできません。どうか最後のお別れだけは、お許しいただけないでしょうか?」
「そうですよ。お父さん。最後くらい許してあげましょう」

 頭を下げ続ける私と隼人の父の怒りを鎮めるように背中を摩る隼人の母。
 父は口をへの字にして、腕組みをし「勝手にしろ!」と捨て台詞を吐いてホールの一番後ろの端の席にどしんと腰を据えていた。
 その姿を見た母は、深々とため息をついて私の方へ向き直り申し訳なさそうに頭を下げた。悲しみに浸る暇さえも奪われている母親に同情しながら「顔を上げてください」と促す。母はゆっくりと顔を上げたが、困り果てた皺が眉間に寄っていた。

「川澄さん、お騒がせしてごめんなさい。
 主人の不機嫌な理由はね……事故に遭った時の隼人の手には紙袋があって、その中には綺麗に包装された小包が入っていたの。息子はどうやら彼女への誕生日プレゼントを買いに行った帰りに事故に遭ってしまったようで……。
 本当は、主人もわかっているはずなのよ。隼人が事故に遭ったのは彼女のせいじゃないって。車の運転手が悪かった」

 そこまで勢いづけて言う隼人の母の目にはうっすらと涙が溜まり始めていた。彼女もまたもうこのもやもやを貯め込むことができないとばかりに一気に言葉を吐き出し続ける。

「再来週のゴールデンウィーク明けには、久しぶりに隼人と一緒に家族で旅行に行けるって楽しみにしていたの。だから、余計に落胆していて……。その捌け口がどうしても彼女に……」

 話し終える隼人の母の頬に一筋の涙が流れていた。
 事故や災害が起こって、突然大切な誰かを失ったとき。残された者は、誰しも思う。あの時あそこに行かなければ。せめて、一瞬でも時間がずれていたら、と。
 いくら悔やんでも悔やみきれない。やるせなさを怒りに変えても本当は仕方がない。もう死んでしまった人は戻ってはこないのだから。頭ではわかっているけれど、どうしても頭の中ではそんな思いが巡り続ける。残されたものは、そうやって暗い渦に巻き込まれてゆく。
 堅く腕を組み、貧乏ゆすりをしている隼人の父を見るとその目は悲しみに沈んでた。
 確かに同情すべき点はいくつもある。
 少し先の未来には家族で久しぶりの旅行まで計画していたのだ。楽しみにしていた息子との旅行に行ける日は永遠に失われてしまった。
 愛していた子供が亡くなった絶望感と、喪失感。その悲嘆は計り知れない。
 だけど、だからと言って、そのストレスを他の人間にぶつけていいだろうか。自分の悲しみを怒りに変えて、人にぶつけて昇華しようというのは間違えていると私は思う。自分が傷ついているからと言って、すべてが許されるわけではない。人を傷つけていいわけがない。そんな私の思いを汲んでくれたのか。
「彼女。ここに入れてあげてください」
 隼人の母は目元にハンカチを抑えながら、外にいる彼女に同情するようにそう言った。


 私は急ぎ足で外に出て彼女の元へ駆け寄り、足取りがおぼつかない俯きハンカチで顔を覆い泣き続け震える肩を支えながら、中へと入った。腕は雨で冷たく濡れていた。ホールに入り辛うじて涙を止めた彼女の顔が少しだけ上向くと、祭壇に華やかに飾られた供花を一つ一つ確認するように瞳を滑らせていた。芳名札は、親族の名前、生前趣味にしていたのだろうか。テニス、書道、登山らしきサークル名が連なっていた。多趣味で人との交流が盛んだったことが伺える。
 そして、祭壇の中央に飾られた生前の写真の前で彼女の視線はぴたりと止まる。高校の制服姿のまだあどけなさの残る隼人が笑顔を浮かべていた。あっという間に彼女の目にまた大きな水溜まりを作り始め、激しく嗚咽する。外にいたときより何倍も彼女の声がホールに木霊するとその悲しみに釣られるように隼人の母の目にも涙が滲み始めていた。

 二人の声を聴きながら、この葬儀を執り行う前に手渡されていた故人の資料をぼんやりと思い出す。故人の年齢は、二十二歳。私より一つ下だったから間違いない。よく覚えている。家族が持っていた彼の直近の写真はこれだったのだろう。まだまだ若い。死なんて少しも想像なんてしない。希望や未来を追い求めるような年齢だ。
 また同じように若い彼女も、愛すべき人の早すぎる死を受け入れられないのは当然だろう。
 彼女はぼろぼろに泣きながらも自力で祭壇の下の焼香台へと行こうとする意志を支えていた彼女の腕から感じ、私はそっと手を離した。よろよろ歩き、焼香する彼女の手は、細かく震えていた。白い手と背中には、罪悪感が見え隠れしているように見えて見ていられなかった。

「お前の誕生日プレゼントなんか買いに行ったせいで、隼人は事故にあったんだ」
 彼女はここに来る前、隼人の父親にそんな風に言われたのかもしれない。だとしたら、なんと残酷な仕打ちだろう。愛した人を失った原因は自分自身にあると告げられた刃は、彼女の心臓を深く抉ったはずだ。

 彼女の折れそうなくらい細い背中の奥にある数段高いところに安置されている棺。
 その横に浮かび上がるようにぼんやりと現れ佇むその男――隼人を私は見る。今、視界に映っているのは、生前の彼の姿。全体的に透けた身体なのに、端正な顔立ちに優し気な大きな二重の双眸は彼女を思いやっていることがはっきりとわかる。黒い短髪が穏やかに揺れ、青ジーンズに白いワイシャツという着飾らない姿がより一層彼を魅力的に見せている気がした。

 だが、その気配に気づけるはずもない彼女は、焼香台の前で背中を丸めて泣き続けていた。肩より少し長い黒髪が小刻みに揺れて、耳まで真っ赤にしている。そんな彼女を見て、隼人の眉間に深い皺を寄せ悲し気に顔を歪めていた。一番気付いてほしい彼女の目に彼の姿は映らない。彼のその瞳が切なく揺れているのが遠目からでもわかった。
 私の胸に小さな針が刺さって、ちくちく痛み始める。眉根を寄せながら隼人を見ていると、彼女へと向けられていた彼の視線はゆっくりと移動し、私と真っすぐに合っていた。

『あなたは、もしかして俺のことが見えるの?』
 私はその質問に小さく頷く。そう。私は見える。荼毘に付される直前だけ見える、故人の生前の姿が。
『なら、お願いがあるんだ』
 その声は、私以外は誰にも聞こえない。私にだけ聞こえる最後の声だ。私はゆっくり頷く。
『俺の部屋の机。右側の一番上の引き出しに箱がある。それを彼女——菜穂に渡してほしい。父はあんなだから何言ってもきいてくれないと思うけれど、母ならきっと頼めば聞いてくれると思う』
「わかりました」
 つい小さくそういってしまう私に不思議そうに首を傾げる隼人。
 生者から死者に伝えられるのは、視覚だけだということを思い出し、私は了承を伝えるために深く頷く。
『あと、僕がこれから言う言葉を伝えてほしいんだ』

 そのあと続いた彼の言葉を深く心に刻み付け、私は目を逸らさず彼を見つめたままゆっくりと頷いた。私の返答に、満足したのか隼人の顔は笑顔になる。笑う目じりがきゅっと下がり、元より優し気だった顔が一層柔らかな顔にさせていた。死しても尚、彼の周りにふわっと暖かい空気が一緒に漂ってくる。生前ならば、それはもっと魅力的に映ったんだろう。
 こんな彼の顔を何度も傍で見て、菜穂は惹かれてたことは想像に難くない。二人顔を見合わせて笑っていたんだと思うと、胸が押し潰れそうなほど激しく痛んだ。
『このまま何も伝えることができずにいたら、多分俺ずっとこの辺さ彷徨い歩いていたと思う。あなたに最後の言葉を託せてよかった。ありがとう』
 彼の穏やかで柔らかい声が私の胸に沁み込んで視界が歪みそうになる。だけど、私が泣くわけにいかない。泣きたいのは、私じゃない。本当に泣きたいのは、彼だ。私はじっと彼を見つめていると、彼はまた菜穂に切な気な視線を移していた。
『あぁ、もう俺は傍にいてやれないのか。あんなに泣いて、大丈夫かな? この先、また新しい人を見つけてちゃんと前を向いて歩いて行ってくれるかな』
 菜穂への思いが溢れる彼の温かい言葉が、泣き続ける彼女のどこかに届けばいいと切望しながら震え続ける華奢な背中を私は見つめる。

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