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マリウス

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母が亡くなってからは、わたしは抜け殻のようだった。
【神々の目】の力があったって、避けられない運命はある。
ビジョンは時代や場面をアトランダムで気まぐれに見せるだけで、それがわたしの役に立つものや、見たいものであるとは限らない。

わたしが不吉な忠告をしたときに、それを受け取った人々はわたしに恨みのこもった目を向けた。
せっかく知らせてあげたのに、わたしを恨むのはお門違いだと思っていたけれど、いまなら相手の気持ちが分かる。

知らないでいたほうが幸せなこともある。
知らないでいられるなら、知らないでいたい。

母が亡くなることを知ってからは、今日かもしれない、明日かも、明後日かもしれないと毎日不安だった。
母が亡くなって悲しいと同時に、これで、いついなくなるのかという不安から解放されたとほっと力だ抜ける思いもあった。

亡くなった直後は、悲しい思いとほっとした思いと、両方が胸を占めていた。

しかし時間が経つにつれ、大きく心を占めていたものがぽっかりとなくなり、自分が自分でなくなるような喪失感が大きくなっていった。
それまで自分がどんなふうに時間を過ごしてきて、どんなふうにものごとを考えていたのか、思い出せなかった。


伯爵の屋敷で働くようになって、やることがあるのはありがたかった。
これまでとまったく違う環境に身を置くことで、母のことを考えることも少なくなった。

本当は男であることを、伯爵には隠したままにした。
生まれた頃から、女として生きてきた。

それは出生の事情による。

母は隣国の王女で、もともとはこの国に留学に来ていたのだ。

それがどうして身を隠して未婚で子どもを産み、下町で育てるようになったのか。
それは、伯爵との熱病のような恋と、ちょうどその頃母国で政変が起き、王が追い落とされたことが原因だ。
政権が交代しても、その基盤は不安定だった。
新王はすぐに前王の子どもたちを処刑し、命からがら逃げ出した王族も亡命先で暗殺された。

母は自分の身を守るために、自分の子どもの父親であり、かつて愛した男の前からも一度は姿をくらませた。

彼らの恋は、決してきれいなものではなかった。

母と伯爵が恋に落ちた当時、伯爵にはすでに婚約者がいた。
そう、エリザベスの母親が。
エリザベスの母親は、伯爵の上司の娘で、そう簡単に婚約破棄などできるものではなかった。

きみと一緒になりたい、と口ではそう言いながらも、煮え切らない伯爵の態度に母はじれた。
性に解放的な国からやってきた王女は、伯爵と逢瀬を重ねては、その痕跡をわざと残して婚約者を挑発していた。

女性のことに疎い伯爵は、特に恋する女性に盲目になっているのもあって、そんなことをしているとは思いもしなかった。
自分に婚約者がいるせいで苦労をかける、とか、いじらしく耐えている、だとか、のほほんとしていたようだ。
だが、挑発をされた婚約者のほうは当然、気付いていた。
父親込みの食事をしたり、婚約者として公的な場所に出席して見せつけたり、周りを囲い込んでいった。

官憲と取り仕切る長官の副官として普段はしかつめらしい表情をした硬派として知られているが、女を見る目だけはどうしようもなかった。
実際は恋人と婚約者が目に見えないキャットファイトを繰り広げているのにまったく気づいていなかったのだ。

婚約の話はいよいよ進んでいく。
焦りで盲目になった王女は、ベッドで伯爵に「大丈夫だから」と言って情をねだった。
避妊に気を付けていた伯爵だったのに、母のこの言葉を信じてしまった。

男の「先っぽだけ」が「先っぽだけ」であったことがないように、女の「大丈夫」が本当に「大丈夫」だったことなどあるのだろうか。
かくして伯爵にしてみたら“うっかり”、母にしてみれば“狙い通り”子どもを宿した。

焦ったのは婚約者だ。
結婚式が間近になり勝利が確実だと一安心していたさなか、突然最大にして最凶の攻撃を受けたのだから。

このときは、女性二人とも競争心を煽られて、冷静ではなかった。
もし冷静であったなら、二人して伯爵を見捨てることもできただろうに。

母には勝算があった。
父王に泣きついて国際問題にし、子どもを盾に責任を迫って、現在の婚約をなかったことにしてもらおうと画策していたのだ。

そしてここで母の計画が狂う事件が起こる。
母がいない間に母国で政変が起き、政権が交代したのだ。
帰るに帰ることのできなくなった母。
本当なら、亡命者として留学先の国で保護してもらいたかったのだが、未婚の身で子を身ごもっていたために、大きな腹でおもてに出ることができなかった。

母は身を隠し、潜伏先の世話は伯爵が請け負った。
居場所を確保し、衣食住を整えた。
やがて子どもが生まれると、母は、伯爵相手にさえ俺の性別を偽っていた。
女性二人に振り回されていた伯爵が、うまくことを運べるはずもなかったのだ。
その頃にはエリザベスの母と結婚をしていたが、夫人に隠しきれるものではなかった。

伯爵夫人は、隠し子の存在に気付いていながら、そのそぶりを見せなかった。
伯爵を笑顔で送り出しながら、元王女とその子どもの情報を秘密裏に隣国に流していた。

それを見越していたからこそ、母はわたしを女の子として育てたのだった。

子どもが生まれたことで、まるで熱病にかかったように盲目的だった母の目が覚めた。
現実的に生活を守ることが第一義となり、気持ちが伯爵から離れていたのだと思う。

現実的になった女は強い。
母はさっさと伯爵に見切りをつけると、産後の体調が回復するのを待って行方をくらました。

母は住居を転々とし、一つの場所に長くとどまることはなかった。

伯爵は、愛した女性と自分の子どもの行方をずっと探していたが、その二人に再会するのは、自分の妻である伯爵夫人が亡くなった後のことだった。




ここまで女装をしてきたのを、突然男に戻るのはおもしろくない。
女でいることは、使い道が多い。

俺を女装するように追い込んだ奴が、この女装にだまされて振り回されていたらおもしろいじゃないか。


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