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第19話
しおりを挟む夜。
あてがわれた部屋は広すぎもせず、狭すぎもせず、ちょうどいい大きさだった。
思わず頭の中に浮かんだそんな考えに、自分で驚いた。
「こんないい部屋に泊まらせてもらってちょうどいいだなんて、なんて生意気。」
ふふ、と笑いがこぼれる。
だが、ベッドシーツの心地良さを頬で感じた途端、心が浮き立った。
洗濯したばかりのシーツはいい匂いがして、憧れの天蓋(てんがい)までついている。
ベッドマットのスプリングはへたっていないし、ふかふかだ。
お行儀わるくベッドの上で大の字になり、身体を伸ばす。
一人になって落ち着くと、やっと自分のことを考えることができた。
おいしい夕食だった。
ワインの味が分からなかったときにはダヴィド様との距離を感じてしまったが、ダヴィド様のお母さまの言う通り、食事はどれもおいしかった。
姉の屋敷で今ごろ両親が薄味のスープを飲んでいるかと思うと、今日の料理の中の一品だけでも食べさせてあげたいと思ってしまう。
今日のことは、一生忘れられそうにない。
いいものを知ると、これまで当たり前だったものがどれだけ質の落ちるものだったか分かるようになる。
ごわごわした肌触りの色あせたドレス、ガタガタ揺れる馬車、薄味のスープ、スプリングのへたったベッドマット。
これまで不満もなくやってきたというのに、もう以前と同じように思えないかもしれない。
元の生活に戻れなくなってしまったらどうしてくれよう。
もう!
ダヴィド様のせいだ。
「立場が変われば意見も変わる、ね。」
羽のように浮き立っていた心が、ふわんふわんと落ちていった。
ふう、と大きなため息がもれる。
本当は、考えなければならないことが山ほどある。
ダヴィド様がこれからどうするつもりで、兄はこれからどうなるのか。
クレドルーを取り戻すためだとダヴィド様は言うが、本当にわたしたち家族のことを考えてくれるのか、セザール様の意向を一義としているような言動をするダヴィド様のことをいまいち信用しきれない。
目的のためにわたしたちのことを犠牲にしようなどと、しないとは思うが‥‥。
どうだろう。
とにかく、善意にしろ、当事者であるわたしや兄がどう考えるかを顧みないで突き進むところがあるのは間違いない。
これからのことを話し合っておくべきなのは分かっているのに、いつも聞きそびれてしまう。
こうして一人になると思い出すのに、ダヴィド様を前にするといつも目の前のことで頭がいっぱいになってしまって、なにも考えることができなくなる。
それとも、いっそのこと聞かないでおこうか。
このままなにも聞かずに、ただダヴィド様が与えてくれる範囲のものを受け取る。
言われるがままに行動すればいい。
そうすれば、傷つかずにすむ。
話をすることは、相手に求めることも同じだ。
あれこれと考えるから、欲が生まれる。
なにも考えずに、姉と同じ手袋がもらえたことだって純粋に喜べたらいいのに。
わたしが苦しむのは、自分が欲深なせいなのかもしれない。
わたしの欲が、わたしを苦しめている。
手に入らないものを欲しがって、手に入らなくて苦しんで。
もう、やめたい。
期待することをやめたい。
ダヴィド様の大きな手が、ずっとそばにあればいいのに。
期待するのをやめたいと思ったばかりなのに、もうそれを覆すのだから。
わたしもいい加減、考えるのをやめればいいのに。
ばかばかしくてやってられない。
* * * * * * *
ふ、と意識が戻ると、部屋の明かりは消えていた。
月明りが真っ白なシーツを照らしている。
いつの間にか、眠ってしまっていたようだ。
ふと、物音を感じて耳を澄ました。
テラスへ続く扉のカーテンが夜風に揺れている。
サワ、という布地の音ではなかった。
もっと、甲高いような。
夜虫の鳴き声だろうか。
キューン
また聞こえた。
細く高く、空気が狭い隙間から漏れるような音。
今度ははっきりと、外から聞こえてきた。
2階のこの部屋まで聞こえるということは、すぐ下だろうか。
そっとベッドを降りて、扉に近付いた。
足音を立てないように気を付けて、カーテンのすみからそっと外を覗き見る。
満月から少し欠けた月が、地上をほんのりと照らしている。
テラスのすぐ下に、なにかの影があった。
はじめは影しか見えなかったが、よくよく見ると、ぶんぶんと振れるものが見てとれて、そこから犬と、膝を立ててその犬に顔を寄せる人がいることが分かった。
しっ、と人影が犬を黙らせている。
犬のしっぽは感情を抑え切れていなかったが、それでも静かにしようと我慢しているのか、キューンキューンと喉を鳴らしていたのがもっとか細いヒューンヒューンという音に変わった。
「よし、いい子だ。」
ささやく声に聞き覚えがあった。
もっとよく見ようと、テラスに一歩踏み出した。
足音を立てたわけでもないのに、人影がわたしに気が付いた。
「モ二ーク?」
人影はテラスを見上げ、ひそめた声で問いかけた。
「ダヴィド様ですか?」
こんなところでなにを、と口を開こうとしたところで、
「ちょっと待って。」
小声で制された。
人影が動いて、視界から消えた。
どうしたんだろうと思って手すりに手を置いて、下をのぞき込む。
すると、ちょうどわたしが手を置いた位置のすぐ近くに、突然ガッと手が現れた。
ひっと息を飲んで下がる。
手すりにかかった手から、素早い身のこなしで影が現れた。
心臓が口から飛び出してくるんじゃないかと思った。
思わず口に両手を当てて息を飲む。
目の前には、手すりを超えてやってきたダヴィド様が立っていた。
わたしはダヴィド様のわきをすり抜けて手すりに駆け寄り、下を見た。
はしごは見当たらない。
足場になりそうなものもないのに、どうやって二階に上ってきたのか。
振り返って、小声で怒った。
「どうやって登ってきたのよ!危ないじゃない!」
しっ、と唇に人差し指を当てるダヴィド様。
いたずらが成功した子どものような顔をしている。
「眠れなかったのか?ベッドの寝心地が悪かった?」
「え、いえ、いいえ。ベッドはすごく気持ちよかったわ。いつの間にか寝ちゃってて、いま目が覚めたのよ。あなた、どうしてこんなろことにいたの?」
影になって表情がよく見えなかったけど、ダヴィド様が笑っている気配がする。
わたしは両手を腰に当てて、怒っているというポーズをとった。
「俺も同じ。昼に仮眠したから寝れなくって。庭を散歩しようとしたら、犬に見つかった。」
「散歩?こんな夜に?」
「ああ‥‥別にいいだろ?」
「そりゃあ、駄目だとは言わないけど。‥‥落ちたらどうするのよ。」
ぷっと吹き出すダヴィド。
「落ちるだって?」
「なによ!心配してあげてるのに。」
「落ちるわけがない。鍛えてるんだ。力の強さはグザヴィエにだって負けない。」
「ええっ?」と昼間見た熊のような体格のグザヴィエ様を思い浮かべながら、ダヴィド様を上から下まで見る。
ダヴィド様はがっちりした体型をしているけど、グザヴィエ様に負けないほどだとは思えない。
そもそも、大きさが違う。
「ようしそれじゃあ見せてやろう。」
とダヴィド様がかがんだと思ったら、わたしの膝裏に彼の手がかかった。
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