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幕間 サリエルの成長日記(四歳) レオ著
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◆サリエルの成長日記(四歳) レオ著
今日の日記は、少し長くなるが。サリエルについて重要な事柄が発覚したので。
今日、起きた出来事を、なるべく詳細に、思い出す限り、どのようなやり取りがあったのか。それを書いていきたいと思う。
三月二十三日、サリエルが四歳になって間もなくの頃のことだった。
サリエルの聡明さが際立ってきたので、私は、私と同じ教育をサリエルにも授けることにした。
私は、家庭教師兼従者であるミケージャに、学園で学ぶほとんどの教育を施してもらい。さらに政務に関することや兵法までも、教わっている。
サリエルにも、私が初期に教わっていたことを学ばせるよう、ミケージャに指示していた。
その場にはサリエルを含め、四人がいた。
私とミケージャ。あとはエリンだ。
エリンは、サリエルが勉強に飽きたときに対処するよう、同席させていた。
幼児はすぐに、面白くないことは飽きて、遊んだり寝たりしてしまうと思って。
でもサリエルは、私の膝の上に乗って、興味津々で授業を受けている。
教科書だが、私が読んだ本だと知ると興奮して。サリエルは教科書を夢中で読み込んでいた。
そういえばサリエルは普通の子ではない、天才児だったのだ。
勉強に飽きるなんて、余計な心配だったな。
そのときの授業内容は、兵法で。
ふたつの隣国が手を組んで魔国に攻め入ってきたとき、どうするか? という応用問題だった。
山越えの兵に対しての方策、海側からの兵の方策、おのおのの対処法はあるが。ふたつ同時に来たときはどうするか? と。少し悩んでしまった。
「兄上、その戦闘式は三百二十年前の戦いにおける戦術が有効です。三国が同時に旗上げをした歴史がございます」
一瞬、誰が言ったのかわからなかったが。
すぐにサリュの声だと気づいて、驚いた。
四歳の子が、戦争のことを詳しく知っているとは全く思っていなかったのだ。
「…サリュ?」
問いかけると、サリエルはピカリとした表情で私を見上げ、得意げに言うのだ。
「教科書の、257ページに書いてあります」
「もうそんなに読んだのか? サリュは教科書の言葉がどこに、なにを書いてあるのか、全部覚えているのか?」
「覚えてはいます。でも、まだ意味までは理解していません。今回は、同時攻撃という言葉を抜き出しただけです。ぼくは叡智の箱、パソコンです」
「…ぱそこん?」
聞いたことのない言葉に、私は目を丸くして。サリュにたずねた。
「パソコンは、パーソナルコンピューターの略です。でもパソコンがなにかは、ぼくにもわからないのですが。知識を詰める箱、つまり叡智の箱なのです」
私は、サリュを。本当に驚いて、みつめた。
でもサリュは、私の顔色など見ていないように淡々と言葉を繰り出していく。
「叡智の箱は、自分でこの機能を有効活用できません。意味がわからず、どの事柄にどの知識を当てれば、なにかを生み出せるのか、その応用ができないのです。なので兄上がこの機能を有効活用してくれることを望みます」
サリュの声で、サリュの言葉で、言っているのはわかっていたが。
このように大人びたことを言うのが。本当にサリュの、本人の言葉なのか?
私はとっさに、返事を返せなかった。
すると、今度は。
サリエルの声でありながら、明らかに別人が発しているような言葉と抑揚で、告げられた。
「ポヨーン。警告。警告。これは、叡智の箱である。取扱いに細心の注意をうながす」
「レオンハルト様、サリエル様の目が…」
ミケージャは、そう言い。だが、体が不自然に固まっているような感じになっていた。エリンもだ。
私は、膝の上のサリエルをひっくり返して、自分の方へ向ける。
すると。いつもは頬肉に埋もれ、重い目蓋で閉じられている目が、くっきりと開いていた。
あの赤い瞳に、独特なひまわり型の虹彩。
それは、サリエルがまだ赤ん坊の頃、私は目蓋を開いて見たことがあったので、驚かなかったけれど。
しかしそれが、さらになにやら光を放っている。
それを見たら、私も体が動かなくなった。なんだ、これは?
「サリエルの取り込む情報は、この世界の理を知るために、とても有益である。なので、脳が活動を始めたときから情報のインプットを行っている。母の心ない言葉は、サリエルを傷つけるものだが。それはサリエルの成長のためにも、世界を知るためにも、必要なことである。ゆえに、情報の削除は行えない」
その言葉を聞いて、私はハッと息をのんだ。
サリエルが天才だと、私は、ただただ喜んでいたが。
つらいことも悲しいことも忘れられないというのは。どれほど厳しく痛いことなのだろう。
サリュが、見たものをすべて覚えるのは。ただ、聡明だからではない。
心の痛みと引き換えにする、とてもつらくて苦しい、凡人には決して扱え切れない能力だったのだ。
この言葉を発しているのが、誰なのかはわからないが。
このような苦行をサリエルに課するのは。許せないと思ってしまう。
普通の子で、構わないのに。
魔力がなくても、ツノがなくても、特殊な能力なんかなくても。私が愛してあげるのに。
「世の中は、陰と陽、幸と不幸でできている。幸福だけしかない世界は、あり得ない。だが、つらいことがあってこそ、小さな幸せを噛みしめることができる。サリエルには、その両方の経験が必要。しかしながら、あまりにも心が傷ついてしまうと、活動限界を迎えてしまうので。サリエルのそばにある者は、メンタルケアを十全に行うべし。さすれば、本体の羽化が果たされたとき、サリエルの望む者に、最上級の褒美がもたらされるだろう」
私は、活動限界や本体の羽化という言葉に、戦慄してしまう。
褒美など、なにもいらない。
ただ、サリエルさえ健やかであったなら。
そのためなら、メンタルケアはもちろん、なんでもしてやるつもりだった。
「ひ、ひとつだけ、教えてくれ」
なにか、誰だかもわからないが。なにもかも知っているかのような、その者に。私はたずねる。
体は動かないが、かろうじて声は出た。
というか、魔国で一、二、を争う魔力量の多い私を、これほど押さえ込めるとは。
これがサリエルの、真の力なのだろうか?
「なんだ、この世の理が知りたいか? 金銀財宝のありかが知りたいか?」
サリエルの言葉だが、サリエルではないなにかに、ひどく侮辱されたような気がして、ムッとしてしまう。
私がそのような、目の前のまやかしに心を囚われる、低俗な者だと思われているようで。
「そんなことではない。サリエルは…サリエルの自我が、それによって失われることはないのか? サリエルは、ずっとサリエルのままでいられるのか?」
私が問うと、サリエルは、いやサリエルの中の者は、にやりと満足そうに笑った。
いつもの、ドヤッったときのような可愛い顔ではなくて。
老齢のような、表情だった。
「サリエルの身を案じる者よ、褒美に答えよう。今、発せられているこの言葉は。叡智の箱の注意書きであり、取扱説明書である。心の底に刻まれたものが自動的に再生されているだけにすぎない。こののち、サリエルは自我を取り戻し。再び、情報集めの生活に戻ることになる。サリエルの自我は、サリエル本人のものであり。たとえ本体の羽化が果たされても、その自我や記憶は失われない。サリエルが望めば、飛び立つことがあろうとも、再び望む者の元へ戻ってくる……かもしれない」
長い沈黙があって、サリエルは目を閉じ。ゆっくりと重い頭を私の腹に、くぅともたせてくる。
赤い瞳に囚われていた体は、彼が目を閉じたことで動くようになり。
私は膝の上にある大事な子を、宝物のように優しく優しく抱き込んだのだ。
「はっ。あ…兄上、ぼく。寝てた? はわっ? 寝てた?」
目を覚ましたサリエルが、いつものサリュで、ホッとして。
私は、思わずギューッと抱きしめてしまった。
「むぎょーーっ、あわわ、兄上。申し訳ありません、勉強中に、寝てしまうなんて。あの、勉強が嫌だとか、飽きたとか、そんなことではないのですぅ。真剣にやりますぅ。だから、一緒にお勉強させてくださいませぇ」
「大丈夫、寝ていたのはちょっとの間だけだよ。それよりも、サリエル? ずっと私のそばにいてくれ。私の花嫁となって、私の支えになってくれ」
「えええええっっ?」
突然のプロポーズに、サリエルも、ミケージャもエリンも、驚いていたが。
「決めたのだ。私はサリエルを、ずっと、ずーーーっと、離さないと」
サリエルの脇に手を差し込んで、私の頭の上に高く上げる。
サリエルは軽いから、ポヨヨンでも抱き上げられる。
私の、ずっと離さないという言葉に、サリエルは嬉しげな笑みを見せたが。
すぐに冷静に言うのだ。
「…次期魔王候補である兄上の花嫁は、女性でなくてはなりません。お世継ぎを…」
「そんな、些末なことはどうでもいい。サリュは私のお嫁さんになるのだ。それだけを覚えておけばいい」
サリュは、眉間をムニョムニョと気持ち悪そうに動かすが。
抱き上げられているのが、居心地悪くなったのか。手をワキワキさせて、とりあえずうなずいた。
「わかりました、兄上。兄上のお言葉は、いつも正しいものですもんね?」
「そうだ、私に従っていれば、サリュは誰よりも幸せになれるはずだよ?」
私はサリエルを膝の上に戻し。
柔らかいほっぺを、手でグリグリこね回す。
すると、サリュは。ウキャキャッと。あの幸せな声で笑うのだ。
まだ四歳のサリエルには、この話の意味がわかっていないだろう。
でもこのときの私の言葉を、サリエルは忘れることができない。
いつか、彼が恋心を知ったとき、私にプロポーズされたことを思い出してくれたら。それでいい。
もしかしたら、冗談だと思っているかもしれないな。でも。
私は本気だ。
サリエルを、私のそばから絶対に離さない。
たとえ巣立ちだとしても。
飛び立って、私のそばから離れてしまうなんて。そんなことは絶対に許さないのだ。
★★★★★
その日の夜更け過ぎに。私は書斎に、ミケージャとエリンを呼んだ。
そしてふたりの前に、一冊の本を置く。
「これが、サリエルの正体だと思う」
私がそう言うと、ミケージャもエリンも驚愕して。すぐに声を発せられなかった。
「…し、しかし。これでは、サリエル様は…」
ミケージャが言うのに。私は首を横に振る。
「どこへも行かせない。そして、誰にも奪わせない」
私の宣言に。ミケージャもエリンも、不安そうな顔つきをした。
「だが、このことが知れたら、サリエルのことを誰もが欲しがることになるだろう。絶対に外部に漏らせない。たとえ魔王…父上にもだ」
魔王がサリエルを手に入れたら、その力でこの世界のすべてを牛耳ることができる。
私の憶測が正しければ、サリエルにはそれだけのポテンシャル、潜在能力があるのだ。
だが、その力を利用させはしない。
誰にも。父上にも、だ。
サリエルは、ただの凡庸な子として、なにも知らない状態で幼少期を過ごさせてあげたいのだ。
そして。もしも、サリエルが私を愛してくれなかったら。
サリエルは、アレが言っていた通りどこかへ飛び去って、二度と私の元には戻ってこないだろう。
だけど。私はサリエルを離したくない。
それには。
親が子に与える程度の愛では、足りないのだ。
親が子を育てるのは、当たり前だから。それでも恩義を感じて、相応の褒美を出すのだろうが。
そのあとは飛び立ってしまう。子が巣立つように。
だから、サリエルを手元に置くには。もっといっぱいの、親などよりもさらに深い、熱い情熱と愛を注がなければならないのだ。
サリエル自身が、なによりも私を選ぶほどに。
サリエルが、心から私を愛してくれるように。
そして私も。これまで以上に、心からサリエルを愛そう。
深く、深く。サリエルが溺れてしまうほどに。
だから、どうか。その日が来ても、そばにいて。
サリエル、ずっと、ずーーっと、私のそばにいてくれ。
★★★★★
そうして、この日のことは。サリエル本人にも知らせられない、三人だけの秘密になった。
この日記に証拠を残すと、サリエルの身に危険が及ぶかもしれないので。
正体については伏せる。
今日、起きた出来事は、サリエルのほんの一端に過ぎない。
正体がわからないうちは、誰にも、どうにもできないことだろう。
だから万一、この日記が悪用されたとしても。
サリエル本人は、なんのことやら? ということになるので。大丈夫だろう。
本日のことは、成長の過程のひとつとして記しておくが。
サリエルが、ただただ健やかに育つようにと、祈らずにはいられない。
今日の日記は、少し長くなるが。サリエルについて重要な事柄が発覚したので。
今日、起きた出来事を、なるべく詳細に、思い出す限り、どのようなやり取りがあったのか。それを書いていきたいと思う。
三月二十三日、サリエルが四歳になって間もなくの頃のことだった。
サリエルの聡明さが際立ってきたので、私は、私と同じ教育をサリエルにも授けることにした。
私は、家庭教師兼従者であるミケージャに、学園で学ぶほとんどの教育を施してもらい。さらに政務に関することや兵法までも、教わっている。
サリエルにも、私が初期に教わっていたことを学ばせるよう、ミケージャに指示していた。
その場にはサリエルを含め、四人がいた。
私とミケージャ。あとはエリンだ。
エリンは、サリエルが勉強に飽きたときに対処するよう、同席させていた。
幼児はすぐに、面白くないことは飽きて、遊んだり寝たりしてしまうと思って。
でもサリエルは、私の膝の上に乗って、興味津々で授業を受けている。
教科書だが、私が読んだ本だと知ると興奮して。サリエルは教科書を夢中で読み込んでいた。
そういえばサリエルは普通の子ではない、天才児だったのだ。
勉強に飽きるなんて、余計な心配だったな。
そのときの授業内容は、兵法で。
ふたつの隣国が手を組んで魔国に攻め入ってきたとき、どうするか? という応用問題だった。
山越えの兵に対しての方策、海側からの兵の方策、おのおのの対処法はあるが。ふたつ同時に来たときはどうするか? と。少し悩んでしまった。
「兄上、その戦闘式は三百二十年前の戦いにおける戦術が有効です。三国が同時に旗上げをした歴史がございます」
一瞬、誰が言ったのかわからなかったが。
すぐにサリュの声だと気づいて、驚いた。
四歳の子が、戦争のことを詳しく知っているとは全く思っていなかったのだ。
「…サリュ?」
問いかけると、サリエルはピカリとした表情で私を見上げ、得意げに言うのだ。
「教科書の、257ページに書いてあります」
「もうそんなに読んだのか? サリュは教科書の言葉がどこに、なにを書いてあるのか、全部覚えているのか?」
「覚えてはいます。でも、まだ意味までは理解していません。今回は、同時攻撃という言葉を抜き出しただけです。ぼくは叡智の箱、パソコンです」
「…ぱそこん?」
聞いたことのない言葉に、私は目を丸くして。サリュにたずねた。
「パソコンは、パーソナルコンピューターの略です。でもパソコンがなにかは、ぼくにもわからないのですが。知識を詰める箱、つまり叡智の箱なのです」
私は、サリュを。本当に驚いて、みつめた。
でもサリュは、私の顔色など見ていないように淡々と言葉を繰り出していく。
「叡智の箱は、自分でこの機能を有効活用できません。意味がわからず、どの事柄にどの知識を当てれば、なにかを生み出せるのか、その応用ができないのです。なので兄上がこの機能を有効活用してくれることを望みます」
サリュの声で、サリュの言葉で、言っているのはわかっていたが。
このように大人びたことを言うのが。本当にサリュの、本人の言葉なのか?
私はとっさに、返事を返せなかった。
すると、今度は。
サリエルの声でありながら、明らかに別人が発しているような言葉と抑揚で、告げられた。
「ポヨーン。警告。警告。これは、叡智の箱である。取扱いに細心の注意をうながす」
「レオンハルト様、サリエル様の目が…」
ミケージャは、そう言い。だが、体が不自然に固まっているような感じになっていた。エリンもだ。
私は、膝の上のサリエルをひっくり返して、自分の方へ向ける。
すると。いつもは頬肉に埋もれ、重い目蓋で閉じられている目が、くっきりと開いていた。
あの赤い瞳に、独特なひまわり型の虹彩。
それは、サリエルがまだ赤ん坊の頃、私は目蓋を開いて見たことがあったので、驚かなかったけれど。
しかしそれが、さらになにやら光を放っている。
それを見たら、私も体が動かなくなった。なんだ、これは?
「サリエルの取り込む情報は、この世界の理を知るために、とても有益である。なので、脳が活動を始めたときから情報のインプットを行っている。母の心ない言葉は、サリエルを傷つけるものだが。それはサリエルの成長のためにも、世界を知るためにも、必要なことである。ゆえに、情報の削除は行えない」
その言葉を聞いて、私はハッと息をのんだ。
サリエルが天才だと、私は、ただただ喜んでいたが。
つらいことも悲しいことも忘れられないというのは。どれほど厳しく痛いことなのだろう。
サリュが、見たものをすべて覚えるのは。ただ、聡明だからではない。
心の痛みと引き換えにする、とてもつらくて苦しい、凡人には決して扱え切れない能力だったのだ。
この言葉を発しているのが、誰なのかはわからないが。
このような苦行をサリエルに課するのは。許せないと思ってしまう。
普通の子で、構わないのに。
魔力がなくても、ツノがなくても、特殊な能力なんかなくても。私が愛してあげるのに。
「世の中は、陰と陽、幸と不幸でできている。幸福だけしかない世界は、あり得ない。だが、つらいことがあってこそ、小さな幸せを噛みしめることができる。サリエルには、その両方の経験が必要。しかしながら、あまりにも心が傷ついてしまうと、活動限界を迎えてしまうので。サリエルのそばにある者は、メンタルケアを十全に行うべし。さすれば、本体の羽化が果たされたとき、サリエルの望む者に、最上級の褒美がもたらされるだろう」
私は、活動限界や本体の羽化という言葉に、戦慄してしまう。
褒美など、なにもいらない。
ただ、サリエルさえ健やかであったなら。
そのためなら、メンタルケアはもちろん、なんでもしてやるつもりだった。
「ひ、ひとつだけ、教えてくれ」
なにか、誰だかもわからないが。なにもかも知っているかのような、その者に。私はたずねる。
体は動かないが、かろうじて声は出た。
というか、魔国で一、二、を争う魔力量の多い私を、これほど押さえ込めるとは。
これがサリエルの、真の力なのだろうか?
「なんだ、この世の理が知りたいか? 金銀財宝のありかが知りたいか?」
サリエルの言葉だが、サリエルではないなにかに、ひどく侮辱されたような気がして、ムッとしてしまう。
私がそのような、目の前のまやかしに心を囚われる、低俗な者だと思われているようで。
「そんなことではない。サリエルは…サリエルの自我が、それによって失われることはないのか? サリエルは、ずっとサリエルのままでいられるのか?」
私が問うと、サリエルは、いやサリエルの中の者は、にやりと満足そうに笑った。
いつもの、ドヤッったときのような可愛い顔ではなくて。
老齢のような、表情だった。
「サリエルの身を案じる者よ、褒美に答えよう。今、発せられているこの言葉は。叡智の箱の注意書きであり、取扱説明書である。心の底に刻まれたものが自動的に再生されているだけにすぎない。こののち、サリエルは自我を取り戻し。再び、情報集めの生活に戻ることになる。サリエルの自我は、サリエル本人のものであり。たとえ本体の羽化が果たされても、その自我や記憶は失われない。サリエルが望めば、飛び立つことがあろうとも、再び望む者の元へ戻ってくる……かもしれない」
長い沈黙があって、サリエルは目を閉じ。ゆっくりと重い頭を私の腹に、くぅともたせてくる。
赤い瞳に囚われていた体は、彼が目を閉じたことで動くようになり。
私は膝の上にある大事な子を、宝物のように優しく優しく抱き込んだのだ。
「はっ。あ…兄上、ぼく。寝てた? はわっ? 寝てた?」
目を覚ましたサリエルが、いつものサリュで、ホッとして。
私は、思わずギューッと抱きしめてしまった。
「むぎょーーっ、あわわ、兄上。申し訳ありません、勉強中に、寝てしまうなんて。あの、勉強が嫌だとか、飽きたとか、そんなことではないのですぅ。真剣にやりますぅ。だから、一緒にお勉強させてくださいませぇ」
「大丈夫、寝ていたのはちょっとの間だけだよ。それよりも、サリエル? ずっと私のそばにいてくれ。私の花嫁となって、私の支えになってくれ」
「えええええっっ?」
突然のプロポーズに、サリエルも、ミケージャもエリンも、驚いていたが。
「決めたのだ。私はサリエルを、ずっと、ずーーーっと、離さないと」
サリエルの脇に手を差し込んで、私の頭の上に高く上げる。
サリエルは軽いから、ポヨヨンでも抱き上げられる。
私の、ずっと離さないという言葉に、サリエルは嬉しげな笑みを見せたが。
すぐに冷静に言うのだ。
「…次期魔王候補である兄上の花嫁は、女性でなくてはなりません。お世継ぎを…」
「そんな、些末なことはどうでもいい。サリュは私のお嫁さんになるのだ。それだけを覚えておけばいい」
サリュは、眉間をムニョムニョと気持ち悪そうに動かすが。
抱き上げられているのが、居心地悪くなったのか。手をワキワキさせて、とりあえずうなずいた。
「わかりました、兄上。兄上のお言葉は、いつも正しいものですもんね?」
「そうだ、私に従っていれば、サリュは誰よりも幸せになれるはずだよ?」
私はサリエルを膝の上に戻し。
柔らかいほっぺを、手でグリグリこね回す。
すると、サリュは。ウキャキャッと。あの幸せな声で笑うのだ。
まだ四歳のサリエルには、この話の意味がわかっていないだろう。
でもこのときの私の言葉を、サリエルは忘れることができない。
いつか、彼が恋心を知ったとき、私にプロポーズされたことを思い出してくれたら。それでいい。
もしかしたら、冗談だと思っているかもしれないな。でも。
私は本気だ。
サリエルを、私のそばから絶対に離さない。
たとえ巣立ちだとしても。
飛び立って、私のそばから離れてしまうなんて。そんなことは絶対に許さないのだ。
★★★★★
その日の夜更け過ぎに。私は書斎に、ミケージャとエリンを呼んだ。
そしてふたりの前に、一冊の本を置く。
「これが、サリエルの正体だと思う」
私がそう言うと、ミケージャもエリンも驚愕して。すぐに声を発せられなかった。
「…し、しかし。これでは、サリエル様は…」
ミケージャが言うのに。私は首を横に振る。
「どこへも行かせない。そして、誰にも奪わせない」
私の宣言に。ミケージャもエリンも、不安そうな顔つきをした。
「だが、このことが知れたら、サリエルのことを誰もが欲しがることになるだろう。絶対に外部に漏らせない。たとえ魔王…父上にもだ」
魔王がサリエルを手に入れたら、その力でこの世界のすべてを牛耳ることができる。
私の憶測が正しければ、サリエルにはそれだけのポテンシャル、潜在能力があるのだ。
だが、その力を利用させはしない。
誰にも。父上にも、だ。
サリエルは、ただの凡庸な子として、なにも知らない状態で幼少期を過ごさせてあげたいのだ。
そして。もしも、サリエルが私を愛してくれなかったら。
サリエルは、アレが言っていた通りどこかへ飛び去って、二度と私の元には戻ってこないだろう。
だけど。私はサリエルを離したくない。
それには。
親が子に与える程度の愛では、足りないのだ。
親が子を育てるのは、当たり前だから。それでも恩義を感じて、相応の褒美を出すのだろうが。
そのあとは飛び立ってしまう。子が巣立つように。
だから、サリエルを手元に置くには。もっといっぱいの、親などよりもさらに深い、熱い情熱と愛を注がなければならないのだ。
サリエル自身が、なによりも私を選ぶほどに。
サリエルが、心から私を愛してくれるように。
そして私も。これまで以上に、心からサリエルを愛そう。
深く、深く。サリエルが溺れてしまうほどに。
だから、どうか。その日が来ても、そばにいて。
サリエル、ずっと、ずーーっと、私のそばにいてくれ。
★★★★★
そうして、この日のことは。サリエル本人にも知らせられない、三人だけの秘密になった。
この日記に証拠を残すと、サリエルの身に危険が及ぶかもしれないので。
正体については伏せる。
今日、起きた出来事は、サリエルのほんの一端に過ぎない。
正体がわからないうちは、誰にも、どうにもできないことだろう。
だから万一、この日記が悪用されたとしても。
サリエル本人は、なんのことやら? ということになるので。大丈夫だろう。
本日のことは、成長の過程のひとつとして記しておくが。
サリエルが、ただただ健やかに育つようにと、祈らずにはいられない。
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生活脳力のある主人公が、生活能力のない年下騎士の抜けてるとこや、美しく格好いいのにかわいいってなんだ!? とギャップにもだえながら、ゆるく仲良く暮らしていきます。
何もかも、ふわふわゆるゆる。ですが、描写はなくても主人公は受け、騎士は攻めです。

家を追い出されたのでツバメをやろうとしたら強面の乳兄弟に反対されて困っている
香歌奈
BL
ある日、突然、セレンは生まれ育った伯爵家を追い出された。
異母兄の婚約者に乱暴を働こうとした罪らしいが、全く身に覚えがない。なのに伯爵家当主となっている異母兄は家から締め出したばかりか、ヴァーレン伯爵家の籍まで抹消したと言う。
途方に暮れたセレンは、年の離れた乳兄弟ギーズを頼ることにした。ギーズは顔に大きな傷跡が残る強面の騎士。悪人からは恐れられ、女子供からは怯えられているという。でもセレンにとっては子守をしてくれた優しいお兄さん。ギーズの家に置いてもらう日々は昔のようで居心地がいい。とはいえ、いつまでも養ってもらうわけにはいかない。しかしお坊ちゃん育ちで手に職があるわけでもなく……。
「僕は女性ウケがいい。この顔を生かしてツバメをしようかな」「おい、待て。ツバメの意味がわかっているのか!」美貌の天然青年に振り回される強面騎士は、ついに実力行使に出る?!

普段「はい」しか言わない僕は、そばに人がいると怖いのに、元マスターが迫ってきて弄ばれている
迷路を跳ぶ狐
BL
全105話*六月十一日に完結する予定です。
読んでいただき、エールやお気に入り、しおりなど、ありがとうございました(*≧∀≦*)
魔法の名手が生み出した失敗作と言われていた僕の処分は、ある日突然決まった。これから捨てられる城に置き去りにされるらしい。
ずっと前から廃棄処分は決まっていたし、殺されるかと思っていたのに、そうならなかったのはよかったんだけど、なぜか僕を嫌っていたはずのマスターまでその城に残っている。
それだけならよかったんだけど、ずっとついてくる。たまにちょっと怖い。
それだけならよかったんだけど、なんだか距離が近い気がする。
勘弁してほしい。
僕は、この人と話すのが、ものすごく怖いんだ。
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