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プロローグ(大樹)

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     ◆プロローグ(大樹)

「えーん、いやだぁ、もういたいのやぁだぁぁ」
 四歳の男の子が、俺の目の前で盛大に泣いている。
 ここは病院の診察室。とはいっても、小さな診療所の小さな空間だけど。
「痛いことはしないよ? ほぉら、お口を開けて? 喉を先生に見せてね?」
 採血でチクッと注射をしたから、痛いことはもう嫌みたいだ。了解。
 オエッってならないようにヘラを舌の上に当てて、喉の赤みを確認し。アカンベェさせて黄疸おうだんがないか確かめ。首に手を当てて扁桃腺へんとうせんを調べ、聴診器で肺の音を聞く。
 嫌だと泣くのは、まぁ、ある程度元気な証拠。
 事前に採血した検査表も、白血球爆上がりなどの悪い数字はない。
 カルテにそのようなことを入力しながら、俺は三井卓也くんの付き添いであるお母さんに告げた。
「卓也くんは微熱がありますが、扁桃腺の腫れも肺の雑音もないですし、季節の風邪ですね。若干、喉の腫れがあるので柔らかい食事にして、温かくして様子を見てください」
 風邪薬の処方箋しょほうせんをプリントアウトして渡したら。卓也くんのお母さんは彼の手を引き、会釈して診察室を出て行った。

 俺こと、御厨大樹みくりやたいじゅは町のお医者さんだ。詳しく言うと、実家の診療所を継いだばかりの若先生ってやつ。
 現在二十八歳。一児のパパ。そうはいっても、未婚だけどね。
 息子の小枝こえだ、五歳は。姉の子なんだ。

 身内の恥をさらすようでなんだけど。姉はネグレクトだった。
 姉の花菜かなも俺と同じく医者で。本当はこの診療所も姉が継ぐはずだった。
 だが姉は、医者の仕事が楽しくなったようで。研修が終わっても診療所を継ぐことなく、即アメリカに留学してしまったのだ。
 そのこと自体は、全然良いのだが。
 一年後に帰国したとき、小枝を身ごもっていたみたいで。
 けれど診療所を継がなかったのが後ろめたかったのか、家には帰らず。ひとりで小枝を産んで、育てていたらしいんだ。
 らしい、というのも。花菜は小枝のことを誰にも言わず、知らせていなかったから。
 全部、事後報告だよ。
 っていうか、事が起きたあとに発覚したというか?
 そんなことになっているとは、俺も家族も全く知らなかった、ある日。突然メールが来たわけ。

「アメリカに戻ります。息子の小枝が家にいるのでよろしく」

 はぁ? よろしくって、なに? と思い。
 メールを受け取った俺は、驚きと怒りとわけのわからなさにオロオロしたが。
 文面を見ると、息子? 子供がいるみたいだから?
 慌てて花菜の家に行ったんだ。
 一応家族として合鍵を預かってはいたので、それでアパートのドアを開けたら。

 部屋の中に、腐った総菜パンを握りしめている小枝がいた。

 何日もお風呂に入っていないようで、薄汚くて匂いもあって。
 カレンダーに渡米とある、その日付は五日ほど前。
 どうやらその期間、家には小枝ひとりだったようなのだ。
 嘘でしょ? 当時、小枝は三歳だよ?
 三歳の子供を五日もひとりでいさせるなんて、正気の沙汰じゃない。

 で、小枝を父と母が営む診療所に連れ帰ったら。いきなり孫が現れて、そりゃあふたりは驚いて。腰が抜けそうになっていたけど。
 とにかく、まずは小枝のケアが先ってことで。
 ご飯を食べさせ、お風呂に入れて、寝かしつけてから。

 クワッと怒りの形相になって、花菜に文句の電話を入れたよねっ。

 そしたら、着信拒否しやがった。着拒!!
 母は娘のあまりにも非道な行いに、寝込んでしまったよ。全くもう。

 ひとりで子育てとかできもしないのに、親に頼らないとか、変なところで負けず嫌いを発揮して。強情な姉だよ。
 つか、子供を育てあげるのは人生を賭けた一大事じゃん。
 できませんでしたじゃ、すまない。子供の人生がゆがんじゃうんだからねっ。失敗は許されないんだ。
 だから、できないなら人を頼ったっていいんだよ。
 それは親として情けない、とか思っちゃうのかもしれないけど。その前に。子供のためだと思ってほしい。
 親のプライド? そんなものはドブに捨ててしまえ。
 人に頼ることは、なにも情けないことなんかじゃないんだっ。子供のことを考えれば、そうするべき。

 だが姉は、小枝を放置して逃げた…最悪の選択。無責任すぎるよな?

 少し落ち着いてから、今までの暮らしぶりを小枝にたずねた。
 すると三歳の割には結構しっかりと受け答えして。それによると。
 風呂はひとりで入れないが、トイレはできた。水分も、トイレの手洗い水を飲んでいたらしい。
 花菜は以前にも、菓子パンを置いて長く外出することがあった。
 そのときに腐った総菜パンを食べてお腹が痛くなったから。今回は腐った総菜パンは食べたくなくて、後回しにしていた。
 けれど一日以上食べるものがなかったから、食べちゃおうかな…と思っていたときに、俺が来たんだって。
 だから小枝は発見時、腐った総菜パンを握りしめていたんだ。

 その話を聞いたとき、涙が止まらなかったよ。

 もう、ネグレクト、マジ許せん。
 三歳の幼児といったら、腕はプヨプヨして柔らかくてお肉がたっぷりついていて。鉄砲玉のように、あちこち突撃していっちゃうような、元気があるものだが。
 小枝の手足はひょろ長くて、本当に頼りない小枝のよう。
 起き上がるのも億劫おっくうなのか、ノロリと動く。
 外で遊んだり、生活の中で子供の筋肉は育つものだけれど。
 たぶん、運動などはあまりしていなかったのだろう。体つきを見れば、わかる。
 そしておとなしくて、いつまでも座ってジッとしている。
 うるさくすると、花菜に怒られたのかも。頭を撫でようとして手を上げたら、ビクッと身を震わせた。そんな仕草からも想像がつく。
 体にはアザらしきものがなかったので、日常的な暴力はなかったかもしれないのは。少し良かったけど。
 五日も放置は行きすぎで、看過できない事態だ。自分が逃げるための時間稼ぎだったんだろうけど。一歩間違えたら、小枝は死んでいたかもしれないんだからな。危なかったよ、マジで。
 小枝の顔は、眉尻も目尻も垂れ気味。だからというのもあるけれど、悲しいようなすがるような顔つきで、はかない印象があって。

 とにかく小枝が可哀想でならなかった。

 お風呂で身綺麗にした小枝は、薄茶色の髪がくるりとカールして、ふわふわの綿菓子みたいで。笑うと垂れた目がふにゃんとなって、優しい表情の色白ハンサムさんで。
 こんな天使ちゃんを放置するとか、ホントに考えられない。
 自分のキャリアを伸ばすためだかなんだか知らないが、我が姉ながら、ひどすぎる。
 こんな年端もいかない子をひとりにするような人間が、一人前の医者になれるはずがない、と思うと同時に。
 ここまで子供を追い詰めた姉に、小枝はもう返せない。
 小枝は俺が、姉以上、もっともっと愛情を注いで。絶対に幸せにしてやろうって、心に決めたんだ。

 で、俺が小枝を引き取った。という経緯があります。

 俺は当時、大学病院の研修医期間中で、鬼のように忙しかったから。
 両親が養子にするという案もあったんだけど。
 なにせ親は高齢だし。小枝を成人まで、いやいやそれ以上までも、しっかりと愛情をかけて育てあげるなら、やはり俺の方がいいと思って。戸籍上は俺が父ということにした。
 まぁ正式な医者になるまでは、小枝の世話や料理とか、父と母にカバーしてもらったんだけど。御厨家のみんなで小枝を育てるみたいな感じで、話はまとまったんだ。

 というわけで俺は、未婚で未熟なシングルファーザーなのだった。

 診療所を閉め、夕方の五時すぎに保育園へ小枝を迎えに行くと。
 五歳の小枝が元気いっぱいに教室から玄関へと出てくる。
 引き取った三歳の頃は、動きもスローモーで、反応も表情も薄かった小枝だが。この二年の間に快活で健康的な幼児になったよ。まだちょっと細身だけどね。

「パパぁ、おかえりなさいぃぃ」
 髪がふわふわんしている、その癖毛が可愛いのだ。

 姉は小枝の父親のことは言わなかった…っていうか。彼女がアメリカに行ったあと、なにも聞く機会はなかったし、現在も引き続いて絶縁状態だけど。
 金に近い薄茶の髪色や目鼻立ちを見るからに、小枝はハーフだと思われます。
 外国人は大柄というのは、俺の先入観かもしれないけど。小枝には大きくなる素養があると思うんだ。
 でも小枝は他の子と比べると華奢で、身長も小さくてまだまだ体重も軽い。
 ぶっちゃけ、もっと太らせたいんだけど。
 幼い頃に栄養が行き渡らなかったからなのか、なかなかお肉にならないし。食べる量もちょっと少ないかな?
 姉のせいで飢えてたから。好き嫌いはなくなんでも食べるんだけど。まだヒョロい。

 でも大きくなったら、きっと小枝は高身長でガタイの良いハーフイケメンになるはずっ。
 そこを目指して、俺は小枝を育てあげるのだぁ。

 それはともかく、今はまだまだ軽い小枝が抱きついてきたから、俺はガバァと抱き締めてブンブン振ってやる。足が遠心力でフワッと浮くと、小枝はキャッキャと笑うのだった。
 うふふぅ、子供はやっぱり笑顔が最高だよね?
 引き取った直後は、表情がない能面状態。子供なのにすごく聞き分けが良くて。逆に、悲しくなった。
 姉の顔色をうかがっていたんじゃないかって、想像できるだろう?

 だけど今は、飛び切りの笑顔を見せてくれるから。パパは安心だ。

「小枝、おかえりなさいはお家に帰ってからだろう?」
「じゃあね、ようこそいらっしゃましたぁ」
「はいはい、こんにちは小枝くん。お家に帰りますよ、先生にさようならしてぇ?」
 保育園の先生に挨拶して、薄闇の中、帰路につく。

「今日はねぇ、字がいっぱいのごほんをこえを出してよんで、先生がすごいねっていってくれたよ?」
「へぇ? すごいなぁ。小枝は天才だな?」
「てんさいじゃないよぉ。まだ、かんじは、すうじしかわからないもん」
 家までの道程を、俺は小枝と手をつないで歩く。えへへと笑いながら。

 保育園にある御本は、ほぼひらがなだと思うけれど。それをこの年で口に出して読めるのが、俺はすごいと思うけどなぁ。
 腐ったパンを食べなかったときの話からも察せられるように。小枝はとても賢い子だと思うのだ。
 以前、お腹が痛くなったときのことを覚えていて、同じ失敗をしないようにするとか。そもそもいたんでいるのを匂いで判別するとか、三歳のときになかなかできるものではない。
 小枝の脳みそは高性能なのだ。
 だから、小枝の良いところを伸ばしつつ、しっかりと教育をすれば。きっと小枝は将来、なりたい者になれるはず。
 教師でもパイロットでも宇宙飛行士でも。医者は…おすすめしないけど。
 だって小枝は優しい子だから、痛がっている人や怪我した人を見たら、可哀想になっちゃうんじゃないかなって。
 まぁ、なんでもいいか。
 小枝がなりたい者になるのが、一番良いよ。俺はそのお手伝いに尽力するのみだ。

 診療所の裏手が住居スペースになっている。
 家の玄関に入ったら、ただいまぁを言って。仏間の仏壇に手を合わせて。洗面所で手を洗って。俺が食事の用意をしているときに、小枝は洗濯物をたたむ係をする。
 そうなのだ。頼りにしていた父母は亡くなった。
 外科医となって一年目、父が病に倒れ。俺は診療所を急遽きゅうきょ継ぐことになった。
 もう少し大学病院でスキルを高めたかったという思いはあったが、幼い小枝に寂しい思いをさせたくないな、とも思っていて。
 診療所を継いで小枝と暮らすことは、あらかじめ視野に入れていた。
 だから、研修医時代にしっかり全科を網羅していて。父の引退に合わせ、すんなり診療所で務めることができたのだが。
 父も癌には勝てず。後を追うように母も亡くなってしまった。

 これで完全に父子家庭になってしまったが。

 不幸中の幸いなのは、父が診療所を残してくれて、しっかり引き継ぎも済ませていたことだ。
 九時五時で仕事を終えられるのは、子育てには良い環境だし。経営状態も悪くないから、小枝を充分に養える。
 料理はちょっと苦手だが、今は焼くだけとか煮るだけの料理キットも充実していて、重宝しているよ。
 シングルファーザーに優しい、いい時代だ。

 机の上には、ハンバーグをモリモリ乗せた大皿がある。
 料理が苦手といっても、切って焼くくらいのことは俺もできるよ。凝った味付けの料理ができないだけで。
 ひき肉に塩コショウとナツメグを入れて、混ぜて固めて焼くだけのハンバーグは、作れるぞ。
 ハンバーグのソースは市販のタレだけどなっ。
 あと付け合わせのサラダと、味噌汁とご飯を出して…。
 味噌汁はフリーズドライだけどなっ。

 しっかり食べて、大きくなれよぉと願いつつ。
「「いただきまーす」」
 俺と小枝は手を合わせて、大きな声で言い。夕食を食べるのだった。

「パパぁ、ハンバーグ、もりすぎだよぉ」
「少ないより多い方がいいの。いっぱい食べろよ、小枝」
「こんなにたべられないよぉ、ハンバーグなだれがおきそうだよぉ」
 なんて、言ってるけど。小枝はハンバーグもう三つ目だ。

 な? 少ないより多い方がいいだろう?

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