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プロローグ(大樹)
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◆プロローグ(大樹)
「えーん、いやだぁ、もういたいのやぁだぁぁ」
四歳の男の子が、俺の目の前で盛大に泣いている。
ここは病院の診察室。とはいっても、小さな診療所の小さな空間だけど。
「痛いことはしないよ? ほぉら、お口を開けて? 喉を先生に見せてね?」
採血でチクッと注射をしたから、痛いことはもう嫌みたいだ。了解。
オエッってならないようにヘラを舌の上に当てて、喉の赤みを確認し。アカンベェさせて黄疸がないか確かめ。首に手を当てて扁桃腺を調べ、聴診器で肺の音を聞く。
嫌だと泣くのは、まぁ、ある程度元気な証拠。
事前に採血した検査表も、白血球爆上がりなどの悪い数字はない。
カルテにそのようなことを入力しながら、俺は三井卓也くんの付き添いであるお母さんに告げた。
「卓也くんは微熱がありますが、扁桃腺の腫れも肺の雑音もないですし、季節の風邪ですね。若干、喉の腫れがあるので柔らかい食事にして、温かくして様子を見てください」
風邪薬の処方箋をプリントアウトして渡したら。卓也くんのお母さんは彼の手を引き、会釈して診察室を出て行った。
俺こと、御厨大樹は町のお医者さんだ。詳しく言うと、実家の診療所を継いだばかりの若先生ってやつ。
現在二十八歳。一児のパパ。そうはいっても、未婚だけどね。
息子の小枝、五歳は。姉の子なんだ。
身内の恥をさらすようでなんだけど。姉はネグレクトだった。
姉の花菜も俺と同じく医者で。本当はこの診療所も姉が継ぐはずだった。
だが姉は、医者の仕事が楽しくなったようで。研修が終わっても診療所を継ぐことなく、即アメリカに留学してしまったのだ。
そのこと自体は、全然良いのだが。
一年後に帰国したとき、小枝を身ごもっていたみたいで。
けれど診療所を継がなかったのが後ろめたかったのか、家には帰らず。ひとりで小枝を産んで、育てていたらしいんだ。
らしい、というのも。花菜は小枝のことを誰にも言わず、知らせていなかったから。
全部、事後報告だよ。
っていうか、事が起きたあとに発覚したというか?
そんなことになっているとは、俺も家族も全く知らなかった、ある日。突然メールが来たわけ。
「アメリカに戻ります。息子の小枝が家にいるのでよろしく」
はぁ? よろしくって、なに? と思い。
メールを受け取った俺は、驚きと怒りとわけのわからなさにオロオロしたが。
文面を見ると、息子? 子供がいるみたいだから?
慌てて花菜の家に行ったんだ。
一応家族として合鍵を預かってはいたので、それでアパートのドアを開けたら。
部屋の中に、腐った総菜パンを握りしめている小枝がいた。
何日もお風呂に入っていないようで、薄汚くて匂いもあって。
カレンダーに渡米とある、その日付は五日ほど前。
どうやらその期間、家には小枝ひとりだったようなのだ。
嘘でしょ? 当時、小枝は三歳だよ?
三歳の子供を五日もひとりでいさせるなんて、正気の沙汰じゃない。
で、小枝を父と母が営む診療所に連れ帰ったら。いきなり孫が現れて、そりゃあふたりは驚いて。腰が抜けそうになっていたけど。
とにかく、まずは小枝のケアが先ってことで。
ご飯を食べさせ、お風呂に入れて、寝かしつけてから。
クワッと怒りの形相になって、花菜に文句の電話を入れたよねっ。
そしたら、着信拒否しやがった。着拒!!
母は娘のあまりにも非道な行いに、寝込んでしまったよ。全くもう。
ひとりで子育てとかできもしないのに、親に頼らないとか、変なところで負けず嫌いを発揮して。強情な姉だよ。
つか、子供を育てあげるのは人生を賭けた一大事じゃん。
できませんでしたじゃ、すまない。子供の人生がゆがんじゃうんだからねっ。失敗は許されないんだ。
だから、できないなら人を頼ったっていいんだよ。
それは親として情けない、とか思っちゃうのかもしれないけど。その前に。子供のためだと思ってほしい。
親のプライド? そんなものはドブに捨ててしまえ。
人に頼ることは、なにも情けないことなんかじゃないんだっ。子供のことを考えれば、そうするべき。
だが姉は、小枝を放置して逃げた…最悪の選択。無責任すぎるよな?
少し落ち着いてから、今までの暮らしぶりを小枝にたずねた。
すると三歳の割には結構しっかりと受け答えして。それによると。
風呂はひとりで入れないが、トイレはできた。水分も、トイレの手洗い水を飲んでいたらしい。
花菜は以前にも、菓子パンを置いて長く外出することがあった。
そのときに腐った総菜パンを食べてお腹が痛くなったから。今回は腐った総菜パンは食べたくなくて、後回しにしていた。
けれど一日以上食べるものがなかったから、食べちゃおうかな…と思っていたときに、俺が来たんだって。
だから小枝は発見時、腐った総菜パンを握りしめていたんだ。
その話を聞いたとき、涙が止まらなかったよ。
もう、ネグレクト、マジ許せん。
三歳の幼児といったら、腕はプヨプヨして柔らかくてお肉がたっぷりついていて。鉄砲玉のように、あちこち突撃していっちゃうような、元気があるものだが。
小枝の手足はひょろ長くて、本当に頼りない小枝のよう。
起き上がるのも億劫なのか、ノロリと動く。
外で遊んだり、生活の中で子供の筋肉は育つものだけれど。
たぶん、運動などはあまりしていなかったのだろう。体つきを見れば、わかる。
そしておとなしくて、いつまでも座ってジッとしている。
うるさくすると、花菜に怒られたのかも。頭を撫でようとして手を上げたら、ビクッと身を震わせた。そんな仕草からも想像がつく。
体にはアザらしきものがなかったので、日常的な暴力はなかったかもしれないのは。少し良かったけど。
五日も放置は行きすぎで、看過できない事態だ。自分が逃げるための時間稼ぎだったんだろうけど。一歩間違えたら、小枝は死んでいたかもしれないんだからな。危なかったよ、マジで。
小枝の顔は、眉尻も目尻も垂れ気味。だからというのもあるけれど、悲しいようなすがるような顔つきで、儚い印象があって。
とにかく小枝が可哀想でならなかった。
お風呂で身綺麗にした小枝は、薄茶色の髪がくるりとカールして、ふわふわの綿菓子みたいで。笑うと垂れた目がふにゃんとなって、優しい表情の色白ハンサムさんで。
こんな天使ちゃんを放置するとか、ホントに考えられない。
自分のキャリアを伸ばすためだかなんだか知らないが、我が姉ながら、ひどすぎる。
こんな年端もいかない子をひとりにするような人間が、一人前の医者になれるはずがない、と思うと同時に。
ここまで子供を追い詰めた姉に、小枝はもう返せない。
小枝は俺が、姉以上、もっともっと愛情を注いで。絶対に幸せにしてやろうって、心に決めたんだ。
で、俺が小枝を引き取った。という経緯があります。
俺は当時、大学病院の研修医期間中で、鬼のように忙しかったから。
両親が養子にするという案もあったんだけど。
なにせ親は高齢だし。小枝を成人まで、いやいやそれ以上までも、しっかりと愛情をかけて育てあげるなら、やはり俺の方がいいと思って。戸籍上は俺が父ということにした。
まぁ正式な医者になるまでは、小枝の世話や料理とか、父と母にカバーしてもらったんだけど。御厨家のみんなで小枝を育てるみたいな感じで、話はまとまったんだ。
というわけで俺は、未婚で未熟なシングルファーザーなのだった。
診療所を閉め、夕方の五時すぎに保育園へ小枝を迎えに行くと。
五歳の小枝が元気いっぱいに教室から玄関へと出てくる。
引き取った三歳の頃は、動きもスローモーで、反応も表情も薄かった小枝だが。この二年の間に快活で健康的な幼児になったよ。まだちょっと細身だけどね。
「パパぁ、おかえりなさいぃぃ」
髪がふわふわんしている、その癖毛が可愛いのだ。
姉は小枝の父親のことは言わなかった…っていうか。彼女がアメリカに行ったあと、なにも聞く機会はなかったし、現在も引き続いて絶縁状態だけど。
金に近い薄茶の髪色や目鼻立ちを見るからに、小枝はハーフだと思われます。
外国人は大柄というのは、俺の先入観かもしれないけど。小枝には大きくなる素養があると思うんだ。
でも小枝は他の子と比べると華奢で、身長も小さくてまだまだ体重も軽い。
ぶっちゃけ、もっと太らせたいんだけど。
幼い頃に栄養が行き渡らなかったからなのか、なかなかお肉にならないし。食べる量もちょっと少ないかな?
姉のせいで飢えてたから。好き嫌いはなくなんでも食べるんだけど。まだヒョロい。
でも大きくなったら、きっと小枝は高身長でガタイの良いハーフイケメンになるはずっ。
そこを目指して、俺は小枝を育てあげるのだぁ。
それはともかく、今はまだまだ軽い小枝が抱きついてきたから、俺はガバァと抱き締めてブンブン振ってやる。足が遠心力でフワッと浮くと、小枝はキャッキャと笑うのだった。
うふふぅ、子供はやっぱり笑顔が最高だよね?
引き取った直後は、表情がない能面状態。子供なのにすごく聞き分けが良くて。逆に、悲しくなった。
姉の顔色をうかがっていたんじゃないかって、想像できるだろう?
だけど今は、飛び切りの笑顔を見せてくれるから。パパは安心だ。
「小枝、おかえりなさいはお家に帰ってからだろう?」
「じゃあね、ようこそいらっしゃましたぁ」
「はいはい、こんにちは小枝くん。お家に帰りますよ、先生にさようならしてぇ?」
保育園の先生に挨拶して、薄闇の中、帰路につく。
「今日はねぇ、字がいっぱいのごほんをこえを出してよんで、先生がすごいねっていってくれたよ?」
「へぇ? すごいなぁ。小枝は天才だな?」
「てんさいじゃないよぉ。まだ、かんじは、すうじしかわからないもん」
家までの道程を、俺は小枝と手をつないで歩く。えへへと笑いながら。
保育園にある御本は、ほぼひらがなだと思うけれど。それをこの年で口に出して読めるのが、俺はすごいと思うけどなぁ。
腐ったパンを食べなかったときの話からも察せられるように。小枝はとても賢い子だと思うのだ。
以前、お腹が痛くなったときのことを覚えていて、同じ失敗をしないようにするとか。そもそも傷んでいるのを匂いで判別するとか、三歳のときになかなかできるものではない。
小枝の脳みそは高性能なのだ。
だから、小枝の良いところを伸ばしつつ、しっかりと教育をすれば。きっと小枝は将来、なりたい者になれるはず。
教師でもパイロットでも宇宙飛行士でも。医者は…おすすめしないけど。
だって小枝は優しい子だから、痛がっている人や怪我した人を見たら、可哀想になっちゃうんじゃないかなって。
まぁ、なんでもいいか。
小枝がなりたい者になるのが、一番良いよ。俺はそのお手伝いに尽力するのみだ。
診療所の裏手が住居スペースになっている。
家の玄関に入ったら、ただいまぁを言って。仏間の仏壇に手を合わせて。洗面所で手を洗って。俺が食事の用意をしているときに、小枝は洗濯物をたたむ係をする。
そうなのだ。頼りにしていた父母は亡くなった。
外科医となって一年目、父が病に倒れ。俺は診療所を急遽継ぐことになった。
もう少し大学病院でスキルを高めたかったという思いはあったが、幼い小枝に寂しい思いをさせたくないな、とも思っていて。
診療所を継いで小枝と暮らすことは、あらかじめ視野に入れていた。
だから、研修医時代にしっかり全科を網羅していて。父の引退に合わせ、すんなり診療所で務めることができたのだが。
父も癌には勝てず。後を追うように母も亡くなってしまった。
これで完全に父子家庭になってしまったが。
不幸中の幸いなのは、父が診療所を残してくれて、しっかり引き継ぎも済ませていたことだ。
九時五時で仕事を終えられるのは、子育てには良い環境だし。経営状態も悪くないから、小枝を充分に養える。
料理はちょっと苦手だが、今は焼くだけとか煮るだけの料理キットも充実していて、重宝しているよ。
シングルファーザーに優しい、いい時代だ。
机の上には、ハンバーグをモリモリ乗せた大皿がある。
料理が苦手といっても、切って焼くくらいのことは俺もできるよ。凝った味付けの料理ができないだけで。
ひき肉に塩コショウとナツメグを入れて、混ぜて固めて焼くだけのハンバーグは、作れるぞ。
ハンバーグのソースは市販のタレだけどなっ。
あと付け合わせのサラダと、味噌汁とご飯を出して…。
味噌汁はフリーズドライだけどなっ。
しっかり食べて、大きくなれよぉと願いつつ。
「「いただきまーす」」
俺と小枝は手を合わせて、大きな声で言い。夕食を食べるのだった。
「パパぁ、ハンバーグ、もりすぎだよぉ」
「少ないより多い方がいいの。いっぱい食べろよ、小枝」
「こんなにたべられないよぉ、ハンバーグなだれがおきそうだよぉ」
なんて、言ってるけど。小枝はハンバーグもう三つ目だ。
な? 少ないより多い方がいいだろう?
「えーん、いやだぁ、もういたいのやぁだぁぁ」
四歳の男の子が、俺の目の前で盛大に泣いている。
ここは病院の診察室。とはいっても、小さな診療所の小さな空間だけど。
「痛いことはしないよ? ほぉら、お口を開けて? 喉を先生に見せてね?」
採血でチクッと注射をしたから、痛いことはもう嫌みたいだ。了解。
オエッってならないようにヘラを舌の上に当てて、喉の赤みを確認し。アカンベェさせて黄疸がないか確かめ。首に手を当てて扁桃腺を調べ、聴診器で肺の音を聞く。
嫌だと泣くのは、まぁ、ある程度元気な証拠。
事前に採血した検査表も、白血球爆上がりなどの悪い数字はない。
カルテにそのようなことを入力しながら、俺は三井卓也くんの付き添いであるお母さんに告げた。
「卓也くんは微熱がありますが、扁桃腺の腫れも肺の雑音もないですし、季節の風邪ですね。若干、喉の腫れがあるので柔らかい食事にして、温かくして様子を見てください」
風邪薬の処方箋をプリントアウトして渡したら。卓也くんのお母さんは彼の手を引き、会釈して診察室を出て行った。
俺こと、御厨大樹は町のお医者さんだ。詳しく言うと、実家の診療所を継いだばかりの若先生ってやつ。
現在二十八歳。一児のパパ。そうはいっても、未婚だけどね。
息子の小枝、五歳は。姉の子なんだ。
身内の恥をさらすようでなんだけど。姉はネグレクトだった。
姉の花菜も俺と同じく医者で。本当はこの診療所も姉が継ぐはずだった。
だが姉は、医者の仕事が楽しくなったようで。研修が終わっても診療所を継ぐことなく、即アメリカに留学してしまったのだ。
そのこと自体は、全然良いのだが。
一年後に帰国したとき、小枝を身ごもっていたみたいで。
けれど診療所を継がなかったのが後ろめたかったのか、家には帰らず。ひとりで小枝を産んで、育てていたらしいんだ。
らしい、というのも。花菜は小枝のことを誰にも言わず、知らせていなかったから。
全部、事後報告だよ。
っていうか、事が起きたあとに発覚したというか?
そんなことになっているとは、俺も家族も全く知らなかった、ある日。突然メールが来たわけ。
「アメリカに戻ります。息子の小枝が家にいるのでよろしく」
はぁ? よろしくって、なに? と思い。
メールを受け取った俺は、驚きと怒りとわけのわからなさにオロオロしたが。
文面を見ると、息子? 子供がいるみたいだから?
慌てて花菜の家に行ったんだ。
一応家族として合鍵を預かってはいたので、それでアパートのドアを開けたら。
部屋の中に、腐った総菜パンを握りしめている小枝がいた。
何日もお風呂に入っていないようで、薄汚くて匂いもあって。
カレンダーに渡米とある、その日付は五日ほど前。
どうやらその期間、家には小枝ひとりだったようなのだ。
嘘でしょ? 当時、小枝は三歳だよ?
三歳の子供を五日もひとりでいさせるなんて、正気の沙汰じゃない。
で、小枝を父と母が営む診療所に連れ帰ったら。いきなり孫が現れて、そりゃあふたりは驚いて。腰が抜けそうになっていたけど。
とにかく、まずは小枝のケアが先ってことで。
ご飯を食べさせ、お風呂に入れて、寝かしつけてから。
クワッと怒りの形相になって、花菜に文句の電話を入れたよねっ。
そしたら、着信拒否しやがった。着拒!!
母は娘のあまりにも非道な行いに、寝込んでしまったよ。全くもう。
ひとりで子育てとかできもしないのに、親に頼らないとか、変なところで負けず嫌いを発揮して。強情な姉だよ。
つか、子供を育てあげるのは人生を賭けた一大事じゃん。
できませんでしたじゃ、すまない。子供の人生がゆがんじゃうんだからねっ。失敗は許されないんだ。
だから、できないなら人を頼ったっていいんだよ。
それは親として情けない、とか思っちゃうのかもしれないけど。その前に。子供のためだと思ってほしい。
親のプライド? そんなものはドブに捨ててしまえ。
人に頼ることは、なにも情けないことなんかじゃないんだっ。子供のことを考えれば、そうするべき。
だが姉は、小枝を放置して逃げた…最悪の選択。無責任すぎるよな?
少し落ち着いてから、今までの暮らしぶりを小枝にたずねた。
すると三歳の割には結構しっかりと受け答えして。それによると。
風呂はひとりで入れないが、トイレはできた。水分も、トイレの手洗い水を飲んでいたらしい。
花菜は以前にも、菓子パンを置いて長く外出することがあった。
そのときに腐った総菜パンを食べてお腹が痛くなったから。今回は腐った総菜パンは食べたくなくて、後回しにしていた。
けれど一日以上食べるものがなかったから、食べちゃおうかな…と思っていたときに、俺が来たんだって。
だから小枝は発見時、腐った総菜パンを握りしめていたんだ。
その話を聞いたとき、涙が止まらなかったよ。
もう、ネグレクト、マジ許せん。
三歳の幼児といったら、腕はプヨプヨして柔らかくてお肉がたっぷりついていて。鉄砲玉のように、あちこち突撃していっちゃうような、元気があるものだが。
小枝の手足はひょろ長くて、本当に頼りない小枝のよう。
起き上がるのも億劫なのか、ノロリと動く。
外で遊んだり、生活の中で子供の筋肉は育つものだけれど。
たぶん、運動などはあまりしていなかったのだろう。体つきを見れば、わかる。
そしておとなしくて、いつまでも座ってジッとしている。
うるさくすると、花菜に怒られたのかも。頭を撫でようとして手を上げたら、ビクッと身を震わせた。そんな仕草からも想像がつく。
体にはアザらしきものがなかったので、日常的な暴力はなかったかもしれないのは。少し良かったけど。
五日も放置は行きすぎで、看過できない事態だ。自分が逃げるための時間稼ぎだったんだろうけど。一歩間違えたら、小枝は死んでいたかもしれないんだからな。危なかったよ、マジで。
小枝の顔は、眉尻も目尻も垂れ気味。だからというのもあるけれど、悲しいようなすがるような顔つきで、儚い印象があって。
とにかく小枝が可哀想でならなかった。
お風呂で身綺麗にした小枝は、薄茶色の髪がくるりとカールして、ふわふわの綿菓子みたいで。笑うと垂れた目がふにゃんとなって、優しい表情の色白ハンサムさんで。
こんな天使ちゃんを放置するとか、ホントに考えられない。
自分のキャリアを伸ばすためだかなんだか知らないが、我が姉ながら、ひどすぎる。
こんな年端もいかない子をひとりにするような人間が、一人前の医者になれるはずがない、と思うと同時に。
ここまで子供を追い詰めた姉に、小枝はもう返せない。
小枝は俺が、姉以上、もっともっと愛情を注いで。絶対に幸せにしてやろうって、心に決めたんだ。
で、俺が小枝を引き取った。という経緯があります。
俺は当時、大学病院の研修医期間中で、鬼のように忙しかったから。
両親が養子にするという案もあったんだけど。
なにせ親は高齢だし。小枝を成人まで、いやいやそれ以上までも、しっかりと愛情をかけて育てあげるなら、やはり俺の方がいいと思って。戸籍上は俺が父ということにした。
まぁ正式な医者になるまでは、小枝の世話や料理とか、父と母にカバーしてもらったんだけど。御厨家のみんなで小枝を育てるみたいな感じで、話はまとまったんだ。
というわけで俺は、未婚で未熟なシングルファーザーなのだった。
診療所を閉め、夕方の五時すぎに保育園へ小枝を迎えに行くと。
五歳の小枝が元気いっぱいに教室から玄関へと出てくる。
引き取った三歳の頃は、動きもスローモーで、反応も表情も薄かった小枝だが。この二年の間に快活で健康的な幼児になったよ。まだちょっと細身だけどね。
「パパぁ、おかえりなさいぃぃ」
髪がふわふわんしている、その癖毛が可愛いのだ。
姉は小枝の父親のことは言わなかった…っていうか。彼女がアメリカに行ったあと、なにも聞く機会はなかったし、現在も引き続いて絶縁状態だけど。
金に近い薄茶の髪色や目鼻立ちを見るからに、小枝はハーフだと思われます。
外国人は大柄というのは、俺の先入観かもしれないけど。小枝には大きくなる素養があると思うんだ。
でも小枝は他の子と比べると華奢で、身長も小さくてまだまだ体重も軽い。
ぶっちゃけ、もっと太らせたいんだけど。
幼い頃に栄養が行き渡らなかったからなのか、なかなかお肉にならないし。食べる量もちょっと少ないかな?
姉のせいで飢えてたから。好き嫌いはなくなんでも食べるんだけど。まだヒョロい。
でも大きくなったら、きっと小枝は高身長でガタイの良いハーフイケメンになるはずっ。
そこを目指して、俺は小枝を育てあげるのだぁ。
それはともかく、今はまだまだ軽い小枝が抱きついてきたから、俺はガバァと抱き締めてブンブン振ってやる。足が遠心力でフワッと浮くと、小枝はキャッキャと笑うのだった。
うふふぅ、子供はやっぱり笑顔が最高だよね?
引き取った直後は、表情がない能面状態。子供なのにすごく聞き分けが良くて。逆に、悲しくなった。
姉の顔色をうかがっていたんじゃないかって、想像できるだろう?
だけど今は、飛び切りの笑顔を見せてくれるから。パパは安心だ。
「小枝、おかえりなさいはお家に帰ってからだろう?」
「じゃあね、ようこそいらっしゃましたぁ」
「はいはい、こんにちは小枝くん。お家に帰りますよ、先生にさようならしてぇ?」
保育園の先生に挨拶して、薄闇の中、帰路につく。
「今日はねぇ、字がいっぱいのごほんをこえを出してよんで、先生がすごいねっていってくれたよ?」
「へぇ? すごいなぁ。小枝は天才だな?」
「てんさいじゃないよぉ。まだ、かんじは、すうじしかわからないもん」
家までの道程を、俺は小枝と手をつないで歩く。えへへと笑いながら。
保育園にある御本は、ほぼひらがなだと思うけれど。それをこの年で口に出して読めるのが、俺はすごいと思うけどなぁ。
腐ったパンを食べなかったときの話からも察せられるように。小枝はとても賢い子だと思うのだ。
以前、お腹が痛くなったときのことを覚えていて、同じ失敗をしないようにするとか。そもそも傷んでいるのを匂いで判別するとか、三歳のときになかなかできるものではない。
小枝の脳みそは高性能なのだ。
だから、小枝の良いところを伸ばしつつ、しっかりと教育をすれば。きっと小枝は将来、なりたい者になれるはず。
教師でもパイロットでも宇宙飛行士でも。医者は…おすすめしないけど。
だって小枝は優しい子だから、痛がっている人や怪我した人を見たら、可哀想になっちゃうんじゃないかなって。
まぁ、なんでもいいか。
小枝がなりたい者になるのが、一番良いよ。俺はそのお手伝いに尽力するのみだ。
診療所の裏手が住居スペースになっている。
家の玄関に入ったら、ただいまぁを言って。仏間の仏壇に手を合わせて。洗面所で手を洗って。俺が食事の用意をしているときに、小枝は洗濯物をたたむ係をする。
そうなのだ。頼りにしていた父母は亡くなった。
外科医となって一年目、父が病に倒れ。俺は診療所を急遽継ぐことになった。
もう少し大学病院でスキルを高めたかったという思いはあったが、幼い小枝に寂しい思いをさせたくないな、とも思っていて。
診療所を継いで小枝と暮らすことは、あらかじめ視野に入れていた。
だから、研修医時代にしっかり全科を網羅していて。父の引退に合わせ、すんなり診療所で務めることができたのだが。
父も癌には勝てず。後を追うように母も亡くなってしまった。
これで完全に父子家庭になってしまったが。
不幸中の幸いなのは、父が診療所を残してくれて、しっかり引き継ぎも済ませていたことだ。
九時五時で仕事を終えられるのは、子育てには良い環境だし。経営状態も悪くないから、小枝を充分に養える。
料理はちょっと苦手だが、今は焼くだけとか煮るだけの料理キットも充実していて、重宝しているよ。
シングルファーザーに優しい、いい時代だ。
机の上には、ハンバーグをモリモリ乗せた大皿がある。
料理が苦手といっても、切って焼くくらいのことは俺もできるよ。凝った味付けの料理ができないだけで。
ひき肉に塩コショウとナツメグを入れて、混ぜて固めて焼くだけのハンバーグは、作れるぞ。
ハンバーグのソースは市販のタレだけどなっ。
あと付け合わせのサラダと、味噌汁とご飯を出して…。
味噌汁はフリーズドライだけどなっ。
しっかり食べて、大きくなれよぉと願いつつ。
「「いただきまーす」」
俺と小枝は手を合わせて、大きな声で言い。夕食を食べるのだった。
「パパぁ、ハンバーグ、もりすぎだよぉ」
「少ないより多い方がいいの。いっぱい食べろよ、小枝」
「こんなにたべられないよぉ、ハンバーグなだれがおきそうだよぉ」
なんて、言ってるけど。小枝はハンバーグもう三つ目だ。
な? 少ないより多い方がいいだろう?
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「当たり前だ。俺を残して逝く気だったのか? 恨むぞ」
全体的に結構シリアスですが、明確な死亡表現や主要キャラの退場は予定しておりません。
闘ったり、負傷したり、国同士の戦争描写があったります。
本編ド健全です。すみません。
※ 恋愛までが長いです。バトル小説にBLを添えて。
※ 攻めがまともに出てくるのは五話からです。
※ タイトル変更しております。旧【転生先がバトル漫画の死亡フラグが立っているライバルキャラだった件 ~本筋大幅改変なしでフラグを折りたいけど、何であんたがそこにいる~】
※ ムーンライトノベルズにも投稿しております。
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ハイスペックストーカーに追われています
たかつきよしき
BL
祐樹は美少女顔負けの美貌で、朝の通勤ラッシュアワーを、女性専用車両に乗ることで回避していた。しかし、そんなことをしたバチなのか、ハイスペック男子の昌磨に一目惚れされて求愛をうける。男に告白されるなんて、冗談じゃねぇ!!と思ったが、この昌磨という男なかなかのハイスペック。利用できる!と、判断して、近づいたのが失敗の始まり。とある切っ掛けで、男だとバラしても昌磨の愛は諦めることを知らず、ハイスペックぶりをフルに活用して迫ってくる!!
と言うタイトル通りの内容。前半は笑ってもらえたらなぁと言う気持ちで、後半はシリアスにBLらしく萌えると感じて頂けるように書きました。
完結しました。
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光る穴に落ちたら、そこは異世界でした。
みぃ
BL
自宅マンションへ帰る途中の道に淡い光を見つけ、なに? と確かめるために近づいてみると気付けば落ちていて、ぽん、と異世界に放り出された大学生が、年下の騎士に拾われる話。
生活脳力のある主人公が、生活能力のない年下騎士の抜けてるとこや、美しく格好いいのにかわいいってなんだ!? とギャップにもだえながら、ゆるく仲良く暮らしていきます。
何もかも、ふわふわゆるゆる。ですが、描写はなくても主人公は受け、騎士は攻めです。
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