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番外 モブの弟、シオン・エイデンの悩み ①
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◆モブの弟、シオン・エイデンの悩み
早く大きくなりたかった。
大きくなったら、大好きな兄上をこの手で守ってあげられるから。
ぼくの中にある、一番古い記憶は。
いつも優しく微笑んでいた兄上が、苦痛に顔をゆがませて、額から血を流している場面だった。
その血の赤が、ぼくの目を塗り潰したかのように。
目に映る景色が、怒りで赤く染まったのを覚えている。
それ以前の記憶は。ただただ、優しい兄上と母上と、ほのぼのとした空気の中、フワフワと心地よく漂っているような。そんな想いしかなかった。
いわゆる、愛情いっぱいの中でぬくぬくと育ったということかな。
だから。ぼくを愛で包んでくれる兄上が、傷つけられるということが。たまらなく腹立たしかったのだ。
でも、そのとき四歳の、小さなぼくは。兄上を守ることができなかった。
そして、変な呪いにもかかって。昼間は猫、夜は人間という生活を余儀なくされていた。
それは、まぁ、いいのだ。
物心ついたときから、そういう暮らしをしている。
もう、そういうものなのだと思ってしまっていて。
むしろ、ずっと人間でいるという生活が、ぼくには想像できないほどだ。
そうは言っても、不便なこともあるかな。
極力、他人に、自分が呪われていることを見せないようにしていて。そこに気をつかっていることくらいだけど。
でも、変化の時間は、なんとなくわかるから大丈夫なんだ。
たとえば曇りの日で、太陽が見えなくても。日没時は感覚でわかる。
変化する前に、ぼくは部屋に引き上げ。ベッドの中に、もぐり込む。
布団の中には、いつも自分の下着とズボンが置いてあって。人型になったら、それを履いて布団から出てくる。
毎日そういう生活をしているだけ。
ということで。人前で急に猫になったり人になったりという醜態は、猫になるようになってから一度もさらしていない。心配無用だ。
貴族の子息というのは、生まれたときから母上とは引き離されるものだ。
世話をするのは乳母だから。手が離れると、ひとり部屋を与えられて。
公爵家の別邸で暮らしていたときは、すでに一人部屋だった。
だけど。猫に変わるようになってしまい。兄上は気の毒に思ったのか。ぼくが死にそうになるのを見て怖くなったのか。ぼくといっしょに寝てくれるようになったのだ。
猫の姿を他人に見られないようにという対策もあるかな?
これは、不幸中の幸い。いや、僥倖というやつである。
それで、大叔母様のお屋敷に保護されたあと、ぼくは兄上と同じ部屋で寝ていて。母上は別室を使っていた。
貴族の女性は、たとえ身内でも、旦那様以外の異性と部屋を同じにはしないという。そういうルールというか常識があるんだって。
「まだ、母親に甘えたい年頃だろうに」
同じベッドの中、兄上はそう言い、キュッと抱き締めてくれたが。
いえいえ、兄上。ぼくは兄上が一緒に寝てくれるだけで充分満足なのです。
それが究極の喜びなのです。
手をモミモミしたくなるほど、嬉しいのです。
母はほっぺギュッギュするので、むしろ兄上が良いです。
それに、兄上だって。ぼくの年頃には、もう母に甘えていなかったはずです。
なのに、急にそんなことを言い始めたのは…。
やっぱりぼくが、猫になる呪いを受けてしまったからでしょうか?
だったらぼくは、この呪いに感謝したいくらいです。
だって、大好きな兄上のそばに、ずっといられるのですから。
しかし、そんな幸せな日々は長く続かなかった。
兄上が、自立を目指したからだ。
まず、兄上は大叔母様の屋敷の雑用をするようになった。
使用人がいるので、仕事はしなくていい。子供のうちは勉強やマナーを学びなさいと、大叔母様や母上に散々言われたが。
匿ってくれた恩を返したい。早く身を立てて家族を養いたい。
兄上は、そう言って。
裁縫の腕前を、大叔母様に披露し。自分が働けるということを、アピールした。
それほどまでに言うのならと、大叔母様は折れ。
兄上は十二歳になると、お針子として店に住み込みで働くことになってしまったのだ。
兄上を乗せた馬車が、屋敷の敷地から出て行く。
それをぼくは。いつまでもいつまでも見送った。猫の姿で。
大好きな兄上と、離れて暮らさなければならないのは、とても寂しかった。
涙がぽろぽろ出てきて。止まらない。
けれど。兄のいない生活を、ぼくは三年ほど我慢した。
だって、兄上は。ぼくらのために、頑張っているんだ。
いつか、家族三人で暮らすときのために。
だから、兄上のいない三年間。ぼくは体を鍛えた。
昼間、猫のうちに寝るだけ寝て。日が落ちたら、剣の稽古をした。
大叔父上のジェラルドは、五十歳になろうかという年齢だったが。学生時代に培ったという剣の腕前は衰えていない。
ジェラルドに相手をしてもらっていたら、騎士にもなれると太鼓判を押されるくらいには、強くなったよ。
今度バミネが襲い掛かってきたら、ぼくがギタギタに切り刻んでやるっ。
そして、兄上をバミネの野郎から、守るのだっ。
だけど、母上や大叔母様たちに、夜型の生活をさせられないだろう?
でも、猫のぼくと、コミュニケーションが取れるのは。兄上だけなんだ。
剣技は、自主練習ができるから。夜中、いつまでもひとりで鍛錬できるからいいが。
一般的な教育を、ぼくにするのは、時間的になかなか難しい。
ということで。ぼくが九歳、兄上が十五歳のとき。ぼくは住み込みで働いている兄上とともに、再び暮らすことになったのだ。
嬉しいですっ。
兄上なら、猫であるぼくと、意思疎通ができるので。
昼間、国語算数社会といった一般教養を教えられる。
仕事の邪魔にならない範囲だけど。
縫いつけていくだけの、単純作業のときなら、仕事しながら教えることができるからって。ぼくの勉強を請け負ってくれたんだ。
兄上は、お優しいです。
兄上がそう言ってくれているけれど、と母上に提案されたとき。ぼくは一も二もなくうなずいたよ。
早く、兄上と暮らしたいです。
でも、いざ兄上の元へ行ったら。授業は、けっこう厳しめだったけどね。
いやいや、大好きな兄上のそばにずっといられて、同じベッドで寝られるのだから。その幸福に、勝るものなどありません。
十五歳の兄上は、すでに、人気のドレス職人になっていた。
女性の服のことは、よくわからないが。今までのっぺりとしていたスカートが、ビラビラになったのだとか。
それが王都で、大流行したらしい。
その仕様は、兄上にしか作れないのだという。すごいです、兄上。
あと、年配の女性には、レースのショールなるものが流行った。
ドレスは、二の腕が出るものが多いが。レース地の物は風を通し、夏でも涼しく、さらに二の腕のふくよかさを隠してくれるという。
レースは今まで、飾り物としての用途しかなく。服飾に使用するのは斬新だったのだ。さすがです、兄上。
それで、兄上は。店の三階にある仕事部屋と、生活用の続きの間の使用を許されていた。
いわゆる大人気デザイナーの専用スペースである。
この区画には、ほとんど人は来ないから、仕事も勉強も気兼ねなくできるということだ。
ちなみに、ぼくは昼間は猫形態だけど。元が人間だからか。抜け毛はない。
毛でドレスを汚すことはないので、心配無用だ。
あと、人の体は大きくなったが。猫になっても子猫のままだ。なぜだ?
「シオン、ここでは遊びの時間など、ほとんどないからな。勉強、剣技、仕事、寝る、だ。屋敷にいた方が楽だったかもしれないぞ?」
「望むところです、兄上。僕は早く大きくなって、兄上のお手伝いをしたいのです」
「シオンは優しい子だな。でも、シオンは不器用だから、僕の手伝いは難しいかもしれないが?」
ぼくは、ジッと手のひらをみつめる。
今、兄上と同じくらいの大きさの手は。
剣を握れば、強い力を発揮できるが。
縫物やレース編みという繊細な動きが、できなかった。
猫だったら、イカ耳になるくらいしょんぼりすると。
兄上は苦笑して。ツンと、額を人差し指でつついてきた。
「適材適所だよ、シオン。僕は剣で、母上やシオンを守れない。剣技は苦手だからな。だから、シオンが僕らを守ってくれ」
柔らかく、兄上に微笑まれ。ぼくの胸はじんわりと温かくなる。
そして。ぼくが物心ついたときから、ぼくと母を守り、養おうと懸命に努めてくれた、崇高な心根を持つ兄を。
ぼくは、命を懸けて守ろうと、改めて思うのだ。
つまり。ぼくの悩みは、猫の呪いが解けないこと、ではない。
早く大きくなりたかった。
大きくなったら、大好きな兄上をこの手で守ってあげられるから。
ぼくの中にある、一番古い記憶は。
いつも優しく微笑んでいた兄上が、苦痛に顔をゆがませて、額から血を流している場面だった。
その血の赤が、ぼくの目を塗り潰したかのように。
目に映る景色が、怒りで赤く染まったのを覚えている。
それ以前の記憶は。ただただ、優しい兄上と母上と、ほのぼのとした空気の中、フワフワと心地よく漂っているような。そんな想いしかなかった。
いわゆる、愛情いっぱいの中でぬくぬくと育ったということかな。
だから。ぼくを愛で包んでくれる兄上が、傷つけられるということが。たまらなく腹立たしかったのだ。
でも、そのとき四歳の、小さなぼくは。兄上を守ることができなかった。
そして、変な呪いにもかかって。昼間は猫、夜は人間という生活を余儀なくされていた。
それは、まぁ、いいのだ。
物心ついたときから、そういう暮らしをしている。
もう、そういうものなのだと思ってしまっていて。
むしろ、ずっと人間でいるという生活が、ぼくには想像できないほどだ。
そうは言っても、不便なこともあるかな。
極力、他人に、自分が呪われていることを見せないようにしていて。そこに気をつかっていることくらいだけど。
でも、変化の時間は、なんとなくわかるから大丈夫なんだ。
たとえば曇りの日で、太陽が見えなくても。日没時は感覚でわかる。
変化する前に、ぼくは部屋に引き上げ。ベッドの中に、もぐり込む。
布団の中には、いつも自分の下着とズボンが置いてあって。人型になったら、それを履いて布団から出てくる。
毎日そういう生活をしているだけ。
ということで。人前で急に猫になったり人になったりという醜態は、猫になるようになってから一度もさらしていない。心配無用だ。
貴族の子息というのは、生まれたときから母上とは引き離されるものだ。
世話をするのは乳母だから。手が離れると、ひとり部屋を与えられて。
公爵家の別邸で暮らしていたときは、すでに一人部屋だった。
だけど。猫に変わるようになってしまい。兄上は気の毒に思ったのか。ぼくが死にそうになるのを見て怖くなったのか。ぼくといっしょに寝てくれるようになったのだ。
猫の姿を他人に見られないようにという対策もあるかな?
これは、不幸中の幸い。いや、僥倖というやつである。
それで、大叔母様のお屋敷に保護されたあと、ぼくは兄上と同じ部屋で寝ていて。母上は別室を使っていた。
貴族の女性は、たとえ身内でも、旦那様以外の異性と部屋を同じにはしないという。そういうルールというか常識があるんだって。
「まだ、母親に甘えたい年頃だろうに」
同じベッドの中、兄上はそう言い、キュッと抱き締めてくれたが。
いえいえ、兄上。ぼくは兄上が一緒に寝てくれるだけで充分満足なのです。
それが究極の喜びなのです。
手をモミモミしたくなるほど、嬉しいのです。
母はほっぺギュッギュするので、むしろ兄上が良いです。
それに、兄上だって。ぼくの年頃には、もう母に甘えていなかったはずです。
なのに、急にそんなことを言い始めたのは…。
やっぱりぼくが、猫になる呪いを受けてしまったからでしょうか?
だったらぼくは、この呪いに感謝したいくらいです。
だって、大好きな兄上のそばに、ずっといられるのですから。
しかし、そんな幸せな日々は長く続かなかった。
兄上が、自立を目指したからだ。
まず、兄上は大叔母様の屋敷の雑用をするようになった。
使用人がいるので、仕事はしなくていい。子供のうちは勉強やマナーを学びなさいと、大叔母様や母上に散々言われたが。
匿ってくれた恩を返したい。早く身を立てて家族を養いたい。
兄上は、そう言って。
裁縫の腕前を、大叔母様に披露し。自分が働けるということを、アピールした。
それほどまでに言うのならと、大叔母様は折れ。
兄上は十二歳になると、お針子として店に住み込みで働くことになってしまったのだ。
兄上を乗せた馬車が、屋敷の敷地から出て行く。
それをぼくは。いつまでもいつまでも見送った。猫の姿で。
大好きな兄上と、離れて暮らさなければならないのは、とても寂しかった。
涙がぽろぽろ出てきて。止まらない。
けれど。兄のいない生活を、ぼくは三年ほど我慢した。
だって、兄上は。ぼくらのために、頑張っているんだ。
いつか、家族三人で暮らすときのために。
だから、兄上のいない三年間。ぼくは体を鍛えた。
昼間、猫のうちに寝るだけ寝て。日が落ちたら、剣の稽古をした。
大叔父上のジェラルドは、五十歳になろうかという年齢だったが。学生時代に培ったという剣の腕前は衰えていない。
ジェラルドに相手をしてもらっていたら、騎士にもなれると太鼓判を押されるくらいには、強くなったよ。
今度バミネが襲い掛かってきたら、ぼくがギタギタに切り刻んでやるっ。
そして、兄上をバミネの野郎から、守るのだっ。
だけど、母上や大叔母様たちに、夜型の生活をさせられないだろう?
でも、猫のぼくと、コミュニケーションが取れるのは。兄上だけなんだ。
剣技は、自主練習ができるから。夜中、いつまでもひとりで鍛錬できるからいいが。
一般的な教育を、ぼくにするのは、時間的になかなか難しい。
ということで。ぼくが九歳、兄上が十五歳のとき。ぼくは住み込みで働いている兄上とともに、再び暮らすことになったのだ。
嬉しいですっ。
兄上なら、猫であるぼくと、意思疎通ができるので。
昼間、国語算数社会といった一般教養を教えられる。
仕事の邪魔にならない範囲だけど。
縫いつけていくだけの、単純作業のときなら、仕事しながら教えることができるからって。ぼくの勉強を請け負ってくれたんだ。
兄上は、お優しいです。
兄上がそう言ってくれているけれど、と母上に提案されたとき。ぼくは一も二もなくうなずいたよ。
早く、兄上と暮らしたいです。
でも、いざ兄上の元へ行ったら。授業は、けっこう厳しめだったけどね。
いやいや、大好きな兄上のそばにずっといられて、同じベッドで寝られるのだから。その幸福に、勝るものなどありません。
十五歳の兄上は、すでに、人気のドレス職人になっていた。
女性の服のことは、よくわからないが。今までのっぺりとしていたスカートが、ビラビラになったのだとか。
それが王都で、大流行したらしい。
その仕様は、兄上にしか作れないのだという。すごいです、兄上。
あと、年配の女性には、レースのショールなるものが流行った。
ドレスは、二の腕が出るものが多いが。レース地の物は風を通し、夏でも涼しく、さらに二の腕のふくよかさを隠してくれるという。
レースは今まで、飾り物としての用途しかなく。服飾に使用するのは斬新だったのだ。さすがです、兄上。
それで、兄上は。店の三階にある仕事部屋と、生活用の続きの間の使用を許されていた。
いわゆる大人気デザイナーの専用スペースである。
この区画には、ほとんど人は来ないから、仕事も勉強も気兼ねなくできるということだ。
ちなみに、ぼくは昼間は猫形態だけど。元が人間だからか。抜け毛はない。
毛でドレスを汚すことはないので、心配無用だ。
あと、人の体は大きくなったが。猫になっても子猫のままだ。なぜだ?
「シオン、ここでは遊びの時間など、ほとんどないからな。勉強、剣技、仕事、寝る、だ。屋敷にいた方が楽だったかもしれないぞ?」
「望むところです、兄上。僕は早く大きくなって、兄上のお手伝いをしたいのです」
「シオンは優しい子だな。でも、シオンは不器用だから、僕の手伝いは難しいかもしれないが?」
ぼくは、ジッと手のひらをみつめる。
今、兄上と同じくらいの大きさの手は。
剣を握れば、強い力を発揮できるが。
縫物やレース編みという繊細な動きが、できなかった。
猫だったら、イカ耳になるくらいしょんぼりすると。
兄上は苦笑して。ツンと、額を人差し指でつついてきた。
「適材適所だよ、シオン。僕は剣で、母上やシオンを守れない。剣技は苦手だからな。だから、シオンが僕らを守ってくれ」
柔らかく、兄上に微笑まれ。ぼくの胸はじんわりと温かくなる。
そして。ぼくが物心ついたときから、ぼくと母を守り、養おうと懸命に努めてくれた、崇高な心根を持つ兄を。
ぼくは、命を懸けて守ろうと、改めて思うのだ。
つまり。ぼくの悩みは、猫の呪いが解けないこと、ではない。
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