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65 雨の慕情 ①

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     ◆雨の慕情

 青桐は部屋の障子を開ける。
「だいぶ降ってきたなぁ」
 外は雨模様。美しく整えられた庭園がしとどに濡れているのが見えた。

 この部屋は、夜使用することが多く。いつもは雨戸で閉ざされているのだが。
 庭の中央には立派な松の木があって、見事だ。
 今日はあいにくの天気だが、もっと早く庭園を堪能すれば良かった。

「そうですね。紫輝は途中、降られていなければよいのですが」
 堺が言うのに、青桐はこめかみを震わせる。
 また逃げられたのだ。

 青桐の屋敷から堺の屋敷へ戻って来たとき、青桐は紫輝の首根っこを捕まえようとした。
 今日こそいろいろ聞き出してやると思って。
 そうしたらあの黒猫耳は、気配を察知したようで。
『雨が降るから、今日はこれまで』と言って、黒馬に乗ってシャッと帰りやがった。
 あいつめっ。

 金銭のことは赤穂の許可があるようなので、遠慮なく使わせてもらうつもりだが。
 他にも、己と赤穂が入れ替わる件や。
 金蓮が赤穂を殺していないという、その詳細とか。
 そもそもあいつはなにをしようとしているのか、とか。

 マジで。早急に知りたいのにっ。

 紫輝は赤穂が生きているのを知っていて、愛鷹山まで己に会いに来たわけだ。
 もちろん、親友の堺がやりたくもない命令に従わなければならなかったことを心配して…という理由もあるのだろうが。
 なんとなく、泳がせられているような。
 あいつの手のひらの上で踊らされているような。そんな不快感がある。

 知らない間に、というのが青桐は嫌なのだ。
 利用とか誘導とかされるのではなく。裏があるならそれを知り、その上で動きたいではないか。

 紫輝からはその説明が聞きたいのだ。
 紫輝の、思惑を。

 そうは言っても、ザザッと音が鳴るほどの本降りだ。今日はもう外に行く活動はできそうにない。
「こういう日は本でも読んで、のんびり過ごしたいものだな?」
「少しですが屋敷に所蔵している本があります。見てみますか?」
 堺の言葉に、一も二もなくうなずいた。
 青桐は読書が趣味なのだ。

 一番好きなのは、道場で剣術をすることだが。余暇は本を読みたい派。
 山の中で人と会わずに、修行僧のような、己を律する生活をしてきた中。青桐の知識欲を満たしてくれたのが書物だった。
 爺さんは、本には世の大概のことは書かれていると言い。青桐もそう思って、与えられた本は片っ端から読んだ。
 何度も繰り返し読んだ。ソラで口に出して言えるほど、本の知識は身に染み込んでいる。
 書物は貴重だ。
 いわゆる、金額がお高い。
 しかし質素な生活を送りながらも。爺さんは本を買う金は惜しまなかった。

 ここに来て、きこりのときに使っていた山小屋がどうなっているのか、気になった。
 特に私物で取り返したいものなどはないのだが。
 本だけは回収できたらいいなぁと思っている。
 ま、覚えているから。いいと言えばいいのだけど。

 人気のない廊下を進み堺に案内されたのは、薄暗い小さな部屋だ。
 少し高い位置に小さな窓があり。それだけが明り取りになっている。
 堺がランプに火をつけると、壁一面に蔵書が並び、床にも本棚に入りきらない書物が積まれてあった。

「見かけると、つい買ってしまって。整理が行き届かず、お恥ずかしいのですが」
「いやいや、すごいよこの本の量。ワクワクする」
 青桐は本の背表紙を指でなぞって、端から見てみる。
 読んだ本もあるが、見たことのない本もいっぱいあるじゃん?
 寝入るまでのちょっとの時間が空虚だったのだが、これで時間を無駄にすることはなくなる。

「飛ばした本は興味がないのですか?」
 堺の言葉に、青桐はなにげなく答えた。
「いや、読んだことあるから…」

 そこまで言って、しまったと思った。

 知識があるのはともかく以前読んだ本の題名を覚えているのは、記憶を縛られた者として、アリか、ナシか?
「覚えているのですか? どんな本を読んだのか。題名も、内容も?」
 ナシだったか。
 青桐は手に取っていた本を棚に戻し。堺の手を取って、床板に座り込んだ。

「ごめん、堺。記憶は戻っている」
 堺は、今までにないくらい驚いて。そして薄青の瞳をおどおどと泳がせた。
「いつ…どうして…」
「う、ん。初日からかな? 記憶喪失のフリをしていたのは。堺にもう記憶を奪われたくなかったから」

 言うと、堺は深く頭を下げ、土下座した。

「申し訳ありません。申し訳…」
 声を震わせて、涙をぼろぼろこぼす堺が。あんまり可哀想で。
 青桐は手で堺の肩に触れ、頭をあげさせた。

「大丈夫だよ、堺が命令されてそうしたことは、もうわかっているし。ただ、ちゃんと赤穂の身代わりをするから、もう記憶は消さないでほしい。俺は堺と過ごした日々を忘れたくないんだ」
 堺は目を丸くして、青桐を信じられないというような顔でみつめる。

「許す…のですか? なんで、怒らないのですか?」
 まるで叱られたい、罵られることが当たり前、と思っているようだった。
 しかし青桐は、怒りは初日に昇華してしまっている。

 それも、堺のせいなどと思ったことは、不思議と一度もなかった。
 いや、不思議ではない。
 意識が薄れた、あのときに聞いた『私の一生は、貴方のものです』という悲壮な声に。彼の悪意を全く感じなかったからだ。
 堺自身が、己の記憶を奪いたいと思って奪ったのではないことを、初めからわかっていた。

「どうして、私など…貴方の記憶を奪う悪魔のような私を、許すのですか?」
「堺が悪魔のよう、ではないんだ。堺の能力を利用しようとする、行使した者が悪魔なんだ。堺は逃れられなかった。だから堺自身は悪くない。こうしてずっと、気に病んでいたのなら。むしろ黙っていた俺の方が申し訳なかったと思うよ」

 青桐は、泣く堺の頬にそっとくちづけた。
 癒すように、甘やかすように。
 でも堺は。驚いて、身を離してしまう。

「私、などに…私、などに…」
「堺、俺は。すべてを覚えていると言っただろう? もちろんずっと言い続けてきた、堺を愛しているという言葉にも嘘はないよ。初めて会ったとき俺が求婚したの、覚えている?」

 堺はうなずいた。もちろん、覚えている。
 龍鬼である己に、龍鬼でない普通の人が求婚するなんて。あり得ないこと。
 それが一時の気持ちでも。
 忘れ去られてしまう、気持ちでも。
 青桐のその言葉は、堺にとってキラキラに輝く宝物のように尊い言葉だったのだから。

「結婚してと言って、君は俺と一緒になると誓った。だからもう堺は、俺の伴侶なんだよ? 記憶を奪われたくなくて記憶喪失のフリをしたのは、堺が俺との結婚に承諾した、そのことを忘れたくなかったから。記憶喪失のフリまでしてここまで来たのは、堺と結ばれるまでは君のそばにいたかったから。最初から、俺は堺のことが好きで。一目惚れで、初めは容姿にかれたけれど。今は可愛らしくて、凛々しくて、優しい堺の人柄にも魅かれている。なにもかも、堺を手に入れるためにしてきたことだ」

「私のため? 私を手に入れる、そんなことのために、今まで演技を?」
「そんなことじゃない。俺にとっては人生を揺るがす、大一番だ。堺が手に入るなら、赤穂の地位も財産もいらない。堺だけが欲しかった」

 誰にも求められなかった自分を、これほどまでに求めてくれる青桐のその気持ちに、堺は身震いした。
 体の奥から嬉しさが湧き上がり。涙が止まらなかった。

「青桐様の記憶を奪ったのが私だと知られたら、嫌われてしまうと思っていました。貴方の人格を無視して、別人に仕立て上げ、嘘の人生を歩ませようとした。そんな私に、怒りを向けるのは当然のことです。嫌悪の目を向けられることを覚悟していました。でも私はズルいから。貴方が私を見限るまでは…貴方のそばに置いてもらいたくて。それまで、だけでも…」

 堺の頬を優しく撫でる、青桐の手に手を重ね。
 目でも言葉でも、青桐に問いかける。

「いいのですか? 私は、貴方のそばにいても。ずっと、そばにいても?」
「あぁ、ずっと。生涯。死がふたりを分かつまで…いや、そのあとも。永遠に、そばにいてくれ。俺の龍」

 ふたりは手を握り合い、どちらからともなく唇を寄せ、甘くてとろけるくちづけをした。
 青桐にとっては、ようやくたどり着いた、愛の結実。
 堺にとっては、なにより欲しかった言葉、想いを、愛する者から与えられた歓喜。

 埃っぽく、小さな書物庫の中で。まるで色っぽくはないけれど。ふたりにはそんなこと、どうでもいいこと。
 お互い、目の前の愛する人のことしか目に映っていなかった。

 くちづけをほどいたあとは、お互いの体温を間近に感じながら。ザアッと降る雨音が響く部屋の中で、しばらく寄り添っていた。
 体からなにかがあふれそうな心地がする。
 幸せが満ち足りるって、こういう気持ちなのかなと、ぼんやり堺は考えていた。

「でもどうして、能力がすぐ解かれてしまったのでしょう。それとも、失敗した?」
「いや、効いてたよ。術を掛けられてすぐは、俺は自分が何者かわからなくて。ぼんやりしていた。でも精神を鍛えていて。俺を育ててくれた爺さんは、精神を操る龍鬼は記憶を縛るのだと言って。頭がぼんやりしたら、こうして額をグルグルするといいって教えてくれたんだ」
 青桐は己の肩に身を寄せている堺の額を、指でコチョコチョした。

「なぜ私の術をお爺様が知っているのかとか、ツッコミどころが満載なんですけど。くすぐったいです、青桐様」
 首をすくめてフフッと吐息で笑うが、嫌がって離れることはない。
 すごく甘えているように感じ、青桐は良い気分でくすぐり続けた。
 堺の額はつるつるしていて。くすぐるこちらの指先も心地いい。

 くるくると、まるで愛撫のように堺の額を撫でていたら。

 不意に、なにか指に引っかかりを感じた。

 ニキビとか腫物ではないのだ。なにもないのに、違和感がある。
 そしてそこを撫でると、堺はなぜか痛がった。

「…っ、な、なんですか? 頭の中がビンと震えた」
「記憶を封じる糸が、堺にもある。なんで?」
 青桐がつぶやくと。堺は身を離し。床板に座り込んだまま、うつむいた。

「私には、一日分の記憶がないのです。それは八年前、両親が惨殺されたその日の記憶。兄が姿を消した、その日の記憶。記憶を縛る能力は、私の特異能力です。おそらく自分で自分を縛ったのではないかと…」
「そんな危険なこと、しないだろう? 堺」
「わからない。わからないんですけど…私が両親を殺して、兄も殺して。恐ろしくなって、自分で縛ったのかも。ずっとおかしいと思っていたのです。なぜあの日のことだけ、思い出せないのか。私は見ているはずなのに。真相を、知っているはずなのに。覚えていないなんて…」

 目を見開いて、堺だけが、なにか恐ろしいものを見ているような顔をしている。
 そのようなこと、あるはずないのに。
 彼がまるで、両親を、真実殺したみたいに嘆くから。
 青桐は堺を強く抱き締めた。

「俺は…堺と二週間しか一緒にいない。でも、それでもわかることはある。堺は両親も兄も殺せない。そんな人じゃない。堺は優しくて、強くて、心根がとても清い人だから。俺は断言できる。堺は殺していない」

 堺は思い出していた。紫輝にも同じことを言われて、励まされたことがある。
 青桐も、紫輝も、自分のことを信じてくれるのに。

 自分だけが、自分を信じられない。

 真相がどれほどひどいものなのか。知りたくない。
 知るのが、怖い。

 でも。もしも両親を殺した、兄を殺した外道であるのなら。
 己は、青桐のそばにはいられない。
 その資格がない。
 外道であればもちろん、外道であることを知らなくても。
 外道なら、青桐のそばにいてはいけないと思う。

 ならば。知らないと。
 知って。己は青桐のそばにいてもいい人物なのか、自分で確かめないと。

「青桐様、私の糸をほどいてください」
 堺は真剣な目を青桐に向け、強く決断した。

「もしも私が外道なら、青桐様のおそばにはいられません。でも、だから知りたい。あの日の真相を。貴方のそばにいるために。貴方は私を外道ではないと信じてくれた。その想いに賭けます」

 青桐はひとつうなずき。堺の額に指を引っかけた。
 糸をほどく場面を、強く、強く、思い描く。
 すると指になにかが当たるのだが。それはすごく強情だった。
 それに触れるたびに、堺は痛そうな顔をする。

 ズキン、ズキンと、堺の脳内に強い痛みが走り抜ける。
 それは記憶の扉自体がこじ開けられることを拒絶しているような、なんらかの力のように思えた。

「まだ怖いのだろう? 脅えているのだろう? その想いが、糸をかたくなにさせている」
 青桐に言われ、堺は心細そうな目で彼をみつめる。

 怖い。
 己が、本当に両親を殺していたら?
 金蓮の言うとおり『醜い、見るに堪えない、兄殺しの男』だったら?
 せっかく青桐が、記憶を奪った自分を許してくれたのに。また離れなければならなくなったら?

「だから八年も、この糸は堺の記憶を縛り続けた。真実を見たくないと思う堺の心が、糸を強固に、今も結びつけているんだ。でも堺、俺は堺を信じている。堺も俺を信じてくれ。絶対に大丈夫。大丈夫」

 痛みが走るたびに、身をこわばらせていた。
 それは糸をほどかせたくない無意識の抵抗なのかもしれないと、堺は青桐に言われて思った。

 青桐を信じて。堺は目を閉じる。
 なにもかも、青桐にゆだねる。
 強く、見えない糸を青桐が引っ張った、そのとき…なにかがプチリと千切れて。

 堺の脳内で、頑なに閉じられていた記憶の花弁がブワッと花開いた。

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