81 / 159
番外 炎龍、時雨藤王 5 ▲
しおりを挟む
宵の口に馬に乗り、基地を飛び出した藤王だったが。夜は馬が闇を怖がって走らなくなるし、半日かけて本拠地へ向かったら遅いような気がして。龍鬼の能力で、瞬間移動をすることにした。
しかしこの能力は、大きな痛手を負うことになる。理を無視して移動距離を歪めるので、それなりの代償が求められる。
だがどれほど傷を負っても、堺が死ぬよりはマシだ。
藤王は本拠地の場所を詳細に思い浮かべ、一歩踏み出す。
そこは本拠地の、左軍宿舎前だった。
成功したと思った途端、激しい目眩と咳き込みが起こり。藤王はうずくまって、その場に倒れた。
「ふ、藤王様、ですか? どうしてここに…」
宿舎から出てきたのは、左軍の待機の兵で。藤王が金蓮とともに前線に行ったことを知っていたのと、龍鬼に触れたくないという様子で、遠巻きに藤王にたずねた。
「…私用ができて。途中、折り返してきたのだ。赤穂様の隊は到着しているか?」
地面に寝そべったまま、苦しげな様子で、藤王は兵に聞いた。
朝、赤穂たち右の幹部と富士のふもとで別れた。金蓮の左軍を預かっていただけの赤穂たちは、大軍を引き連れていないので、その日のうちに本拠地に戻っているはずだ。
うまくすれば堺と両親が会うのを、事前に阻止できる。
そのあと両親を説得すればいい。
子を殺すなど、人道に背く行為だと。
「もう到着しています。赤穂様は作戦対策室にいるようですが」
そこで堺を捕まえられればいい。
藤王は懸命に立ち上がり、兵に笑いかけた。
「弟に…堺に用があるんだ。あの子、体が弱いから…」
「あぁ、看病ですか? 弟さん思いなのですね?」
兵は兄弟仲がいいのだな、と。人のよさそうな顔でうなずいた。
それにひとつうなずきを返し。藤王は本拠地中央にある作戦対策室のある施設に向かった。
目眩は空間酔いで、すぐにおさまったが。腹に重い打撃を食らったかのような不快感がある。
これが瞬間移動の代償だ。
しばらくは体を俊敏には動かせないだろう。
対策室に入ると、赤穂がびっくりした顔で藤王を見た。
それはそうだろう。朝は富士のふもとにいたのだ。
赤穂たちが帰ってくるのとほぼ同じ時間に、藤王が本拠地にいるはずがない。
「赤穂様、堺はどこに?」
「…堺は。途中で熱を出して。疲れが溜まっていたのだろうということで、そのまま一ヶ月の休暇を出したのだ。直で実家に戻ったが? 藤王は…龍鬼の力で?」
「あぁ、急な要件があって。では、失礼します」
慌ただしく、部屋を辞する。
やばい、直で帰ったら三時間前には屋敷についている。
藤王は焦って、とにかく本拠地の外にある時雨家の屋敷に向かったのだ。
★★★★★
屋敷に入ると、まだ宵の口だというのに使用人が離れに下がっていて、家の中がシンと静まっていた。
なにやら嫌な予感がして、真っ直ぐ堺の部屋に行く。
堺の部屋は玄関を入って、左手の奥。
両親たちは右手の側で生活している。
徹底して堺と関わろうとしていないのを、それだけで感じ、気分が悪い。
とにかく。藤王は堺の部屋を開けた。
床板に布団が敷かれた、殺風景な部屋で。堺は横になっていた。
白い肌が赤く染まって、荒い息をついている。
本当に熱を出しているようだ。
もしかしたら部屋に戻って、布団だけ自分で引っ張り出してそのまま寝たのかもしれない。軍服を着たままだった。
「堺、可哀想に。誰もなにもしてくれなかったか?」
だが、そばに水差しと薬が置いてある。誰か様子を見に来たのだろうか。
とりあえず藤王は、衣装箪笥から紺一色の寝間着を出して、堺を着替えさせることにした。
「…兄さん?」
夢でも見ているような目で、堺は藤王を見た。
ここに兄がいるわけがないと思っている。
今朝富士にいたのだから、当然だな。
「堺、服を着替えさせてやる。なにも心配せず、力を抜いていろ」
藤王の言葉に、堺はくっきりとした形の目元を、安堵したみたいに細め。兄に委ねた。
布団を剥いで、藤王は堺の革帯をほどいていく。剣も下げたままだ。
帰ってきて、そのまま倒れ込んだという感じだな。
堺の剣を枕元に置いて、藤王は堺の軍服を脱がしていった。
堺の裸身があらわになり、藤王はドキリと鼓動を高鳴らせる。
弟は安心して兄に身を預けているのに。
想像で何度も目にした、淡い桃色の乳首に、どうしても目が吸い寄せられてしまい。藤王は触れたい衝動に駆られた。
堺に。無垢な弟に、癒しと庇護欲を感じながらも。
己と交わり悦ぶ、妄想の中の淫靡な弟も見たいと思ってしまう。
金蓮によって、性の快楽という名の獣を目覚めさせられてしまった藤王は。堺と睦み合いたい欲求に囚われていた。
今まで灯っていなかったところに、火がついた。
堺を守りたいと思っていた、純粋だった心に。抱きたいという欲望の炎が立ち昇り。
その欲求をおさえることができない。
いけない、と思い。一度、堺の身から離れた。
七歳のときに前線基地で添い寝をしたが、あの頃みたいに、もう華奢ではなく。
十五歳になった堺の体は、少したくましい青年のものになっている。
しかし筋肉が引き締まって、余分な肉のない体は、なまめかしくも見えた。
藤王は引き出しから手拭いを出し、水差しの水で湿らすと、堺の、熱で浮き出た汗の粒をそっと拭っていく。
熱に浮かされ顔を赤くする堺は、快感に震える想像の顔に似て。
だから苦しいのだろうが、気持ち良さそうにも見えてしまう。
堺は閉じていた目を開き、兄を見た。
「すまない。力加減が強かったか?」
にっこりと、他意はないという笑みを見せると、堺もフと笑った。
「いいえ、大丈夫、です」
大丈夫なのか、と思うと。邪な想いが湧き起るが。
藤王は堺の首の後ろに腕を回して、身を起こさせ、背中の汗を拭いた。
堺の背中はなめらかで、当たり前だが翼がなく、つるりとした肌が指先に触れると気持ちが良い。
「兄さん、くすぐったい…」
背中は、敏感なようだ。
くちづけでついばみ、舌で舐め濡らしたら、堺は背中だけで極めるんじゃないか?
「もう少し、我慢しなさい。我慢、できるか?」
「…我慢、できます」
我慢して、と言って、堺の後孔に己を挿入する妄想を何度もした。
我慢できます、と言う堺に出し入れして、貫いて、泣かせる夢も見た。
言葉だけだが、それが現実になり。
藤王は、己がどんどんたぎっていくのを感じた。
金蓮が己に触れる何倍も、本物の堺が口にする現実の言葉の方が、感じる。
だが荒い息遣いは、情事のそれではなく。本当に弟が苦しんでいる証で。
藤王は己の欲望に蓋をして、堺に新しい着物を着せかけた。
大事な宝物をしまい込むように襟を合わせて、帯で結ぶ。
ちゃんと整えた布団に、堺を横たえ、乱れた髪も整えた。
そうすると、己の美しいいつもの弟の姿になる。
堺は藤王に笑いかけて、言った。
「ありがとうございます、兄さん。楽になりました」
硬い軍服を脱いで身軽になりました、という意味なのだが。
不埒な藤王は、兆した堺を絶頂へ導いてあげたあとの、堺の台詞に思えてしまう。
自慰を知らぬ堺にそれを教えてあげる、そんな妄想もした。
「…喉が渇いただろう? 水を飲もうか」
体を動かして、少しつらくなったようで。堺は言葉にできない感じで、ようやくうなずいた。
藤王は湯飲みに水差しの水を少し入れて…。
もしかして、と思ってしまった。
この水に、毒が仕込まれていたら?
だって熱のある堺が闇雲に布団を引っ張り出して、とりあえず寝たという状況の中。
水差しと薬が置いてあるのが、違和感があるのだ。
まぁ、助けてはやらないけど水と薬は置いておく、ということかもしれないが。
藤王は水を少し飲んでみた。
でも特に変な味はしない。
しかし薬は怪しいので、龍鬼の能力で燃やしてしまった。
すると炎の中で緑色の変な色で燃え上がり、変な匂いもした。当たりだな。
両親は発熱で苦しむ堺に、毒を仕込んで始末しようとした、のか。
もう我慢ならなかった。
己から堺を奪おうとする輩は、たとえ親でも許せない。
親をうながした金蓮も同罪だ。
「…兄さん?」
堺はまだ、夢のように思っているのかもしれない。
しばらく黙り込んだ兄が、いなくなってしまったのかと不安そうな声を出す。
「あぁ、水だったな。今、飲ませてやる」
先ほどと同じように、藤王は堺の首の下に手を入れて身を起き上がらせると、腕の中に抱いて湯飲みの水を飲ませようとした。
だが朦朧としている堺を見て、一度閉じた欲望の蓋が開く。
己が水を含んで、堺にくちづけた。
薄く開いた堺の唇に、ぴったりと唇を合わせ、水を流し込む。
堺はコクリと嚥下し、更なる水を求め、口腔で舌を動かした。
その舌先が触れたら、藤王は己の腰骨がズンと重くなるのを感じる。
「上手に飲めたな。もう一度。ちょっとずつだぞ」
少しだけ水を含んで、藤王は再び堺の口腔に流し入れる。
藤王は…金蓮にキスは許さなかった。
龍鬼の唾液は危険です、と。もっともらしいことを言って、回避したのだ。
くちづけは、堺とだけしたかったから。
堺が四歳のとき『大きくなったら、兄さんのお嫁さんにしてください』なんて、あんまり可愛らしいことを言うものだから。食べちゃいたくなって、唇にチュウってしたことがある。
堺は、覚えていないだろう。
だがあのくちづけが、藤王の至高だった。
だから他の者で汚したくなくて、唇を死守したのだ。
廣伊に口移しで水を飲ませたことがあったが、あれは救命なので、藤王は記憶にとどめていない。
藤王の記憶にあるのは。愛らしく笑う、幼い堺にした、まばゆいあの日のチュウだけだ。
でも堺が大人になってからは、初めてのくちづけ。
藤王は、その柔らかい唇に夢中になってしまった。
何度も水を含んで、堺にくちづける。藤王が舌を絡ませても、なすがまま。堺も水分を欲して、舌を伸ばした。
「あ、むぅ…ん」
堺はなにもわからないまま口を開いて、兄が水を注いでくれるのを待つ。
だが、藤王は。
舌先をとがらせて待つ、堺の、その舌を舌でくすぐり。絡めて、深くくちづける。
水が欲しいのに。水も含まない、ただのくちづけだ。
「ん、に、いさ、ん」
水を求める堺に、訴えるような、とがめるような、なぜと問うような目でみつめられて。
藤王はようやく、小鳥に餌を与えるみたいに、ちょっとずつ水を堺に与える。
だがそのまま、濃厚で熱烈なキスをして。
唇を離し、またちょっとだけ水を与える。
堺の薄い唇を舌で舐め、撫でて。高熱で燃えるような舌を、己の低い温度の舌でなだめ、絡めて。
口腔をくちゅくちゅとくすぐるように、かき回す。
何度も夢に見た堺とのくちづけに。藤王は溺れる。
甘やかな官能に、身が痺れるようだった。
「堺、もっと欲しいか?」
「はい。欲しい、ください、兄さん、ん…んんぅ」
ください、兄さん。と言われると。
己の剛直を欲しているようにも思え。背筋にぞくぞくと情欲が走る。
本能に支配され、藤王は堺を布団に押し倒す。
欲しいというのだから、このまま貫いてもいいんじゃないか?
だって、堺が己を欲しがっている…。
熱い体を堺にすりつけながら、藤王は水を与えるくちづけをし続けた。
朦朧としている堺は、水を与えられたあとに激しく口の中をかき回されることを、ひとつの流れのように思ってしまって。従順に、兄に身を委ねる。
兄は間違ったことなどしない。だからこれは、こういうものなのだと。盲目的に信じていたし。
深く考えるほど思考も動いていなかった。
「きゃあ!」
突然、叫び声が上がり。
藤王は唇を堺につけたまま、部屋の扉を見やる。
そこには、わなわなと震える母がいた。
「貴方たち、兄弟でなにをしているの? 離れなさい、汚らわしい」
藤王は唇を優しくほどいて、母に見せつけるように、堺の唇をいやらしく舐めた。
「なんですか母上、騒がしい。そろそろ堺が息絶えたかと、様子を見に来たのですか?」
図星を刺されて、母はギョッとしたが。
すぐに体面を整える。
「なんのことかわかりません。それよりも藤王、堺から離れなさい。変な病がうつったらどうするのです? 貴方は時雨の後継なのですよ。金蓮様にも目をかけていただいて。金蓮様は貴方を生涯雇用すると約束してくださったの。その大切な体を、堺で汚してはなりません」
生涯雇用? ゾッとする話だ。
金蓮に一生慰み者にされろと言うのか。冗談じゃない。
藤王はそっと身を起こし、堺を庇うように布団の前で母と対峙した。
「堺は変な病などではない。ただの風邪です。変則的な勤務で疲れが出たのでしょう。軍の任務で疲れて帰ってきた息子に、労う気持ちもないのですか?」
「どうした? 堺は毒を飲んだか?」
母の後ろに父が現われ、誤魔化しようのない言葉を吐いた。
部屋の中に藤王がいることに気づき、身を固める。
「藤王、なぜ、ここに…」
「父上、金蓮様に忠義を見せろと言われたようですね? どんな忠義を? 堺の骸を献上するのですか?」
図星を刺され、父は奥歯を噛む。
厳しく真面目で、それゆえ嘘のつけない父だった。
「それしかないのだ。時雨家を存続させるためだ。この家は、おまえさえいれば断絶を免れる。先代の山吹様は龍鬼を重用なさり、我らも安泰だった。しかし金蓮様は龍鬼を嫌っている。おまえ以外の龍鬼は汚いからいらないとおっしゃられた。本来龍鬼を出した家は断絶させられる。山吹様の代では目こぼしされていたことが、代替わりされてそうではなくなったのだ。わかるだろう?」
わからない。藤王は首を横に振った。
「堺を、貴方の息子を殺さなければ存続できない家など、滅びてしまえばいい」
赤い目を厳しく光らせて、父に告げたが。
父は剣を抜いた。
「我らタンチョウ血脈は、美しく、高潔で、才知ある、貴重な一族だ。堺のせいで滅びさせるわけにはいかない。そこを退くんだ、藤王。もう、堺はいらぬ」
「父上ぇ…」
頼りない、震える悲しげな声が藤王の背後から聞こえた。
堺には聞かせたくなかったのに。
父がいらぬと言ったのが、堺に聞こえてしまったのだろうか?
このように、心優しい息子を散々傷つける父に、藤王は憤怒した。
「堺は私の嫁にすると言っただろう。私の伴侶に、誰も手は出させない」
もうためらうことなく、藤王も剣を抜いた。
どうしても堺を殺そうというのならば、己はなにがなんでもそれを阻止する。
たとえ親を殺してでも。
子供に手をかけるような親は、もはや親ではない。
「藤王、父に剣を向けるとは何事ですか? おまえは分別のある、賢い子でしょう? 堺にたぶらかされて、周りが見えなくなっているだけよ。少し目を閉じていなさい。その間にすべてが終わるわ」
目を閉じれば、金蓮におもちゃにされる屈辱の悪夢が見えるだけだ。
藤王は蔑む目で、両親を見やる。
「目を覚ませと言いたいのはこちらだ。堺よりも大事なものなど、この世にはない」
「退け、藤王!」
父が剣を振りかぶり、いよいよ殺さなければならないかと。藤王が覚悟を決めたとき。
黒い影が目の前をよぎった。
それは素早く刀を抜くと、父を一刀両断し。悲鳴をあげる前に、母も返す刀で斬り伏せた。
藤王は、ただ息をのむ。
目の前の、黒装束の男には…翼がない。
「…貴方は?」
「手裏軍の天龍、不破。救済の龍鬼だ」
不破は手裏の軍服を着ていて、髪も黒。だが波打つ髪には白髪も混じっていて、かなり年上に見えた。
顔貌はそれほど老けては見えないが、どこかくたびれた印象がある。
「私は千里眼を持つ龍鬼だ。虐げられた龍鬼や子供たちを救済して回っている。虐待にあう者、龍鬼として不遇な扱いをされる者、このままでは死んでしまうというような環境にいる者を、助けるのを信条としている」
そう言うと、不破は綺麗な所作で刀を振って血を払い。鞘におさめる。
彼の言葉が事実なら、それは素晴らしい行いだと藤王は思った。
彼は敵ながら、親の手にかかりそうだった堺を救いに来てくれたのだ。
藤王も、抜いていた剣をおさめた。
「藤王、君の周辺がこの頃不穏だったので、様子をずっとうかがっていたのだ。私は龍鬼の心が傷つくのも、防ぎたいと思っている。君は今、両親を殺そうとしたな? たとえ憎いと思う親でも、子が親を殺したら、一生苦しむことになる。だから私が殺したのだ」
「私の、ため?」
「君だって、救いを求める龍鬼だろう? ずっと苦しんできたではないか」
己は、苦しんでいたのだろうか。自分ではわからない。
惨殺され、息絶える父と母を、藤王は見下ろした。
己を、将堂に捧げる駒という目でしか見なかった。
なんの落ち度もない堺を、ずっと忌避してきた。
そんな両親に湧く情など、すでに枯渇している。
両親が目の前で不破に殺されても、心はそれほど揺らいでいない。
己が殺すと、一度は覚悟を決めたからだろうか?
でも不破が言うように、血脈を己の手で斬り伏せたら、いずれ苦しみにあえぐ日が来たのかもしれない。
それを、この龍鬼は防いでくれたのだろう。
藤王は堺のことだけを気に掛けていたから、己の気持ちなど二の次だった。
「だが、先ほどの行いはいただけないな。彼は、君との触れ合いやくちづけを自分から望んでいたわけではなかろう? 同意のない性行為は、虐待だよ?」
虐待と言われ、藤王は体の芯から冷える思いがした。
己は、堺を傷つけたのだろうか?
「しかし、私は。堺を嫁にするつもりで…」
「それも、君がそう宣言しているだけで、彼が喜んで受け入れているわけではないだろう? 私の千里眼では、まだ堺に結婚の申し入れをしていないように見えたが。違うか?」
していない。
藤王は息をのんで、堺をみつめる。
一時は目を覚まし、声を発していたが。今、堺の意識は再び深く沈んでいる。
夢うつつを繰り返しているのかもしれない。
赤い顔をして、つらそうな息遣いで、目をつぶっている。
先ほどは、その顔すら扇情的に見えていたというのに。今は、ただただ苦しそうに見える。
そうだ。己は、己の欲に囚われ、発熱に苦しむ堺に邪な手で触れてしまったのだ。
愛しているとも、結婚しようとも、告げていない。
堺の意志は、ここにはなにもない。
愕然とした。
「このまま君がこの子のそばにい続けたら、きっとこの子を壊す。そうだろう?」
「そうだ。私は堺を愛している。この弟を、かけがえのない半身を、私は私のものにしたくて、たまらないのだ」
「子供を傷つけることを、私は許さない。君も、弟を欲望のまま踏みにじり、傷つけたくはなかろう?」
そうだ。己は、堺を傷つける者を許さない。
たとえ、親でも。
たとえ、己でも。
「私は、どうしたら…」
「この子の記憶を消したらどうだ? 君にはそれができるはずだ」
誰も知らぬことを言い当てられて、藤王はギョッとした。
藤王の能力は、目に見えるものは炎を操ることだが。
真の特異能力は、他人の龍鬼の能力を一度だけ模倣できることだった。
そして、堺は。精神を操る能力を持っている。
己は。堺の能力を使って、堺の記憶を結んで封じることができる。
「父上、母上…」
堺の声がして藤王が振り返ると、堺は部屋の中で惨殺されている両親に目を止め、驚愕していた。
ついさっき深い眠りについていると思ったのに。
ゆるりと身を起こし、堺は不破をきつく睨みつけた。
「おまえが? 手裏兵、おまえが、父上と、母上を?」
そして無意識のうちに枕元に置かれた剣を手にし、堺は不破に剣を突き立てようとした。
堺の目は、藤王を素通りしている。
両親を殺されたという想いが、堺の視野を狭め、不破しか目に入っていないような様子だった。
いけない。堺。
不破は助けてくれたのだ。我ら兄弟を。
その者に、剣を向けてはいけない。
勝手に体が動いて、藤王は不破の前に出た。
堺が突き立てようとする剣を、右手で受け止める。
堺は途中で、藤王が立ちはだかるのに気づいて。剣の勢いを止めたが。
藤王の右手に剣先が深く刺さってしまう。
「くっ…駄目だ、さか、い」
堺の剣筋は鋭く、藤王の手のひらをえぐり、鮮血が飛び散った。
堺は慌てて剣を引き抜く。
「兄さん、どうして…なにが、どうなって…」
高熱で頭が回らない中、惨殺された両親、見知らぬ手裏兵、それを庇う兄。ここにいないはずの兄。
堺はこの現状が、全くわからなかった。
ただ己が、兄を傷つけたということだけは、わかった。
「…兄さん。ごめんなさい」
硬く握りしめていた剣を、堺は手から離し。藤王の傷ついた手を両手で包むと、傷口を舌で舐めた。
子供の頃、庭で転んで膝をすりむいた堺のその傷を、藤王が舐めて癒したように。
「あぁ、堺。おまえは、そのようなことをしなくていいんだよ」
口の周りを、藤王の血で堺は濡らす。
弟の頬を撫でて藤王はなだめるが、その堺の白い肌も己の赤い血で汚してしまう。
髪を撫でても。白く、美しい己の弟が、赤い血で染まってしまう。
それは自分が堺のそばにいることで、堺を汚し続けてしまうような気にさせ。藤王は苦笑いした。
「堺、よく聞きなさい。私は堺のことを愛している」
涙目を丸くして、堺は兄をみつめる。
兄が弟を愛するのは、当たり前のことだという顔つきだ。
おそらく堺も、弟として兄を愛しているのだろうから。
「いつかおまえを嫁にしたい、そういう愛しているだよ」
そうして、藤王は堺にくちづけた。
己が堺を愛していると伝わるような、慈愛のくちづけ。
そして堺をいずれ抱きたいと思っていることを示すような、舌を絡める欲望のキスを。
堺はこの急展開についていけず、目が回る思いだった。
自分に、今、なにが起こっているのか、わからない。
「今は、忘れてしまいなさい。だが次に私が堺の目の前に現れたとき、おまえが私を愛してくれたなら…」
藤王は堺の額に手をやり。今晩の出来事を、しっかりと硬く結びつけて封じる。
なにもかも、忘れてほしい。兄が獣であったことも。両親が堺を殺そうとしたことも。
堺を再び布団に寝かせると、真新しい手拭いを水差しの水で濡らすが。
どうしても血がついてしまうので。
見兼ねた不破が、手拭いを絞って、堺の額に当ててくれた。
「私はこの子を、君の毒牙から守る。ついてきなさい」
藤王は静かにうなずき、不破のうながしに従った。
この惨状を、早く誰かが気づくように、扉や玄関を不自然に開け放しておいた。
誰かが堺を医者に診せてくれるようにと、願いながら。
藤王は闇の中へと姿を消した。
しかしこの能力は、大きな痛手を負うことになる。理を無視して移動距離を歪めるので、それなりの代償が求められる。
だがどれほど傷を負っても、堺が死ぬよりはマシだ。
藤王は本拠地の場所を詳細に思い浮かべ、一歩踏み出す。
そこは本拠地の、左軍宿舎前だった。
成功したと思った途端、激しい目眩と咳き込みが起こり。藤王はうずくまって、その場に倒れた。
「ふ、藤王様、ですか? どうしてここに…」
宿舎から出てきたのは、左軍の待機の兵で。藤王が金蓮とともに前線に行ったことを知っていたのと、龍鬼に触れたくないという様子で、遠巻きに藤王にたずねた。
「…私用ができて。途中、折り返してきたのだ。赤穂様の隊は到着しているか?」
地面に寝そべったまま、苦しげな様子で、藤王は兵に聞いた。
朝、赤穂たち右の幹部と富士のふもとで別れた。金蓮の左軍を預かっていただけの赤穂たちは、大軍を引き連れていないので、その日のうちに本拠地に戻っているはずだ。
うまくすれば堺と両親が会うのを、事前に阻止できる。
そのあと両親を説得すればいい。
子を殺すなど、人道に背く行為だと。
「もう到着しています。赤穂様は作戦対策室にいるようですが」
そこで堺を捕まえられればいい。
藤王は懸命に立ち上がり、兵に笑いかけた。
「弟に…堺に用があるんだ。あの子、体が弱いから…」
「あぁ、看病ですか? 弟さん思いなのですね?」
兵は兄弟仲がいいのだな、と。人のよさそうな顔でうなずいた。
それにひとつうなずきを返し。藤王は本拠地中央にある作戦対策室のある施設に向かった。
目眩は空間酔いで、すぐにおさまったが。腹に重い打撃を食らったかのような不快感がある。
これが瞬間移動の代償だ。
しばらくは体を俊敏には動かせないだろう。
対策室に入ると、赤穂がびっくりした顔で藤王を見た。
それはそうだろう。朝は富士のふもとにいたのだ。
赤穂たちが帰ってくるのとほぼ同じ時間に、藤王が本拠地にいるはずがない。
「赤穂様、堺はどこに?」
「…堺は。途中で熱を出して。疲れが溜まっていたのだろうということで、そのまま一ヶ月の休暇を出したのだ。直で実家に戻ったが? 藤王は…龍鬼の力で?」
「あぁ、急な要件があって。では、失礼します」
慌ただしく、部屋を辞する。
やばい、直で帰ったら三時間前には屋敷についている。
藤王は焦って、とにかく本拠地の外にある時雨家の屋敷に向かったのだ。
★★★★★
屋敷に入ると、まだ宵の口だというのに使用人が離れに下がっていて、家の中がシンと静まっていた。
なにやら嫌な予感がして、真っ直ぐ堺の部屋に行く。
堺の部屋は玄関を入って、左手の奥。
両親たちは右手の側で生活している。
徹底して堺と関わろうとしていないのを、それだけで感じ、気分が悪い。
とにかく。藤王は堺の部屋を開けた。
床板に布団が敷かれた、殺風景な部屋で。堺は横になっていた。
白い肌が赤く染まって、荒い息をついている。
本当に熱を出しているようだ。
もしかしたら部屋に戻って、布団だけ自分で引っ張り出してそのまま寝たのかもしれない。軍服を着たままだった。
「堺、可哀想に。誰もなにもしてくれなかったか?」
だが、そばに水差しと薬が置いてある。誰か様子を見に来たのだろうか。
とりあえず藤王は、衣装箪笥から紺一色の寝間着を出して、堺を着替えさせることにした。
「…兄さん?」
夢でも見ているような目で、堺は藤王を見た。
ここに兄がいるわけがないと思っている。
今朝富士にいたのだから、当然だな。
「堺、服を着替えさせてやる。なにも心配せず、力を抜いていろ」
藤王の言葉に、堺はくっきりとした形の目元を、安堵したみたいに細め。兄に委ねた。
布団を剥いで、藤王は堺の革帯をほどいていく。剣も下げたままだ。
帰ってきて、そのまま倒れ込んだという感じだな。
堺の剣を枕元に置いて、藤王は堺の軍服を脱がしていった。
堺の裸身があらわになり、藤王はドキリと鼓動を高鳴らせる。
弟は安心して兄に身を預けているのに。
想像で何度も目にした、淡い桃色の乳首に、どうしても目が吸い寄せられてしまい。藤王は触れたい衝動に駆られた。
堺に。無垢な弟に、癒しと庇護欲を感じながらも。
己と交わり悦ぶ、妄想の中の淫靡な弟も見たいと思ってしまう。
金蓮によって、性の快楽という名の獣を目覚めさせられてしまった藤王は。堺と睦み合いたい欲求に囚われていた。
今まで灯っていなかったところに、火がついた。
堺を守りたいと思っていた、純粋だった心に。抱きたいという欲望の炎が立ち昇り。
その欲求をおさえることができない。
いけない、と思い。一度、堺の身から離れた。
七歳のときに前線基地で添い寝をしたが、あの頃みたいに、もう華奢ではなく。
十五歳になった堺の体は、少したくましい青年のものになっている。
しかし筋肉が引き締まって、余分な肉のない体は、なまめかしくも見えた。
藤王は引き出しから手拭いを出し、水差しの水で湿らすと、堺の、熱で浮き出た汗の粒をそっと拭っていく。
熱に浮かされ顔を赤くする堺は、快感に震える想像の顔に似て。
だから苦しいのだろうが、気持ち良さそうにも見えてしまう。
堺は閉じていた目を開き、兄を見た。
「すまない。力加減が強かったか?」
にっこりと、他意はないという笑みを見せると、堺もフと笑った。
「いいえ、大丈夫、です」
大丈夫なのか、と思うと。邪な想いが湧き起るが。
藤王は堺の首の後ろに腕を回して、身を起こさせ、背中の汗を拭いた。
堺の背中はなめらかで、当たり前だが翼がなく、つるりとした肌が指先に触れると気持ちが良い。
「兄さん、くすぐったい…」
背中は、敏感なようだ。
くちづけでついばみ、舌で舐め濡らしたら、堺は背中だけで極めるんじゃないか?
「もう少し、我慢しなさい。我慢、できるか?」
「…我慢、できます」
我慢して、と言って、堺の後孔に己を挿入する妄想を何度もした。
我慢できます、と言う堺に出し入れして、貫いて、泣かせる夢も見た。
言葉だけだが、それが現実になり。
藤王は、己がどんどんたぎっていくのを感じた。
金蓮が己に触れる何倍も、本物の堺が口にする現実の言葉の方が、感じる。
だが荒い息遣いは、情事のそれではなく。本当に弟が苦しんでいる証で。
藤王は己の欲望に蓋をして、堺に新しい着物を着せかけた。
大事な宝物をしまい込むように襟を合わせて、帯で結ぶ。
ちゃんと整えた布団に、堺を横たえ、乱れた髪も整えた。
そうすると、己の美しいいつもの弟の姿になる。
堺は藤王に笑いかけて、言った。
「ありがとうございます、兄さん。楽になりました」
硬い軍服を脱いで身軽になりました、という意味なのだが。
不埒な藤王は、兆した堺を絶頂へ導いてあげたあとの、堺の台詞に思えてしまう。
自慰を知らぬ堺にそれを教えてあげる、そんな妄想もした。
「…喉が渇いただろう? 水を飲もうか」
体を動かして、少しつらくなったようで。堺は言葉にできない感じで、ようやくうなずいた。
藤王は湯飲みに水差しの水を少し入れて…。
もしかして、と思ってしまった。
この水に、毒が仕込まれていたら?
だって熱のある堺が闇雲に布団を引っ張り出して、とりあえず寝たという状況の中。
水差しと薬が置いてあるのが、違和感があるのだ。
まぁ、助けてはやらないけど水と薬は置いておく、ということかもしれないが。
藤王は水を少し飲んでみた。
でも特に変な味はしない。
しかし薬は怪しいので、龍鬼の能力で燃やしてしまった。
すると炎の中で緑色の変な色で燃え上がり、変な匂いもした。当たりだな。
両親は発熱で苦しむ堺に、毒を仕込んで始末しようとした、のか。
もう我慢ならなかった。
己から堺を奪おうとする輩は、たとえ親でも許せない。
親をうながした金蓮も同罪だ。
「…兄さん?」
堺はまだ、夢のように思っているのかもしれない。
しばらく黙り込んだ兄が、いなくなってしまったのかと不安そうな声を出す。
「あぁ、水だったな。今、飲ませてやる」
先ほどと同じように、藤王は堺の首の下に手を入れて身を起き上がらせると、腕の中に抱いて湯飲みの水を飲ませようとした。
だが朦朧としている堺を見て、一度閉じた欲望の蓋が開く。
己が水を含んで、堺にくちづけた。
薄く開いた堺の唇に、ぴったりと唇を合わせ、水を流し込む。
堺はコクリと嚥下し、更なる水を求め、口腔で舌を動かした。
その舌先が触れたら、藤王は己の腰骨がズンと重くなるのを感じる。
「上手に飲めたな。もう一度。ちょっとずつだぞ」
少しだけ水を含んで、藤王は再び堺の口腔に流し入れる。
藤王は…金蓮にキスは許さなかった。
龍鬼の唾液は危険です、と。もっともらしいことを言って、回避したのだ。
くちづけは、堺とだけしたかったから。
堺が四歳のとき『大きくなったら、兄さんのお嫁さんにしてください』なんて、あんまり可愛らしいことを言うものだから。食べちゃいたくなって、唇にチュウってしたことがある。
堺は、覚えていないだろう。
だがあのくちづけが、藤王の至高だった。
だから他の者で汚したくなくて、唇を死守したのだ。
廣伊に口移しで水を飲ませたことがあったが、あれは救命なので、藤王は記憶にとどめていない。
藤王の記憶にあるのは。愛らしく笑う、幼い堺にした、まばゆいあの日のチュウだけだ。
でも堺が大人になってからは、初めてのくちづけ。
藤王は、その柔らかい唇に夢中になってしまった。
何度も水を含んで、堺にくちづける。藤王が舌を絡ませても、なすがまま。堺も水分を欲して、舌を伸ばした。
「あ、むぅ…ん」
堺はなにもわからないまま口を開いて、兄が水を注いでくれるのを待つ。
だが、藤王は。
舌先をとがらせて待つ、堺の、その舌を舌でくすぐり。絡めて、深くくちづける。
水が欲しいのに。水も含まない、ただのくちづけだ。
「ん、に、いさ、ん」
水を求める堺に、訴えるような、とがめるような、なぜと問うような目でみつめられて。
藤王はようやく、小鳥に餌を与えるみたいに、ちょっとずつ水を堺に与える。
だがそのまま、濃厚で熱烈なキスをして。
唇を離し、またちょっとだけ水を与える。
堺の薄い唇を舌で舐め、撫でて。高熱で燃えるような舌を、己の低い温度の舌でなだめ、絡めて。
口腔をくちゅくちゅとくすぐるように、かき回す。
何度も夢に見た堺とのくちづけに。藤王は溺れる。
甘やかな官能に、身が痺れるようだった。
「堺、もっと欲しいか?」
「はい。欲しい、ください、兄さん、ん…んんぅ」
ください、兄さん。と言われると。
己の剛直を欲しているようにも思え。背筋にぞくぞくと情欲が走る。
本能に支配され、藤王は堺を布団に押し倒す。
欲しいというのだから、このまま貫いてもいいんじゃないか?
だって、堺が己を欲しがっている…。
熱い体を堺にすりつけながら、藤王は水を与えるくちづけをし続けた。
朦朧としている堺は、水を与えられたあとに激しく口の中をかき回されることを、ひとつの流れのように思ってしまって。従順に、兄に身を委ねる。
兄は間違ったことなどしない。だからこれは、こういうものなのだと。盲目的に信じていたし。
深く考えるほど思考も動いていなかった。
「きゃあ!」
突然、叫び声が上がり。
藤王は唇を堺につけたまま、部屋の扉を見やる。
そこには、わなわなと震える母がいた。
「貴方たち、兄弟でなにをしているの? 離れなさい、汚らわしい」
藤王は唇を優しくほどいて、母に見せつけるように、堺の唇をいやらしく舐めた。
「なんですか母上、騒がしい。そろそろ堺が息絶えたかと、様子を見に来たのですか?」
図星を刺されて、母はギョッとしたが。
すぐに体面を整える。
「なんのことかわかりません。それよりも藤王、堺から離れなさい。変な病がうつったらどうするのです? 貴方は時雨の後継なのですよ。金蓮様にも目をかけていただいて。金蓮様は貴方を生涯雇用すると約束してくださったの。その大切な体を、堺で汚してはなりません」
生涯雇用? ゾッとする話だ。
金蓮に一生慰み者にされろと言うのか。冗談じゃない。
藤王はそっと身を起こし、堺を庇うように布団の前で母と対峙した。
「堺は変な病などではない。ただの風邪です。変則的な勤務で疲れが出たのでしょう。軍の任務で疲れて帰ってきた息子に、労う気持ちもないのですか?」
「どうした? 堺は毒を飲んだか?」
母の後ろに父が現われ、誤魔化しようのない言葉を吐いた。
部屋の中に藤王がいることに気づき、身を固める。
「藤王、なぜ、ここに…」
「父上、金蓮様に忠義を見せろと言われたようですね? どんな忠義を? 堺の骸を献上するのですか?」
図星を刺され、父は奥歯を噛む。
厳しく真面目で、それゆえ嘘のつけない父だった。
「それしかないのだ。時雨家を存続させるためだ。この家は、おまえさえいれば断絶を免れる。先代の山吹様は龍鬼を重用なさり、我らも安泰だった。しかし金蓮様は龍鬼を嫌っている。おまえ以外の龍鬼は汚いからいらないとおっしゃられた。本来龍鬼を出した家は断絶させられる。山吹様の代では目こぼしされていたことが、代替わりされてそうではなくなったのだ。わかるだろう?」
わからない。藤王は首を横に振った。
「堺を、貴方の息子を殺さなければ存続できない家など、滅びてしまえばいい」
赤い目を厳しく光らせて、父に告げたが。
父は剣を抜いた。
「我らタンチョウ血脈は、美しく、高潔で、才知ある、貴重な一族だ。堺のせいで滅びさせるわけにはいかない。そこを退くんだ、藤王。もう、堺はいらぬ」
「父上ぇ…」
頼りない、震える悲しげな声が藤王の背後から聞こえた。
堺には聞かせたくなかったのに。
父がいらぬと言ったのが、堺に聞こえてしまったのだろうか?
このように、心優しい息子を散々傷つける父に、藤王は憤怒した。
「堺は私の嫁にすると言っただろう。私の伴侶に、誰も手は出させない」
もうためらうことなく、藤王も剣を抜いた。
どうしても堺を殺そうというのならば、己はなにがなんでもそれを阻止する。
たとえ親を殺してでも。
子供に手をかけるような親は、もはや親ではない。
「藤王、父に剣を向けるとは何事ですか? おまえは分別のある、賢い子でしょう? 堺にたぶらかされて、周りが見えなくなっているだけよ。少し目を閉じていなさい。その間にすべてが終わるわ」
目を閉じれば、金蓮におもちゃにされる屈辱の悪夢が見えるだけだ。
藤王は蔑む目で、両親を見やる。
「目を覚ませと言いたいのはこちらだ。堺よりも大事なものなど、この世にはない」
「退け、藤王!」
父が剣を振りかぶり、いよいよ殺さなければならないかと。藤王が覚悟を決めたとき。
黒い影が目の前をよぎった。
それは素早く刀を抜くと、父を一刀両断し。悲鳴をあげる前に、母も返す刀で斬り伏せた。
藤王は、ただ息をのむ。
目の前の、黒装束の男には…翼がない。
「…貴方は?」
「手裏軍の天龍、不破。救済の龍鬼だ」
不破は手裏の軍服を着ていて、髪も黒。だが波打つ髪には白髪も混じっていて、かなり年上に見えた。
顔貌はそれほど老けては見えないが、どこかくたびれた印象がある。
「私は千里眼を持つ龍鬼だ。虐げられた龍鬼や子供たちを救済して回っている。虐待にあう者、龍鬼として不遇な扱いをされる者、このままでは死んでしまうというような環境にいる者を、助けるのを信条としている」
そう言うと、不破は綺麗な所作で刀を振って血を払い。鞘におさめる。
彼の言葉が事実なら、それは素晴らしい行いだと藤王は思った。
彼は敵ながら、親の手にかかりそうだった堺を救いに来てくれたのだ。
藤王も、抜いていた剣をおさめた。
「藤王、君の周辺がこの頃不穏だったので、様子をずっとうかがっていたのだ。私は龍鬼の心が傷つくのも、防ぎたいと思っている。君は今、両親を殺そうとしたな? たとえ憎いと思う親でも、子が親を殺したら、一生苦しむことになる。だから私が殺したのだ」
「私の、ため?」
「君だって、救いを求める龍鬼だろう? ずっと苦しんできたではないか」
己は、苦しんでいたのだろうか。自分ではわからない。
惨殺され、息絶える父と母を、藤王は見下ろした。
己を、将堂に捧げる駒という目でしか見なかった。
なんの落ち度もない堺を、ずっと忌避してきた。
そんな両親に湧く情など、すでに枯渇している。
両親が目の前で不破に殺されても、心はそれほど揺らいでいない。
己が殺すと、一度は覚悟を決めたからだろうか?
でも不破が言うように、血脈を己の手で斬り伏せたら、いずれ苦しみにあえぐ日が来たのかもしれない。
それを、この龍鬼は防いでくれたのだろう。
藤王は堺のことだけを気に掛けていたから、己の気持ちなど二の次だった。
「だが、先ほどの行いはいただけないな。彼は、君との触れ合いやくちづけを自分から望んでいたわけではなかろう? 同意のない性行為は、虐待だよ?」
虐待と言われ、藤王は体の芯から冷える思いがした。
己は、堺を傷つけたのだろうか?
「しかし、私は。堺を嫁にするつもりで…」
「それも、君がそう宣言しているだけで、彼が喜んで受け入れているわけではないだろう? 私の千里眼では、まだ堺に結婚の申し入れをしていないように見えたが。違うか?」
していない。
藤王は息をのんで、堺をみつめる。
一時は目を覚まし、声を発していたが。今、堺の意識は再び深く沈んでいる。
夢うつつを繰り返しているのかもしれない。
赤い顔をして、つらそうな息遣いで、目をつぶっている。
先ほどは、その顔すら扇情的に見えていたというのに。今は、ただただ苦しそうに見える。
そうだ。己は、己の欲に囚われ、発熱に苦しむ堺に邪な手で触れてしまったのだ。
愛しているとも、結婚しようとも、告げていない。
堺の意志は、ここにはなにもない。
愕然とした。
「このまま君がこの子のそばにい続けたら、きっとこの子を壊す。そうだろう?」
「そうだ。私は堺を愛している。この弟を、かけがえのない半身を、私は私のものにしたくて、たまらないのだ」
「子供を傷つけることを、私は許さない。君も、弟を欲望のまま踏みにじり、傷つけたくはなかろう?」
そうだ。己は、堺を傷つける者を許さない。
たとえ、親でも。
たとえ、己でも。
「私は、どうしたら…」
「この子の記憶を消したらどうだ? 君にはそれができるはずだ」
誰も知らぬことを言い当てられて、藤王はギョッとした。
藤王の能力は、目に見えるものは炎を操ることだが。
真の特異能力は、他人の龍鬼の能力を一度だけ模倣できることだった。
そして、堺は。精神を操る能力を持っている。
己は。堺の能力を使って、堺の記憶を結んで封じることができる。
「父上、母上…」
堺の声がして藤王が振り返ると、堺は部屋の中で惨殺されている両親に目を止め、驚愕していた。
ついさっき深い眠りについていると思ったのに。
ゆるりと身を起こし、堺は不破をきつく睨みつけた。
「おまえが? 手裏兵、おまえが、父上と、母上を?」
そして無意識のうちに枕元に置かれた剣を手にし、堺は不破に剣を突き立てようとした。
堺の目は、藤王を素通りしている。
両親を殺されたという想いが、堺の視野を狭め、不破しか目に入っていないような様子だった。
いけない。堺。
不破は助けてくれたのだ。我ら兄弟を。
その者に、剣を向けてはいけない。
勝手に体が動いて、藤王は不破の前に出た。
堺が突き立てようとする剣を、右手で受け止める。
堺は途中で、藤王が立ちはだかるのに気づいて。剣の勢いを止めたが。
藤王の右手に剣先が深く刺さってしまう。
「くっ…駄目だ、さか、い」
堺の剣筋は鋭く、藤王の手のひらをえぐり、鮮血が飛び散った。
堺は慌てて剣を引き抜く。
「兄さん、どうして…なにが、どうなって…」
高熱で頭が回らない中、惨殺された両親、見知らぬ手裏兵、それを庇う兄。ここにいないはずの兄。
堺はこの現状が、全くわからなかった。
ただ己が、兄を傷つけたということだけは、わかった。
「…兄さん。ごめんなさい」
硬く握りしめていた剣を、堺は手から離し。藤王の傷ついた手を両手で包むと、傷口を舌で舐めた。
子供の頃、庭で転んで膝をすりむいた堺のその傷を、藤王が舐めて癒したように。
「あぁ、堺。おまえは、そのようなことをしなくていいんだよ」
口の周りを、藤王の血で堺は濡らす。
弟の頬を撫でて藤王はなだめるが、その堺の白い肌も己の赤い血で汚してしまう。
髪を撫でても。白く、美しい己の弟が、赤い血で染まってしまう。
それは自分が堺のそばにいることで、堺を汚し続けてしまうような気にさせ。藤王は苦笑いした。
「堺、よく聞きなさい。私は堺のことを愛している」
涙目を丸くして、堺は兄をみつめる。
兄が弟を愛するのは、当たり前のことだという顔つきだ。
おそらく堺も、弟として兄を愛しているのだろうから。
「いつかおまえを嫁にしたい、そういう愛しているだよ」
そうして、藤王は堺にくちづけた。
己が堺を愛していると伝わるような、慈愛のくちづけ。
そして堺をいずれ抱きたいと思っていることを示すような、舌を絡める欲望のキスを。
堺はこの急展開についていけず、目が回る思いだった。
自分に、今、なにが起こっているのか、わからない。
「今は、忘れてしまいなさい。だが次に私が堺の目の前に現れたとき、おまえが私を愛してくれたなら…」
藤王は堺の額に手をやり。今晩の出来事を、しっかりと硬く結びつけて封じる。
なにもかも、忘れてほしい。兄が獣であったことも。両親が堺を殺そうとしたことも。
堺を再び布団に寝かせると、真新しい手拭いを水差しの水で濡らすが。
どうしても血がついてしまうので。
見兼ねた不破が、手拭いを絞って、堺の額に当ててくれた。
「私はこの子を、君の毒牙から守る。ついてきなさい」
藤王は静かにうなずき、不破のうながしに従った。
この惨状を、早く誰かが気づくように、扉や玄関を不自然に開け放しておいた。
誰かが堺を医者に診せてくれるようにと、願いながら。
藤王は闇の中へと姿を消した。
22
お気に入りに追加
580
あなたにおすすめの小説

青少年病棟
暖
BL
性に関する診察・治療を行う病院。
小学生から高校生まで、性に関する悩みを抱えた様々な青少年に対して、外来での診察・治療及び、入院での治療を行なっています。
※性的描写あり。
※患者・医師ともに全員男性です。
※主人公の患者は中学一年生設定。
※結末未定。できるだけリクエスト等には対応してい期待と考えているため、ぜひコメントお願いします。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます
まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。
貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。
そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。
☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。
☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。


元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
第5皇子に転生した俺は前世の医学と知識や魔法を使い世界を変える。
黒ハット
ファンタジー
前世は予防医学の専門の医者が飛行機事故で結婚したばかりの妻と亡くなり異世界の帝国の皇帝の5番目の子供に転生する。子供の生存率50%という文明の遅れた世界に転生した主人公が前世の知識と魔法を使い乱世の世界を戦いながら前世の奥さんと巡り合い世界を変えて行く。

新しい道を歩み始めた貴方へ
mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。
そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。
その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。
あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。
あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?
※沢山のお気に入り登録ありがとうございます。深く感謝申し上げます。

田舎育ちの天然令息、姉様の嫌がった婚約を押し付けられるも同性との婚約に困惑。その上性別は絶対バレちゃいけないのに、即行でバレた!?
下菊みこと
BL
髪色が呪われた黒であったことから両親から疎まれ、隠居した父方の祖父母のいる田舎で育ったアリスティア・ベレニス・カサンドル。カサンドル侯爵家のご令息として恥ずかしくない教養を祖父母の教えの元身につけた…のだが、農作業の手伝いの方が貴族として過ごすより好き。
そんなアリスティア十八歳に急な婚約が持ち上がった。アリスティアの双子の姉、アナイス・セレスト・カサンドル。アリスティアとは違い金の御髪の彼女は侯爵家で大変かわいがられていた。そんなアナイスに、とある同盟国の公爵家の当主との婚約が持ちかけられたのだが、アナイスは婿を取ってカサンドル家を継ぎたいからと男であるアリスティアに婚約を押し付けてしまう。アリスティアとアナイスは髪色以外は見た目がそっくりで、アリスティアは田舎に引っ込んでいたためいけてしまった。
アリスは自分の性別がバレたらどうなるか、また自分の呪われた黒を見て相手はどう思うかと心配になった。そして顔合わせすることになったが、なんと公爵家の執事長に性別が即行でバレた。
公爵家には公爵と歳の離れた腹違いの弟がいる。前公爵の正妻との唯一の子である。公爵は、正当な継承権を持つ正妻の息子があまりにも幼く家を継げないため、妾腹でありながら爵位を継承したのだ。なので公爵の後を継ぐのはこの弟と決まっている。そのため公爵に必要なのは同盟国の有力貴族との縁のみ。嫁が子供を産む必要はない。
アリスティアが男であることがバレたら捨てられると思いきや、公爵の弟に懐かれたアリスティアは公爵に「家同士の婚姻という事実だけがあれば良い」と言われてそのまま公爵家で暮らすことになる。
一方婚約者、二十五歳のクロヴィス・シリル・ドナシアンは嫁に来たのが男で困惑。しかし可愛い弟と仲良くなるのが早かったのと弟について黙って結婚しようとしていた負い目でアリスティアを追い出す気になれず婚約を結ぶことに。
これはそんなクロヴィスとアリスティアが少しずつ近づいていき、本物の夫婦になるまでの記録である。
小説家になろう様でも2023年 03月07日 15時11分から投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる