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番外 側近、瀬来月光 4
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赤ちゃんの体を風呂で温めて、隠密さんが買ってきてくれた、小さな小さな着物を着せる。
そのあとミルクを飲ませたら、おなか一杯になって、満足したのか一丁前に大きなあくびをして、寝た。
すぐにも死んでしまいそうな、か細さがあったが。どうやら危険は脱したようだ。
そろりと布団の上に寝かせると、一瞬、ワキワキッと手足が動いて、また寝た。
可愛い。
月光は、ニコニコ笑顔が止まらなかった。
「小さいね、可愛いね、赤穂の子だね」
特徴的なオオワシの翼こそないが、この子は赤穂の子としか思えない。
この子を見ていると、まるで子供の頃に戻ったような気になる。
赤穂とは、物心つく前から一緒だったのだ。
だから、わかる。
「この子は、俺と…金蓮の子だ」
その赤穂の言葉には、さすがに驚いた。
将堂家当主の金蓮は、男性として振舞っている。むしろ女性的に見えたことがない。
自分などより背も高いし、凛々しいし、目線も態度も厳しいし。
いったいどうして、このふたりがそういうことになったのだ?
まぁ、ふたりは兄弟だけど。実質、従兄弟だから。近親婚には当たらず、好きになっても問題はないけど。
うー、もやもやするぅ。
聞きたくないけど。聞かないとならないよな。この子のために。
龍鬼であり、将堂の血脈である、これから波乱の人生を歩むかもしれないこの子のためにも。すべてを知っておかないとならない。
月光は意を決して、赤穂にたずねた。
「金蓮様とは、どういうわけで?」
「…殺せと、言われた。俺の子を、殺せと。でも。俺はどうしても、この子を…。兄上から、この子の命を守りたい。だから、月光にはすべてを話す。俺を幻滅しても…この子だけは、月光、頼む…」
「わかってる。大丈夫だから。全部話して」
赤子を起こさぬよう、小声で、とつとつと、赤穂はこの一年の出来事を語った。
月光の元を去った赤穂は、失意の中、仕事に打ち込んだ。
戦って、戦って…将堂軍は手裏兵を領地から追い払うだけでいいのに、赤穂は容赦なく斬って捨てた。
しかしそれは、将堂の総意ではなく。
血を求めてさまよう凶戦士のごとき働きをする赤穂を、金蓮は咎めた。
だが金蓮も。十八歳という若さで将堂家の威信を背負い、家臣の期待に応えなければならない重圧に押しつぶされそうになっていたのだ。
全幅の信頼を置いていた藤王は、そばにいない。
そこに、気性の荒い弟が問題を起こす。
金蓮は精神の均衡を崩し、赤穂を罵倒した。キレたのだ。
さんざん暴れたあと、押さえ込んだ赤穂の胸で。藤王がいないと言って泣く。
そんな兄を、赤穂は自分を見ているように思った。
なぜ、この腕の中にいるのは月光ではないのか、と。
そして揉み合っている最中に、兄が女性だと気づき。戸惑った。
でも金蓮は。赤穂を藤王だと思ってすがりつく。
彼女を突き放すことができなかった。
金蓮は、赤穂を藤王と思い。
赤穂は、金蓮を月光と思って。情を交わした。
お互いに、お互いを見てはいない。
けれど温かいその体温は、確かに慰めになった。
暗い目をした金蓮に、誘われるまま。何度か情を交わしたが。
彼女が身ごもったとき、ふたりは我に返った。
将堂軍大将の、将堂家当主の腹が大きくなっては、もう大軍を率いることができなくなる。
しかし世継ぎを生むことは、将堂家のためにもなることで。
それから金蓮は、長期の療養期間に入った。
子を産むことを決めたのだ。
このことは当事者以外は、医者の井上しか知らないことである。
金蓮の穴を埋めるべく、赤穂は軍の仕事を一手に引き受けることになった。
「もう…そういうつもりで結婚話を受けろと言ったんじゃなかったのに。悪い男だな、赤穂は」
普通に、家柄の良い者と結婚してくれればいいのに。思いもよらない方向に行ったものだ。
月光は呆れて、眉尻を下げてしまう。
「俺は、おまえを愛したかっただけなんだ。おまえを失いたくなかった。あのときのおまえは、俺がそばにいると、自害しそうだった。俺のためにならない者は排除すると、よく言っていたものな。それはきっと、自分にも当てはまった。だろう?」
「そうだ。僕が赤穂の足枷になるなら、僕は自分すらも排除する」
「そんなこと許さねぇ。だから、おまえのそばを離れた。俺の前以外では死なないと、言質を取ってな」
そう言って、赤穂は苦しげに両手で顔を覆った。
「だが、おまえがそばにいないのが、こんなに苦しくて耐えがたいなんて…俺も、兄上同様、おかしくなっていたのかもしれねぇ…でも、愛そうとしたんだ、兄上を。俺の子を産んでくれるのだから。なのに、生まれた子は龍鬼だった。兄上は将堂家から龍鬼を出すなどあってはならぬと、俺にその子を殺せと命じ。このことはなかったことにしろと、俺のことも捨てたんだ」
うわぁ、と。月光は心の中だけで思った。
赤穂は案外真面目で、優しい男なのだ。
愛そうと思ったのなら、懐に入れて守り抜く心意気だったのだろう。
それを、本人からバッサリ斬り捨てられてしまうとは。
「今にも死にそうなこの子を抱いて、途方に暮れたが。頭に浮かんだのは月光だけだった。このような不義理な男を助けてくれるとは思わなかったが、せめてこの子だけでも、そんな藁にもすがる思いでここに来た。でも、この子が生きていると知れたら、兄上はきっと許さない。この子を匿うおまえにも咎があるかもしれない。それに、龍鬼だから。誰にも見られずに育てるのは大変だ。せっかく助けてくれたけれど。この子も、この子を育てるおまえも、きっとつらい思いをする。この先、いいことなんか。なにもない」
「まさか。いいことばかりじゃないか」
月光は赤穂の言葉を、首を振って否定した。
だって。もうこんなにも。自分は幸せなのだ。
「子供が望めない僕に、こんなに可愛い子を授けてくれるなんて。赤穂、僕は幸せだよ。大好きな赤穂の子を、君とともに育てられるんだから」
月光は赤ん坊の寝顔を見て、そしてその向こうにある最愛の男の顔をみつめて、微笑んだ。
「これ以上の幸せって、あるの?」
自分はどうあっても、赤穂の子供を産んであげられないのだ。
なのに、そんな自分の腕の中に、天使が降りてきた。
可愛い、赤穂の子供。
龍鬼だからなに? どんどん愛しさが湧き上がってくるのに。なんの問題もないよ。
「愛している、月光」
すべて知っても、月光がこの子を見限らないとわかってくれたのか。一筋、赤穂の頬に涙が伝った。
赤穂自身に問題はないのに。彼は本当に、家族運がないなと月光は思う。
そう、運がないだけ。
赤穂は愛を惜しまないのに、受け取る相手に恵まれないだけなのだ。
だから月光は、赤穂を愛し続けたいと思う。
この先も。いつまでも。
「僕も。ずっと。ずーっと、赤穂を愛してた。今も、愛しているよ」
赤子を真ん中にして、月光と赤穂は川の字になって寝た。
さぁ、もう、寝込んでなんかいられないな。
★★★★★
赤子の目が開いた。
黒髪とおんなじ、真っ黒でピカピカの目んめ。
そして赤子ながら、ふてぶてしい顔つき。
うん。赤穂の子で間違いない。
月光は子供の顔を見て、にっこりした。
そして赤穂に告げる。
「じゃあ、赤穂。僕と正式に離縁してくれる?」
「は? なんで? 俺とともにこの子を育てるんじゃないのか?」
ちょっと怒り気味で、赤穂が言うけれど。
これは大事なことだった。
「そうだよ、この子のためなんだ。赤穂と結婚したままだと、この子がここにいることがすぐにもバレてしまうよ。僕と赤穂は縁を切った。そう、世間に周知させないとならない。元々、僕の命を救うためだとみんな思っているし、病弱で伴侶の役目も果たせないとなれば、世間も納得するだろう」
「しかし、俺は月光と…」
赤穂は。月光との結婚を望んでいて、それがようやく叶ったので月光を手放したくはなかった。
伴侶として、堂々と月光を自分のものだと主張できる、その機会を自ら捨てるなんて、できない。
そんな赤穂の気持ちは、月光にも痛いほど伝わるのだが。
ここは心を鬼にしないとね。
「誰になんと思われようとも、僕が赤穂を愛することは変わらないよ。肩書なんかどうでもいい。ただ、この子を守るためには、僕が赤穂の伴侶であってはならないんだ。赤穂も、病弱な僕を見捨てた冷血漢だって言われるよ。それでもこの子を守るためだから、我慢して?」
「龍鬼よりも恐ろしいと言われている俺だ。今更、誰に後ろ指をさされようと…大丈夫だが…」
なかなか踏ん切りがつけられない赤穂に、月光はキスした。
父にみつかったあの日以来、初めてのくちづけ。
「離縁したところで、縁など切れないよ。僕と赤穂の絆は、そんなやわじゃない。だろ?」
「月光…」
赤穂の手に頭を引き寄せられ、月光は深く唇を合わせた。
久々に触れた赤穂の唇は、熱くて。
そうだ、この熱。
赤穂はいつでも、生命力を激しく燃やすような熱さがあったなと、思い出した。
その熱に身を投じるのが、好きなのだ。
舌を絡めると官能があふれ、月光は溺れそうになる。
そのとき、顎になにかが触った。
抱いていた赤子が、手で月光の顎に触れたのだ。
ぴかりとしたあどけない瞳が、くちづけるふたりを見ている。
子供の前で、こんな激しいキスをしては、いけないねっ。
赤穂も気まずそうに、月光を離す。
まだ、話は続くのだ。
「…ん、それで。離縁したら療養生活するため、人知れず引っ越します。で、実際は山の中、人目のつかないところでこの子を育てる。赤穂はそこに、たまに遊びに来るくらいにして?」
「寂しいが、それがこの子のためなんだな?」
そうそう、わかってきたね、赤穂。
満足そうに、月光はうなずいた。
「この子の名前はどうする? 将堂家では色と植物由来の名を組み合わせるのだろう?」
「いかにも将堂家の名をつけたら、この子の出自が疑われる。なので…紫月というのはどうだ?」
息をのんで、月光は赤穂に丸い目を向けた。
「月の字、入れていいの?」
月光は、この子を自分の子供のつもりで育てる気だったけれど、実際には血脈的な関わりがない。
名前に月の字、己の名の一部を入れるというのは、その子と月光の関りが深いと誰もが連想するものだ。
たとえば、桃色の月光と黒髪の赤子が、親子に見えなくても。紫月と名乗れば、月光の子だと認識してもらえる。それほどに強力な証しなのだ。
「この子は、俺と月光の子供だ。おまえが良ければ、この名にしたいんだが?」
「いいに、決まってんじゃーん」
嬉しすぎて、月光は泣いてしまった。
でも、子供の舌では紫月は発音しづらいようで。五歳になっても、紫月は『しぅき』としか言えなかった。
それで、紫月は紫輝になってしまったのだが。
ま、それも運命。輝いているんだからいいんじゃない? と現在の月光は思っていた。
★★★★★
とある山の中で、紫月を隠して暮らす生活が始まった。
男所帯での子育ては手探り状態で大変だったが。
あるときは、将堂の宝玉としての知恵を。あるときは、隠密さんの庶民の知恵を採用して。乳飲み子はどんどん大きくなっていった。
赤穂は…あまり知恵は出さなかったよ。ただそこにいるだけ。
でも、父上の威厳も大事なのだ。
紫月は、赤穂のおんぶが大好きだ。
紫月には羽がないから、翼や羽毛が生えている背中を不思議に思うみたいで、赤穂の羽毛に顔を埋め小さい手で羽を握り締め、寝てしまった。
引っ張ると羽毛がブチブチ抜けて痛いから、そのままにするしかない。
そうしたら疲れたとか言って、赤穂も床にうつ伏せで寝ちゃって。
親亀の背中に子亀を乗せて状態で、かーわーいーいー。
「くそっ、天下の准将を地に伏せさせる男は、こいつしかいねぇ…」
なんて、半笑いでつぶやいてる。
ほのぼの。あれ? 父上の威厳はないなぁ。おかしいなぁ。
そうして五年間は、親子で平穏に暮らすことができた。
子供を育てるのは大変で、毎日バタバタしていたけれど。忙しいながらも平和な日々という感じだったのだ。
四月になると、前線基地で左軍と右軍が交代するので、赤穂は戦場に行ってしまった。
そして三人の隠密さんのうち、二人は買い出しで山を降りていた。
その日は極端に守りが薄い日だったのだ。
月光は洗濯した敷布を竿に掛けていた。そのそばで、紫月は手伝いという名の邪魔をしている。
「おとーしゃまはももいろでふわふわぁ」
「フワフワぁ」
「ちちうえはまっくろでごあごあぁ」
「ゴワゴワぁ」
紫月の変な歌に合わせ、月光は合の手を入れる。
しゃがんで地面の綺麗な石を探す紫月は、真剣な顔だけど。
汚れた手で洗濯物には触らないでね。
普段、子供も、もちろん龍鬼もいない、という態で生活している。
だから子供の小さな着物は、室内干しが基本だ。
見知らぬ者が通りかかっても、ひと目で子供がいるとわからないよう徹底している。
月光は、大人の着物を竿に干していく。
「あっ、すきなのきた」
「ん? なにが好き?」
なにげなく、月光は紫月に目線を落とした。
が、ついさっきまでしゃがんでいた場所に、紫月はいない。
「あれ? 今までここにいたのに…綺麗なちょうちょでも追いかけていったのかな?」
なんて、微笑ましく思っただけだった。そのときは。
そこに隠密が声をかけた。
「月光さま、金蓮様が山に入ってきました」
え、なんで? と思いつつ、月光は緊張に身をこわばらせる。
「紫月を探してくれ。捕まえて、隠れて…」
瞬時に隠密は動いたが。すぐにも、金蓮がこちらに来る。
紫月には、人を見かけたらかくれんぼをしろと言い聞かせていた。
なので、きっと。紫月は森で静かに遊んでいる。そのはずだ。
どうする。とにかく、まずは白を切る。
紫月が出てこないよう、祈るしかなかった。
「まさか、瀬来がここにいるとはな。赤穂がこちらに通っているようだが?」
金蓮は、山登りには相応しくない綺麗な着物を着ていた。
久しぶりに見る、大将の姿。
彼は二十三歳になったか。当主としての貫禄が、視線の鋭さに現れている。
だが紫月の母で、紫月の命を狙っていると思うと、月光は心穏やかではいられない。
供をつけずに来たということは、紫月がいると疑っているからだろうと察した。
「赤穂様は、離縁したとはいえ体の弱い僕を気遣い、たまにこちらに顔を出してくださるのです」
あくまで、元伴侶の見舞いですよ、という態で。月光は押し通す。
「元気そうではないか。そろそろ軍に顔を出してはどうだ?」
「…そのうちに」
「大将が足を運んだのだ。茶くらい出さぬか?」
家の中には、子供を連想させるものがある。
それに生活の中に、金蓮を入れたくなかった。
「いえ、あばら家です。金蓮様の御衣裳が汚れてしまいますので、ご容赦を」
金蓮はいぶかしげに辺りを見回し、ふむとうなずくと。踵を返した。
月光はホッとしたのだが、かすかに数を数える子供の声がする。
金蓮もそれに気づき、山の中へ入っていった。
「お、お待ちください、金蓮様」
「やはり、おまえ…龍鬼を…赤穂の子供を隠し育てているな?」
金蓮は剣を抜き、木の前でうずくまっている子供に向かって行った。
「やめろっ、僕の息子だっ。紫月、逃げろっ」
十まで数えた紫月が振り返る。
金蓮が振り上げた剣を下ろす。
時が止まったような気がした。
大きく息を吸いこんで、月光は紫月がいた場所に駆け寄る。
でも。そこに紫月の姿はなかった。
なにもなかった。
「どこに…どこにやった? 僕の息子っ、どこに、どこにっ!」
上官だからとか、当主だからとか、そんなことは頭になく、ただ金蓮に詰め寄った。
「僕の息子だ、僕の…僕の息子を、どこにやった?」
「おまえのじゃない、赤穂の子だ。おまえほどの才人が、将堂から龍鬼を出すわけにはいかないと、なぜわからない?」
そんな偏った道理、わかるものか。
月光は金蓮の胸倉を掴んで、憤りをぶつけた。
「関係ないだろ、紫月は僕の息子だ。将堂なんか関係ないんだよっ。返せよ。僕の息子を返してよっ」
なぜ、誰にも迷惑をかけていないのにそっとしておいてくれないのかっ。
なぜ、家の都合でいつまでも振り回されなければならないのかっ。
龍鬼だから、なんだというのかっ。
紫月は己の息子。だたそれだけだっ。
金蓮は月光の剣幕に脅え、逃げ帰ろうとするが。月光は彼に取りすがって返せとわめいた。
「知るかっ、あのような子供、いなくなったところで誰もなにも思いやしない。無礼打ちされたくなければ、さっさと離れろ」
剣の柄で背中を殴られ、月光は地面に突っ伏した。
胸の刀傷は治っているものの、体幹への打撃はいまだ弱く。大きな負担を受ける。
「将堂の宝玉でなければ、斬って捨てるところだ。無礼者めっ」
月光が呻いている間に、金蓮は去っていった。
紫月さえ始末できれば良かったのだろう。
でも、金蓮はいなくなったと言った。
殺したではなく。
紫月は龍鬼だから。龍鬼の能力でどこかへ逃げたのでは?
もしかしたら、少し姿を消しただけかも。
「月光さま、申し訳ありません、間に合わず…」
紫月を探しに行っていた隠密が、月光の背中を撫でた。
「あの…手裏の者が、紫月さまが消えた辺りで、なにやらしているのですが」
手裏がなにを? と思って。月光は痛む体を起こし、紫月が消えた辺りの場所へ向かった。
そこには黒いマントをかぶった二人組がいたのだ。
「そこにいるのは誰だ?」
声をかけたら、一瞬でいなくなった。
あの足の速さ、それに足まで隠す黒マントは、手裏軍では龍鬼の代名詞だ。
そんな情報を持っていた。
しかし手裏の龍鬼がなにをしていた?
まさか、紫月の行方を彼らは掴んでいるのか?
でも、もう姿も見えなくて。
月光は力を失い、膝から崩れ落ちた。
「紫月、紫月…どうしたらいいんだ。赤穂、助けて…」
桃色の瞳から大粒の涙が、あとからあとからあふれてくる。
でも、泣いている場合じゃない。
ふらりと立ちあがると、月光は闇雲に山の中を歩き回った。
紫月の姿、あのヒマワリがパッと花開くような笑顔を求めて。
その日から、月光は紫月を探し回った。
隠密も、くまなく山の中を捜索していく。だが紫月はみつからなかった。
それでも月光は探し続ける。
日中は山をさ迷い、夜は紫月を思って泣く毎日。
そんな状態が三日も続けば、体の弱い月光はすぐにも倒れてしまう。
隠密が気を利かせて、赤穂を呼んだ。
前線基地に入ったばかりだったが、瀬間と堺が代わりを務めてくれて、抜けることができた。
彼らに詳しいことは話せなかったが、月光が急変したのではないかと思ったらしい。
早く行って力づけろと、赤穂は瀬間に言われた。
馬に騎乗したまま、山を駆け上がり。赤穂は月光の元に馳せ参じた。
「月光、無茶をしているそうじゃないか」
布団に横になってはいたが、枕が涙で濡れている。
ぐったりしている月光を、赤穂は抱き起こす。
「赤穂ぅ、紫月が、いない。どこにも、いないぃ」
桃色の瞳を真っ赤にして、泣き濡れる月光を。赤穂はぎゅうっと抱き締めて。なだめるように背を叩いた。
「気をしっかり持て、月光。紫月が戻ってきたとき寝込んでいたら、世話ができないだろう? 美味しいものを作って待っているくらいの気合がないと」
赤穂は、紫月とともに月光まで儚くなったら…と。それが気掛かりだった。
大事な者を、ふたり同時に失いたくはない。
だから必死で月光を慰め、叱咤したのだ。
ひくりと息を吸いこんで、月光は涙を止めた。
そうだ。紫月は殺されたわけじゃない。
絶対に戻ってくる。必ずみつけ出す。
そうして、赤穂と目を合わせる。
すると赤穂も、悲しげな顔つきをしていて…。
赤穂だって、つらいんだ。
そうだ、自分ばかり悲しいんじゃない。
「紫月は、ずっと探す。それは、決めている」
目に力を入れて、月光は宣言した。
「あぁ」
「手裏の龍鬼が、あの日この山にいた。紫月が消えた場所で、なにかしていた。僕は、手裏の龍鬼と接触したい。彼らがなにかを知っているはずだ」
「手裏の龍鬼が、なんでこんなところに?」
「わからないけど。わからないから聞きたいんだ。だから、僕は軍に復帰する」
戸惑う視線を、赤穂が向けるが。
月光は意志を固めていた。
「紫月をこの手に取り戻すためなら、なんでもやる。なんでもできる。僕は、あきらめない」
「あぁ。俺もおまえに力を貸す。ふたりで、親子で暮らした幸せな日々を取り戻そう」
ふたりは泣きながら、抱き合った。
でも、泣くのは。この日が最後。
紫月を取り戻すまでは、もう泣かない。
★★★★★
そして、今年の夏。
手裏の龍鬼である安曇に接触することができ。
紫輝が紫月であると知らされた。
己の可愛い息子、己の可愛い天使が、己の腕の中に戻って。
月光はなんの不満もない。
いや、なくもないが。
紫輝が元気なら、大概のことは許せる。
歯を食いしばって、許したいと思う。
でも、なんであの男なのか? とはどうしても思ってしまうけどねっ。
「人事といえば、紫輝を副長にしておいて良かったな。まさかの急転直下で、俺が死ぬとは思ってなかったし。青桐ってやつが准将になったあとだったら、決裁を通してくれるかわからなかっただろう?」
「ん?」
行事の話から、つらつらと過去のことを思い出していた月光は、囲炉裏の炎越しに赤穂を見やる。
子供の頃から、鬼気迫る感覚を常に胸に抱いているようだった赤穂の表情が、なにやらほのぼのとしている。
もしかしたら赤穂も、家のしがらみや戦場の緊迫感から解放されてホッとしているのかもしれないな。
「なんだ、聞いていなかったのか? もしかして熱があるんじゃないか?」
確かに、月光は体が弱くて、よく風邪を引いたし。
怪我を負ってから、激しい運動は駄目になってしまったが。
ちょっと外にいたからって、そんなにすぐ熱なんか出ないよ。
「心配しすぎ。この頃は体の調子もそんなに悪くない。紫輝に会えたからかな? あの子がいると、なんか元気になるんだ。ほら、子育て期間も元気だったじゃん? やっぱあの子、天使なんだな」
「おまえは子供大好きだから、興奮してるだけだろ」
軽くハハッて笑う赤穂を、月光は嬉しそうに目を細めてみつめた。
「幸せそうな顔してる」
「おまえは幸せじゃないのか?」
「幸せだよ。赤穂も紫輝もいて、あの親子で暮らした時間が戻ってきたんだ。幸せすぎるくらい。でも、赤穂はまだ若いじゃん? 二十一歳だよ。僕は…満足させてあげられないから」
月光は怪我の後遺症で、心臓が弱くなった。
射精を伴う情交は命に関わると、医者に言われている。
だから赤穂を受け入れることは、もうできないのだ。
「だから他の誰かと付き合えって? また同じところに戻ったな。でも、もう間違わねぇよ」
赤穂は立ち上がって、月光の隣に座り直すと。肩を抱いた。
甘くみつめられ、月光はほんのり頬を染めるが。
「でも。でもさ、赤穂は案外子煩悩だから。子供だってまだまだ望めるよ? この村には、若くて気立てが良くて、健康な娘さんがいるし…」
「健康でも、子供に恵まれない女性はいるだろう。結婚して、子供ができなかったら? また次を探せと言うのか? それは本当の愛じゃねぇよ。子孫を残すことは大事かもしれないが、それを愛する基準にするのは間違っている。まずはその人を愛して、その結果に子供というのが理想だと思う。で、俺は月光を愛している。子供に恵まれなくても、他は望まない」
今まで赤穂は、月光の言葉におおよそ従ってきた。
それは、頭脳明晰な彼に任せておけば大抵のことはうまくいったからだ。
特に、政治向きの要件や。将堂家での突出せずに、能力は発揮するという繊細さが要求される立ち居振る舞いなど。
義弟なので、自分は補佐に徹していますという態を見せることが重要だった。
しかし人間関係、特に女性に関しては、全部ダメだった。
それは基本、赤穂が月光を愛しているからなのだ。
愛している人がいるのに、他の女性と付き合うことは、相手に失礼だし。相手も察するし。結果、うまく行った試しがない。
つまり赤穂は。月光でないと駄目なのだ。
そんなことを考えていた月光に、赤穂がつぶやいた。
「これって、紫輝が言ってた『試されてる』ってやつかな?」
「試されてる?」
意味がわからず、月光が聞くと。
赤穂は眉間に太いしわを刻んで、嫌そうに言った。
「まぁ簡単に言うと。あいつが『俺ってこんなひどいやつだけど、それでも俺のこと愛してくれるか?』的なことを、聞いたり、仕掛けたり、するんだと」
砂糖のかたまりかと思うくらいに、甘ったるいあの声で、紫輝にたずねるあいつのサマを。想像した月光は。
自分も眉間にぶっといしわを刻んだ。
「キモッ、ウザッ、あんなに愛されているのに紫輝の愛を試すとか、あり得ないんですけどぉ」
「まぁ、なんの関係もないのに、シレッと手裏基成に成り代わるような面の皮の厚いあいつが。紫輝には頭が上がらねぇってのは、愉快な話だが」
ククッと喉で笑って、あいつを胸のうちで貶めて喜んでいる。
その気持ち、わかります。
「愛を試すっていうのは、信じてると言いながら、信じていないのと同じじゃね?」
「信じてないんじゃないんだ。信じられないんだよ。紫輝は素敵な子だからね。俺のような男を、こんないい子が愛してくれるなんて、本当に? 嘘じゃないよね? って。問いかけているんじゃないかな?」
芝居がかった調子で、月光が安曇の真似をする。
まぁ、似ていないが。
「じゃあ、おまえも。本当に愛してるのかって、俺に聞いてみろよ」
つまり、赤穂は。自分が赤穂の愛を試しているのだと、言いたいわけだ。
そんなつもりはないけれど。
自分以外の者を、彼にすすめるのは。赤穂にとっては、そういう意味に思えてしまうってことだ。
ええぇ? 自分が安曇ほどにウザいやつだなんて、嫌ですぅ。
でも、せっかくだから聞いちゃおう。
「赤穂…僕のことを愛してる?」
「あぁ、愛している。もう離してやらねぇ。おまえが俺に愛を与えてくれた分、もっといっぱい、俺はおまえに愛を返してやるんだ」
即答されて、嬉しかった。
でも自分には、そんな資格もないような気がして。情けなく眉を下げる。
「僕は赤穂に、なにもしてあげてないよ? 伴侶にしてもらったのに、その役目はなにも果たせなかった。将堂の宝玉として赤穂の役に立ちたかったけど、それもわずかな期間で…」
「なに言ってんだ。おまえは俺の目の前に現れた瞬間から、俺に与えてばかりいたじゃないか。家族も顧みなかった俺のそばにいてくれた。体も心も捧げてくれた。愛で俺を満たし続けてきた。紫輝のことだって、おまえがいなきゃ、俺ひとりであいつを育てられなかった」
「それは…命がそこにあるなら、当然助けるに決まってる」
「そう、おまえにとっては、自然で当たり前のことかもしれない。でもそれは、当たり前じゃないんだ。他の女が産んだ子なんか、普通いい気はしないだろう。そういうものだ。でもおまえは…俺のため、紫月のためって…」
特別なことをしている気は、月光にはなかった。
ひとりでいた、赤穂のそばにいることも。
体を捧げたことも。
自分がそうしたかったからだ。
紫輝のことだって、自分は本当に赤穂の子供を育てることができて嬉しかった。
与えたつもりは、なかったことばかり。
だから、赤穂がそんなこと言うのがこそばゆく感じてしまう。
「おまえが俺に与えてきたものは、誰にも真似できない、至高の愛だ。ったく、どんだけ愛情深いんだ」
そんなことを言われても、自分ではわからない。
ただ、好きだから。
好きと想い続けただけ。
「だからこれからは、俺もおまえに愛を与えるんだ。誰にも負けないくらいの愛を。一生かけても返し切れる気がしねぇが…だから他に寄り道してる暇なんかねぇ。だろ?」
微笑む赤穂を見て。月光はうなずく。
きっと、赤穂の為にならないと踏み潰してきた己の恋心が、いつの間にか大地に根を這わせて、実を結んだのだ。
ならば、月光は。遠慮せずに、その実りを受け取ることにする。
「赤穂が出世するために力をつけて、将堂家での居場所を作るために働いてきた、僕の頭脳。赤穂に抱き締めてほしい、誰にも触らないでと願う、僕の恋心。ふたつの自分に、いつも引き千切られそうだった。でもこれからは、頭脳は紫輝のために。恋心は赤穂のために…」
ちょっとだけ、甘えてもいい?
そんな気持ちで、月光は赤穂に抱きついた。
赤穂はしっかりと月光を抱き止めてくれる。
だから。ちょっとだけ。我がまま言ってもいい?
「ずっと、僕だけを抱き締めて。ずっと、僕だけをみつめて」
視線を絡め合わせ、甘く、甘く、笑い合う。
でも、それだけで。赤穂の若い体は股間をみなぎらせる。
月光は、高ぶりにそっと手を伸ばした。彼を慰めようと思ったのだが。
赤穂は月光が触れる前に、その手を握り込んでしまう。そして膝の上に月光を乗せあげた。
「激しく動かなくても、いいんだ。おまえがこうして寄り添ってくれたら。それだけで幸せで、気持ちが良い」
赤穂は正面から胸を合わせ、月光と抱き合う。
ゆるゆると、波に漂うように揺れていると、心も体もぴったりと合わさるような心地になって。
月光も気持ちが良かった。
だから…唇も合わせてしまおう。
子供がいない、今のうちに。いっぱい、大人のキスをしよう。
そのあとミルクを飲ませたら、おなか一杯になって、満足したのか一丁前に大きなあくびをして、寝た。
すぐにも死んでしまいそうな、か細さがあったが。どうやら危険は脱したようだ。
そろりと布団の上に寝かせると、一瞬、ワキワキッと手足が動いて、また寝た。
可愛い。
月光は、ニコニコ笑顔が止まらなかった。
「小さいね、可愛いね、赤穂の子だね」
特徴的なオオワシの翼こそないが、この子は赤穂の子としか思えない。
この子を見ていると、まるで子供の頃に戻ったような気になる。
赤穂とは、物心つく前から一緒だったのだ。
だから、わかる。
「この子は、俺と…金蓮の子だ」
その赤穂の言葉には、さすがに驚いた。
将堂家当主の金蓮は、男性として振舞っている。むしろ女性的に見えたことがない。
自分などより背も高いし、凛々しいし、目線も態度も厳しいし。
いったいどうして、このふたりがそういうことになったのだ?
まぁ、ふたりは兄弟だけど。実質、従兄弟だから。近親婚には当たらず、好きになっても問題はないけど。
うー、もやもやするぅ。
聞きたくないけど。聞かないとならないよな。この子のために。
龍鬼であり、将堂の血脈である、これから波乱の人生を歩むかもしれないこの子のためにも。すべてを知っておかないとならない。
月光は意を決して、赤穂にたずねた。
「金蓮様とは、どういうわけで?」
「…殺せと、言われた。俺の子を、殺せと。でも。俺はどうしても、この子を…。兄上から、この子の命を守りたい。だから、月光にはすべてを話す。俺を幻滅しても…この子だけは、月光、頼む…」
「わかってる。大丈夫だから。全部話して」
赤子を起こさぬよう、小声で、とつとつと、赤穂はこの一年の出来事を語った。
月光の元を去った赤穂は、失意の中、仕事に打ち込んだ。
戦って、戦って…将堂軍は手裏兵を領地から追い払うだけでいいのに、赤穂は容赦なく斬って捨てた。
しかしそれは、将堂の総意ではなく。
血を求めてさまよう凶戦士のごとき働きをする赤穂を、金蓮は咎めた。
だが金蓮も。十八歳という若さで将堂家の威信を背負い、家臣の期待に応えなければならない重圧に押しつぶされそうになっていたのだ。
全幅の信頼を置いていた藤王は、そばにいない。
そこに、気性の荒い弟が問題を起こす。
金蓮は精神の均衡を崩し、赤穂を罵倒した。キレたのだ。
さんざん暴れたあと、押さえ込んだ赤穂の胸で。藤王がいないと言って泣く。
そんな兄を、赤穂は自分を見ているように思った。
なぜ、この腕の中にいるのは月光ではないのか、と。
そして揉み合っている最中に、兄が女性だと気づき。戸惑った。
でも金蓮は。赤穂を藤王だと思ってすがりつく。
彼女を突き放すことができなかった。
金蓮は、赤穂を藤王と思い。
赤穂は、金蓮を月光と思って。情を交わした。
お互いに、お互いを見てはいない。
けれど温かいその体温は、確かに慰めになった。
暗い目をした金蓮に、誘われるまま。何度か情を交わしたが。
彼女が身ごもったとき、ふたりは我に返った。
将堂軍大将の、将堂家当主の腹が大きくなっては、もう大軍を率いることができなくなる。
しかし世継ぎを生むことは、将堂家のためにもなることで。
それから金蓮は、長期の療養期間に入った。
子を産むことを決めたのだ。
このことは当事者以外は、医者の井上しか知らないことである。
金蓮の穴を埋めるべく、赤穂は軍の仕事を一手に引き受けることになった。
「もう…そういうつもりで結婚話を受けろと言ったんじゃなかったのに。悪い男だな、赤穂は」
普通に、家柄の良い者と結婚してくれればいいのに。思いもよらない方向に行ったものだ。
月光は呆れて、眉尻を下げてしまう。
「俺は、おまえを愛したかっただけなんだ。おまえを失いたくなかった。あのときのおまえは、俺がそばにいると、自害しそうだった。俺のためにならない者は排除すると、よく言っていたものな。それはきっと、自分にも当てはまった。だろう?」
「そうだ。僕が赤穂の足枷になるなら、僕は自分すらも排除する」
「そんなこと許さねぇ。だから、おまえのそばを離れた。俺の前以外では死なないと、言質を取ってな」
そう言って、赤穂は苦しげに両手で顔を覆った。
「だが、おまえがそばにいないのが、こんなに苦しくて耐えがたいなんて…俺も、兄上同様、おかしくなっていたのかもしれねぇ…でも、愛そうとしたんだ、兄上を。俺の子を産んでくれるのだから。なのに、生まれた子は龍鬼だった。兄上は将堂家から龍鬼を出すなどあってはならぬと、俺にその子を殺せと命じ。このことはなかったことにしろと、俺のことも捨てたんだ」
うわぁ、と。月光は心の中だけで思った。
赤穂は案外真面目で、優しい男なのだ。
愛そうと思ったのなら、懐に入れて守り抜く心意気だったのだろう。
それを、本人からバッサリ斬り捨てられてしまうとは。
「今にも死にそうなこの子を抱いて、途方に暮れたが。頭に浮かんだのは月光だけだった。このような不義理な男を助けてくれるとは思わなかったが、せめてこの子だけでも、そんな藁にもすがる思いでここに来た。でも、この子が生きていると知れたら、兄上はきっと許さない。この子を匿うおまえにも咎があるかもしれない。それに、龍鬼だから。誰にも見られずに育てるのは大変だ。せっかく助けてくれたけれど。この子も、この子を育てるおまえも、きっとつらい思いをする。この先、いいことなんか。なにもない」
「まさか。いいことばかりじゃないか」
月光は赤穂の言葉を、首を振って否定した。
だって。もうこんなにも。自分は幸せなのだ。
「子供が望めない僕に、こんなに可愛い子を授けてくれるなんて。赤穂、僕は幸せだよ。大好きな赤穂の子を、君とともに育てられるんだから」
月光は赤ん坊の寝顔を見て、そしてその向こうにある最愛の男の顔をみつめて、微笑んだ。
「これ以上の幸せって、あるの?」
自分はどうあっても、赤穂の子供を産んであげられないのだ。
なのに、そんな自分の腕の中に、天使が降りてきた。
可愛い、赤穂の子供。
龍鬼だからなに? どんどん愛しさが湧き上がってくるのに。なんの問題もないよ。
「愛している、月光」
すべて知っても、月光がこの子を見限らないとわかってくれたのか。一筋、赤穂の頬に涙が伝った。
赤穂自身に問題はないのに。彼は本当に、家族運がないなと月光は思う。
そう、運がないだけ。
赤穂は愛を惜しまないのに、受け取る相手に恵まれないだけなのだ。
だから月光は、赤穂を愛し続けたいと思う。
この先も。いつまでも。
「僕も。ずっと。ずーっと、赤穂を愛してた。今も、愛しているよ」
赤子を真ん中にして、月光と赤穂は川の字になって寝た。
さぁ、もう、寝込んでなんかいられないな。
★★★★★
赤子の目が開いた。
黒髪とおんなじ、真っ黒でピカピカの目んめ。
そして赤子ながら、ふてぶてしい顔つき。
うん。赤穂の子で間違いない。
月光は子供の顔を見て、にっこりした。
そして赤穂に告げる。
「じゃあ、赤穂。僕と正式に離縁してくれる?」
「は? なんで? 俺とともにこの子を育てるんじゃないのか?」
ちょっと怒り気味で、赤穂が言うけれど。
これは大事なことだった。
「そうだよ、この子のためなんだ。赤穂と結婚したままだと、この子がここにいることがすぐにもバレてしまうよ。僕と赤穂は縁を切った。そう、世間に周知させないとならない。元々、僕の命を救うためだとみんな思っているし、病弱で伴侶の役目も果たせないとなれば、世間も納得するだろう」
「しかし、俺は月光と…」
赤穂は。月光との結婚を望んでいて、それがようやく叶ったので月光を手放したくはなかった。
伴侶として、堂々と月光を自分のものだと主張できる、その機会を自ら捨てるなんて、できない。
そんな赤穂の気持ちは、月光にも痛いほど伝わるのだが。
ここは心を鬼にしないとね。
「誰になんと思われようとも、僕が赤穂を愛することは変わらないよ。肩書なんかどうでもいい。ただ、この子を守るためには、僕が赤穂の伴侶であってはならないんだ。赤穂も、病弱な僕を見捨てた冷血漢だって言われるよ。それでもこの子を守るためだから、我慢して?」
「龍鬼よりも恐ろしいと言われている俺だ。今更、誰に後ろ指をさされようと…大丈夫だが…」
なかなか踏ん切りがつけられない赤穂に、月光はキスした。
父にみつかったあの日以来、初めてのくちづけ。
「離縁したところで、縁など切れないよ。僕と赤穂の絆は、そんなやわじゃない。だろ?」
「月光…」
赤穂の手に頭を引き寄せられ、月光は深く唇を合わせた。
久々に触れた赤穂の唇は、熱くて。
そうだ、この熱。
赤穂はいつでも、生命力を激しく燃やすような熱さがあったなと、思い出した。
その熱に身を投じるのが、好きなのだ。
舌を絡めると官能があふれ、月光は溺れそうになる。
そのとき、顎になにかが触った。
抱いていた赤子が、手で月光の顎に触れたのだ。
ぴかりとしたあどけない瞳が、くちづけるふたりを見ている。
子供の前で、こんな激しいキスをしては、いけないねっ。
赤穂も気まずそうに、月光を離す。
まだ、話は続くのだ。
「…ん、それで。離縁したら療養生活するため、人知れず引っ越します。で、実際は山の中、人目のつかないところでこの子を育てる。赤穂はそこに、たまに遊びに来るくらいにして?」
「寂しいが、それがこの子のためなんだな?」
そうそう、わかってきたね、赤穂。
満足そうに、月光はうなずいた。
「この子の名前はどうする? 将堂家では色と植物由来の名を組み合わせるのだろう?」
「いかにも将堂家の名をつけたら、この子の出自が疑われる。なので…紫月というのはどうだ?」
息をのんで、月光は赤穂に丸い目を向けた。
「月の字、入れていいの?」
月光は、この子を自分の子供のつもりで育てる気だったけれど、実際には血脈的な関わりがない。
名前に月の字、己の名の一部を入れるというのは、その子と月光の関りが深いと誰もが連想するものだ。
たとえば、桃色の月光と黒髪の赤子が、親子に見えなくても。紫月と名乗れば、月光の子だと認識してもらえる。それほどに強力な証しなのだ。
「この子は、俺と月光の子供だ。おまえが良ければ、この名にしたいんだが?」
「いいに、決まってんじゃーん」
嬉しすぎて、月光は泣いてしまった。
でも、子供の舌では紫月は発音しづらいようで。五歳になっても、紫月は『しぅき』としか言えなかった。
それで、紫月は紫輝になってしまったのだが。
ま、それも運命。輝いているんだからいいんじゃない? と現在の月光は思っていた。
★★★★★
とある山の中で、紫月を隠して暮らす生活が始まった。
男所帯での子育ては手探り状態で大変だったが。
あるときは、将堂の宝玉としての知恵を。あるときは、隠密さんの庶民の知恵を採用して。乳飲み子はどんどん大きくなっていった。
赤穂は…あまり知恵は出さなかったよ。ただそこにいるだけ。
でも、父上の威厳も大事なのだ。
紫月は、赤穂のおんぶが大好きだ。
紫月には羽がないから、翼や羽毛が生えている背中を不思議に思うみたいで、赤穂の羽毛に顔を埋め小さい手で羽を握り締め、寝てしまった。
引っ張ると羽毛がブチブチ抜けて痛いから、そのままにするしかない。
そうしたら疲れたとか言って、赤穂も床にうつ伏せで寝ちゃって。
親亀の背中に子亀を乗せて状態で、かーわーいーいー。
「くそっ、天下の准将を地に伏せさせる男は、こいつしかいねぇ…」
なんて、半笑いでつぶやいてる。
ほのぼの。あれ? 父上の威厳はないなぁ。おかしいなぁ。
そうして五年間は、親子で平穏に暮らすことができた。
子供を育てるのは大変で、毎日バタバタしていたけれど。忙しいながらも平和な日々という感じだったのだ。
四月になると、前線基地で左軍と右軍が交代するので、赤穂は戦場に行ってしまった。
そして三人の隠密さんのうち、二人は買い出しで山を降りていた。
その日は極端に守りが薄い日だったのだ。
月光は洗濯した敷布を竿に掛けていた。そのそばで、紫月は手伝いという名の邪魔をしている。
「おとーしゃまはももいろでふわふわぁ」
「フワフワぁ」
「ちちうえはまっくろでごあごあぁ」
「ゴワゴワぁ」
紫月の変な歌に合わせ、月光は合の手を入れる。
しゃがんで地面の綺麗な石を探す紫月は、真剣な顔だけど。
汚れた手で洗濯物には触らないでね。
普段、子供も、もちろん龍鬼もいない、という態で生活している。
だから子供の小さな着物は、室内干しが基本だ。
見知らぬ者が通りかかっても、ひと目で子供がいるとわからないよう徹底している。
月光は、大人の着物を竿に干していく。
「あっ、すきなのきた」
「ん? なにが好き?」
なにげなく、月光は紫月に目線を落とした。
が、ついさっきまでしゃがんでいた場所に、紫月はいない。
「あれ? 今までここにいたのに…綺麗なちょうちょでも追いかけていったのかな?」
なんて、微笑ましく思っただけだった。そのときは。
そこに隠密が声をかけた。
「月光さま、金蓮様が山に入ってきました」
え、なんで? と思いつつ、月光は緊張に身をこわばらせる。
「紫月を探してくれ。捕まえて、隠れて…」
瞬時に隠密は動いたが。すぐにも、金蓮がこちらに来る。
紫月には、人を見かけたらかくれんぼをしろと言い聞かせていた。
なので、きっと。紫月は森で静かに遊んでいる。そのはずだ。
どうする。とにかく、まずは白を切る。
紫月が出てこないよう、祈るしかなかった。
「まさか、瀬来がここにいるとはな。赤穂がこちらに通っているようだが?」
金蓮は、山登りには相応しくない綺麗な着物を着ていた。
久しぶりに見る、大将の姿。
彼は二十三歳になったか。当主としての貫禄が、視線の鋭さに現れている。
だが紫月の母で、紫月の命を狙っていると思うと、月光は心穏やかではいられない。
供をつけずに来たということは、紫月がいると疑っているからだろうと察した。
「赤穂様は、離縁したとはいえ体の弱い僕を気遣い、たまにこちらに顔を出してくださるのです」
あくまで、元伴侶の見舞いですよ、という態で。月光は押し通す。
「元気そうではないか。そろそろ軍に顔を出してはどうだ?」
「…そのうちに」
「大将が足を運んだのだ。茶くらい出さぬか?」
家の中には、子供を連想させるものがある。
それに生活の中に、金蓮を入れたくなかった。
「いえ、あばら家です。金蓮様の御衣裳が汚れてしまいますので、ご容赦を」
金蓮はいぶかしげに辺りを見回し、ふむとうなずくと。踵を返した。
月光はホッとしたのだが、かすかに数を数える子供の声がする。
金蓮もそれに気づき、山の中へ入っていった。
「お、お待ちください、金蓮様」
「やはり、おまえ…龍鬼を…赤穂の子供を隠し育てているな?」
金蓮は剣を抜き、木の前でうずくまっている子供に向かって行った。
「やめろっ、僕の息子だっ。紫月、逃げろっ」
十まで数えた紫月が振り返る。
金蓮が振り上げた剣を下ろす。
時が止まったような気がした。
大きく息を吸いこんで、月光は紫月がいた場所に駆け寄る。
でも。そこに紫月の姿はなかった。
なにもなかった。
「どこに…どこにやった? 僕の息子っ、どこに、どこにっ!」
上官だからとか、当主だからとか、そんなことは頭になく、ただ金蓮に詰め寄った。
「僕の息子だ、僕の…僕の息子を、どこにやった?」
「おまえのじゃない、赤穂の子だ。おまえほどの才人が、将堂から龍鬼を出すわけにはいかないと、なぜわからない?」
そんな偏った道理、わかるものか。
月光は金蓮の胸倉を掴んで、憤りをぶつけた。
「関係ないだろ、紫月は僕の息子だ。将堂なんか関係ないんだよっ。返せよ。僕の息子を返してよっ」
なぜ、誰にも迷惑をかけていないのにそっとしておいてくれないのかっ。
なぜ、家の都合でいつまでも振り回されなければならないのかっ。
龍鬼だから、なんだというのかっ。
紫月は己の息子。だたそれだけだっ。
金蓮は月光の剣幕に脅え、逃げ帰ろうとするが。月光は彼に取りすがって返せとわめいた。
「知るかっ、あのような子供、いなくなったところで誰もなにも思いやしない。無礼打ちされたくなければ、さっさと離れろ」
剣の柄で背中を殴られ、月光は地面に突っ伏した。
胸の刀傷は治っているものの、体幹への打撃はいまだ弱く。大きな負担を受ける。
「将堂の宝玉でなければ、斬って捨てるところだ。無礼者めっ」
月光が呻いている間に、金蓮は去っていった。
紫月さえ始末できれば良かったのだろう。
でも、金蓮はいなくなったと言った。
殺したではなく。
紫月は龍鬼だから。龍鬼の能力でどこかへ逃げたのでは?
もしかしたら、少し姿を消しただけかも。
「月光さま、申し訳ありません、間に合わず…」
紫月を探しに行っていた隠密が、月光の背中を撫でた。
「あの…手裏の者が、紫月さまが消えた辺りで、なにやらしているのですが」
手裏がなにを? と思って。月光は痛む体を起こし、紫月が消えた辺りの場所へ向かった。
そこには黒いマントをかぶった二人組がいたのだ。
「そこにいるのは誰だ?」
声をかけたら、一瞬でいなくなった。
あの足の速さ、それに足まで隠す黒マントは、手裏軍では龍鬼の代名詞だ。
そんな情報を持っていた。
しかし手裏の龍鬼がなにをしていた?
まさか、紫月の行方を彼らは掴んでいるのか?
でも、もう姿も見えなくて。
月光は力を失い、膝から崩れ落ちた。
「紫月、紫月…どうしたらいいんだ。赤穂、助けて…」
桃色の瞳から大粒の涙が、あとからあとからあふれてくる。
でも、泣いている場合じゃない。
ふらりと立ちあがると、月光は闇雲に山の中を歩き回った。
紫月の姿、あのヒマワリがパッと花開くような笑顔を求めて。
その日から、月光は紫月を探し回った。
隠密も、くまなく山の中を捜索していく。だが紫月はみつからなかった。
それでも月光は探し続ける。
日中は山をさ迷い、夜は紫月を思って泣く毎日。
そんな状態が三日も続けば、体の弱い月光はすぐにも倒れてしまう。
隠密が気を利かせて、赤穂を呼んだ。
前線基地に入ったばかりだったが、瀬間と堺が代わりを務めてくれて、抜けることができた。
彼らに詳しいことは話せなかったが、月光が急変したのではないかと思ったらしい。
早く行って力づけろと、赤穂は瀬間に言われた。
馬に騎乗したまま、山を駆け上がり。赤穂は月光の元に馳せ参じた。
「月光、無茶をしているそうじゃないか」
布団に横になってはいたが、枕が涙で濡れている。
ぐったりしている月光を、赤穂は抱き起こす。
「赤穂ぅ、紫月が、いない。どこにも、いないぃ」
桃色の瞳を真っ赤にして、泣き濡れる月光を。赤穂はぎゅうっと抱き締めて。なだめるように背を叩いた。
「気をしっかり持て、月光。紫月が戻ってきたとき寝込んでいたら、世話ができないだろう? 美味しいものを作って待っているくらいの気合がないと」
赤穂は、紫月とともに月光まで儚くなったら…と。それが気掛かりだった。
大事な者を、ふたり同時に失いたくはない。
だから必死で月光を慰め、叱咤したのだ。
ひくりと息を吸いこんで、月光は涙を止めた。
そうだ。紫月は殺されたわけじゃない。
絶対に戻ってくる。必ずみつけ出す。
そうして、赤穂と目を合わせる。
すると赤穂も、悲しげな顔つきをしていて…。
赤穂だって、つらいんだ。
そうだ、自分ばかり悲しいんじゃない。
「紫月は、ずっと探す。それは、決めている」
目に力を入れて、月光は宣言した。
「あぁ」
「手裏の龍鬼が、あの日この山にいた。紫月が消えた場所で、なにかしていた。僕は、手裏の龍鬼と接触したい。彼らがなにかを知っているはずだ」
「手裏の龍鬼が、なんでこんなところに?」
「わからないけど。わからないから聞きたいんだ。だから、僕は軍に復帰する」
戸惑う視線を、赤穂が向けるが。
月光は意志を固めていた。
「紫月をこの手に取り戻すためなら、なんでもやる。なんでもできる。僕は、あきらめない」
「あぁ。俺もおまえに力を貸す。ふたりで、親子で暮らした幸せな日々を取り戻そう」
ふたりは泣きながら、抱き合った。
でも、泣くのは。この日が最後。
紫月を取り戻すまでは、もう泣かない。
★★★★★
そして、今年の夏。
手裏の龍鬼である安曇に接触することができ。
紫輝が紫月であると知らされた。
己の可愛い息子、己の可愛い天使が、己の腕の中に戻って。
月光はなんの不満もない。
いや、なくもないが。
紫輝が元気なら、大概のことは許せる。
歯を食いしばって、許したいと思う。
でも、なんであの男なのか? とはどうしても思ってしまうけどねっ。
「人事といえば、紫輝を副長にしておいて良かったな。まさかの急転直下で、俺が死ぬとは思ってなかったし。青桐ってやつが准将になったあとだったら、決裁を通してくれるかわからなかっただろう?」
「ん?」
行事の話から、つらつらと過去のことを思い出していた月光は、囲炉裏の炎越しに赤穂を見やる。
子供の頃から、鬼気迫る感覚を常に胸に抱いているようだった赤穂の表情が、なにやらほのぼのとしている。
もしかしたら赤穂も、家のしがらみや戦場の緊迫感から解放されてホッとしているのかもしれないな。
「なんだ、聞いていなかったのか? もしかして熱があるんじゃないか?」
確かに、月光は体が弱くて、よく風邪を引いたし。
怪我を負ってから、激しい運動は駄目になってしまったが。
ちょっと外にいたからって、そんなにすぐ熱なんか出ないよ。
「心配しすぎ。この頃は体の調子もそんなに悪くない。紫輝に会えたからかな? あの子がいると、なんか元気になるんだ。ほら、子育て期間も元気だったじゃん? やっぱあの子、天使なんだな」
「おまえは子供大好きだから、興奮してるだけだろ」
軽くハハッて笑う赤穂を、月光は嬉しそうに目を細めてみつめた。
「幸せそうな顔してる」
「おまえは幸せじゃないのか?」
「幸せだよ。赤穂も紫輝もいて、あの親子で暮らした時間が戻ってきたんだ。幸せすぎるくらい。でも、赤穂はまだ若いじゃん? 二十一歳だよ。僕は…満足させてあげられないから」
月光は怪我の後遺症で、心臓が弱くなった。
射精を伴う情交は命に関わると、医者に言われている。
だから赤穂を受け入れることは、もうできないのだ。
「だから他の誰かと付き合えって? また同じところに戻ったな。でも、もう間違わねぇよ」
赤穂は立ち上がって、月光の隣に座り直すと。肩を抱いた。
甘くみつめられ、月光はほんのり頬を染めるが。
「でも。でもさ、赤穂は案外子煩悩だから。子供だってまだまだ望めるよ? この村には、若くて気立てが良くて、健康な娘さんがいるし…」
「健康でも、子供に恵まれない女性はいるだろう。結婚して、子供ができなかったら? また次を探せと言うのか? それは本当の愛じゃねぇよ。子孫を残すことは大事かもしれないが、それを愛する基準にするのは間違っている。まずはその人を愛して、その結果に子供というのが理想だと思う。で、俺は月光を愛している。子供に恵まれなくても、他は望まない」
今まで赤穂は、月光の言葉におおよそ従ってきた。
それは、頭脳明晰な彼に任せておけば大抵のことはうまくいったからだ。
特に、政治向きの要件や。将堂家での突出せずに、能力は発揮するという繊細さが要求される立ち居振る舞いなど。
義弟なので、自分は補佐に徹していますという態を見せることが重要だった。
しかし人間関係、特に女性に関しては、全部ダメだった。
それは基本、赤穂が月光を愛しているからなのだ。
愛している人がいるのに、他の女性と付き合うことは、相手に失礼だし。相手も察するし。結果、うまく行った試しがない。
つまり赤穂は。月光でないと駄目なのだ。
そんなことを考えていた月光に、赤穂がつぶやいた。
「これって、紫輝が言ってた『試されてる』ってやつかな?」
「試されてる?」
意味がわからず、月光が聞くと。
赤穂は眉間に太いしわを刻んで、嫌そうに言った。
「まぁ簡単に言うと。あいつが『俺ってこんなひどいやつだけど、それでも俺のこと愛してくれるか?』的なことを、聞いたり、仕掛けたり、するんだと」
砂糖のかたまりかと思うくらいに、甘ったるいあの声で、紫輝にたずねるあいつのサマを。想像した月光は。
自分も眉間にぶっといしわを刻んだ。
「キモッ、ウザッ、あんなに愛されているのに紫輝の愛を試すとか、あり得ないんですけどぉ」
「まぁ、なんの関係もないのに、シレッと手裏基成に成り代わるような面の皮の厚いあいつが。紫輝には頭が上がらねぇってのは、愉快な話だが」
ククッと喉で笑って、あいつを胸のうちで貶めて喜んでいる。
その気持ち、わかります。
「愛を試すっていうのは、信じてると言いながら、信じていないのと同じじゃね?」
「信じてないんじゃないんだ。信じられないんだよ。紫輝は素敵な子だからね。俺のような男を、こんないい子が愛してくれるなんて、本当に? 嘘じゃないよね? って。問いかけているんじゃないかな?」
芝居がかった調子で、月光が安曇の真似をする。
まぁ、似ていないが。
「じゃあ、おまえも。本当に愛してるのかって、俺に聞いてみろよ」
つまり、赤穂は。自分が赤穂の愛を試しているのだと、言いたいわけだ。
そんなつもりはないけれど。
自分以外の者を、彼にすすめるのは。赤穂にとっては、そういう意味に思えてしまうってことだ。
ええぇ? 自分が安曇ほどにウザいやつだなんて、嫌ですぅ。
でも、せっかくだから聞いちゃおう。
「赤穂…僕のことを愛してる?」
「あぁ、愛している。もう離してやらねぇ。おまえが俺に愛を与えてくれた分、もっといっぱい、俺はおまえに愛を返してやるんだ」
即答されて、嬉しかった。
でも自分には、そんな資格もないような気がして。情けなく眉を下げる。
「僕は赤穂に、なにもしてあげてないよ? 伴侶にしてもらったのに、その役目はなにも果たせなかった。将堂の宝玉として赤穂の役に立ちたかったけど、それもわずかな期間で…」
「なに言ってんだ。おまえは俺の目の前に現れた瞬間から、俺に与えてばかりいたじゃないか。家族も顧みなかった俺のそばにいてくれた。体も心も捧げてくれた。愛で俺を満たし続けてきた。紫輝のことだって、おまえがいなきゃ、俺ひとりであいつを育てられなかった」
「それは…命がそこにあるなら、当然助けるに決まってる」
「そう、おまえにとっては、自然で当たり前のことかもしれない。でもそれは、当たり前じゃないんだ。他の女が産んだ子なんか、普通いい気はしないだろう。そういうものだ。でもおまえは…俺のため、紫月のためって…」
特別なことをしている気は、月光にはなかった。
ひとりでいた、赤穂のそばにいることも。
体を捧げたことも。
自分がそうしたかったからだ。
紫輝のことだって、自分は本当に赤穂の子供を育てることができて嬉しかった。
与えたつもりは、なかったことばかり。
だから、赤穂がそんなこと言うのがこそばゆく感じてしまう。
「おまえが俺に与えてきたものは、誰にも真似できない、至高の愛だ。ったく、どんだけ愛情深いんだ」
そんなことを言われても、自分ではわからない。
ただ、好きだから。
好きと想い続けただけ。
「だからこれからは、俺もおまえに愛を与えるんだ。誰にも負けないくらいの愛を。一生かけても返し切れる気がしねぇが…だから他に寄り道してる暇なんかねぇ。だろ?」
微笑む赤穂を見て。月光はうなずく。
きっと、赤穂の為にならないと踏み潰してきた己の恋心が、いつの間にか大地に根を這わせて、実を結んだのだ。
ならば、月光は。遠慮せずに、その実りを受け取ることにする。
「赤穂が出世するために力をつけて、将堂家での居場所を作るために働いてきた、僕の頭脳。赤穂に抱き締めてほしい、誰にも触らないでと願う、僕の恋心。ふたつの自分に、いつも引き千切られそうだった。でもこれからは、頭脳は紫輝のために。恋心は赤穂のために…」
ちょっとだけ、甘えてもいい?
そんな気持ちで、月光は赤穂に抱きついた。
赤穂はしっかりと月光を抱き止めてくれる。
だから。ちょっとだけ。我がまま言ってもいい?
「ずっと、僕だけを抱き締めて。ずっと、僕だけをみつめて」
視線を絡め合わせ、甘く、甘く、笑い合う。
でも、それだけで。赤穂の若い体は股間をみなぎらせる。
月光は、高ぶりにそっと手を伸ばした。彼を慰めようと思ったのだが。
赤穂は月光が触れる前に、その手を握り込んでしまう。そして膝の上に月光を乗せあげた。
「激しく動かなくても、いいんだ。おまえがこうして寄り添ってくれたら。それだけで幸せで、気持ちが良い」
赤穂は正面から胸を合わせ、月光と抱き合う。
ゆるゆると、波に漂うように揺れていると、心も体もぴったりと合わさるような心地になって。
月光も気持ちが良かった。
だから…唇も合わせてしまおう。
子供がいない、今のうちに。いっぱい、大人のキスをしよう。
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元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
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小説家になろう様でも2023年 03月07日 15時11分から投稿しています。
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