【完結】異世界行ったら龍認定されました

北川晶

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番外 氷龍、時雨堺 1

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     ◆番外 氷龍、時雨堺 1

 右将軍である時雨堺は、冬を前線基地で越す、左軍のために。陣中見舞いと称し、物資を運び入れている。
 同じく基地を訪れていた、上官である赤穂と月光は。初日に姿を消したあと、幹部の前に現れることはなかった。

 物資の運び入れが完了したあと。堺は、左軍側近である燎源に指示され。美濃幸直の別荘で、他の幹部とともに待機することになった。

 幸直率いる、美濃一族は。富士の東側に位置する、田子の浦一帯を守護している。
 そこは元々、瀬来家の邸宅があった場所だ。

 瀬来一族が守っていた、東の要所。富士の裾野から愛鷹山、そこから海にかけての最終防衛線は。月光の父親の謀反により、一度、突破されそうになった。
 その件で、月光の父親は赤穂に討たれ。
 月光は失脚し。
 領地は将堂家に没収されて、今は美濃家が守護しているのだ。

 失脚した月光を、赤穂が伴侶としたことで。彼の命や地位を守ったことは、将堂家では美談として語り草となっている。

 月光が、守られてばかりの弱々しい男でないことを、堺はよく知っているが。

 一度は、敵軍に荒らされた領地も。今は復興し、海に近いこともあって、村人にも活気があり。すぐそばが戦場であるにもかかわらず、美濃家に守られている安心感で、平和な空気が流れている。

 そういう土地の中でも、ひと際ひっそりとした、人払いされている寂れた別荘に。主の幸直と、堺。右次将軍である麟義瀬間、右次参謀である里中巴の四人は、留められていた。
 本来なら、用事が済めば、とっとと関東に戻っていいのだが。
 赤穂と月光が、なにか別件で動いているようで。戻ってこない。
 彼らの用事が済んだら、合流して帰路に着くのだと、堺は思っていた。

「おい、幸直。なんで、使用人がひとりもいない屋敷に、俺たちを閉じ込めてんだよ?」
 オレンジ色の派手な髪色の瀬間は、幸直に容赦なく文句を言う。
 ヤマドリ血脈である彼は、茶寄りのオレンジと、白の混合羽だ。羽先には、尾羽の名残である、長い羽が伸び。翼自体が装飾品のように美しい。
 麟義家は三大名家のひとつで、見た目も希少種として、左で重用されるに値する。
 しかし。麟義家は猛禽種でもないのに、なぜか好戦的な者が多く。
 今も、幸直に食ってかかっているありさまだ。

「仕方がないだろう、燎源の指示なんだ。俺だって、海の幸で、みんなを歓待してあげたかったよ」
「どうだか。おまえは自分が食いたいだけだろうがっ」
「ああ、そうさ。こちらを任されて、日が浅いんだ。俺だって、海の幸を食べたかったに決まってる」
 両手で拳を握り、幸直は力説した。
 情けなくも、幸直が本音を吐露したので。瀬間は矛先を堺に向ける。

「堺、おまえはなにか、燎源から聞いていないのか? 赤穂様はどちら行ったのだ?」
 けれど、瀬間は。己より強い相手には、一応、敬意を払う男で。堺には暴言を吐かない。
 とはいえ、瀬間より強い男など、そうそういないし。上官でも、己より弱ければ下げる頭を持たないので。対応にはいつも苦慮している。
 でも堺は。切り札を持っている。
 彼に一番効くのは、高槻の名だ。
 あまりひどいと、高槻に報告するぞ、と脅せば。瀬間はいつも押し黙った。
 瀬間は高槻に、頭が上がらないらしい。

「すまない、話をする間もなく、赤穂様は外に出てしまわれたので」
 本当に、この事態はいったいなんなのか?
 准将直属の部下が、このように彼と離れていること自体が珍しいことで。
 堺はなにやら、嫌な予感がしていた。

「こら、巴。羽をむしるな」
 幸直は、己の翼から羽を引っこ抜いて、開いた窓から捨てる巴を注意した。

「大丈夫、部屋を汚さないよう、注意している」
「そこじゃない。巴はもう参謀なんだ。巴の羽を悪く言う者はいない」
 羽を握る巴の手を、幸直が掴んで言い含める。
 それでも巴は、小さく首を振った。

「でも、黒い羽が嫌いなんだ」
 黒い翼は手裏の者、という決めつけが、将堂軍の中にはあり。
 黒い翼を持つ巴は、苦労したようだ。
 風切り羽根を抜き取って、翼の骨の一部も、切り落としてしまった。
 そこまでの忠誠心があるのなら、と。巴は軍の仲間に受け入れられたが。

 翼には、痛覚もあるという。

 堺に翼はないので、彼の痛みは、理解しようもないが。
 想像だけでも、痛いではないか。

 今でも、巴は癖のように、時間があると羽をむしる。
 みすぼらしく羽が抜け落ちた翼は、心も体も傷ついている彼の証であり、堺の目には、ただただ痛々しく見えた。

「幸直の言うとおりだ、巴。おまえは幹部になったのだから、上官として胸を張っていなければならない」
 巴の、短髪の黒髪で、華奢な体つきなどを見ると。堺は紫輝を思い浮かべてしまう。

 紫輝の髪は、ぴんぴんハネハネしていて、なにやら元気がいいが。
 巴の黒髪は、さらりとして、艶やかで真っすぐだ。
 性格も、太陽の明るさで活気のある紫輝と、涼やかで静謐な巴。
 容貌も、愛嬌のある紫輝と和風美人な巴。
 受ける印象は、かなり真逆なのに。

 失恋では、ないのだけど。

 紫輝に想い人がいるという事実に、打ちのめされ。堺は傷心ではあった。
 あの天真爛漫で、人好きのする性格だ。龍鬼といえども、彼を好きだと思う人は数多いだろう。
 それでも、堺は。かなり近い位置にいると、自負していた。
 それだけに、気落ちしてしまう。

 紫輝のことを好きだと思う気持ちは、変わらない。
 恋でなくても、そばにいたい。
 だから、なにを見ても、紫輝と結びつけて。ため息をつく。この負の想いから、脱出しなければならないと。堺は心を戒めるのだった。

「わかった。堺がそう言うなら、態度を改めるよ」
「巴ぇ、俺が言ったときも、素直に聞いてほしいな?」
 素直にうなずいた巴に、幸直は苦笑して言う。

 巴を参謀に引き上げたのは、幸直だ。
 同情して、というわけではなく。
 幸直はちゃんと、彼の頭脳明晰なところを評価して、取り立てたのだ。

 さらに巴は細腕ながら、武芸にも秀でている。
 瀬間も、負けはしないが、たまに押されることがあり、巴を仲間として認めているようだ。
 短期間で幹部にまで上り詰めた男なのだ。ただものではない。

 真冬の富士裾野では、寒さが厳しく。囲炉裏の間で、暖を取りながら、そんなふうに幹部たちが話していたところに。

 将堂の当主であり、軍の大将である、将堂金蓮と。陣中見舞いで堺たちに同行していた、井上医師が現れた。

 金蓮に礼を尽くして膝をつく幹部たちを、ふたりは暗い顔つきで見やる。
「楽にしろ。おまえたちに重要な話がある。これからする話は、一切他言無用だ」

 威厳をにじませた金蓮の声に、幹部たちは立ち上がり、大将に目を向ける。
 猫のような大きな瞳は、透き通った紅茶色。細身でありながら、胸を張る堂々とした態度は、大将の貫禄だ。
 赤茶の髪を綺麗に束ね、どのような場面でも整えられた髪や装束が乱れることはない。
 潔癖で、高潔で、厳しい人。
 だが、今はなにやら瞳に影が差していた。

「赤穂は死んだ」

 堺は、突然の訃報に息をのんだ。
 なぜ? 自分たちは、赤穂とともにこちらに来たのだ。亡くなるような片鱗は、全く見受けられなかった。
 他の幹部も、同様のことを思ったようだ。

「恐れながら、なにゆえ?」
 この面子では、堺が一番地位は高い。しかし、相手は龍鬼嫌いと名高い金蓮だ。
 気を利かせて、家柄の良い幸直が、金蓮にたずねた。

「遠乗り中に、思いがけず手裏兵と出くわし。矢で射られたようだ。ともにいた井上と、瀬来が看取った」
 井上は、医者だ。
 彼が亡くなったというのなら、本当なのだろう。
 それでも、にわかに信じられない。
 赤穂は強靭な猛者だ。目に映る敵はすべて蹴散らすなどと言われるほどに凶悪な戦士。

 その赤穂が、死んだなんて。

 あまりのことに、呆然とする右軍幹部に。金蓮は、静かに告げる。
「みな、心中穏やかでないだろうが。ことは急を要するので、速やかに次の任務に当たってもらいたい。燎源」

 金蓮にうながされ、室内に入ってきた燎源は。肩に抱えてきた人物を、床におろした。
 気を失って、四肢を投げ出す彼は。粗末な衣服を着ているが。

 赤穂に見えた。

「これは、赤穂様、では?」
 無意識に出た堺の言葉に、金蓮は眉間にしわを寄せつつも、答える。

「これは赤穂ではない。別の人間だ。その証拠に、生きている」
「金蓮様、彼はいったい何者なのですか?」
 幸直の質問に、金蓮は説明し始めた。

「赤穂の身代わりだ。そっくりだろう? 赤穂は闘将と呼ばれ、手裏に恐れられていた。そんな赤穂が死んだなどと手裏側に漏れたら、ここぞとばかりに猛攻撃をかけてくるだろう。我が軍は、苦しい立場に追いやられる。我らにとっては、好戦的で厄介な男だったが。赤穂は生きているだけで、手裏への牽制になっていた。それは事実だ。赤穂の死は公にできぬ」
「だからといって、彼を、どうするつもりなのですか?」
「それを、おまえが聞くのか? 堺」

 ギロリと、金蓮に虫けらでも見るような目で見られ、堺は動揺する。
 今まで、金蓮には。龍鬼ということで、蔑まれてはいた。目の端に入るのも不快だと言うように。
 しかし、今日の金蓮は。なにやら、怒りの感情が乗っている。
 堺が心を読むまでもなく、あからさまな敵意を感じた。

「幻惑幻術は、お手の物だろう? 堺。おまえの龍鬼の能力を使って、この者の記憶を消すのだ。そして赤穂に成りすませるよう教育しろ」
「…そのような。記憶を消した状態は長く続きません。人の想いというものは、案外、強いものなのです。それに、倫理的にも許される行為では…」
「やれよ。こんなときのために、おまえを飼っていたのだ。そうでもなければ、藤王がいなくなった責任を取らせて殺しているところだ。命があることに感謝して、四の五の言わずに、私の命令に従え!」
 すごい剣幕で頭ごなしに言われ、堺は黙ってうつむくしかなく。
 他の幹部も、ただ目をみはるしかなかった。

「燎源、右の者どもが、計画を実行するところを、監視しろ。私は山中湖の支部に下がる。顛末を見届けたあとで、私に報告しに来い」
 着物をひるがえし、金蓮は部屋を出て行った。
 一行が息をのむ中、一番初めに憤ったのは、瀬間だった。

「なんだ、あの物言いは。いくら大将様でも、暴言にすぎる。堺は、右の将軍だぞっ」
 堺の働きで、軍が壊滅を免れたことは、何度もある。
 それを、大将なら知っているはずなのに。
 金蓮は堺を、いつまでも踏みつける。
 剣の道を極め、清く、正しく、ひたむきに強き者を目指している実直な瀬間には。金蓮の横暴さが、理解できない。
 同僚として、仲間として、名家の当主としても、許せないことだった。

「すまない。金蓮様は、赤穂様の死に心を痛め、困惑を極めているのだろう」
 細面の顔は、常に穏やかな燎源だが。金蓮の態度は、決して良いものとは思えず。さすがに難しい顔つきになる。
 それでも、長く仕えている上司をおもんばかって、燎源は金蓮をかばった。

 確かに、こちらも、赤穂の死をいまだにのみ込めずにいる。
 弟の死を悲しんでいるのだと言われれば、瀬間もこれ以上、言いつのることはできない。
 オレンジの毛を逆立てながらも、瀬間は奥歯を噛んだ。

「私のことはいい。それよりも。彼のことを。幸直、彼に、寝床と上等な寝衣を用意してくれ。赤穂様が着ているような…」
「堺、まさか、金蓮様が言うようなことを、彼に?」
 その言葉が意外だったのか、幸直は目を見開いて驚く。
 堺は、すぐにどうこうするつもりではないのだが。

「わからない。が、とりあえず。彼をなんとか…井上先生。彼はどういう状況なのですか?」
「さぁ。ここに運んできた燎源が、頭を強く殴ったのだろう。仮にも身代わりとするなら、もう少し丁重に扱うべきでは? 寝床ができたら診察させてもらうよ」

 重い傷を受けた兵にも、深刻にならないよう、いつも柔らかい雰囲気を心掛けている井上が。珍しく辛辣な物言いをした。
 赤穂を看取ったというが。彼にも思うところがあるようだ。

 幸直が寝床を整えに、瀬間と巴が彼を別室に運び入れ、燎源も彼らについていった。
 室内に、堺と井上だけになったとき。井上が堺に寄ってきた。

「時雨くん、間宮くんから書状を預かってきたよ」
「紫輝から? 紫輝もその場にいたのですか? 赤穂様は本当に…」
 井上は口元に指を当てて、静かにするよううながすと。声をひそめて告げた。

「しぃ。君は間宮くんのことを知っていると、聞いている。…息のあるうちに、側近が彼を呼んだんだ。詳しい次第は、彼に直接聞いてほしい。このあと僕は、なにも知らない井上先生になるから。いいね?」

 手紙を託して、そう言うと。井上は医者の顔になり。もう紫輝のことや、赤穂様になにがあったのかなども、一切話すことはないのだろうと察せられた。

「井上先生、赤穂様は本当に亡くなられたのか?」
 幸直の声がして、堺はとっさに手紙を胸元に隠す。
 井上がホッとしたようにうなずいたところで、幸直が部屋に戻ってきた。

 単刀直入な質問に、井上は神妙な顔つきでうなずく。
「あぁ。胸の真ん中に矢が刺さり、骨の欠片が心臓を傷つけた。私どうにもできなかった」
「どういう状況だったのだ? なぜ、こんなことに…」
「幸直、先生を責めても仕方がないだろう?」
 病状を説明した井上に、なおも食い下がる幸直を。堺はいさめるが。
 幸直は堺に、食ってかかった。

「だってさぁ、金蓮様の言いようは、おかしいじゃないか? 陣中見舞いのその日に、金蓮様に会うこともなく、赤穂様が遠乗りに行かれるなんて。あり得ないよ」
「それは、私もそう思うが…あれほどに似ている身代わりを、昨日今日で連れてくるのも、妙な話だと思う。しかし、将堂の当主が言うことに、私たちは否と言えない」

 間違っているとも、本当のことを教えろとも、言えないのが部下である。
 悔しそうに堺を睨み、幸直は再び井上を見た。

「側近は、どうしているんだ? 今、どこに?」
「瀬来様は金蓮様から、亡骸を人知れず処分しろと命令を受けた。棺を馬車に乗せ、どこかへ消えた。憔悴した瀬来様は、療養のため、しばらく軍務から離れると言い残して去っていった」
「くそっ、それじゃ、なにもわからねぇじゃん」

 いつもヘラヘラとしていることが多い、幸直が。なにやら怒りをおさえられずにいる。
 赤穂が亡くなったことを、受け入れられないのだろうと、堺は思った。
 そして井上は。こちらも、言えることと言えないことを吟味しながら、話しているように見えた。

 金蓮からの口留めと。おそらく、紫輝からの口留めだ。

「では、私は彼を診てこよう。青桐様というらしい」
「青桐、様?」
 堺は、幸直と同時に、疑問を口に出していた。

「あぁ。金蓮様が命名した。死んだ武将の名をつけるのは、縁起が悪いと言って…。表向きは、重傷を負ったことの邪気払いでの、改名なのだそうだ」
 井上が囲炉裏の間から出て行き、堺は幸直とふたり、その場に残る。
 紫輝の手紙が気になるが、幸直がいるところでは開けない。

「もう、名前まで。用意周到なことだな。まさか、金蓮様が赤穂様を…なんてことは」
 闘将として名高く。戦に出れば、なにかしら手柄を立てる、名武将である赤穂は。右軍からは、圧倒的な支持を受けている。
 そんな赤穂を、金蓮が煙たがっていることは知っていた。

 しかし、政治を司る左軍の支持は、金蓮にある。
 それに、手裏軍との戦が膠着している中で、赤穂を殺めることは得策ではない。

「さすがに、それはないと思いたいが」
「さっきの、あの剣幕を見れば…無きにしも非ず、だぜ。あぁ、これからどうなっちまうんだっ」
 怒りと困惑と焦燥で、幸直は顔を擦ったり、ため息をついたり、髪をかき回したり、落ち着きがない。
 そういう者を見ていると、逆にこちらが冷静になる。
 赤穂が亡くなったと聞き、堺だって、心の奥はざわざわして落ち着かないというのに。

「赤穂様が死んじまったら、右軍はどうなるんだ? 政治しかできない頭でっかちの左に吸収されちまうのかよっ」
「幸直は、美濃家の者だろう。いずれ左で政治を司る筆頭幹部候補なのに、そのようなことを…」

 美濃家は。将堂家の縁故で、代々軍に援助を惜しまぬ家系だ。
 そこの当主である幸直は、剣においては相当の手練れで。大胆さと緻密さを掛け合わせた軍の采配も、目をみはるものがある。

「俺に政治ができると思うか? 俺は戦場に出てなんぼの男だぜ」
 整った容貌をキリリとさせて言うが。
 何分、言っていることが情けないのでしまらない。幸直の残念なところだ。

「威張るな。おまえがそのようでは困るな。幸直には、戦専門のように扱われている右軍の不遇を、改善してもらいたいと思っているのに」
「だから。いくら俺が将堂の縁故だからといって。そんなことできる脳みそないっつうの」
 幸直は興奮して、翼を広げ、派手な柄の内羽を見せる。
 囲炉裏の灰が舞うから、やめろ。

「それに、政治やってる左は偉い、なんて思ってるやつらとは、合わないし。手裏をきっちり食い止めている、俺らがいてこそ、のうのうと政治をやれるくせにさ。左だけで、世の中動かせると思うなっつぅの。バーカ」
 薄茶の髪を後ろで三つ編みにしている幸直は、それをいじりながら口をとがらせる。
 文句を、金蓮や燎源には言えないのだ。
 幸直は無意識に世渡りしているのだろう。
 己に言われても、困ることではあるが。

「なぁ、堺。おまえ、本当にあいつの記憶を消すのか? あいつを右の頭に据える気か?」
「私が、どうこう言える立場ではない。先ほどの金蓮様の様子を見ただろう。命令に逆らえば、私の命は風前の灯火だ」

「でも。あいつは赤穂様じゃねぇ。一癖も二癖もある俺らを束ねられるのは、赤穂様しかいねぇ…」
 感極まって、幸直は語尾を震わせた。
 幸直は自分の感情に、いつも素直だ。
 赤穂の代わりは、誰にもできないと。堺だって思っている。

 すると、室内に別の声が響いた。
「そのとおりだ。顔はそっくりだが。赤穂様の激しい気性は彼だけのもの。どこから持ってきたのかわからぬが、軍で働いたこともない男が、赤穂様に成りすませられるわけがない」

 瀬間が、静かな低音で幸直に同意する。
 質実剛健を地で行く瀬間と、のほほんとしている幸直は、対立することが多いが。
 こういうときばかりは意見が合う。

 だが、そうだ。赤穂は簡単に成りすませられる人物ではない。
 だから、記憶を消せと、金蓮は言うのだろう。

「堺は、どう思っているのだ? 彼の命運を握っているのは、おまえだ」
「わからない。…巴は意見があるか?」
 瀬間と同じく部屋に入っていた巴に、堺は聞いた。

「僕は、馬鹿な将の元で無駄死にするのは、御免だ。もしも彼を頭に添えるのなら、堺が彼の後ろ盾になるしかない」
「無茶なことを…」
 重く、長いため息を、堺はついた。

 結局、彼の人生を消し、彼に赤穂の人生を背負わせるのは、自分。

 金蓮の命令は絶対だ。
 逃れられないことではあるが。彼のすべてに責任を持つのは、自分。手を下すのも自分ではないか。
 人ひとりの運命を変えるなんて、そのような残酷で重苦しい任務を、なぜ己に課すのだ? 

 奥歯をきしらせ、堺は眉間にしわを寄せる。
 元々、堺は。読書好きな、おとなしい性質の少年だった。
 花を愛し、自然を愛し、動物を愛する。虫でも、殺生すれば心を痛める、優しく穏やかな気性の持ち主。

 そんな堺だが、龍鬼という理由だけで、七歳のときには戦場に行かされた。
 大人たちが死に物狂いで殺し合う場面は、ただただ怖くて。恐怖に身が震え、歯の根が合わなかった。
 初めて人を斬ったときは、一日嘔吐していたし。
 龍鬼だから、そんな自分を誰も助けてくれなかった。

 堺はひとりで、なんとかしなければならず。そして、心を閉ざしたのだ。

 それが、自分の、弱くもろい心を守る、唯一の方法だったからだ。
 白髪に、白皙の顔の堺が、血で赤く染まるほどに。心を凍らせて、手裏兵を斬り捨てていく。
 氷龍、と呼ばれる頃には、もう誰も、堺に近づいてくる者はいなかった。
 つい最近まで、友達という概念を忘れていたほどだ。

 そう。紫輝に出会うまでは。

 紫輝は、突然。堺の目に飛び込んできた、という印象だった。
 自分が上官だから、最初はぎくしゃくしていたが。それも、恐れという類のものではなかった。
 ただ、初めて会う上官への、緊張感という感じだ。

 紫輝は堺に、すごくさりげなく、心を寄り添わせてきた。
 なんで? 同じ龍鬼だから? いいや。それだけが理由ではない。
 紫輝と関われば関わるほどに、感じられる。それが紫輝の持つ、心地よい包容力なのだと。

 おまえは醜い、顔を見せるなと、罵られていた自分を。紫輝は、綺麗だと言ってくれて。微笑みかけてくれた。
 こんな間近で、人の笑顔を見たのは何年ぶりだろう。そう、堺は思った。

 紫輝に会うまで、堺はなにも見ていなかったのだ。
 ただ、目の前の敵を斬るだけの日々だった。
 そして、紫輝と出会って、周囲を見ると。
 意外にも。堺に笑いかけるものは、何人もいたのだ。

 赤穂は皮肉な感じではあるが、堺に笑みを向けていた。
 月光は、たまにからかうから嫌いだが、父性を感じさせる、温かな笑みで堺をみつめていた。
 幸直は、俺たち友達だろっ、と笑いながら。うざいぐらいに絡んできた。
 瀬間も巴も、頼れる同僚、親愛の感情で笑顔になる。

 それを気づかせてくれたのが、紫輝の存在だった。

 だから、堺の中で、紫輝は特別なのだ。
 だけど。もしも心を凍らせていたときに、この命令を受けたら。堺はなにも考えずに、彼の記憶を奪っていただろう。
 この件に関しては、その方が楽だったかもしれない。
 でも、もう。人の心に鈍感な己には、戻りたくない。
 友達の情だろうと、紫輝が向ける、太陽の光が降り注ぐような、温かく心地よい笑顔を。氷の目で、みつめたくはないから。

 もしも彼の記憶を奪うのなら、自分は真正面から、彼に寄り添うべきなのだ。どれほど重く、苦しい道だろうと。

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