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28 千夜の腕
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◆千夜の腕
大和を道案内に、月光、幸直、廣伊、井上は、一足先に奥多摩の村に向けて出発した。
そして、日が暮れてから。紫輝と千夜が、ライラに乗って村に向かう。
ライラにしがみつくことができない千夜は、意識がなかったときにしていたように、ひもでライラにくくり付ける。
なんとなく、ライラママが、千夜をおんぶひもで背負っているような感じ。
「くっそう、格好つかねぇ」
「ジェットコースターなんだ、安全バーは必須だよ」
そう言いながら。紫輝は、月光の隠密さんに手伝ってもらいつつ、千夜のことをがっちりと結んでいく。
途中で外れないように。想像すると、怖い。
「また、変な言葉使って…さっぱりわからねぇから、ツッコまねぇぞ?」
縛り終えたら、隠密さんに挨拶する。
「今までお世話になりました。ありがとうございました」
「道中お気をつけて」
屋敷の前で、頭を下げてくれる彼らに、手を振って。
紫輝はライラに乗り込み。一路、村に向かうのだった。
ライラは、千夜が元気なのが嬉しいようで。御機嫌だ。
空を飛ぶように、ぐんぐん前に進む。
「やべぇ、はえぇ、こえぇ」
千夜は左手で、ライラの毛を必死に掴んでいる。
紫輝も後ろから支えているけど。やっぱり怖いのかな?
「だから言ったろ? ジェットコースターだって。少しスピ…速度落そうか?」
「いや。こんくらい、平気だ」
いやいや、こえぇって、聞こえましたけど?
「せんにゃ、せんにゃ、がんばれせんにゃっ」
「おい、紫輝。お嬢がなんか、ガルガルガオガオ言ってるぞ」
「応援歌だよ。頑張れ千夜っ、ってね」
「マジか。可愛いなぁ、お嬢は。速度はえげつないけど」
はははっ、と紫輝は大声で笑った。
なんか、千夜と以前のようなやり取りができていることが、すごく嬉しくて。
「なぁ、紫輝。おまえも、もう遠慮したりするなよな。俺は大丈夫だからさ」
しっかり前を見据えて、千夜は紫輝に言う。
「俺は、暗殺者としての矜持と廣伊という、相反するものを両立しようとして、破たんした。けど、もう間違わねぇ。廣伊のために、これからは生きる。愛する者に求められてんだ。これ以上、幸せなことはない」
千夜のその言葉は、とても美しく聞こえる。
でも。千夜は?
それは、千夜自身のために生きているということになるのか?
その想いだけで、ずっと幸せでいられる?
強者の矜持も千夜の一部だったんじゃないの?
けれど、その問いかけは、紫輝にはできないのだ。
せっかく気力を取り戻しつつあるのに。水は差せない。
ライラジェットコースターは、紫輝と千夜が話をしているうちに、村の、あの屋敷の前に降り立った。
ライラの背から降りて、千夜に巻きつけたひもを外していると。屋敷の中から、大和をはじめ、みんな出てきた。
先に、無事到着していたようだ。
若干、ぐったりしている千夜を。廣伊と幸直が抱えて、屋敷の中へ入っていった。
やっぱり、まだ本調子じゃないんだな。
「あの高速を一時間とか、そりゃ、腰も抜けるよね」
背後でぼそりと、月光が囁いた。
え? ライラのせいだった?
だから、スピード落そうかって聞いたのにぃ。
紫輝は、ジェットコースターや。父の運転で、高速道路を走行したり。以前の世界で、速い乗り物に耐性済みだから。ライラの速さに、もう慣れてしまったのだが。
この世界の、一番速い乗り物は、馬だから。
他者はそのスピードには、なかなかついていけないのだ。
涼しい顔をしていた大和も、実は、ライラ騎乗時は目をつぶっていたらしい。
「っていうか、村とか、聞いてないんだけど? 紫輝? どういうことなのかなぁ?」
至近距離で、可愛らしい笑顔ながら、怒りの波動をみなぎらせている月光に。紫輝は、目を合わせられなかった。
「すみません。俺も、朝、初めて聞いたもんで」
「紫輝村って言うんだってね? 村。つか、村? あいつ、どんだけ高性能なの? 嫌いっ。マジ嫌いっ」
ヒステリックに、地団太を踏み。ピンクの羽をバサバサしてる。
丸くおさまりそうで、いいんじゃない? と紫輝は思うが。
月光が、そこに引っかかっているわけではないことは、なんとなくわかる。
「…お酌させていただきます」
「一緒に寝るっ」
「一緒に寝ます」
紫輝が承諾すると、ようやく月光は機嫌を直して、にっこりした。
「おーんちゃーん、ごはん、ちょーだい」
そこに、ライラが突っ込んでくる。
紫輝は大きなライラの首に抱きついて。いっぱい頭を撫でた。
今日も、白くて長い御毛毛が柔らかくって、温かくって、素敵です。
「よしよし、えらいね。今日はライラ、いっぱい頑張ったな。もう、ねんねしていいぞ」
「あい」
ぐるりと回って、剣になったライラを、背中の鞘におさめる。
ライラは、紫輝のどこかにくっついていれば、勝手に紫輝の生気を食べて満腹になるのだ。
それで紫輝が消耗することはない。
紫輝たちは屋敷の中に入って、大和の歓待を受けた。
風呂に入って、御馳走を食べて、月光さんと一緒の部屋に入ったけれど。
話をする間もなく、スコンと寝入ってしまった。
ライラに生気を食べられるよりも。移動の方が、体力を消耗するな。
廣伊たちより、ライラでズルして、だいぶ楽をしているはずなのに。
★★★★★
子供みたいに、ご飯を食べたら、すぐに寝てしまった紫輝は。早い時間に起きてしまい。
月光を起こさないよう、そっと部屋を出て。
屋敷が並び立つ敷地内を散策した。
朝の空気は新鮮で、吸い込むと、肺がピカピカになる感覚がある。
空気が美味しい、というやつだ。
山の紅葉は、朝焼けの赤紫色の雲と絶妙なコラボレーションで、美しい。
そういえば、富士山は見えなくなった。ちょっと寂しい。
千夜たちが滞在する屋敷の隣に、本棟が。と言うが。
距離は、充分に離れている。
南側には、段々畑より規模は小さいが、充分に屋敷の食材を調達できるくらいの畑がある。
小さな建物は、蔵だったり、農機具倉庫だったり、ニワトリ小屋だったり。
なんか、いろいろ、そろっている。
井戸をみつけたので、水を汲んで、飲んで、顔を洗い、はねた髪を濡らして直した。
「ひえっ」
なにかが落ちる音がして。悲鳴があがった方を見やると。
小さな背丈の女性が、紫輝を見て驚いている。
畑で摘んできたのだろう、菜っ葉が足元に落ちていた。
「おはようございます。驚かせてすみません」
紫輝は落ちた菜っ葉を、拾おうとするが…。
そうか、いきなり龍鬼に会っちゃったから、彼女は驚いたんだ。
なら、むしろ触らない方がいいんだな、と思って。
どうしようかなと考えていた。
すると女性が、その場に正座して頭を下げたのだ。
「お、おはようございますっ、紫輝様。こ、こ、こちらこそ。申し訳ございませんっ」
え? え? どういう状況?
どうしたらいいの? これ。
そうしてオロオロしていたら。
女性の後ろに、すっごくでっかい男性が現れた。
いやいや、俺は、彼女を怒ったわけでもいじめたわけでもないんですよ? と、言い訳したい気持ちに駆られたのだが。
ズーンという効果音が出そうな、大きな、天誠よりも身長も横幅もでっかいその男性が。
女性の横で正座して頭を下げた。
ええぇぇ、マジで、どういう状況?
「こらこら、紫輝様が困っているぞ」
そこに大和が現れて…大和ぉ、助かったよ。
なんなの? どうしたらいいの? という気持ちで、紫輝は大和を見やる。
「や、大和っ、早く紹介してよ。っていうか、あんた、その態度なに? 奥方様よ。頭下げなさいよっ」
女性がひそひそと大和を叱っている。
ん? お知り合いですか?
「いやいや、頭は上げてください。貴方も、そちらの方も。大和、立たせてあげて」
最初、彼女は驚いていたし。龍鬼が怖いのかと思って、大和に頼んだ。
この屋敷で働いている人だと思うので。これからお世話になるし。
よくわからないけど、なんとか穏便に済ませたい。
「ほら、立っていいって。紫輝様はこういう、かしこまったのは苦手なんだよ」
大和にうながされたふたりは、落とした菜っ葉をササッと拾うと、立ち上がって。再びお辞儀する。
「紫輝様、このふたりは俺と同じく、安曇様に仕えている者です。すみれと橘」
大和は、女性と男性の順で示し、紹介する。
小さくて木の葉柄の翼、これは。
「すずめっ」
「はい。スズメ血脈のすみれです。以後、お願いいたします」
すみれは、唐突に言い当てられても、嫌な顔ひとつせずに、元気に挨拶した。
あれ? もしかして、この世界に来てから初めて、女の人と話したかも。
「ハシビロコウの橘です」
ハシビロコウ、という鳥は。紫輝は知らなかった。
大きな体格に、ブルーグレーの大きな翼、でも同じ色の目が、とても優しい光を宿している。
「こちらの屋敷での身の回りのお世話は、こちらのふたりが、主にたずさわります。もちろん、俺もいますけど。紫輝様、なんなりとお申し付けください」
「え、でも、龍鬼が怖いんじゃないの?」
すみれを見て言うが。
頬を赤らめた彼女に代わり。大和が言った。
「いえ。安曇様の伴侶に、思いがけずに遭遇して。恐れ多くて、固まったのかと」
「あぁ、それで、奥方とか言ってたのか? ええぇ、なんか照れちゃうな。そんな固くならないで。俺は天誠のお兄ちゃんだから。怖くないよ」
フレンドリーな空気感で、紫輝は笑顔を意識して言うが。
大和は残念そうに首を振る。
「…紫輝様。それは余計、怖いかと思います」
安曇の兄だなんて、安曇を知っている者にとっては呪禁に匹敵する恐ろしい言葉だ。
「朝食を終えたら、幹部の方々は、すぐに出立するということなので。紫輝様、そろそろ居間の方へ」
「そうだね。じゃあ、すみれちゃん、橘くん、これからどうぞ、よろしくお願いします。またね」
大和とともに去っていく、紫輝の後ろ姿を見送り。
すみれは、橘に感想を述べた。
「普通の男の子ね。安曇様のように威厳があったり気品があったり、美丈夫なのかと思っていたわ」
「だが、可憐だ」
「えぇ、可憐ね。あと、気さく。そして大和がべったりだわ」
「べったりだ。殺されないといい」
橘は口数が少ないが。
殺されないと、の主語が安曇なのは、すみれに、ちゃんと伝わった。
★★★★★
早めの朝食をとった一行は、馬で本拠地に向かう。
本拠地まで、距離はあるが。ほぼ平坦で、道は下っていくので。河口湖からここまでの道程よりも、早く目的地に到着できるそうだ。
「紫輝、落ち着いたら屋敷へおいで。御馳走作るからな」
「あぁ、俺も。紫輝、本拠地で遊ぼうぜ。誘いに行くからな」
月光の別れの言葉にかぶせて、幸直が言うが。
月光に却下されてた。
「幸直は駄目でーす。赤穂様の許可を取ってから、出直してくださーい」
「えぇ、ひでぇよ、側近」
ふてくされた幸直に代わり。
井上がズイッと前に出た。
「間宮くん。最後に…ライラ様と抱っこを…」
でも、ライラ剣が紫輝の背中でガタタッと震えたので。ライラ様には振られたようだ。
「また今度、と申しております」
にっこり笑って、ごめんなさいした。
「紫輝、私がいない間、千夜を頼む。雑務を片付け、ニ、三日…遅くとも一週間後には、ここへ戻るつもりだ」
廣伊は第五大隊長だ。今回の事件では、聴取や兵の補充や隊の立て直しや、やることは山積みだろうと、一兵士の紫輝でも考えつく。
一週間でも足りないくらいだと思うが。
廣伊は戻ってくるのだろう。千夜のために。
紫輝も。一般兵士は、前線任務明けの三週間ほど、休暇を貰える。
その後、冬の間は交代制で、休みが貰えるようなのだが。
紫輝の休暇は、千夜の看病で使い切った。
十一月には、紫輝も、本拠地に一度は顔を出さないとならないだろう。
班長なのに、野際に最後の最後で全部任せてしまったのも、気になる。
千夜のことは、廣伊と紫輝の休暇を、うまく、交代交代にして看られるといいと、考えていた。
「わかった。廣伊、道中、気をつけて」
廣伊と千夜は、ただ、目線だけで挨拶し。
紫輝と千夜と大和は、屋敷の前で、彼らを見送った。
気がゆるんだのか。千夜は、屋敷の詳しい案内をしていた最中に、熱を出して。寝込んでしまった。
やっぱり、まだ本調子じゃない。
当たり前だ。腕を斬られてから、まだ一ヶ月経っていないし。
移動はそれなりに、体に負担がかかる。
井上には、そばにいてもらいたい気はあったけれど、彼は軍医だから。
患者は千夜ひとりじゃないからな。仕方がないのだ。
千夜の容体の管理は、大和がした。
彼は天誠から、医学の知識も学んでいたようで。以前の世界での、医療の常識みたいなものも知っていた。
清潔に保つことの重要さ、とか。
煮沸消毒、アルコール消毒なども。
薬も、井上が置いていった鎮痛剤を、多量に服用しないよう管理してくれて。
マジですごいです。
「すごいのは、この知識を授けてくださった、安曇様ですよ」
洗濯済みの包帯を、さらに鍋で煮ながら、大和は紫輝に教えてくれる。
そうなんだ。うちの弟、本当にすごいんです。
そう、弟がすごいのであって、自分はすごくない。
だから、大和やすみれや橘に、頭を下げられるのは違うと思う。
大和にも、紫輝様と呼ばれるたびに、なんか申し訳ない気になるのだ。そう言ったら。
「紫輝様も、すごいに決まっているじゃないですか。たとえば。俺、紫輝様のそばについてから、何回か失態をやらかしているんですが。ここで今、生きていられるのは、紫輝様のおかげです」
うーん、よくわからない。
紫輝は眉間にしわを寄せて、大和をみつめる。
「貴方は、存在するだけで、世界を救っているのです」
「それは、嘘だよね?」
「マジです」
紫輝賛辞がはなはだしい大和に、これ以上言っても無駄だと思い。
なまぬるい笑みだけを投げかけておいた。
おかしいな。大和はいつから、こんなになっていたのだろう。
出会った当初は、もう少し、様子見感や値踏み感があったのだが。
そんなこんなで二日目は過ぎ。天誠が会いに来ると言った三日目になった。
★★★★★
千夜の熱は下がったが。痛みがあるのか、常に眉間にしわが寄っている。
口数も激減し…。そりゃそうだ。痛いときに、会話なんかできない。
食欲も少なくて、朝食をだいぶ残してしまった。
廣伊が戻ってくるまでに、なんとか体調を整えてあげたいな。
ひとりにしてくれと、頼まれたけれど。
やはり、痛みのある中で、ひとりにするのは怖いので。
大和に。部屋の外だが、気配はわかる場所に、いてもらって。紫輝は離れた。
紫輝は、屋敷の敷地内の、村が見渡せる場所に立った。
大和は、村を見学しても大丈夫ですよ。と言うのだが。
龍鬼だと言って、石を投げられたり、嫌悪の目で見られたり、そういうつらい時期を経てきたから。なんとなく村人に遭遇するのが怖かった。
段々畑の手入れをするおじさんや、村の通りを歩いているおばさんや、子供たちの遊ぶ声、牛や馬の鳴き声、そんなものを、遠目から、見て、聞いて、感じている。
「ここは、俺が紫輝のために作った村だ」
後ろから抱きつかれ、頭のてっぺんにくちづけられた。
馴染みのある美声。
天誠が来てくれた。
彼の体温を身近に感じるだけで、濃厚なハチミツみたいに、甘い、幸福感に満たされる。
甘い…久しぶりにアイス、食べたい。
「以前、手の中の小鳥の話をしたな? 外敵に襲われず、飢えることもない。でも、光が差さない空間。兄さんの笑顔が失われるかもしれない空間。この村は、俺の手の中の空間だ。ライラの能力を知るまでは、紫輝と、この場所で暮らそうかと考え、作った箱庭。紫輝? この鳥籠に囲われてくれるか?」
「え? いや、それはもちろんイエスだけど。待て待て。俺は、光の差さないというのは、納屋に閉じ込められるとか、窓がない場所とか、そんなのをイメージしてたんだけど。この村で自由にできるの? 充分じゃね?」
バックハグされてて、天誠の顔が見えないのだが。じたばたしていたら、天誠が上から紫輝の顔をのぞき込んできた。
「俺が、兄さんを、そんな不自由な目にあわせるわけない」
心外だ、という顔をする弟に。
紫輝も、小難しい顔をして見せる。
「いや、だから。最初からここで良かったんじゃね? って言ってるんですが」
「うん。良かったんだけど。隠し通す自信もあったんだけど。紫輝を、本当の両親に会わせてやりたかった」
心臓が、ギュッと握られたみたいになった。
紫輝は最初、己の本当の両親に会うことをためらっていた。
龍鬼である自分を、受け入れてもらえないだろうと思って。
でも、天誠は、自分以上に自分のことを考えてくれるのだ。
赤穂と月光と会った紫輝は、ふたりが龍鬼の己を愛してくれる人たちだと知る。
天誠もおそらく、彼らが紫輝のことを探しているのを知っていて。
彼らにチャンスをあげた。
親子で心を通わせる機会を。
まぁ、そこにたどり着くまで、結構大変で。いっぱい泣いたけどね。
主に、天誠に泣かされたのだが。
それでも、紫輝が家族と出会うきっかけを用意してくれたのだから。感激ではある。
「それだけじゃなくて。戦も終わらせたかった。結局、戦が終わらなければ、紫輝は一生、隠れ住むことになる。今、紫輝は。この村を大きいと思い、暮らすのには充分だと思っているかもしれないが。どうしても、隠れているという閉塞感からは、逃れられない。根本から直さないと、死ぬまで心労は続く。そんなの嫌だろ?」
「うん。今は考えられないけど。いずれ嫌になるのかな?」
「もうわかったと思うが。紫輝は将堂の血脈だ。そして俺は手裏のトップにいる。うまく立ち回れば、終戦できる」
「俺と、天誠で?」
「そう。俺と、兄さんで」
右耳に甘い低声を吹き込んで、天誠は横からのアプローチで、紫輝にくちづけた。
紫輝は。途端に緊張した。
三日前は、ぐちゃぐちゃに泣いて、わけがわからないままキスしたけれど。
今は、なんだか久しぶりに感じる、恋人同士がするみたいな、柔らかいキスで。
こ、恋人のっ。
腕の中で、がっちり固まってしまった紫輝を。
天誠は、彼の腕や腹を撫でて、緊張をほぐし、バードキスであやす。
まだまだキスに不慣れな初心な恋人に、天誠は笑んでしまう。
エロい紫輝も好きだが。初恋の甘酸っぱさも嫌いじゃない。
でも、まぁ、本題が残っているので。
いつまでも唇をくっつけていたいけれど。二センチ、距離をあける。
「心置きなく、家族で暮らすために。今日は、終戦への道の第一歩だ。紫輝。大物を片づけに行こう」
「大物?」
「望月を、そして高槻を、手中におさめる」
「千夜を? なんで? どうやって?」
「俺と紫輝がタッグを組んだ、第三勢力を作るため。望月が手に入れば、高槻も従う。まぁ、まずはここまで。うまく行くかは、兄さん次第だ」
自分が、千夜を説得するということか? と思い。紫輝は怖気づく。
でも、天誠がここまで言うのだから。自分もなにかをしないと。
天誠は、ふわっとした計画は立てないから、なにか彼を説得できる材料を持っているのだ。
手を引かれるまま、紫輝は天誠とともに千夜の部屋へと向かった。
★★★★★
千夜の部屋の前には、大和が控えていて。頭をサッと下げ、道を開ける。
紫輝は、千夜に声をかけてから部屋へ入った。
すると、千夜は奥歯を噛み締め、布団の上で、痛みにひとり、耐えていた。
「痛ぇ。紫輝、なんでだよ? 右腕が…ないのに。指先が痛ぇんだ。強く、痺れて…耐えられねぇ」
千夜が弱音を吐くなんて、相当な痛みに襲われているのだ。
紫輝は彼に駆け寄り、左の肩の辺りを撫でる。
気休めだが…少しでも痛みを和らげてあげたくて。
手当てと言うだろう?
それに今の千夜の症状は、以前の世界のドラマで、そういう場面を見たことがある。
「う、腕を切断すると、そういう症状が、まれに出るみたい。脳が、なくなった腕がまだあると錯覚して…幻肢痛って言うんだけど…あぁ、どうしよう。痛いよね? 薬を…。天誠、今日は無理だよ。千夜がこんなに苦しんでいるし」
「苦しんでいるから、助けてやるんだろう? 紫輝」
「誰だっ」
今、部屋に天誠がいると気づいたようで、千夜は顔をあげた。
そして、みるみる目を丸くする。
「お、まえ…安曇眞仲? え? でも羽が…」
天誠は無遠慮に、ずかずかと千夜に近づくと。甚平の胸倉を掴んで引き寄せた。
「そうだ。安曇眞仲だ。随分痛そうだから、早めに片をつけてやる。その腕を治す。交換条件は、我らの言うことを聞くと約束すること。もし約束を違えたら、殺す」
「天誠…言い方」
あんまり邪悪っぽいオーラを出すものだから、紫輝はつい、ツッコんでしまった。
「紫輝…おまえ、手裏と通じていたのか? 俺たちを、裏切って…」
いきり立つ千夜を、天誠は冷たい目で見下ろし。
でも薄笑いは浮かべている。
「おまえは、将堂を除隊したのだから、そんなことはどうでもいいだろう? とはいえ、紫輝は裏切っていない。俺は紫輝に、メロメロな男なんだよ。だから、紫輝の大事なお友達のために、こうして助け舟を出してやったんだ。紫輝に感謝しろよな? 望月千夜」
軽い言い回しだが。千夜を見る、切れ長の目に、底光りする黒い瞳。
おとなしく我らに従え、という強烈な威圧を感じ。
千夜は、ひやりと背筋に汗をかく。
「お、おまえたち…いったい…」
どうして、どういうわけで、ここに安曇がいるのか。
紫輝とは、どんな関係なのか。
考えたいが、痛みで頭が回らない。
それほど頭脳派でもない。むしろ感覚で動いてきた千夜に、この目の前の問題は難しすぎた。
「俺たちには、固い絆があるのでな。まぁ、その辺りは、あとでゆっくり説明してやる。どうする? 腕を治すのか? 治さないのか?」
「治すに、決まってんだろ」
敵か味方か、わからない。そんなの、考えられない。
だけど。腕が治るなら、なんだっていい。
この痛みから、逃れられるなら。
廣伊の前で、笑えるようになれるなら、なんだって。
そんな気持ちで、千夜は奥歯を噛む。
「だが…廣伊は殺せねぇ。もう。それだけは…」
痛みに霞む頭ながら、千夜は本能で、できないことを訴える。
「はっ、紫輝が、そんな無体な条件、つけるわけがないだろう。安心しろ」
鼻で笑って、安曇が告げる。
そうか。先ほど安曇は我らと言っていた。
条件付けの中に、紫輝の意志が入るのなら。できないことは言われない。
どんな条件になるのかはわからないが。廣伊を殺す以外のものなら、なんでも従う。
そうして千夜はうなずいた。
「よし。次は、紫輝の番だ」
急に天誠に言われ、紫輝はきょとんとする。
なに? なんの番?
「紫輝の加護を与える。龍鬼の能力を使うんだ」
「お、俺はまだ、龍鬼の能力は使えないんだ」
おどおどと、紫輝は天誠に訴える。
努力はした。
陰でこっそり、なにかできないか、試してみたが。うんともすんとも。
廣伊の、小さな花芽が出るやつ、あれ以下。
なんにも出なかった。
「なに言ってんだ? 使えるだろ。『らいかみっ!』も。普段の敵を倒すのも、おまえの能力だろ」
かすれた声で、千夜が苦しみながらも言う。
「違うんだ。あれは、ライラが…」
「雷が落ちる、あの紫色は、おまえのものだろ。あの能力で、どうすんのかはわからねぇが。おまえが能力を使えないっていうのは、違う。だろ?」
確かに『らいかみっ!』は、ライラと紫輝の能力、半分半分。
でも、ほとんど無意識なのだ。
コントロールしているのは、ライラのような気がする。
そう思い。自信なんか湧かない中。
天誠が紫輝の頬を両の手で包んで、みつめる。
「紫輝っ、よく見ろ。俺を、見るんだ。周りに紫色が見えるか?」
自信がなくて、揺れる眼差しを。天誠の強い瞳の光が、捕える。
彼の黒い瞳の中に、己の情けない顔が映っている。
紫輝は気を引き締めて、しっかりと彼をみつめ。そして、見る。
見える。
紫色の、薄いベールのようなものが、天誠の体を包んでいる。
「見え、た。紫の、ベール」
「それが、紫輝の加護だ。これがあったから、俺とライラは、この世界に、支障なくいられているんだ」
加護。と天誠に言われ。紫輝は思い出した。
廣伊が、アロエを井上にあげたことを。
廣伊が生み出した巨大アロエは、廣伊が能力を止めたことで、枯れて散った。
だが、井上にあげたアロエは、生きていて。緑色に光って見えた。
そのときに思ったのだ。廣伊の加護だと。
「紫輝の能力は、時間を操るものだ。望月の、その腕の部分の時間を巻き戻す」
「そんな…もし、失敗したら…」
「失敗してもいい。どうなってもいい。頼む、紫輝」
たとえ、死んでも。
この状態から逃れられるのなら。なんでも試したい。
そういう気持ちを、紫輝は千夜から感じた。
それだけ、彼は追い詰められている。痛みに苦しんでいるということだ。
「助けたい。千夜のこと、助けてあげたい。でも、どうしたら…」
「イメージしろ。望月の腕を。躍動していた、彼の腕。紫輝の頭を撫でた、あの腕。全部、脳裏に浮かべる」
そばで、天誠が紫輝を誘う。
練習はしながらも、能力を出すことを、怖いと無意識に思っていた。
もし、天誠のいない場所で、自分だけがどこかに飛んでしまったら。
また、天誠と離れてしまったら。
そんな恐れが、胸の奥にはびこっていた。
でも、今なら天誠がそばにいる。
もしも間違って、どこかへ飛んでしまっても。天誠と、背中にいるライラは、一緒に行ける。
今なら、能力を出しても良い。
「天誠。絶対、俺から離れるな」
「無論だ。二度と兄さんを離さない」
天誠に一度笑いかけ。紫輝は集中した。
千夜の腕。千夜の腕…。
★★★★★
目をつぶって、千夜の腕のイメージをしていた。
だけど、なにやら暑いと感じて。紫輝は目を開ける。
そこは、千夜の部屋ではない。
でも見覚えがある。
前線基地の、いつも紫輝がご飯を食べていた、秘密の庭だ。
強い日差しを受け、輝く鮮やかな木々の緑色が、夏の彩り。
今はもう、十月の末なのに。
気温も高い。汗をかきそうなほどに。
紫輝は、額を手の甲で拭う。
そこには、ひとりでいた。
千夜の部屋に、いたはずなのに。軍靴を履いて、樹海の地面を踏みしめている。
もしかして、ひとりで飛んでしまったんじゃないか?
慌てて、ライラ剣を後ろ手に掴もうとするけど。
柄がない。紫輝は泣きそうになった。
嫌だ。ひとりは、もう嫌だ。
じわりと目が潤んだ、そのとき。
「せんにゃっ!」
ライラが叫んだ。
ライラ、いた。いたっ。良かったっ。
すぐさまライラに駆け寄ろうとした。
そうしたら、ガサガサと草を踏みしめる音がして。
誰かが来る。
薄暗い、樹海の木々の合間から、千夜が現れた。
彼の瑠璃の瞳が、紫輝を捕えると。ニヤリと笑う。
「紫輝。廣伊が呼んでるから、行くぞ」
日差しに当たると、きらりと光る、メタリックブルーの髪が、目にまぶしい。
胸板が厚く、二の腕もがっしりとした、体格の良い男前…。
つか、腕ある。
千夜は軍服を脱いで、腰に巻きつけている。つまり、防具だけを身につけて。タートルネックのノースリーブを着ているみたい…と。以前、思ったことがある、な?
「なんだよ、腕出して…筋肉自慢かよ」
少しおどおどしつつ。言うと。
千夜は、あのセリフを言ったのだ。
「暑いんだよ。もう九月なのに。なんでまだ、こんなに暑いんだ?」
千夜は手のひらで顔をあおぎ、さらに羽もバサバサさせた。
「革の防具だけで、充分暑いっつうの。もう、無理無理」
やっぱり。このやり取りは覚えがある。
ここは、九月に入ったばかりの、前線基地だ。
紫輝は目の前にある千夜の腕を、凝視する。
剥き出しの腕、筋肉が汗で光り。陰影を強調し、腕の健康的な盛り上がりが格好いい…と、当時も思ったのだ。
「あれ? おまえ、いつもの紫輝じゃねぇな?」
あのときとは違うセリフに、紫輝は驚いて、千夜を見上げる。
「どうしたんだよ。迷子か? あぁ、紫輝に迷子はおかしいか。ん? なにか用か?」
そこにいるのは、いつもの千夜。
いや、腕を失くす前の、元気な千夜。
この千夜に戻ってほしくて。千夜を助けたくて。紫輝はここに来た。
困惑していたけれど、紫輝は、そう、思い出した。
「千夜が、怪我をしたんだ。う、腕を、切断しちゃって…」
「はぁ? 切断? 馬鹿な。俺がそんなヘマするわけねぇだろ」
「廣伊をかばったんだよ」
そう、紫輝が言ったら。
千夜は押し黙って。横を向いた。
「なら、仕方ねぇ。廣伊は無事か?」
「無事だよ。千夜が守ったんだ。無事に決まってる」
その言葉に、千夜はニヤリと笑い。
ふふんと、楽しげに、歌うように言った。
「だろうな、さすが、俺。いいぞ。持ってけ」
紫輝の目の前に、千夜は右腕を突き出した。
持ってけって…これを、持っていくの?
紫輝が不思議そうに、千夜を見やると。
彼はご機嫌な様子で。あの、犬歯を剥き出しにする、最高の笑顔を見せた。
「廣伊を守ったんだろ? 未来の俺に、ご褒美だ。な?」
紫輝は、千夜の腕を見やる。
少し汗ばんだ、筋肉の美しいおうとつ。その肩の付け根から、二の腕、肘、手首、指の先まで、紫輝は両の手のひらでたどっていった。
すると、まぶしい光がふたりを包んで。なにも見えなくなった。
★★★★★
「おおぉっ…」
紫輝の、両の手のひらから、光があふれ。千夜の右腕を形作る。
光がおさまったときには、千夜の右腕は、元通りに。
あの夏の日。千夜から貰った腕、そのものが。
甚平を着る、現在の千夜の右腕の、そこにあった。
「い、痛くねぇ…嘘だろ」
布団の上に座る千夜は、おそるおそる、手を握って、開いてみる。
「感覚もある。まさか、本当に…腕が、治った…のか?」
千夜は、腕が治ったのだと思っているようだが。
紫輝の目には、腕が紫色に光っているように見えている。
天誠にかかる、薄いベールのような加護とは、別物。それそのものが、紫なのだ。
「天誠、失敗したかも…天誠のと、違うみたい」
恐れおののいて、紫輝は声を震わせてつぶやく。
だが天誠は、優しく紫輝に笑いかけてくれた。
「大丈夫だ。ちゃんとうまくいった。ただ。その腕そのものが、紫輝の加護なだけだ。無くなった物は、本来、そこにない物。ここにあるのは、時間を巻き戻した腕だ。おそらく、この右腕だけ、時が止まっているのだろう」
それが、紫輝には違和感に見える。
いけないことをしてしまったんじゃないか、という気になる。
でも、紫輝は。どうしても千夜を助けたかったのだ。
「ごめん、千夜。俺の我が儘で、千夜は普通の人生を歩めなくなってしまったかもしれない」
「つまり、化け物になった? ははっ、化け物上等だ。紫輝の加護? 時間が止まった? そんなのどうでもいい。自由に動かせる、この腕があるなら。痛みが、ないのなら」
健康な腕を取り戻せたことに、千夜は興奮し、笑いを漏らすが。
紫輝には聞こえていなかった。
「ごめん。千夜、ごめん」
いつまでも謝りながら、紫輝は意識を失う。
というより、深い眠りについた。
倒れ込む紫輝を、天誠は支え。ひとつつぶやく。
「消耗が激しすぎる。この技は、もう使わせない」
天誠は、紫輝の小さな体を柔らかく抱き締めて。まぶたの開かない目の際に、愛しげにくちづけた。
紫輝が、あまりにも悲しげで、心を痛めているから。なんとかしてやりたいと思ってしまったのだ。
それに、紫輝の能力も取り戻してあげたかった。
紫輝が、己の能力をコントロールできるようになれば。
彼がひとりでどこかへ行くこともなく、行ったとしても、戻って来れる。天誠をひとりにすることはなくなる。
そんな気持ちもあった。
けれど、それで、紫輝の命が脅かされてしまっては、本末転倒だ。
失敗した、と天誠は思った。
やはり。
愛する者の前でだけは。自分は、無能で愚かだ。
「し、紫輝? 紫輝は、大丈夫か?」
「あぁ。眠っているだけだ」
大事な宝物を抱えるように、紫輝を腕の中におさめる安曇を見て。
千夜は。安曇が、もしかしたら紫輝を利用しているんじゃないかと、疑念を持っていたのだが。
彼らの様子を見て、違うのだと感じた。
固い絆がある、などと言っていた。
このふたりの関係は、いったい…。
「化け物上等、と言ったが。文字通り、おまえは化け物だ。一度切断された手が、生えているのだから。腕が治ったとしても、将堂軍には戻れない。わかるな?」
千夜は、安曇の言葉にうなずくしかなかった。
今は、腕はもう痛くない。
以前と同じように生活できる。
けれど、廣伊の隣には並べないのだ。
この屋敷の中で、村の中で、過ごすしかないのかもしれない。
痛みがなくなっただけでも、感謝しなければならないというのに。
人間の欲は、際限がなくて。
元に戻ったら、廣伊の背中を守りたいなんて、すぐ考えてしまって。
紫輝に、申し訳ないと思った。
「で、条件だが。あらゆる場面で紫輝を守ること。それのみだ」
「え。だが。俺は将堂には戻れねぇ」
「だから、隠密の修業をしてもらう」
隠密の技能は、千夜はある程度、取得している。
しかし、使えないから。暗殺者として生きていたのだ。
彼の要求を、自分は遂行できないかもしれない。
腕を治してもらったのに、それではあまりにも不義理だと思い。千夜は素直に内情を明かした。
「…俺は、暗殺者として育てられた。隠密の修業も、少なからずしている。しかし、この髪や翼では、どうしても隠れきれなくて」
「隠密は、必ずしも隠れなくていい。大和」
「はい」
音もなく、大和が安曇の背後にいた。
いつの間に?
そして、まさか、大和が?
「大和は、俺が紫輝につけた、隠密だ。隠密というのは、ここぞというときに認知されなければよいのだ。ときに食事の配膳係、ときには農夫となり、生活に溶け込む。そしていつの間にか、いなくなる。それができれば、隠密と言える。まぁ、腕が生えたおまえには、隠れてもらわなければならないがな。しばらく大和について、隠密の修業をし直せ」
「大和がいるのに、俺もつけるのか?」
「そうだ。大和は表の隠密。戦場で、生活圏で、紫輝を守る。望月は裏の隠密。これからは、情報集めが肝になる。陰ながら紫輝を守り。ときには、紫輝から離れて情報を集める…余裕があるなら、高槻を守ってもいいぞ。紫輝にくっついていれば、高槻もそばにいるだろうからな」
千夜の瑠璃の羽が、ブワッと開いた。
廣伊を守ってもいい?
それは、破格の報酬。
腕を治してもらって、廣伊のために生きたいと思った、己の願いまで叶えてくれるなんて。出来過ぎだ。
「それは…俺が、良い想いをし過ぎでは?」
「どうかな? ない腕を抱えて、死んだ方がましだったと思う日が来るかもしれないぞ」
安曇は大和を見やり。大和は、心なしかげっそりと、頬を削げ落している。
そんなにつらい修業とは?
「虫がいいかもしれないが。もし廣伊が紫輝と対立しても。俺は廣伊を殺せない」
「いいぞ。だが、紫輝は守れ。それが対価だ。紫輝を守り切れるなら、高槻から逃げてもいい。おまえが囮になって死ぬのもいい。ただ、おまえが死ぬより先に、紫輝を殺されるな、ということだ」
安曇の口添えに、千夜はうなずく。
廣伊と対峙せずに、逃げる選択肢もあり、ということか。
ならば、できそうだ。
廣伊と対峙しないで済むのに、越したことはないが。
とにかく、自分が死ぬまで、紫輝の命を守り抜く。
対価でなくても、恩ある者の命を守るのは、当然のことだ。
まぁ、死よりも恐ろしい修業が待っているようだが。
強くなることに執着がある千夜には、むしろご褒美であった。
千夜は、居住まいを正して、その場に正座し。
安曇と、眠る紫輝に頭を下げた。
「謹んでお受けいたします」
「…紫輝が寝ている間に、昔話をしてやる。俺と紫輝の関係について。そして、その後の展望までをな」
そこで千夜は。
時を操る龍鬼である紫輝が、三百年前に飛んで、天誠と兄弟になったこと。
紫輝が、この世界に来てからの顛末。
終戦に向けての道筋。
紫輝が命を懸けて守るべき存在であることなど。安曇にすべてを明かされた。
すべてを知って…千夜はやはり、深く頭を下げたのだった。
大和を道案内に、月光、幸直、廣伊、井上は、一足先に奥多摩の村に向けて出発した。
そして、日が暮れてから。紫輝と千夜が、ライラに乗って村に向かう。
ライラにしがみつくことができない千夜は、意識がなかったときにしていたように、ひもでライラにくくり付ける。
なんとなく、ライラママが、千夜をおんぶひもで背負っているような感じ。
「くっそう、格好つかねぇ」
「ジェットコースターなんだ、安全バーは必須だよ」
そう言いながら。紫輝は、月光の隠密さんに手伝ってもらいつつ、千夜のことをがっちりと結んでいく。
途中で外れないように。想像すると、怖い。
「また、変な言葉使って…さっぱりわからねぇから、ツッコまねぇぞ?」
縛り終えたら、隠密さんに挨拶する。
「今までお世話になりました。ありがとうございました」
「道中お気をつけて」
屋敷の前で、頭を下げてくれる彼らに、手を振って。
紫輝はライラに乗り込み。一路、村に向かうのだった。
ライラは、千夜が元気なのが嬉しいようで。御機嫌だ。
空を飛ぶように、ぐんぐん前に進む。
「やべぇ、はえぇ、こえぇ」
千夜は左手で、ライラの毛を必死に掴んでいる。
紫輝も後ろから支えているけど。やっぱり怖いのかな?
「だから言ったろ? ジェットコースターだって。少しスピ…速度落そうか?」
「いや。こんくらい、平気だ」
いやいや、こえぇって、聞こえましたけど?
「せんにゃ、せんにゃ、がんばれせんにゃっ」
「おい、紫輝。お嬢がなんか、ガルガルガオガオ言ってるぞ」
「応援歌だよ。頑張れ千夜っ、ってね」
「マジか。可愛いなぁ、お嬢は。速度はえげつないけど」
はははっ、と紫輝は大声で笑った。
なんか、千夜と以前のようなやり取りができていることが、すごく嬉しくて。
「なぁ、紫輝。おまえも、もう遠慮したりするなよな。俺は大丈夫だからさ」
しっかり前を見据えて、千夜は紫輝に言う。
「俺は、暗殺者としての矜持と廣伊という、相反するものを両立しようとして、破たんした。けど、もう間違わねぇ。廣伊のために、これからは生きる。愛する者に求められてんだ。これ以上、幸せなことはない」
千夜のその言葉は、とても美しく聞こえる。
でも。千夜は?
それは、千夜自身のために生きているということになるのか?
その想いだけで、ずっと幸せでいられる?
強者の矜持も千夜の一部だったんじゃないの?
けれど、その問いかけは、紫輝にはできないのだ。
せっかく気力を取り戻しつつあるのに。水は差せない。
ライラジェットコースターは、紫輝と千夜が話をしているうちに、村の、あの屋敷の前に降り立った。
ライラの背から降りて、千夜に巻きつけたひもを外していると。屋敷の中から、大和をはじめ、みんな出てきた。
先に、無事到着していたようだ。
若干、ぐったりしている千夜を。廣伊と幸直が抱えて、屋敷の中へ入っていった。
やっぱり、まだ本調子じゃないんだな。
「あの高速を一時間とか、そりゃ、腰も抜けるよね」
背後でぼそりと、月光が囁いた。
え? ライラのせいだった?
だから、スピード落そうかって聞いたのにぃ。
紫輝は、ジェットコースターや。父の運転で、高速道路を走行したり。以前の世界で、速い乗り物に耐性済みだから。ライラの速さに、もう慣れてしまったのだが。
この世界の、一番速い乗り物は、馬だから。
他者はそのスピードには、なかなかついていけないのだ。
涼しい顔をしていた大和も、実は、ライラ騎乗時は目をつぶっていたらしい。
「っていうか、村とか、聞いてないんだけど? 紫輝? どういうことなのかなぁ?」
至近距離で、可愛らしい笑顔ながら、怒りの波動をみなぎらせている月光に。紫輝は、目を合わせられなかった。
「すみません。俺も、朝、初めて聞いたもんで」
「紫輝村って言うんだってね? 村。つか、村? あいつ、どんだけ高性能なの? 嫌いっ。マジ嫌いっ」
ヒステリックに、地団太を踏み。ピンクの羽をバサバサしてる。
丸くおさまりそうで、いいんじゃない? と紫輝は思うが。
月光が、そこに引っかかっているわけではないことは、なんとなくわかる。
「…お酌させていただきます」
「一緒に寝るっ」
「一緒に寝ます」
紫輝が承諾すると、ようやく月光は機嫌を直して、にっこりした。
「おーんちゃーん、ごはん、ちょーだい」
そこに、ライラが突っ込んでくる。
紫輝は大きなライラの首に抱きついて。いっぱい頭を撫でた。
今日も、白くて長い御毛毛が柔らかくって、温かくって、素敵です。
「よしよし、えらいね。今日はライラ、いっぱい頑張ったな。もう、ねんねしていいぞ」
「あい」
ぐるりと回って、剣になったライラを、背中の鞘におさめる。
ライラは、紫輝のどこかにくっついていれば、勝手に紫輝の生気を食べて満腹になるのだ。
それで紫輝が消耗することはない。
紫輝たちは屋敷の中に入って、大和の歓待を受けた。
風呂に入って、御馳走を食べて、月光さんと一緒の部屋に入ったけれど。
話をする間もなく、スコンと寝入ってしまった。
ライラに生気を食べられるよりも。移動の方が、体力を消耗するな。
廣伊たちより、ライラでズルして、だいぶ楽をしているはずなのに。
★★★★★
子供みたいに、ご飯を食べたら、すぐに寝てしまった紫輝は。早い時間に起きてしまい。
月光を起こさないよう、そっと部屋を出て。
屋敷が並び立つ敷地内を散策した。
朝の空気は新鮮で、吸い込むと、肺がピカピカになる感覚がある。
空気が美味しい、というやつだ。
山の紅葉は、朝焼けの赤紫色の雲と絶妙なコラボレーションで、美しい。
そういえば、富士山は見えなくなった。ちょっと寂しい。
千夜たちが滞在する屋敷の隣に、本棟が。と言うが。
距離は、充分に離れている。
南側には、段々畑より規模は小さいが、充分に屋敷の食材を調達できるくらいの畑がある。
小さな建物は、蔵だったり、農機具倉庫だったり、ニワトリ小屋だったり。
なんか、いろいろ、そろっている。
井戸をみつけたので、水を汲んで、飲んで、顔を洗い、はねた髪を濡らして直した。
「ひえっ」
なにかが落ちる音がして。悲鳴があがった方を見やると。
小さな背丈の女性が、紫輝を見て驚いている。
畑で摘んできたのだろう、菜っ葉が足元に落ちていた。
「おはようございます。驚かせてすみません」
紫輝は落ちた菜っ葉を、拾おうとするが…。
そうか、いきなり龍鬼に会っちゃったから、彼女は驚いたんだ。
なら、むしろ触らない方がいいんだな、と思って。
どうしようかなと考えていた。
すると女性が、その場に正座して頭を下げたのだ。
「お、おはようございますっ、紫輝様。こ、こ、こちらこそ。申し訳ございませんっ」
え? え? どういう状況?
どうしたらいいの? これ。
そうしてオロオロしていたら。
女性の後ろに、すっごくでっかい男性が現れた。
いやいや、俺は、彼女を怒ったわけでもいじめたわけでもないんですよ? と、言い訳したい気持ちに駆られたのだが。
ズーンという効果音が出そうな、大きな、天誠よりも身長も横幅もでっかいその男性が。
女性の横で正座して頭を下げた。
ええぇぇ、マジで、どういう状況?
「こらこら、紫輝様が困っているぞ」
そこに大和が現れて…大和ぉ、助かったよ。
なんなの? どうしたらいいの? という気持ちで、紫輝は大和を見やる。
「や、大和っ、早く紹介してよ。っていうか、あんた、その態度なに? 奥方様よ。頭下げなさいよっ」
女性がひそひそと大和を叱っている。
ん? お知り合いですか?
「いやいや、頭は上げてください。貴方も、そちらの方も。大和、立たせてあげて」
最初、彼女は驚いていたし。龍鬼が怖いのかと思って、大和に頼んだ。
この屋敷で働いている人だと思うので。これからお世話になるし。
よくわからないけど、なんとか穏便に済ませたい。
「ほら、立っていいって。紫輝様はこういう、かしこまったのは苦手なんだよ」
大和にうながされたふたりは、落とした菜っ葉をササッと拾うと、立ち上がって。再びお辞儀する。
「紫輝様、このふたりは俺と同じく、安曇様に仕えている者です。すみれと橘」
大和は、女性と男性の順で示し、紹介する。
小さくて木の葉柄の翼、これは。
「すずめっ」
「はい。スズメ血脈のすみれです。以後、お願いいたします」
すみれは、唐突に言い当てられても、嫌な顔ひとつせずに、元気に挨拶した。
あれ? もしかして、この世界に来てから初めて、女の人と話したかも。
「ハシビロコウの橘です」
ハシビロコウ、という鳥は。紫輝は知らなかった。
大きな体格に、ブルーグレーの大きな翼、でも同じ色の目が、とても優しい光を宿している。
「こちらの屋敷での身の回りのお世話は、こちらのふたりが、主にたずさわります。もちろん、俺もいますけど。紫輝様、なんなりとお申し付けください」
「え、でも、龍鬼が怖いんじゃないの?」
すみれを見て言うが。
頬を赤らめた彼女に代わり。大和が言った。
「いえ。安曇様の伴侶に、思いがけずに遭遇して。恐れ多くて、固まったのかと」
「あぁ、それで、奥方とか言ってたのか? ええぇ、なんか照れちゃうな。そんな固くならないで。俺は天誠のお兄ちゃんだから。怖くないよ」
フレンドリーな空気感で、紫輝は笑顔を意識して言うが。
大和は残念そうに首を振る。
「…紫輝様。それは余計、怖いかと思います」
安曇の兄だなんて、安曇を知っている者にとっては呪禁に匹敵する恐ろしい言葉だ。
「朝食を終えたら、幹部の方々は、すぐに出立するということなので。紫輝様、そろそろ居間の方へ」
「そうだね。じゃあ、すみれちゃん、橘くん、これからどうぞ、よろしくお願いします。またね」
大和とともに去っていく、紫輝の後ろ姿を見送り。
すみれは、橘に感想を述べた。
「普通の男の子ね。安曇様のように威厳があったり気品があったり、美丈夫なのかと思っていたわ」
「だが、可憐だ」
「えぇ、可憐ね。あと、気さく。そして大和がべったりだわ」
「べったりだ。殺されないといい」
橘は口数が少ないが。
殺されないと、の主語が安曇なのは、すみれに、ちゃんと伝わった。
★★★★★
早めの朝食をとった一行は、馬で本拠地に向かう。
本拠地まで、距離はあるが。ほぼ平坦で、道は下っていくので。河口湖からここまでの道程よりも、早く目的地に到着できるそうだ。
「紫輝、落ち着いたら屋敷へおいで。御馳走作るからな」
「あぁ、俺も。紫輝、本拠地で遊ぼうぜ。誘いに行くからな」
月光の別れの言葉にかぶせて、幸直が言うが。
月光に却下されてた。
「幸直は駄目でーす。赤穂様の許可を取ってから、出直してくださーい」
「えぇ、ひでぇよ、側近」
ふてくされた幸直に代わり。
井上がズイッと前に出た。
「間宮くん。最後に…ライラ様と抱っこを…」
でも、ライラ剣が紫輝の背中でガタタッと震えたので。ライラ様には振られたようだ。
「また今度、と申しております」
にっこり笑って、ごめんなさいした。
「紫輝、私がいない間、千夜を頼む。雑務を片付け、ニ、三日…遅くとも一週間後には、ここへ戻るつもりだ」
廣伊は第五大隊長だ。今回の事件では、聴取や兵の補充や隊の立て直しや、やることは山積みだろうと、一兵士の紫輝でも考えつく。
一週間でも足りないくらいだと思うが。
廣伊は戻ってくるのだろう。千夜のために。
紫輝も。一般兵士は、前線任務明けの三週間ほど、休暇を貰える。
その後、冬の間は交代制で、休みが貰えるようなのだが。
紫輝の休暇は、千夜の看病で使い切った。
十一月には、紫輝も、本拠地に一度は顔を出さないとならないだろう。
班長なのに、野際に最後の最後で全部任せてしまったのも、気になる。
千夜のことは、廣伊と紫輝の休暇を、うまく、交代交代にして看られるといいと、考えていた。
「わかった。廣伊、道中、気をつけて」
廣伊と千夜は、ただ、目線だけで挨拶し。
紫輝と千夜と大和は、屋敷の前で、彼らを見送った。
気がゆるんだのか。千夜は、屋敷の詳しい案内をしていた最中に、熱を出して。寝込んでしまった。
やっぱり、まだ本調子じゃない。
当たり前だ。腕を斬られてから、まだ一ヶ月経っていないし。
移動はそれなりに、体に負担がかかる。
井上には、そばにいてもらいたい気はあったけれど、彼は軍医だから。
患者は千夜ひとりじゃないからな。仕方がないのだ。
千夜の容体の管理は、大和がした。
彼は天誠から、医学の知識も学んでいたようで。以前の世界での、医療の常識みたいなものも知っていた。
清潔に保つことの重要さ、とか。
煮沸消毒、アルコール消毒なども。
薬も、井上が置いていった鎮痛剤を、多量に服用しないよう管理してくれて。
マジですごいです。
「すごいのは、この知識を授けてくださった、安曇様ですよ」
洗濯済みの包帯を、さらに鍋で煮ながら、大和は紫輝に教えてくれる。
そうなんだ。うちの弟、本当にすごいんです。
そう、弟がすごいのであって、自分はすごくない。
だから、大和やすみれや橘に、頭を下げられるのは違うと思う。
大和にも、紫輝様と呼ばれるたびに、なんか申し訳ない気になるのだ。そう言ったら。
「紫輝様も、すごいに決まっているじゃないですか。たとえば。俺、紫輝様のそばについてから、何回か失態をやらかしているんですが。ここで今、生きていられるのは、紫輝様のおかげです」
うーん、よくわからない。
紫輝は眉間にしわを寄せて、大和をみつめる。
「貴方は、存在するだけで、世界を救っているのです」
「それは、嘘だよね?」
「マジです」
紫輝賛辞がはなはだしい大和に、これ以上言っても無駄だと思い。
なまぬるい笑みだけを投げかけておいた。
おかしいな。大和はいつから、こんなになっていたのだろう。
出会った当初は、もう少し、様子見感や値踏み感があったのだが。
そんなこんなで二日目は過ぎ。天誠が会いに来ると言った三日目になった。
★★★★★
千夜の熱は下がったが。痛みがあるのか、常に眉間にしわが寄っている。
口数も激減し…。そりゃそうだ。痛いときに、会話なんかできない。
食欲も少なくて、朝食をだいぶ残してしまった。
廣伊が戻ってくるまでに、なんとか体調を整えてあげたいな。
ひとりにしてくれと、頼まれたけれど。
やはり、痛みのある中で、ひとりにするのは怖いので。
大和に。部屋の外だが、気配はわかる場所に、いてもらって。紫輝は離れた。
紫輝は、屋敷の敷地内の、村が見渡せる場所に立った。
大和は、村を見学しても大丈夫ですよ。と言うのだが。
龍鬼だと言って、石を投げられたり、嫌悪の目で見られたり、そういうつらい時期を経てきたから。なんとなく村人に遭遇するのが怖かった。
段々畑の手入れをするおじさんや、村の通りを歩いているおばさんや、子供たちの遊ぶ声、牛や馬の鳴き声、そんなものを、遠目から、見て、聞いて、感じている。
「ここは、俺が紫輝のために作った村だ」
後ろから抱きつかれ、頭のてっぺんにくちづけられた。
馴染みのある美声。
天誠が来てくれた。
彼の体温を身近に感じるだけで、濃厚なハチミツみたいに、甘い、幸福感に満たされる。
甘い…久しぶりにアイス、食べたい。
「以前、手の中の小鳥の話をしたな? 外敵に襲われず、飢えることもない。でも、光が差さない空間。兄さんの笑顔が失われるかもしれない空間。この村は、俺の手の中の空間だ。ライラの能力を知るまでは、紫輝と、この場所で暮らそうかと考え、作った箱庭。紫輝? この鳥籠に囲われてくれるか?」
「え? いや、それはもちろんイエスだけど。待て待て。俺は、光の差さないというのは、納屋に閉じ込められるとか、窓がない場所とか、そんなのをイメージしてたんだけど。この村で自由にできるの? 充分じゃね?」
バックハグされてて、天誠の顔が見えないのだが。じたばたしていたら、天誠が上から紫輝の顔をのぞき込んできた。
「俺が、兄さんを、そんな不自由な目にあわせるわけない」
心外だ、という顔をする弟に。
紫輝も、小難しい顔をして見せる。
「いや、だから。最初からここで良かったんじゃね? って言ってるんですが」
「うん。良かったんだけど。隠し通す自信もあったんだけど。紫輝を、本当の両親に会わせてやりたかった」
心臓が、ギュッと握られたみたいになった。
紫輝は最初、己の本当の両親に会うことをためらっていた。
龍鬼である自分を、受け入れてもらえないだろうと思って。
でも、天誠は、自分以上に自分のことを考えてくれるのだ。
赤穂と月光と会った紫輝は、ふたりが龍鬼の己を愛してくれる人たちだと知る。
天誠もおそらく、彼らが紫輝のことを探しているのを知っていて。
彼らにチャンスをあげた。
親子で心を通わせる機会を。
まぁ、そこにたどり着くまで、結構大変で。いっぱい泣いたけどね。
主に、天誠に泣かされたのだが。
それでも、紫輝が家族と出会うきっかけを用意してくれたのだから。感激ではある。
「それだけじゃなくて。戦も終わらせたかった。結局、戦が終わらなければ、紫輝は一生、隠れ住むことになる。今、紫輝は。この村を大きいと思い、暮らすのには充分だと思っているかもしれないが。どうしても、隠れているという閉塞感からは、逃れられない。根本から直さないと、死ぬまで心労は続く。そんなの嫌だろ?」
「うん。今は考えられないけど。いずれ嫌になるのかな?」
「もうわかったと思うが。紫輝は将堂の血脈だ。そして俺は手裏のトップにいる。うまく立ち回れば、終戦できる」
「俺と、天誠で?」
「そう。俺と、兄さんで」
右耳に甘い低声を吹き込んで、天誠は横からのアプローチで、紫輝にくちづけた。
紫輝は。途端に緊張した。
三日前は、ぐちゃぐちゃに泣いて、わけがわからないままキスしたけれど。
今は、なんだか久しぶりに感じる、恋人同士がするみたいな、柔らかいキスで。
こ、恋人のっ。
腕の中で、がっちり固まってしまった紫輝を。
天誠は、彼の腕や腹を撫でて、緊張をほぐし、バードキスであやす。
まだまだキスに不慣れな初心な恋人に、天誠は笑んでしまう。
エロい紫輝も好きだが。初恋の甘酸っぱさも嫌いじゃない。
でも、まぁ、本題が残っているので。
いつまでも唇をくっつけていたいけれど。二センチ、距離をあける。
「心置きなく、家族で暮らすために。今日は、終戦への道の第一歩だ。紫輝。大物を片づけに行こう」
「大物?」
「望月を、そして高槻を、手中におさめる」
「千夜を? なんで? どうやって?」
「俺と紫輝がタッグを組んだ、第三勢力を作るため。望月が手に入れば、高槻も従う。まぁ、まずはここまで。うまく行くかは、兄さん次第だ」
自分が、千夜を説得するということか? と思い。紫輝は怖気づく。
でも、天誠がここまで言うのだから。自分もなにかをしないと。
天誠は、ふわっとした計画は立てないから、なにか彼を説得できる材料を持っているのだ。
手を引かれるまま、紫輝は天誠とともに千夜の部屋へと向かった。
★★★★★
千夜の部屋の前には、大和が控えていて。頭をサッと下げ、道を開ける。
紫輝は、千夜に声をかけてから部屋へ入った。
すると、千夜は奥歯を噛み締め、布団の上で、痛みにひとり、耐えていた。
「痛ぇ。紫輝、なんでだよ? 右腕が…ないのに。指先が痛ぇんだ。強く、痺れて…耐えられねぇ」
千夜が弱音を吐くなんて、相当な痛みに襲われているのだ。
紫輝は彼に駆け寄り、左の肩の辺りを撫でる。
気休めだが…少しでも痛みを和らげてあげたくて。
手当てと言うだろう?
それに今の千夜の症状は、以前の世界のドラマで、そういう場面を見たことがある。
「う、腕を切断すると、そういう症状が、まれに出るみたい。脳が、なくなった腕がまだあると錯覚して…幻肢痛って言うんだけど…あぁ、どうしよう。痛いよね? 薬を…。天誠、今日は無理だよ。千夜がこんなに苦しんでいるし」
「苦しんでいるから、助けてやるんだろう? 紫輝」
「誰だっ」
今、部屋に天誠がいると気づいたようで、千夜は顔をあげた。
そして、みるみる目を丸くする。
「お、まえ…安曇眞仲? え? でも羽が…」
天誠は無遠慮に、ずかずかと千夜に近づくと。甚平の胸倉を掴んで引き寄せた。
「そうだ。安曇眞仲だ。随分痛そうだから、早めに片をつけてやる。その腕を治す。交換条件は、我らの言うことを聞くと約束すること。もし約束を違えたら、殺す」
「天誠…言い方」
あんまり邪悪っぽいオーラを出すものだから、紫輝はつい、ツッコんでしまった。
「紫輝…おまえ、手裏と通じていたのか? 俺たちを、裏切って…」
いきり立つ千夜を、天誠は冷たい目で見下ろし。
でも薄笑いは浮かべている。
「おまえは、将堂を除隊したのだから、そんなことはどうでもいいだろう? とはいえ、紫輝は裏切っていない。俺は紫輝に、メロメロな男なんだよ。だから、紫輝の大事なお友達のために、こうして助け舟を出してやったんだ。紫輝に感謝しろよな? 望月千夜」
軽い言い回しだが。千夜を見る、切れ長の目に、底光りする黒い瞳。
おとなしく我らに従え、という強烈な威圧を感じ。
千夜は、ひやりと背筋に汗をかく。
「お、おまえたち…いったい…」
どうして、どういうわけで、ここに安曇がいるのか。
紫輝とは、どんな関係なのか。
考えたいが、痛みで頭が回らない。
それほど頭脳派でもない。むしろ感覚で動いてきた千夜に、この目の前の問題は難しすぎた。
「俺たちには、固い絆があるのでな。まぁ、その辺りは、あとでゆっくり説明してやる。どうする? 腕を治すのか? 治さないのか?」
「治すに、決まってんだろ」
敵か味方か、わからない。そんなの、考えられない。
だけど。腕が治るなら、なんだっていい。
この痛みから、逃れられるなら。
廣伊の前で、笑えるようになれるなら、なんだって。
そんな気持ちで、千夜は奥歯を噛む。
「だが…廣伊は殺せねぇ。もう。それだけは…」
痛みに霞む頭ながら、千夜は本能で、できないことを訴える。
「はっ、紫輝が、そんな無体な条件、つけるわけがないだろう。安心しろ」
鼻で笑って、安曇が告げる。
そうか。先ほど安曇は我らと言っていた。
条件付けの中に、紫輝の意志が入るのなら。できないことは言われない。
どんな条件になるのかはわからないが。廣伊を殺す以外のものなら、なんでも従う。
そうして千夜はうなずいた。
「よし。次は、紫輝の番だ」
急に天誠に言われ、紫輝はきょとんとする。
なに? なんの番?
「紫輝の加護を与える。龍鬼の能力を使うんだ」
「お、俺はまだ、龍鬼の能力は使えないんだ」
おどおどと、紫輝は天誠に訴える。
努力はした。
陰でこっそり、なにかできないか、試してみたが。うんともすんとも。
廣伊の、小さな花芽が出るやつ、あれ以下。
なんにも出なかった。
「なに言ってんだ? 使えるだろ。『らいかみっ!』も。普段の敵を倒すのも、おまえの能力だろ」
かすれた声で、千夜が苦しみながらも言う。
「違うんだ。あれは、ライラが…」
「雷が落ちる、あの紫色は、おまえのものだろ。あの能力で、どうすんのかはわからねぇが。おまえが能力を使えないっていうのは、違う。だろ?」
確かに『らいかみっ!』は、ライラと紫輝の能力、半分半分。
でも、ほとんど無意識なのだ。
コントロールしているのは、ライラのような気がする。
そう思い。自信なんか湧かない中。
天誠が紫輝の頬を両の手で包んで、みつめる。
「紫輝っ、よく見ろ。俺を、見るんだ。周りに紫色が見えるか?」
自信がなくて、揺れる眼差しを。天誠の強い瞳の光が、捕える。
彼の黒い瞳の中に、己の情けない顔が映っている。
紫輝は気を引き締めて、しっかりと彼をみつめ。そして、見る。
見える。
紫色の、薄いベールのようなものが、天誠の体を包んでいる。
「見え、た。紫の、ベール」
「それが、紫輝の加護だ。これがあったから、俺とライラは、この世界に、支障なくいられているんだ」
加護。と天誠に言われ。紫輝は思い出した。
廣伊が、アロエを井上にあげたことを。
廣伊が生み出した巨大アロエは、廣伊が能力を止めたことで、枯れて散った。
だが、井上にあげたアロエは、生きていて。緑色に光って見えた。
そのときに思ったのだ。廣伊の加護だと。
「紫輝の能力は、時間を操るものだ。望月の、その腕の部分の時間を巻き戻す」
「そんな…もし、失敗したら…」
「失敗してもいい。どうなってもいい。頼む、紫輝」
たとえ、死んでも。
この状態から逃れられるのなら。なんでも試したい。
そういう気持ちを、紫輝は千夜から感じた。
それだけ、彼は追い詰められている。痛みに苦しんでいるということだ。
「助けたい。千夜のこと、助けてあげたい。でも、どうしたら…」
「イメージしろ。望月の腕を。躍動していた、彼の腕。紫輝の頭を撫でた、あの腕。全部、脳裏に浮かべる」
そばで、天誠が紫輝を誘う。
練習はしながらも、能力を出すことを、怖いと無意識に思っていた。
もし、天誠のいない場所で、自分だけがどこかに飛んでしまったら。
また、天誠と離れてしまったら。
そんな恐れが、胸の奥にはびこっていた。
でも、今なら天誠がそばにいる。
もしも間違って、どこかへ飛んでしまっても。天誠と、背中にいるライラは、一緒に行ける。
今なら、能力を出しても良い。
「天誠。絶対、俺から離れるな」
「無論だ。二度と兄さんを離さない」
天誠に一度笑いかけ。紫輝は集中した。
千夜の腕。千夜の腕…。
★★★★★
目をつぶって、千夜の腕のイメージをしていた。
だけど、なにやら暑いと感じて。紫輝は目を開ける。
そこは、千夜の部屋ではない。
でも見覚えがある。
前線基地の、いつも紫輝がご飯を食べていた、秘密の庭だ。
強い日差しを受け、輝く鮮やかな木々の緑色が、夏の彩り。
今はもう、十月の末なのに。
気温も高い。汗をかきそうなほどに。
紫輝は、額を手の甲で拭う。
そこには、ひとりでいた。
千夜の部屋に、いたはずなのに。軍靴を履いて、樹海の地面を踏みしめている。
もしかして、ひとりで飛んでしまったんじゃないか?
慌てて、ライラ剣を後ろ手に掴もうとするけど。
柄がない。紫輝は泣きそうになった。
嫌だ。ひとりは、もう嫌だ。
じわりと目が潤んだ、そのとき。
「せんにゃっ!」
ライラが叫んだ。
ライラ、いた。いたっ。良かったっ。
すぐさまライラに駆け寄ろうとした。
そうしたら、ガサガサと草を踏みしめる音がして。
誰かが来る。
薄暗い、樹海の木々の合間から、千夜が現れた。
彼の瑠璃の瞳が、紫輝を捕えると。ニヤリと笑う。
「紫輝。廣伊が呼んでるから、行くぞ」
日差しに当たると、きらりと光る、メタリックブルーの髪が、目にまぶしい。
胸板が厚く、二の腕もがっしりとした、体格の良い男前…。
つか、腕ある。
千夜は軍服を脱いで、腰に巻きつけている。つまり、防具だけを身につけて。タートルネックのノースリーブを着ているみたい…と。以前、思ったことがある、な?
「なんだよ、腕出して…筋肉自慢かよ」
少しおどおどしつつ。言うと。
千夜は、あのセリフを言ったのだ。
「暑いんだよ。もう九月なのに。なんでまだ、こんなに暑いんだ?」
千夜は手のひらで顔をあおぎ、さらに羽もバサバサさせた。
「革の防具だけで、充分暑いっつうの。もう、無理無理」
やっぱり。このやり取りは覚えがある。
ここは、九月に入ったばかりの、前線基地だ。
紫輝は目の前にある千夜の腕を、凝視する。
剥き出しの腕、筋肉が汗で光り。陰影を強調し、腕の健康的な盛り上がりが格好いい…と、当時も思ったのだ。
「あれ? おまえ、いつもの紫輝じゃねぇな?」
あのときとは違うセリフに、紫輝は驚いて、千夜を見上げる。
「どうしたんだよ。迷子か? あぁ、紫輝に迷子はおかしいか。ん? なにか用か?」
そこにいるのは、いつもの千夜。
いや、腕を失くす前の、元気な千夜。
この千夜に戻ってほしくて。千夜を助けたくて。紫輝はここに来た。
困惑していたけれど、紫輝は、そう、思い出した。
「千夜が、怪我をしたんだ。う、腕を、切断しちゃって…」
「はぁ? 切断? 馬鹿な。俺がそんなヘマするわけねぇだろ」
「廣伊をかばったんだよ」
そう、紫輝が言ったら。
千夜は押し黙って。横を向いた。
「なら、仕方ねぇ。廣伊は無事か?」
「無事だよ。千夜が守ったんだ。無事に決まってる」
その言葉に、千夜はニヤリと笑い。
ふふんと、楽しげに、歌うように言った。
「だろうな、さすが、俺。いいぞ。持ってけ」
紫輝の目の前に、千夜は右腕を突き出した。
持ってけって…これを、持っていくの?
紫輝が不思議そうに、千夜を見やると。
彼はご機嫌な様子で。あの、犬歯を剥き出しにする、最高の笑顔を見せた。
「廣伊を守ったんだろ? 未来の俺に、ご褒美だ。な?」
紫輝は、千夜の腕を見やる。
少し汗ばんだ、筋肉の美しいおうとつ。その肩の付け根から、二の腕、肘、手首、指の先まで、紫輝は両の手のひらでたどっていった。
すると、まぶしい光がふたりを包んで。なにも見えなくなった。
★★★★★
「おおぉっ…」
紫輝の、両の手のひらから、光があふれ。千夜の右腕を形作る。
光がおさまったときには、千夜の右腕は、元通りに。
あの夏の日。千夜から貰った腕、そのものが。
甚平を着る、現在の千夜の右腕の、そこにあった。
「い、痛くねぇ…嘘だろ」
布団の上に座る千夜は、おそるおそる、手を握って、開いてみる。
「感覚もある。まさか、本当に…腕が、治った…のか?」
千夜は、腕が治ったのだと思っているようだが。
紫輝の目には、腕が紫色に光っているように見えている。
天誠にかかる、薄いベールのような加護とは、別物。それそのものが、紫なのだ。
「天誠、失敗したかも…天誠のと、違うみたい」
恐れおののいて、紫輝は声を震わせてつぶやく。
だが天誠は、優しく紫輝に笑いかけてくれた。
「大丈夫だ。ちゃんとうまくいった。ただ。その腕そのものが、紫輝の加護なだけだ。無くなった物は、本来、そこにない物。ここにあるのは、時間を巻き戻した腕だ。おそらく、この右腕だけ、時が止まっているのだろう」
それが、紫輝には違和感に見える。
いけないことをしてしまったんじゃないか、という気になる。
でも、紫輝は。どうしても千夜を助けたかったのだ。
「ごめん、千夜。俺の我が儘で、千夜は普通の人生を歩めなくなってしまったかもしれない」
「つまり、化け物になった? ははっ、化け物上等だ。紫輝の加護? 時間が止まった? そんなのどうでもいい。自由に動かせる、この腕があるなら。痛みが、ないのなら」
健康な腕を取り戻せたことに、千夜は興奮し、笑いを漏らすが。
紫輝には聞こえていなかった。
「ごめん。千夜、ごめん」
いつまでも謝りながら、紫輝は意識を失う。
というより、深い眠りについた。
倒れ込む紫輝を、天誠は支え。ひとつつぶやく。
「消耗が激しすぎる。この技は、もう使わせない」
天誠は、紫輝の小さな体を柔らかく抱き締めて。まぶたの開かない目の際に、愛しげにくちづけた。
紫輝が、あまりにも悲しげで、心を痛めているから。なんとかしてやりたいと思ってしまったのだ。
それに、紫輝の能力も取り戻してあげたかった。
紫輝が、己の能力をコントロールできるようになれば。
彼がひとりでどこかへ行くこともなく、行ったとしても、戻って来れる。天誠をひとりにすることはなくなる。
そんな気持ちもあった。
けれど、それで、紫輝の命が脅かされてしまっては、本末転倒だ。
失敗した、と天誠は思った。
やはり。
愛する者の前でだけは。自分は、無能で愚かだ。
「し、紫輝? 紫輝は、大丈夫か?」
「あぁ。眠っているだけだ」
大事な宝物を抱えるように、紫輝を腕の中におさめる安曇を見て。
千夜は。安曇が、もしかしたら紫輝を利用しているんじゃないかと、疑念を持っていたのだが。
彼らの様子を見て、違うのだと感じた。
固い絆がある、などと言っていた。
このふたりの関係は、いったい…。
「化け物上等、と言ったが。文字通り、おまえは化け物だ。一度切断された手が、生えているのだから。腕が治ったとしても、将堂軍には戻れない。わかるな?」
千夜は、安曇の言葉にうなずくしかなかった。
今は、腕はもう痛くない。
以前と同じように生活できる。
けれど、廣伊の隣には並べないのだ。
この屋敷の中で、村の中で、過ごすしかないのかもしれない。
痛みがなくなっただけでも、感謝しなければならないというのに。
人間の欲は、際限がなくて。
元に戻ったら、廣伊の背中を守りたいなんて、すぐ考えてしまって。
紫輝に、申し訳ないと思った。
「で、条件だが。あらゆる場面で紫輝を守ること。それのみだ」
「え。だが。俺は将堂には戻れねぇ」
「だから、隠密の修業をしてもらう」
隠密の技能は、千夜はある程度、取得している。
しかし、使えないから。暗殺者として生きていたのだ。
彼の要求を、自分は遂行できないかもしれない。
腕を治してもらったのに、それではあまりにも不義理だと思い。千夜は素直に内情を明かした。
「…俺は、暗殺者として育てられた。隠密の修業も、少なからずしている。しかし、この髪や翼では、どうしても隠れきれなくて」
「隠密は、必ずしも隠れなくていい。大和」
「はい」
音もなく、大和が安曇の背後にいた。
いつの間に?
そして、まさか、大和が?
「大和は、俺が紫輝につけた、隠密だ。隠密というのは、ここぞというときに認知されなければよいのだ。ときに食事の配膳係、ときには農夫となり、生活に溶け込む。そしていつの間にか、いなくなる。それができれば、隠密と言える。まぁ、腕が生えたおまえには、隠れてもらわなければならないがな。しばらく大和について、隠密の修業をし直せ」
「大和がいるのに、俺もつけるのか?」
「そうだ。大和は表の隠密。戦場で、生活圏で、紫輝を守る。望月は裏の隠密。これからは、情報集めが肝になる。陰ながら紫輝を守り。ときには、紫輝から離れて情報を集める…余裕があるなら、高槻を守ってもいいぞ。紫輝にくっついていれば、高槻もそばにいるだろうからな」
千夜の瑠璃の羽が、ブワッと開いた。
廣伊を守ってもいい?
それは、破格の報酬。
腕を治してもらって、廣伊のために生きたいと思った、己の願いまで叶えてくれるなんて。出来過ぎだ。
「それは…俺が、良い想いをし過ぎでは?」
「どうかな? ない腕を抱えて、死んだ方がましだったと思う日が来るかもしれないぞ」
安曇は大和を見やり。大和は、心なしかげっそりと、頬を削げ落している。
そんなにつらい修業とは?
「虫がいいかもしれないが。もし廣伊が紫輝と対立しても。俺は廣伊を殺せない」
「いいぞ。だが、紫輝は守れ。それが対価だ。紫輝を守り切れるなら、高槻から逃げてもいい。おまえが囮になって死ぬのもいい。ただ、おまえが死ぬより先に、紫輝を殺されるな、ということだ」
安曇の口添えに、千夜はうなずく。
廣伊と対峙せずに、逃げる選択肢もあり、ということか。
ならば、できそうだ。
廣伊と対峙しないで済むのに、越したことはないが。
とにかく、自分が死ぬまで、紫輝の命を守り抜く。
対価でなくても、恩ある者の命を守るのは、当然のことだ。
まぁ、死よりも恐ろしい修業が待っているようだが。
強くなることに執着がある千夜には、むしろご褒美であった。
千夜は、居住まいを正して、その場に正座し。
安曇と、眠る紫輝に頭を下げた。
「謹んでお受けいたします」
「…紫輝が寝ている間に、昔話をしてやる。俺と紫輝の関係について。そして、その後の展望までをな」
そこで千夜は。
時を操る龍鬼である紫輝が、三百年前に飛んで、天誠と兄弟になったこと。
紫輝が、この世界に来てからの顛末。
終戦に向けての道筋。
紫輝が命を懸けて守るべき存在であることなど。安曇にすべてを明かされた。
すべてを知って…千夜はやはり、深く頭を下げたのだった。
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