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24 死ねるもんか

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     ◆死ねるもんか

 紫輝たちが間借りしている月光の屋敷は、河口湖の湖畔に建つ、木造の一軒家だ。
 玄関で靴を脱ぎ、板張りの廊下を進み、ふすまで間仕切られた部屋が八部屋ほど。
 ふすまを外すと、大きな部屋に変わるところもある。

 以前の世界にもあった、和風住宅のような感じ。
 でも、この世界では。この様式は珍しい。
 というか、名家仕様らしい。

 一般的なのは『俺たちの家』みたいな、土間と部屋が一体化してる、仕切られていない家なのだ。月光の説明によると、そんな感じであった。
 自分の家だと思って、遠慮せずに使って。と、言われ。ありがたかったが。
 紫輝は、住むなら『俺たちの家』くらいの大きさでいいと思った。
 その方が、天誠とライラが、いつでも視界に入って安心するから。

 玄関から外に出て、紫輝は大きく伸びをする。
 千夜が意識を無くしていたときは、不安で、呼吸するのも苦しかったが。なにかが詰まっていたように感じた肺は、千夜が峠を越え、安堵したからか。今は、すっきりとした空気を、胸いっぱいに吸い込めた。

「紫輝様、少しは休めましたか?」
 背後から、大和が声をかけてきた。
 この家に入ってから、大和は、千夜の部屋の前で控えていたのだ。
 紫輝も千夜のことで頭がいっぱいで、大和を放置していたから。あまり気遣えなくて、申し訳ない。

「うん。少しだけど、眠りが深かったから、疲れは取れたよ。大和、余裕なくて構えなくて、ごめんな?」
「お気遣いなく。俺はやるべきことを成すだけですから」
「やるべきこと?」
「貴方の護衛です。あと、貴方が快適に過ごせるよう、手配すること」
 大和は紫輝の肩に、毛織物を羽織らせた。紫輝が一瞬、寝たときにかけられていたのと、同じものだ。

「そろそろ、朝方は冷えますから」
「ありがとう、大和。もう十月だもんな」
 今いる場所からは、河口湖をはさんで、富士山が望める。
 重苦しい夜は過ぎ。
 朝焼けで、富士山が紅色に染まっていた。美しいな。
 美しい景色を美しいと思えるのは、当たり前なこと。でも、千夜が命を取りとめたからこそ、思えることだから。とてもありがたいことだ。

 前線基地は、背後が、すぐ富士山という場所だった。
 山頂は見えるが、とにかく近すぎて。覆い被さるような圧迫感があったが。

 ここからは、富士の全景が、バランスの良い感じで見渡せる。
 やはり、富士を見るならば、これくらい距離を置いた方が。山頂から裾野にかけての美しいラインが見えて、良いと思う。うん。

「大和は、ちゃんと寝れた? つか、護衛とか言って、いつ寝てんの?」
「貴方が寝ているとき、適度に寝ています。それに、一週間ぐらいなら、寝ないでも平気です。寝たら死ぬという環境で鍛えましたから」
「それは駄目だよ。睡眠、大切。天誠に無茶言われてんの? 俺が注意してやろうか?」
「やめてください。そちらの方が命の危機を感じます」

 ぶぶぶ、と激しく首を横に振るので。
 おかしくなって、紫輝は笑った。笑う気持ちになれた。

「なんか、静かだね」
 前線基地のある樹海から、河口湖までは、馬で一時間ほどの距離だ。
 ここまで離れると、戦の喧騒は感じない。
 見回りの兵も、手裏の領地と接する山間を警備しているので、この辺には現れない。

 ここはもう、将堂の領地。
 昨日まで、手裏と激戦を繰り広げていた、殺伐としたあの地から。遠く離れた、平穏な場所。
 なんか、不思議な感覚だ。
 遠くと言っても、紫輝の感覚では県内だ。なのに、戦の気配を感じないのだから。

「戦闘が行われているのは、領地境りょうちざかいの、あの場所だけです。兵士でない村人は、戦と関係なく畑や商いをして、のんびり暮らしていますよ?」

 紫輝は、この世界に来てすぐ、軍に入ったから。兵士以外の他の人が、どんな暮らしをしているのか知らない。
 野際の家族は、農業をしていると言っていた。
 当たり前だけど、食べ物や衣服や、いろいろなものを作って、商売して、みんな生活をしているのだな。
 いつの時代も、基本は同じだ。

「望月の様子、どう?」
 あくびをしながら玄関から出てきたのは、美濃だった。
 ゆったりした足取りで、紫輝の隣に並び、聞いてくる。

「はい。意識を取り戻しました。峠を越えたって、井上先生が…」
 喜び勇んで、紫輝は報告したが。
 美濃は、ふーん、と。気のない返事をする。
 薄茶の長い髪を、気だるげに、手でわしゃわしゃかき回した。

「俺さ、護衛要員で、君たちについてきたわけなんだけど。なんつぅか、敵陣にいるような居心地の悪さがあるっていうか?」
 寝起きで乱れた髪を整えるため、結んでいた髪をほどき、手ぐしをしてから、器用に三つ編みしている。
 でも、彼の話が、紫輝はよくわからなくて。小首を傾げた。

「敵陣? 俺たち、将堂の兵士ですよ?」
「じゃなくて。派閥っていうか、さ」
「派閥…俺は右軍ですけど。美濃様もそうですよね?」
 美濃は紫輝の言葉に、あっ、とつぶやいて。それだ、と紫輝を指差す。

「それ、美濃様とか、固い言い回ししてるから、疎外感があるんだよ。俺のことは、幸直って呼べ。俺もおまえを、紫輝と呼ぶ」
「ええぇ、上官を呼び捨てにすると、廣伊に怒られるんだけど。でも、仲間外れみたいで、嫌ってこと?」
 美濃は寝ぼけていたかのようだった目を、カッと見開き、手を打った。

「あぁ、そうだ。おおいに不本意だが、まさしくそれだ。で、紫輝と話すべきだと思ったわけ」
「なんで俺? ここで一番偉いのは、月光さんなのに」
「ここにいる奴らはさ。みんな紫輝でつながってるよ。月光だって、望月が君の友達だから、ここを貸す気になったんだろ? 普通、幹部が一般兵に。緊急といっても、屋敷を貸すなんて話にはならないものだよ」

 月光は紫輝の父だから。息子のピンチに、手を貸してくれたわけだが。
 そんなことは言えないので…。
 とぼけるしかないっ。

「それ、井上先生にも言われたけど。俺は、月光さんの厚意に甘えさせてもらっただけですよ?」
「そういう表向きの話は良いから。とにかく、紫輝に受け入れられなきゃ、居心地が悪いんだよ、ここは」
「受け入れてますよ。話もこうして、してるでしょう?」

 そう言いつつも。紫輝は実際、美濃を警戒していた。
 己の素性を快く思わないのは、将堂の血族の者だと、月光や赤穂から聞いている。
 彼の苗字は、美濃だが。
 赤穂の遠縁であるから、彼も将堂なのだ。
 敵かもしれないじゃないか。
 仲良くなって、大事な秘密がバレてしまったら、ヤバいじゃないか。
 そう思って、心の距離を取っていたのだ。

「いやいや、君からは、こう…壁を感じるよ。こういうの、俺、鼻が利くんだ」
 鼻の頭を、人差し指で撫で。ウィンクする美濃を、するどいと思い。
 そして美形アピールがはなはだしい、とも思い。
 紫輝は、ため息をついた。

「なんでなんだよぉ? 廣伊に馴れ馴れしくしたから、嫉妬した?」
「んー、それはあるかも」
 彼が提示した質問に、紫輝は乗った。
 それは、厳密に言えば、正解ではない。
 でも千夜は、そんな心持ちで怒っていたから。自分にも、当てはめていいんじゃね?
 実際、千夜が不快なことは。自分も不快だ。嘘じゃない。

「でも、それは仕方がない。俺は十五歳のときに初陣したんだが、そのときの指南役が、廣伊だった。かれこれ七年の付き合いになる。ちょっとした家族みたいなもんだ」
 ファミリー、という感じで、美濃は手を広げた。
 彼の仕草が、いちいちうざい。
 でも、そのときに羽も広げたので、紫輝はそこに驚いた。

「わ、すげぇ柄」
 美濃の翼は、羽先が膝裏近くまである、大きな翼だ。
 でもフラミンゴの月光の桃色や、赤穂のワンポイントのあるものに比べると。濃い茶色だから、それほど目を引く翼ではない。
 だが内側は、白と茶が規則的に並ぶ、ボーダー柄みたいな感じで、すごい派手派手しかった。
 整ったスイートマスクの派手さに、合っている。

「ん? だろ。クマタカ血脈だぞ。この翼が自慢なんだ。カッコイイだろ?」
 ガキ大将が、悪戯を報告しているような、得意げな顔で。美濃は、翼の柄を見せつけてくる。

 うざいの、そういうところだぞっ。

「…幸直、は。美濃だけど、将堂の人なんでしょう? 将堂本家はイヌワシだけど、オオワシやクマタカや、猛禽類を集めているのか?」
「うーん。紫輝は、上層部の話には疎いのか? まぁまぁ有名な話なんだが」
 幸直は目を丸くして、紫輝をみつめる。
 くっきりとした、アーモンドアイ。少し垂れ気味の、色っぽい目元。
 彼は、全くそんな気はなさそうだが。ジッと見られると、誘惑されているような気になる。

 魅力の垂れ流しである。

「見目が美しい者に、人は惹かれるものなんだ。第一印象って大事だろう? 政治的に、とか。領地で多くの民の支持を集めるとか。そういうのには、有効だ。さらに、羽の大きさは、畏怖を集める。よって将堂は、人心を掌握するために、美しく、強い血脈をそばに置く。そういうことじゃねぇ?」

 確かに、幸直は翼が大きく、薄茶の髪も艶やかで。
 顔も、誰もが好みそうな、わかりやすい美形。
 堺ほどではないが、長身で、スレンダーな体格。外見に自信があるから、態度も堂々としているのだろう。

「でも、俺はバカバカしいと思ってる。血脈を守るために、クマタカの女と結婚したけど。性格きついし。顔も、美人だが、好みじゃない。俺は可愛い系が好きなのにぃ…」

 いくらなんでも、ぶっちゃけすぎだろう、と。紫輝は、にがい物をのんだみたいな顔をした。
 幸直は正直すぎるから、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、と。顔にも言葉にも、出てしまう性質のようだ。

「奥さんけなしちゃ、ダメだろ? つか、幸直、結婚してるんだ? まだ若いのに」
 幸直は二十二歳、千夜と同じ年だ。
 紫輝の感覚では、その年で結婚は、早い方なのだが。

「なに言ってんだ? 十代で結婚するのは当たり前だぞ。戦争してんだから、バンバン子供産んで、人口増やさなきゃ。それが名家の使命だ。…とはいえ。相性の合わない相手との政略結婚は、正直しんどい。旦那が半年、戦場にいても、手紙ひとつ書かない女だぞ? 無理無理」

 それは、お互いに、歩み寄っていないということだろうな? と、紫輝は思う。
 みんながみんな、赤穂と月光のような、波乱万丈、紆余曲折、それでも好きぃ。みたいな強火恋愛はしていないものだ。
 つか、冷え冷えである。

「あぁ、どっちもどっちなんだな。そうかぁ、じゃあ、幸直は。若くて結婚したから、恋してないんだ?」
「恋や愛なんておとぎ話だろ。紫輝は、そんなの信じちゃってんのか?」
 からかう感じで言われ、ムッとするが。
 信じるもなにも、自分が今、恋愛真っただ中だし。
 赤穂たちや、千夜たちのラブも、ドラマチックじゃん? 言わないけど。

「みんな、恋は良いって言ってるよ。でも、そっかぁ。幸直は恋を知らないんだぁ。奥さんには誠実であってほしいけど。ここでは重婚していいんだから。まだ恋はできんじゃね?」
「じゅーこん?」

 やべっ、久しぶりに引っかかった。カタカナ語以外でも、今はない言葉があるんだよな?
「ん、えっと。養えるなら複数人と結婚して、いいんだろ?」
「あぁ。ええぇ、でも。奥さん持て余してんのに、他と付き合う気になんかならねぇ。どうせ、家か金目当てしかいないだろうし。つか。恋なんか、ねぇから」
 カラカラと笑って断言する幸直に、紫輝は忍び笑いしながら言ってやった。

「そういう人に限って、大恋愛しちゃったりするんだよねぇ」

 すると、幸直はグッと、なにかが喉に詰まったような顔をした。
 あれ? 心当たりあるんじゃね?

「とにかく。結婚するなら、紫輝は相手を慎重に選んだ方がいいぞ」
「選ぶもなにも、俺は龍鬼だよ」
 まぁ、龍鬼だけど。
 すでに結婚もどきはしているし。
 スパダリゲットしてるんで、お気遣いなく。

「あぁ、そうか。なんか紫輝って、話しやすいから、つい、龍鬼っての忘れる」
 失言した、と。幸直は、あからさまに顔をしかめた。
 そんなところが、飾っていない、彼の性格のあらわれのような気がして。
 ここまでの話から。紫輝は幸直が、気性が真っ直ぐで素直で正直な男なのだ、ということを理解した。
 あ、名前にも直が入ってる。わかりやすいね。

「はは、幸直って、幹部っぽくないな。仲良くなれそうだ」
「本当か? よっし、これで仲間外れ、回避だな?」

 そんなふうに、喜ぶほどのことでもないのに。と、紫輝は苦笑する。
 幸直に対し、少し、警戒をゆるめてもいいかもしれない。
 素性は、誰にも知られてはならないから。そこはきっちり、ガードするとしても。
 必要以上に、彼を遠ざけることはしないようにしよう。
 なんか、可哀想だからな。

「でも、千夜が回復したら、すぐに関東に戻るし。そんなに幸直と慣れ合う時間はないかもな?」
「…それは、どうかな」
「なに? 千夜が治らないって言いたいのか?」

 療養期間が短ければ、それに越したことはないし。紫輝は千夜に、早く元気になってもらいたい。
 その気持ちに水を差されたような気になって。紫輝は目を吊り上げて、幸直を睨んだ。

「怖いな。そんな赤穂様みたいな眼力で、睨むなよ。医療的な面は、井上医師任せだと思うが。武人としての誇りを持つ者が、この状況を受け入れられるのかなって、単純に思っただけさ」
「そりゃ、片腕がなくなったら、誰だって落ち込むし、傷つくし。でも千夜は強いから。大丈夫だよ。絶対に乗り越えてくれるはずだ」
「わかってないな。強いから、なんだが。まぁ…そうだね。乗り越えてくれるといいな」

 幸直は、良くも悪くも、正直者だった。
 そうだね、と。紫輝に同意する言葉を返しても。
 顔つきは、逆を語っている。

 目を伏せ、視線を合わせない幸直に。紫輝はそれ以上、反論しなかった。
 意味深に言う彼のせいで、胸騒ぎを覚えるが。
 大丈夫、と。自分に言い聞かせるしかない。

     ★★★★★

 月光の屋敷に滞在して、一週間が過ぎた。
 何回か、千夜は高い熱を出したが。
 感染による重篤なものではなく、体は日に日に回復しているように見えた。
 布団の上で体を起こせるようになった千夜を、紫輝はさすがだと思うが。
 失くした片腕を、左手でさする千夜の顔色は。青白く。
 幸直が危惧したように、心までは治っていないのだと感じた。

 廣伊は、千夜のそばに、武器を置かないよう徹底していた。
 それを陰から見て。
 紫輝は。千夜がかなり追い込まれているのを察して、とても不安になる。

 千夜は、紫輝の言葉に反応を返さないし。
 そうすると、なにを言っていいのか、なにを言ってはいけないのか、わからなくて。紫輝も、無口になってしまう。
 でも、千夜をひとりにしておけない、そのことだけは、肌でひしひしと感じていた。

 夕食は、月光や大和がいつも作ってくれる。
 ありがとうございます、助かります。
 こちらの世界では、ガスコンロなんかないから、火の扱いが難しくて。
 紫輝は、食事や皿を運ぶくらいしかできない。
 軍に入ってから、塩むすびと漬物しか食べていなかったが。
 ここでは、卵焼きとか、みそ汁とか、肉とか出てくるのだ(大興奮!)干し肉じゃないやつ。すっげぇ。

「紫輝、どれが美味しい?」
 月光の問いかけに、紫輝は即座に声を上げる。
「卵焼き、大好きなんです」
「そうか。遠慮しないで、いっぱい食べてね」

 前に、鮭おにぎりを食べて、テンション上がった紫輝を。月光は覚えていて。美味しいものをぞくぞくと与えているのだ。
 息子の心を、胃袋で懐柔する、的な。
 そのためなら、金に糸目はつけない。
 ふむふむ、卵焼きは、毎日出してやろう。と、月光は思う。

 廣伊と幸直が、千夜の部屋で食事をとり。
 紫輝と月光と大和と井上は、別室で食べていた。
 夕食を終え、廣伊が三人分の食器を片付けに、台所へやってきた。
 廣伊と月光が洗い物をしている間、紫輝が千夜の部屋に入る。いつもそういう流れだった。

 千夜は、左手も利き手と同じく使えるよう、元々、鍛えていた。だから、器用に箸を使って食べる。
 でも食は、やはり細くなって。少しやせた。
 紫輝の背中を力強く叩いて、軽口を言い、仲間を鼓舞して、戦場を駆けた。あの千夜の姿は、今は見られない。
 無言で、布団の中、体を横たえている。
 起きているのだろうが、紫輝に背中を向けている。

 なんでか、千夜は。紫輝を見てもくれないし、話してもくれない。
 拒絶、を感じて。悲しくなる。

「そろそろ、膿を出す頃合いだ。紫輝、廣伊を呼んで来い」
 部屋の隅に座っていた紫輝の元に、幸直がやってきて。紫輝にだけ聞こえるように、こっそり囁いた。

「膿? 傷口が悪化しているなら、井上先生の方が…」
「いや、廣伊だ。手間取ったら、望月は命を落とす」
 幸直は普段、自信ありげな笑みを浮かべている。でも今は、真剣な表情だった。
 どこか、戦場に立つ戦士のような、緊張感のある顔つき。

 井上は、命の危機は脱したと言い、鎮痛薬も徐々に減らしてきているところだ。
 だから、幸直の言葉には、矛盾がある。

 でも、すごく嫌な予感しかしなかった。
 紫輝は床板から立ち上がり、ふすまを開けて部屋を出た。
 廊下には大和がいて。紫輝にたずねる。

「どうかしましたか? 顔色が悪い」
「わからない。…わからない」
 なにか言おうと思うのだが。幸直の言葉も、自分の今の心境も、大和に説明できなくて。
 とにかく廣伊を呼ぶため、早足で廊下を進んだ。

 台所に行くと、紫輝はすぐさま声をかけた。
「廣伊、幸直が、変なこと言ってる。膿を出すって。手間取ったら、千夜が命を落とすって」
 なんのことだか、紫輝にはわからなかった。
 でも廣伊は、理解したようで。
 持っていた茶碗を投げ出し、千夜の部屋に走って向かった。

 尋常じゃない様子を感じ、みんなで顔を見合わせて、廣伊の跡を追う。
 廣伊が千夜の部屋のふすまを開け放つと。

 そこには、幸直の剣を奪い、自分に突き立てようとしている、千夜がいた。

「千夜っ…」
 すかさず、廣伊は己の剣を抜き放ち、千夜の手から剣を弾き飛ばした。
 本調子なら、手こずっただろうが。
 千夜は利き腕ではなく。病床に長くいて、体がなまっていたから。案外、簡単に剣を取り落してしまった。
 紫輝は落ちた剣を素早く回収し。背中に隠す。

「なに? なんでこんなことになってんの? 幸直っ」
 剣を奪われた幸直を、紫輝は責めた。
 だが、それに千夜が反論する。

「紫輝、騒ぐんじゃねぇ。俺が頼んだんだ。美濃様は悪くない」
 悪くないわけないと、紫輝は憤るが。
 たっぷりした青髪を振り乱し、千夜が苦しげに言葉を吐きだすから。なにも言えなくなる。

「こんなっ、片腕になってまで…生きてる価値は、俺にはねぇ。戦えなきゃ、戦場に立てなきゃ、生きる意味ねぇ」
「なに言ってんだよ。生きてさえいれば…。せっかく命が助かったのにっ。どうして命をないがしろにするんだ?」
「こんな体じゃ、俺はもう、将堂にはいられないんだよっ」

 青白い顔を、さらに苦悩に歪ませて。絶望している千夜に。
 紫輝は、なにか言いたかった。
 なんとか、励ましたかった。
 安易に死を選ぼうとした千夜を、怒ってやりたかった。

 でも、死を選ぶほどに追い詰められたのだから、決して安易な考えではないのだ。

 つらい現状を、ともに悲しみたい。
 だけど。一番身近な友達が、こんなにも苦しんでいる、その状況が重すぎて。
 不用意な言葉をかけられず。
 言葉が、喉の奥に詰まって、出てこない。

「契約違反だぞ、千夜」
 誰もが、無言で立ち尽くす中。廣伊が、剣を鞘におさめながら、言った。

「私を殺すまで、おまえは死なない。そういう約束だったはずだ」
「…それは」
「死にたければ、まず私を殺せ。それが決まりだ」
「そんな、こと…」
 紺色の甚平を着た千夜は、力を失い、布団の上に膝をつく。
 動揺しているのか、布団に手をつく、その左手は。小刻みに震えていた。

「おまえは、言ったな? 私はおまえの獲物だと。いつも私をつけ狙い。そして私の背後に、いつも控えていた。おまえほど、私のそばにいた男はいない。何度も、殺す機会はあっただろうが。それを見逃してきたのは、おまえの落ち度だ。今、ここで死にたいのなら。構わないぞ。私を殺したあとでならな」
 そう言い、廣伊は懐から短剣を出した。
 千夜の目の前に、剣を放ると。布団に埋もれて、音もなく落ちた。

「や…」
 やめろ、と。紫輝は言おうとした。
 激昂する千夜を、これ以上興奮させないでくれ。
 売り言葉に買い言葉で、廣伊が危険になるのも嫌だ。そんな気持ちだった。

 しかし、言葉は。幸直の手の中に消える。
 幸直が手のひらで、紫輝の口を覆って黙らせ。そのまま部屋から出されて…。

 静かに、月光と大和も部屋を出てきた。
 紫輝は、廊下で幸直と対峙する。

「あんた、さっきからなんなんだ? 千夜に剣を渡すし、ふたりとも冷静じゃないのに、部屋から出て…っ」
 シリアスな空気が流れているので、紫輝は、幸直に囁き声で、食ってかかった。
 どうにも腹の虫がおさまらない。
 自分の大事なふたりの友達を、危険にさらしたのだ。

 でも幸直は。そんな紫輝に、存外優しい声を出し。悲しい目で、みつめた。
「心にたまった膿は、出し切らないと駄目なんだよ。爆発した傷口からは、苦痛や、恨みや、嘆きが、あふれ出すだろう。それを望月から出してやれるのは、廣伊しかいない」

 彼に言われ、紫輝は押し黙る。
 確かに、自分は。なにひとつ、声をかけてあげられなかった。
 千夜の心の泥沼にはまる資格は、ないんだろうな。と。紫輝は、天誠のことを考えながら、思うのだ。

 八年間、紫輝と離れていた間に。弟の天誠は、狂気に沈んだ。
 生きて紫輝に会うためなら、なんでもやった。
 翼を奪い取り。将堂を追い詰めて。
 自分の手は血まみれだと、彼は言ったのだ。
 そして、二度と自分をひとりにするなと、紫輝に懇願した。

 孤独の泥沼に堕とされた、天誠を。引き上げることができたのは。彼がひたすらに求め続けた、紫輝だけだった。
 傷つき切った弟を。愛する人を。紫輝は、なにも言わずに包容する。
 抱き締めて、慰める。
 彼のすべてを、認め、理解して、のみこむのだ。
 でも、彼の悲壮な感情、歪んだ愛情、重い熱情を受け止めるのは、相当の覚悟が必要だった。

 相手の闇に、自分も堕ちる覚悟だ。

 千夜の、その相手は。自分ではない。
 廣伊なのだ。

 廣伊が千夜の膿を出す。
 その幸直の言葉に、納得し。紫輝たちは、廊下で彼らを見守ることにした。

     ★★★★★

「千夜、来い」
 布団のかたわらに膝をついた、廣伊は。いつもの無表情で、そっと左右の腕を開く。
 千夜は。投げられた、布団の上の短剣を拾うが。
 手の震えが止まらない。
 自分が刃を向ければ。殺意を飛ばせば。廣伊は剣を抜く。
 そう思ったのに。防御の剣を、廣伊は抜かない。己の短剣を受け止めようとしているのか?
 暗殺の、絶好の機会。
 左手一本だって、やれる。

 馬鹿な。

 千夜は、ギラリと目を光らせて、廣伊の胸の中に倒れ込んだ。
 廊下で、紫輝の息をのむ気配がした。馬鹿だな。

「やれるわけ、ない。ずっと、そばにいた。あんたの背中を見てきた。あんたを…守っていたかった」
「…あぁ」
 千夜の言葉に、廣伊はうなずく。
 刃先は、上を向いて。彼に、到達しなかった。

「守って、いたかった。っでも。もう、できない。こんな腕じゃあ…」
 泣きたいけれど、涙は出なくて。
 でも声は、嗚咽に震えた。

「あんたを殺して、名をあげようと思った。でも、あんたは鬼強くて…っ。あんたの命を狙う俺を、馬鹿みたいに守ろうとしやがって。死ぬな、なんて。…俺は、あんたより強くなれなかったけど。でも、あんたを狙う他のやつらよりは強かったから。薄鈍うすのろの刺客からあんたを守って、戦場でも守って。やがて、あんたを守ることが、俺の誇りになっていた」

 頭を廣伊の胸に預けたまま、千夜は手の中の刃物を捨て。彼の襟元を握り込む。
 そして言葉を絞り出した。

「でも、もう。あんたを、守れない。俺は…俺の誇りに殉じたい。ここで、死なせてくれ」
 千夜の悲痛な言葉の数々に、廣伊は眉間を歪める。
 刺されていなくても、胸が痛い。
 刃物などよりも、千夜の嘆きの方が、身を傷つける。

 なぜに、こんなにも痛いのか。なにがそんなにも痛いのか。

 廣伊は初めて体感したのだ。心が痛いという現象を。
「私は、当初の契約を優先する。私を殺すまで、おまえは死なない。約束したろう」
「…できないって」
「約束、しただろうがっ!」

 ひずんだ声の、せつなげな廣伊の叫びに。千夜は驚いて、顔を上げた。
 兵士を鼓舞するために、大声を出すことはあっても。これほど取り乱した声など、千夜だって聞いたことがない。

「おまえが、こんな選択をするなんて、信じられない。おまえは、馬鹿がつくくらい、明るくて。頼もしくて。でも私の前では意地悪で。傲慢で。上官の私を、舐めくさって…。何度も私に向かってくる、不屈で、猛々しい男だった。なのに、腕がないくらいで…命が、命が助かったのに。腕がないくらいで…」

 胸倉を掴み、千夜の間近にある。廣伊の顔。
 緑の瞳が潤んで、頬に涙が伝った。

 まさか。廣伊が泣くなんて。

 体を合わせたときに、激しくし過ぎて。目を潤ませる、生理的な涙は、たまに見たが。
 感情を震わせて泣くところを見たのは、千夜は初めてだった。
 そもそも、能面顔が日常的な廣伊が、ここまで表情を出すことなんかなかったのに。

「…なんで、濡れてんだ?」
 頬を伝った涙が、顎からしたたり落ちて。胸倉を掴んでいる、廣伊の手を濡らしている。
 それを、廣伊は不思議そうに見やった。

 なんでって…。

「廣伊が、泣いてる…から」
 自分が泣いていることを、廣伊は気づいていないようだった。
 驚いて、目を丸くし。頬を赤く染める。
 それでも。涙は、とめどなく流れ落ちていた。
 そんな…今まで見せたことのない表情を、次々と出してくるなんて。

 最後の、ご褒美だろうか。

「せ、責任取れよ、おまえ。私は、泣いたことなど、物心ついてから一度もないんだ。蔵に閉じ込められていたときも、両親が死んだと聞かされたときも、村人に袋叩きにされたときも、泣いたりしなかった。おまえがっ、おまえがっ!! 胸が痛くなるようなことばかり言うからっ。なんだ? なんなんだよ、これはっ?」

 胸が痛いと言って、泣く廣伊は。まるで、子供が駄々をこねているみたいで。
 その可愛らしさに、千夜は動揺して、困ってしまう。
 廣伊の、初めての涙まで。もらってしまった。

「…廣伊」
「死ぬなんて、勝手に死ぬなんて、私は許さないぞ」

 涙をそのままに、廣伊は、親の仇かと思うほどの苛烈な視線で、千夜を睨みつけ。奥歯を噛んだ。
「大体、貴様はっ。身勝手で。私のことなど。私の望みなど。聞きもしなかった。望みを叶えるって約束だったろうがっ。契約を果たしやがれ、クソ死神がっ。命、狙うだけ狙って、やり逃げなんて、認めないからなっ!」

 千夜は。かすかに笑んだ。
 そうだ。廣伊の言い分は正しい。
 自分ばかりが、契約という、都合のいい口約束の上に、胡坐をかいて。廣伊に甘えて。暗殺者である己の誇りを、廣伊を標的にすることで、守ろうとしていた。

 なら、彼の命を狙った分、彼の望みを叶えないとならないな?
 そう、ストンと、腑に落ちた。
「そうだな…あんたの望みを叶えないと。なにが、望みだ?」

「愛して、ほしい」

 息が、止まった。
 涙目の廣伊に。上目遣いで、そんなことを言われたら。
 剣で一突きする前に、廣伊の言葉で殺されそうだ。

「龍鬼の私など、誰も愛してくれないが。私を抱いた、おまえなら…」
 自信なさそうに、語尾が小さくなる。
 廣伊の口から、そんな悲しい言葉を聞きたくなくて。千夜は言葉をかぶせた。

「とっくに、愛してる」
「え? じゃ…契約じゃなくて、抱いてほしい」
「愛しているから、抱いていた。契約なんかじゃない」
 その望みは叶えられている、だから退けられているのだと思い。廣伊は、不安に瞳を揺らしながら、己の望みを脳裏に描く。

 千夜は、そういうつもりではなかったのだが。
 龍鬼として、過酷な人生を歩み。ゆえに、なにも望まないようにして生きてきた、廣伊が。望みを口にするのが、微笑ましくて。
 もっと聞きたくて。
 あえて訂正しなかった。

「私を、ひとりにするな。し、死ぬな。死ぬまで…私が死ぬまで、私を愛し続けろ」
「愛してる。愛し続けるに、決まってんだろ。あんたの望みを、なんでも叶えてやるよ」

 彼の涙を拭ってやりたくて、無意識に利き腕を動かそうとした。
 けれど、できなくて。
 千夜は思い出したように、左手を動かして、廣伊の頬をそっと撫でる。

 自分はずっと、愛していた。
 でも、廣伊の気持ちは、わからなかった。
 ただ、千夜を生かすために、契約を承諾し。体に手を伸ばされることなど、たいしたことではない。というふうに見えた、始まりだったから。

 でも。実はずっと。互いに、求め合っていたのだろうか?
 彼を、抱き締めたかった。
 愛してると伝えたいし、愛されていると感じたい。なのに。

「あぁ、この腕…こんなときに、あんたを抱き締められないなんて…」

 腕がなくなってから、初めて。千夜は涙をこぼした。
 あとから、あとから。ボロボロと流れ出る涙を、止められなくて。
 千夜は廣伊の肩に、顔を埋める。

 己が抱き締められない代わりに、廣伊が力強く、千夜の頭を抱え込んだ。
「死ぬな、千夜。私を置いて、死ぬな」
「あんたが、あんな顔で泣くって知ったら。あんたを残して、もう、死ねるもんか」

 廣伊が泣かないで済むのなら。暗殺者としての誇りも。気がおかしくなりそうなほど、断続的に続く痛みも。噛み砕いて、のみ込んでみせる。

 このとき千夜は、ほの暗い覚悟を決めていた。
 地に這いつくばってでも生き残る、覚悟を。

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