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番外 組長補佐、望月千夜 ▲
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◆組長補佐、望月千夜
痛い、熱い、苦しい。
千夜は、今まで経験したことのない苦痛に、のたうち回っていた。
実際には、強力な薬によって、体が動いているわけではなかったが。
脳内で、苦しみに、のまれていたのだ。
ふいに、意識が浮上して、目を開ける。
廣伊がいたような気がして。笑いかけたが。
なにかを話しただろうか?
またすぐに、泥沼のような痛苦にのまれて。
あぁ、あの緑色。なんだっけ。
そうだ。俺の獲物。
俺の。戦場で会った、緑の、可愛い子。どこへ行った?
取りとめもなく、千夜は過去にさかのぼっていった。
★★★★★
千夜は、オオルリ血脈の父親と、カモメ血脈の母親との間に生まれた。
母が、父の容姿や翼の美しさに、一目惚れをし。猛アタックして。
父も、母の大きな翼や、おおらかな性格に惚れ込み。とんとん拍子に話が進んで、結婚したという。
愛にあふれた夫婦から生まれた千夜は。母の大きな翼に、父の光沢のある瑠璃色が乗る、良いとこ取りの、見目の美しい赤ん坊だった。
純血種ではないが。希少種ではないかと思われる、非常に稀有な翼を持っていた千夜は。美しい、珍しい、うらやましい、と言われ、育ったのだが。
それは、千夜にとっては、誉め言葉ではなかった。
なぜなら。母方の家系が。暗殺を生業としていたからだ。
母は、己の家が暗殺稼業であることは、知らなかった。
非力な女性であり、長身で、運動神経があまりよろしくなかったので。
家長であり、優秀な暗殺者であった祖父は、母を後継にするのは、早々にあきらめたのだった。
自分の代で、暗殺稼業は終了する。そう思っていたから、祖父は、母にそのことを教えなかった。
だから、母は心のままに、オオルリの父を愛し。千夜を産んだ。
見た目が派手な孫を見て、祖父は眉をひそめたらしい。
暗殺者には向かない、孫の容姿を見て。本格的に、廃業を覚悟したのだろう。
千夜が五歳のとき、父と母が流行り病で亡くなり。千夜は、母方の祖父に引き取られ、望月の姓を名乗ることになった。
そこで、初めて。
千夜は祖父が、暗殺者であることを知ったのだ。
千夜の祖父は、手裏の依頼を受け、将堂の幹部を何人も殺した、実績のある暗殺者だった。
年老いて一線を引き。母は、家業を知らずに育ち。祖父以外の一族の者は、すでに亡き者となっていたので。腕のある暗殺一族は、この世からなくなろうとしていたのだった。
しかし、娘が早逝し。忘れ形見を引き受けることになって。
祖父は。暗殺一族、望月家復興の、最後の機会だと思ったのかもしれない。
己の暗殺技術のすべてを、千夜に伝授する気になったのだ。
だが、見た目が派手なので。暗殺者としても、隠密としても、通用しないだろう。
そんなふうに、祖父は千夜の前で言って。ため息をつく。
芽は出ないかもしれないが、一族がこれまで培ってきた技術を、廃れさせないために。
暗殺者としての、体の鍛え方や技能。己が経験してきた、あらゆる状況での対処の仕方。心の持ちようなど。とにかく、孫に教え込んでいく。
千夜は、祖父に期待されていないことを、肌で感じると。悲しい気持ちと、悔しい気持ちで、心がぐちゃぐちゃになった。
それでも、祖父に見放されたくないから。必死に能力を磨いていく。
唯一の肉親に、よくやったなと褒めてもらいたい。
暗殺者として大成すれば、祖父は喜んでくれる。そんな想いがあった。
光沢のある瑠璃色の大翼を持つので、隠れることは難しかったが。一撃確殺の力量を宿す、健康で頑健な体格に恵まれて。手先も器用だったので、小刀や隠し武器の扱いもうまかった。
特に、剣や刀の対戦形式では、かつて一流の暗殺者であった祖父と、互角に渡り合えるほどに、能力値が高かった。
なので祖父は、隠れて討つのではなく、堂々と渡り合って敵を討てるよう、千夜を仕込んだのだった。
祖父が千夜に、暗殺者としての及第点を出したのは、彼が十歳になった頃だった。
「基本はすべて伝えた。あとは己の才覚で腕を磨いていけばいい。できるなら、暗殺者として大成し、望月一族の誇りを守ってほしい」
そう言って、隠居生活に入ったのだった。
その頃と同じくして『隣村から龍鬼が出た』という騒ぎが起きて。
千夜は、祖父とともに、その騒動を見物しに行った。
二重、三重と人垣ができる中、将堂軍の兵が、ある家から箱を運び出している。
「納屋から、一歩も出たことがないんだって? 屋敷の使用人も、龍鬼なんて見たことがなかったらしいよ」
「怖いわぁ、こんな近くに龍鬼が出たなんて。この家もおしまいね」
村人は、見物しながら、そんなことをひそひそと話している。
「あの箱に入っているのかしら?」
「力を出す気にもならないほど、袋叩きにしてから、箱に詰めるんだって。道中、暴れないように」
胸糞悪い話だと、千夜は幼いながら思った。
とてもじゃないが、人が入れるような大きさの箱じゃない。
子供ならかろうじて? くらいの。
でも、そのあと屋敷から、龍鬼らしき人物が出てくることはなかったのだ。
まさか、本当に、あの箱の中に?
十歳の自分でも、あの箱の中には入れないだろうに。
結局、龍鬼の姿は、ひと目も見られなかったが。
箱が運び出された屋敷の表札に『高槻』と書いてあったのを、千夜は見た。
「千夜。おまえが、あの龍鬼を殺しなさい」
帰り道で、祖父が千夜に告げた。
「龍鬼を殺せば、暗殺者として名があがる。その首を持って、手裏に行けば。また仕事を依頼されるようになるだろう。暗殺一族、望月家の当主、望月千夜は。随一の暗殺者である。そう、世に広めてくれ」
そのときの祖父の言葉は、鎖が巻きつくかのように、重く、苦しく、千夜を長い年月、さいなむものとなった。
祖父の伝手で、数人の暗殺を遂行し。千夜は暗殺者としての経験を積んでいったが。
千夜が十四歳のとき、祖父が亡くなり。
それを機に、将堂に入軍した。
特に、誰に頼まれたわけでもなく。手裏軍の密偵だったわけでもない。
ただ、あの龍鬼を殺せと言った、祖父の言葉が。千夜の胸に、ずっと残っていただけだ。
将堂に入れば、高槻という苗字の龍鬼のことは、すぐに知れた。
花龍、高槻廣伊という名前らしい。
左筆頭参謀のお気に入りだと聞き、千夜は左軍への配属を希望した。
千夜は、瑠璃色の美しい大翼を持っていたので、希少種とみなされ。意外と簡単に、左への配属が決まった。
心の内では『純血種でもないのに。調べることもしないなんて、将堂って案外ちょろいな』なんて思って。馬鹿にしていた。
左軍は家系が良く、上品で賢い者の集まりだ、などとうそぶいているが。
自己申告でどうにでもなるようなものなら、血脈なんて、やっぱり大したものじゃない。
瑠璃の大翼が、初めて役に立った。と、千夜は思うが。
祖父に散々、こんな派手な翼じゃなければ…とけなされていたので。羽や色目に、好感がない。
自分も、こんな翼じゃなかったら、隠密としても活躍できたかも。なんて、思っていたので。
隠密の技能は体得したものの、宝の持ち腐れ。この翼には不利益しかない。
血脈に関しては、そんな負の感情しか浮かばなかった。
まぁ、なにはともあれ。無事に、将堂軍に潜入できた。
あとは、なんとか高槻廣伊に近づいて。暗殺を遂行するのみ。なんて思っていたのだが。
高槻が懇意にしていた左筆頭参謀が失踪したことで、高槻は右軍に移ったらしい。
嘘だろっ。
配属が決まって、まだ二週間だ。慌てて右軍に転属希望を出したが。通るわけない。
マジかっ。
左軍と右軍では、宿舎も施設も、かぶらない。
右と左は仲が悪く、右の施設を左の者が歩いたりしていると。すぐに怒られたり、因縁をつけられたりする。
逆も同様だが。
戦場でも、右が戦闘中のとき、左は政務をするなど。行動範囲がかぶらない。
これはヤバいぞ。そう思っても、しばらく左にいなければならないことに変わりはないのだった。
早く右軍に移りたい。千夜は胸のうちで泣いた。
★★★★★
一年で。千夜は、左第八大隊三十七組一班班長になっていた。
というのも。左軍は、良いところのお坊ちゃまが多く。剣技がヤバいくらい、ヨワヨワだった。
千夜は組の中で一番、剣技は優秀だった。
でも、政治なんかわからねぇ。
政治はお坊ちゃまに任せて、自分は剣技の鍛錬に力を注ぐ。
戦場でも、率先して、手強い敵を引き受けている。だって、そうでもしないと、マジで腕がなまる。
あぁ、早く右軍に移りたい。
その心の中の声が、口癖になっていた。
左軍にいては、右軍の情報はなかなか入ってこない。
そんな中で、聞こえてくる高槻の噂は。とにかく、強いということ。
将堂軍が誇る『血に飢えた鬼神』『凶戦士』『死神と友達』だなんて言う者もいた。
どんだけ強いんだろう?
千夜は、暗殺対象ながら、高槻のその強さを夢見て、わくわくしていた。
本当に、左軍の仲間が弱くて、鍛錬の相手にもならないものだから。強い相手に飢えているのだ。
敵が何人いても、速い太刀さばきで、容赦なく斬り捨てていく。
剣先からの血しぶきが舞って、花龍の周囲を彩る。
華麗なる、高槻の噂の数々。
なにそれ。早く会いたいんですけど。
手裏兵を、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、という場面を想像し。千夜は勝手に、熊男みたいに、ごっつい体格の男を想像していた。
千夜だって、一撃確殺できるほどに、力がある。
その千夜の攻撃を、ひと払いで跳ね飛ばし。ガンガンに討ち合ってもひるまない。むしろ押してくるような…それくらい骨がなきゃ、つまらない。
手強い相手を打ち負かしてこそ、随一の暗殺者と言える。
千夜は高槻を暗殺する、その日を夢想して。笑うのだった。
四月になるが、左第八大隊は、まだ戦場にいる。
本来は、春になると全軍が右に置き換わるのだが。引継ぎがうまくいかなかったのか、左の中で第八だけ、本拠地への帰還が遅れていた。
まぁ、兵士には、上層部の都合などよくわからない。
戦えと言われている間、戦うのみであった。
千夜は日頃の鬱憤を晴らすかのごとく、がむしゃらに剣を振っていた。
自分は強くなりたいのだ。こんなぬるま湯から早く抜け出たい。
命懸けで襲い掛かってくる手裏兵を相手にしても、もう千夜には物足りないのだ。
もうすぐ日が暮れる。今日の闘いも、手応えがなさ過ぎて。修練にもならなかった。
このままくすぶって、終わりたくない。
そんな焦燥感と。自分ほどの強さがある兵を、なぜいつまでも左に置いて腐らせておくのか、という憤りで。千夜は奥歯をきしらせた。
そんなとき。目の前に男がふらりと現れた。
頭から足先まである黒マントを脱ぐと。夕日に輝く、まぶしい金髪に、青水色の瞳。
そして翼がない。
「おまえ、手裏の龍鬼?」
問うが、答えなどどうでもいい。
千夜は、強敵の出現に、心を躍らせ。有無を言わせず、斬りかかった。
一撃確殺で、何人も殺してきた。
でも、さすがに龍鬼が相手ともなると。力を込めた攻撃も、跳ね返されてしまう。
「そうだ。俺は手裏軍の龍鬼、賢龍の安曇眞仲だ」
黒い手裏の軍服に、肩まで伸びた金髪が、映えていた。
珍しい色目。
インコでも、カナリアでもなさそう。
っていうか、攻撃を受けながら、余裕で自己紹介するとか、あり得ねぇ。
先ほどから、力を込めて振るっている剣が、全部いなされている。
子供を相手に指南する師匠のごとく、だ。
こっちは幼い頃から、暗殺者として鍛えてきてるってのに。
その誇りが、傷ついて。千夜は憤った。
「…なんで、翼を使わないんだ?」
人知れず怒っていた千夜に構わず、安曇がつぶやく。
思いもよらない言葉に、千夜は素で驚いた。
「は? な、なに?」
「その翼は飾りか? あぁ、飛べない鳥さんなんだな。すまない」
全く謝罪する顔ではなく、安曇は麗しく笑った。
お綺麗な顔に、嘲笑われたような気がして。頭に血が上る。
「貴様っ、俺を侮辱したのか!」
怒りのままに、千夜はがむしゃらに剣を振るった。
あぁ、暗殺者として、こういう場面では、もっと冷静でいなければならないのに。
心の鍛錬を怠ったか…と、千夜の中の冷静な部分が、駄目出しする。
だが、一度、沸騰した怒りのマグマは、そうそう鎮火しない。
正直、千夜は。翼など、戦闘中に開いたことはない。
暗殺業なら尚更。
他者にみつからず、静かに、速やかに行動するのが鉄則で。羽ばたく音や、この目立つ青色をさらすなど、愚の骨頂。
だが、今は暗殺ではない。
翼を使うことで、攻撃の手段が増える…のか?
「俺は飛べる。馬鹿にするな」
安曇が言うように、間合いを少し取ったときに、翼を動かして、前への推進力を上げた。
すると、元々、力が強い方だが。さらに剣圧が上がるような気がした。
お? すげぇ。
「そうそう、もっと動けよ。前後左右、羽アリなら上下も使って、臨機応変に攻めないと…殺しちゃうぞ」
まるで遊んでいるみたいに、安曇は、薄笑いを浮かべながら、千夜の攻撃を受けて、流している。
まるきり、子供への指南だ。
しかし、殺しちゃうぞと言って、ニヤリと笑ったとき。
本物の殺意を感じ。ぞくりと背筋がざわめく。
安曇は。いつでも自分を殺せるのだと悟った。
ではなぜ、安曇はここで、時間稼ぎのようなことをしているのか?
そう思ったとき、ハッとした。
撤退時の、矢を射掛けられる時間が、もうすぐなのでは?
だが、たかがひとり、戦場に置き去りにしたところで。安曇には、なんの利益もないな。
つか、そんなことより、もっと安曇と剣を交わしていたい。
もう少し。あと少しで、翼を使った攻撃のコツが掴めそうなんだ。
それに、骨のある剣士と戦うのも、久々だ。
もっと、楽しもうぜ。
そんなふうに、安曇との戦いに、のめり込んでいたとき。
ふいに、剣と刀の間に、別の剣が割り込んできた。
ギリギリの緊張感の中だった。
糸がプツリと切れるように、剣先が弾かれ。
千夜と安曇は、互いに後ずさる。
千夜は割って入った者を、視界の端に見た。
光沢のある緑の髪が、夕焼けにキラキラ光って、大きな目の子供? 女の子?
なんで戦場に女の子?
つか、敵の龍鬼の前に出るなんて。危ねぇじゃねぇかっ!
「余計なことすんじゃねぇ!」
この三人の中で、緑の子供は、誰よりも年上だった。
しかしそんなこと、当時の千夜は、知るわけもない。
千夜の感情としては。両親の喧嘩に子供が口をはさんできた、的な。
親猫の壮絶な争いの中に、よちよち歩きの子猫が突っ込んできた、的な。そんな印象だった。
あっぶねぇだろうがっ、と。牙をむいて、怒りたくもなる。
だからそんな言葉で、緑の子供を注意したのだが。
あっと思ったときには、もう、安曇は遥か彼方で。
緑の子は、目に止まらぬ速さで、剣の柄を千夜の腹にぶち込んだ。
気を抜いていたわけでもないのに。子供の攻撃が、なんでこんなに重く、強烈なのか?
腹をおさえて唸る、千夜の尻を、緑の子が蹴った。
「わ、なにするっ、おい、待て」
何度も蹴りを入れられ、千夜は追い立てられるニワトリの気分で、戦場を離脱させられた。
安全地帯まで下げられた千夜は、己を散々蹴り上げてくれた緑の子を振り返る。
文句と、注意を言うために。
「おい、おまえっ…」
だが、ついさっきまで、尻に蹴りを入れていたはずの子は。いなかった。姿も形もない。
「どこ行った? あの、緑の…可愛い子」
ほんの一瞬、千夜は目にしただけだった。
でも、脳裏に焼きついている。
大きな、緑色の瞳。でも凛としていて。
最初は女の子かと思ったけれど。柄を腹にぶち込んだ、あの力強さや、蹴りの強さは、女性には出ない。
いくらなんでも、千夜がいつまでも蹴られっぱなしなわけはないのだ。
なのに、安全地帯まで、彼を止めることもできずにいたのだから。
背は、己の肩より少し大きいくらい。
でも、あの頬の丸みは、子供のそれだ。
おそらく新兵だろう。龍鬼の恐ろしさも知らず、剣を割り入れたに違いない。
今度会ったら、マジで注意してやらないと。
それとも、俺がそばにいて守ってあげようか。
今まで、千夜は。強くなることにばかり心が向いていて、色恋沙汰などは、全く興味を示さなかった。
整った、精悍な顔立ちをしているし。大きくて、美しい羽を持っているので。女性にはモテたし。結婚話も、ちらほらあった。
でも、そんなことにかまけていられなかったから、全部断って。修練の邪魔だと、顔をしかめていたほどだ。
そんな千夜だったが。
あの緑の子は、なんだか気に掛かって。
またあの綺麗な瞳を見てみたいな、なんて。
初めてそんな気になったことを。千夜はしばらく気づけなかったのだった。
★★★★★
一年後。千夜は十六歳になり。ようやく右軍の転属願いが通った。
しかも、高槻廣伊が組長を務める、第五大隊二十四組。
やった。これで、高槻の暗殺が実行できる。
そうしたら、祖父が願っていたように、望月千夜は随一の暗殺者であると、世に宣言できる。
最初は。高槻の首を手裏に持っていって、などと考えていたが。
安曇と対戦したことで、あれはまずかったのではないかと、千夜は考えた。
高槻の首を持っていっても、安曇が千夜のことを敵だったと言ったら。功績を認めてもらえないかもしれない。
逆に討たれたら、笑えない。
それよりも。龍鬼は世間の敵だった。
みんなが、龍鬼を煙たがっている。その龍鬼を殺すのだから、世間の英雄になれるではないか?
龍鬼を殺せば、将堂の戦力を大きく裂くことになるから。将堂には追われるかもしれないが。
そのときは、手裏の領地に逃げ込めばいい。
将堂の龍鬼を殺した英雄だから、歓迎くらいはしてくれるだろう。
その他に、千夜には気掛かりがあって。
あの緑の子が、みつからないのだ。
左軍にはいなかった。
当時、戦場にいた左軍は、第八大隊だけで。つまり第八にいなければ、右軍だということだ。
右軍は実力重視で、それなりの腕がなければ、生き残れないらしい。
あんな無謀な子供、やっていけるわけがない。
龍鬼との対戦に、突っ込んでくるような子だったから。あのあと、すぐに死んでしまったかもしれないな?
もし奇跡的に生き残っていたら、出会えるかもしれないけれど。
あぁ、自分がこの手で、守ってあげたかった。
左にいたなら、絶対に守ってあげたのに。
あの緑の綺麗な瞳。ちょっと気の強そうな、可愛い顔。もう一度見たいなぁ。
そんなことを考えつつ。千夜は意気揚々と、二十四組の猛者が集う広場に立った。
新兵として、古参の兵に挨拶をするわけだが。
まず、組長が。花龍、高槻廣伊が、百名ほどの兵が整列する、その一番前に進み出て挨拶をする。
ようやく暗殺対象を、この目で拝める日が来た、と。千夜は、わくわくしていた。
そのとき。印象的な緑の髪が、千夜の横を過ぎていった。
え、あれって…。
「右第五大隊、二十四組組長、高槻廣伊だ」
大きく心が揺れて、千夜は、気持ち悪いと感じた。
緑の、あの子が。
なんで、二十四組の猛者を従え、一番前で挨拶をしている?
高槻廣伊だと言った。
嘘だろ?
あの、緑の、可愛い子が。龍鬼の高槻?
俺が殺すのか? 守ってあげたいと思った、あの子を。
いいや。高槻を殺さなければ。暗殺者として。高槻を殺すと決めたのだから。
だけど…。
千夜の心は、切れ切れの散り散りの、粉々だった。
組長が、なにを話したのかも覚えていない。
ほのかな感情を持っていた己と、暗殺者である己が、引き千切られたみたいで。
「望月千夜」
だから、唐突に感じたのだ。
唐突に、あの子が目の前に立って、己の名を呼んだ、と。
「…はい」
自分でも、驚くほどのかすれた声だった。
いまだかつて、これほどに動揺したことはない。
初めて人を殺したときでさえ、これほどではなかった。
「望月、私と勝負しろ」
勝負になど、ならなかった。
動揺を怒りに置き換えて、がむしゃらに挑んでみるが。相手にならない。
安曇のときは、強い相手と戦えることに、喜びを感じたが。
高槻を相手にするのは、ただただ苦痛で。
これから、暗殺するのだ。
分析とか、太刀筋とか、癖をみつけろとか。
いろいろ役に立つだろうことを吸収できる、絶好の機会だというのに。
なにも考えられない。
そうして、沈んだ。
水をぶっかけられて、意識は保てたが。マジで立てなくなった。
高槻は、鬼強かった。
地面に這いつくばり、千夜は組長を見上げる。
自分が守ってあげたいなどと思っていた、緑の子の面影は、ない。
子供などではない。
無表情で見下ろす高槻は、強者の威厳と気品に満ちていた。
ただ。高槻が組長として、千夜になにやら、ぐちゃぐちゃ言い始めた。
死に急ぐ歳じゃないとか。特攻兵はいらないとか。左の方が有益だっただろうとか。
その文句は、なにもかもが的外れで。腹立たしかった。
なにも知らないくせに。
奥歯を強く噛んで、千夜は立ち上がり。
不快だという気持ちを込めて、高槻を睨んだ。
「あそこは、俺のいるべき場所じゃねぇ」
ずっと、千夜は、高槻のそばに行きたかったのだ。
強い敵と、戦いたい。
そして自分も、強くなりたい。
だから、左にいるのがつらいばかりだった。
念願叶って、千夜は、これからの展望に胸を弾ませていたのに。こんなことになるなんて。
目指すものが、ぶれて見えなくなったのだ。
八つ当たりくらい、したくなる。
「二十四組の組長が、相当強いってことは、噂通りだった。それは、認める。でも、この激戦組を生き残ってきたって聞いてたから、剛腕で、熊みたいな男を想像してたんだ。その外見、詐欺じゃねぇ?」
高槻に、千夜はズイッと迫った。
千夜の方が背が高いから、組長だろうが上官だろうが、見下ろしてやる。
近くで見ると、本当にかわ…。いや。どこからどう見ても、ガキ。
威厳なんか気のせい。
自分より年上とか、あり得ねぇ。
自分の中の、このよくわからない、火であぶられているような、じくじくした感情を。高槻にぶつけずにはいられなかった。
「…あんた、心狭いんだな? この前のこと、根に持ってんだろ? 仕方ねぇじゃん。こんなちっこいガキ、上官だと思いもしなかった」
思いつく限りの暴言で、千夜は高槻を貶めようとする。
でも彼は、けなされようと、部下に見下ろされようと、水滴が顔に落ちてこようと、表情を全く動かさない。
そんなことで動揺しないと、心が未熟な千夜を嘲笑っているようにも思えた。
完全に、被害妄想だが。
「別に、根に持ってはいないが」
「持ってるじゃん。入隊早々、こんなにしごきやがってよぉ」
しごきは、むしろ千夜にとっては、ご褒美。強い相手に指導してもらうのは、最大の喜びだった。
けれど、思ってもいない愚痴が止まらない。
脳内には、なんで、という言葉があふれていた。
なんで、これが高槻なんだ。
なんで、上官に暴言を吐いた。
なんで、あの戦場にこれがいた。
なんで、なんで、なんで。
動揺の嵐がおさまらない。
そんなとき、高槻が、千夜の足に蹴りを入れた。
バシッと音がして、よろけたけれど。ガタイと、頑丈さには、自信がある。
さすがに、倒れはしなかったけど…。
え、なんで? 気ぃ強過ぎね? 厳しすぎじゃね?
あの緑の子が、有無を言わさず蹴ってくるなんて。
そう思って。そういえば、戦場でも、千夜は蹴られながら離脱させられたのだ。
少し会わぬ間に、緑の子が美化されている、かも?
「上官に暴言を吐いたことを、それなりにマズイと思っているのだろう? でも、それだけでは、答えは半分だ。私は、特攻兵はいらないと言ったんだ」
高槻は千夜のことを、無謀で、命知らずなガキだと思っているようだ。
それは、こちらの台詞だ。
千夜は、あの緑の子のことを、龍鬼との戦いに首を突っ込む、無謀で、命知らずなガキだと思っていたんだから。
特攻なんて、かますわけない。
暗殺者ならば、痕跡を残さず敵を殺す、もちろん自分も生き残る、それが基本だ。
依頼を受けたら、それなりの覚悟を持って行動するが。
生きていてこそ、依頼を完遂でき、報酬も受け取れるのだから。
ただ、千夜は。あの戦場では、憤っていた。
強い敵と戦えたことに、喜びを覚えてもいた。
強くなることに貪欲で、周りが見えていなかった。
だから高槻には、その姿が無謀に見えたのだろう。
「俺が、自殺志願者だとでも思ってんのか? 違う、違う。給料が下がると言っても、大した違いじゃねぇし。地位も後ろ盾もねぇから、俺が出世したって、せいぜい組長止まりだからさ。なら、少しでも充実感がある場所にいたい。花龍の高槻廣伊は、強いって聞いていた。名高いあんたのそばでなら、俺の力も生かせるだろうって…そう思っただけだ」
怒りは、腹の奥底にくすぶっている。けれど千夜は笑いながら、軽い感じで、高槻を煙に巻こうとした。
彼を暗殺するのなら、ここで目をつけられるのは得策じゃない。
けれど、イライラともやもやは、千夜の胸を、ずっと焼き続けていた。
「嘘が下手だな。ついさっきまで私の顔も知らなかったくせに」
「噂を聞いただけで、顔なんか興味なかったし」
そうだ。それが第一の失敗だ。
左の者が、右の施設に行けないなんて、真に受けて。二年も動かなかった。
慎重に、なり過ぎていた。
いや。命を刈る過程を楽しんでいた。暗殺者失格だ。
千夜は明るい笑顔を引っ込め。心を凍てつかせる。
こんな自分では、高槻を暗殺など、できはしない。
先ほども完膚なきまでに、叩きのめされたではないか。自分は、まだまだなのだ。
「死神と友達だという、あんたなら、涼しい顔で天寿を全うできんのかもな。でも、俺の目には、死神が手招いている姿がはっきり見えてる」
死神という名の、祖父の姿だ。
不甲斐ない自分を、三途の川の向こう側で罵っている。
負けるわけにはいかない。やはりおまえには無理だったな、などと。言わせるものか。
「俺のするべきことは決まっているんだ。邪魔すんな」
高槻を殺す。俺の手で。
千夜は高槻に背を向け、他の兵と合流するため、走り出した。
もっと。もっと鍛えないと。
高槻を、いつかこの手で始末するために。
一年前の、緑の髪が脳裏にかすめたけれど。見なかったことにする。
★★★★★
その日から、千夜は。打倒、高槻を目標に掲げ。闇雲に鍛錬に励んだ。
強くなりたかった。高槻を殺せるくらい、強く。
祖父の言ったとおり、高槻という龍鬼を殺れば、自分は強いと誇示できる。
たとえ青い羽であろうと、自分は強いと言える。
二度と、誰にも否定させねぇ。
だけど。その龍鬼は、なんであの緑の子なんだ?
なんで、あの子を殺さなければ認めてくれないんだ?
己が気に掛けた緑の子だろうと、あれは高槻なのだから、殺せばいい。
でも、躊躇してしまうのは、なぜか。
千夜は、もうわかっていた。
自分は、惚れてしまったのだ。
あの、戦場で割って入った緑の子を、可愛いと思った時点で。
だから、思い悩む。
惚れてしまった緑の子が、なんで高槻なんだ? と。
考えてもわからないことを、延々と頭の中に巡らせ、高槻に牙をむき出しながら、彼の部下として戦場に出る。
気づけば、高槻を強く意識して。高槻を殺す、絶好の機会を探りつつ。常に彼を、目の端に入れる日々が。二年も続いていた。
その日も、千夜は鍛錬に精を出していた。
消灯が近いという夜中。千夜は宿舎などがある敷地の端の、木々が生い茂った、誰も来ないような暗がりで、ひたすら素振りを繰り返している。
鍛錬しているところは、誰にも見られたくない。
その場所は、静かで。ただ、剣が空を切る音しか聞こえない空間だった。
だから、気づいたのだ。遠くから響いてくる、喧騒を。
こんな夜中に、なに、外で騒いでんだ?
ここからでは見えないくらい、遠い位置だった。でもその中に、高槻の、独特の気配が混じっている。
これは、好機かも。
夜闇の中、人知れず近づけば。隙をついて、殺れるかも。
千夜は足音など立てず、風のように駆けて行った。
すると、見えたのだ。高槻の白い背中が、闇に浮かび上がっているのを。
背中? 裸? いや、ズボンを身につけているが。
なに、そんなに無防備な姿になってんだ!
瞬時に、千夜の頭に血が上った。
考えたのではない、胸のうちから湧き上がったのだ。
俺のに、なにしてやがるっ、と。
施設内にいるから、将堂の者だろう。軍服も着ている。
味方同士の殺生は、基本、ご法度だ。だから千夜は、剣を鞘におさめて、高槻の周囲を囲む一団めがけて、拳を振り上げた。
どういう状況か、すぐにはわからなかったが。
とにかく、俺のに触るな、という気持ちだった。
突然、横から現れた千夜に、暴漢たちは、なす術なしだ。
力任せに殴りつけ、蹴りつけて、敵を吹っ飛ばす。流れるような体さばきで、次々に敵を倒していった。
「…おい、殺すなよ」
そんな中、高槻が冷静な声を千夜にかける。
はぁ? 襲われてんのは、あんただろ? なに敵をかばってんだっ!
そんな憤りで、高槻を睨んだら。彼は口を閉じた。
それで。高槻が手を出す隙も与えず、暴漢をぼっこぼこにしてやった。
ったく、腹立たしい。
喧騒に気づいたのだろう、見回り兵が笛を吹きながら、こちらにやってくるのが見えた。ヤバい。
素早く上着を脱いで、千夜は高槻の背中にかぶせた。
こんなに白い背中を。なだらかな胸…だから、やっぱり女子ではないが。
女子にも見まがう可愛らしい容姿で、鮮やかに色づく乳首とか、見せんじゃねぇ。
誰にも。俺にも。
惑わす気かっ。
「…着ろよ」
千夜は高槻を見ないようにして、駆けつけた兵に説明した。
「二十四組組長の高槻廣伊がこの者たちに襲撃を受けた。俺たちの事情聴取は明日にしてくれ。こいつらの始末を頼む」
簡潔に言って、高槻の手を掴み、早足でその場を去る。
こんな無防備な高槻を、誰にも見せたくない。
「待て、望月。どこへ行く?」
「あんたの部屋だ」
当たり前だろうが。早く隠したいんだ。なにもかも。
あんたの姿態も。
殺そうと思った相手を、助けてしまった、己の失態も。
恥ずかしすぎて、いたたまれない。
組長の私室が並ぶ棟に、千夜は足を踏み入れた。
しんとして、人の気配がまるでない。
こんな夜更けに、組長が全員不在なんてこと、あるのか?
入口が不用心に開け放たれているのが、高槻の部屋だと見当をつけ、入るが。
鍵がぶっ壊れている。
もうっ、マジ、あり得ねぇ。
千夜は剣を鞘ごと革帯から抜き、突っ張り棒代わりにして、戸を閉めた。
落ち着くよう、深呼吸を繰り返すが。怒りのマグマが噴火寸前で。
もうどうにも我慢ならず。
振り返りざま、高槻を叱った。
「あんた、天下の花龍が、なに簡単に襲われちゃってんだよっ?」
「いや、簡単に襲われたわけではない。ちゃんと対処していたはずだが」
こんな目にあっても、高槻の表情は冷静そのもので。
なんで怒ってんの? って不思議がるくらいに。感情が凪いで見えた。
「…剥かれてんじゃねぇかよ」
千夜は高槻に着せ掛けた己の軍服を、掴んで引き寄せる。
肩にかけているだけだから、すぐに素肌があらわになった。
なめらかな肌が、白く光って。
この肌を、あいつらに見せたのか? 触らせたのか? どこまで? 誰に?
許せない。俺のに、触りやがって。
「着衣か? 剥かれたわけじゃない。沐浴中に襲撃にあっただけだ」
怒り心頭の千夜に、冷や水を浴びせるごとく、高槻が訂正した。
そういえば、机の上に、湯の入ったタライがあり。
ならば、押し倒されたりしていない? 誰にも触らせていない?
だったらいいのだがと。千夜は息をのむ。
「龍鬼が目障りで、襲撃する奴らが。嫌がらせでも、龍鬼の服を脱がそうなどとは、思わないものだ。あいつらだけではない。普通の者ならば。望月のように、服を貸したり、引き寄せたり、顔を寄せたり、しないんだ」
千夜は、龍鬼に差別観はない。
ただ、龍鬼を殺れば、名に箔がつくから、つけ狙っているだけで。
自分を、他の者と同様に見ないで欲しかった。自分は、先ほど高槻を襲った暴漢とは違う。
なにが、違う?
志が。
そんなもの、高槻にわかるものか。違いなどない。
いいや、違う。
感情が、支離滅裂なのを、千夜は己で感じていた。
目の前に、高槻がいる限り。この苦悩は続く。
やはり、殺すしかない。そう思って。
「殺す…」
つい、本音がぽろっと口から出てしまった。
高槻は、己をイラつかせる、天才だ。
いつも判で押したように、表情が変わらない男だが。このときばかりは、若干、きょとんとしていた。
まぁ、確かに、いきなり殺す宣言されるのは、意味不明だろうからな。
だが、千夜は高槻の困惑に構わず、彼と距離を詰めた。
他の者が離れるのなら、自分は触れる。
肩に触れて、組長を引き戸に押しつけ。さらに顔を寄せる。
緑の綺麗な瞳の中に、己のギラギラした顔が映り込んでいた。
あぁ、好きだ。でも殺す。好き。殺す。
相反する感情が、交錯していた。
いいや。殺すのだ。高槻廣伊を、この手で。
「殺す。俺が、あんたを殺す。あんたを、俺の獲物に決めた」
自分に言い聞かせるように宣言し、手甲に仕込んでいた短剣を、高槻の首筋に押し当てる。
刃先で、頸動脈をなぞった。
ここを切れば死ぬと、暗示させるように。
なのに。高槻は、笑った。
今まで、能面みたいな顔つきだった男が、笑った。
笑ったら可愛いだろうなと想像していた、あの緑の子が、笑った。
やっぱ可愛いじゃねぇか…。
って、違う。
動揺が振り切って、羽が勝手にバサッと開いた。
「な、なに笑ってんだ。あんた馬鹿にしてんのか」
「いや…」
笑顔は、一瞬だった。もう能面に戻ってる。
「俺がやれないと思ってんのか? 危機感なさすぎだっ」
「やるなら、ひとおもいにやってくれないと。くすぐったいんだが」
刃物を突きつけても、なんの感情も見せない。怖がりも、脅えも、怒りも。
そんな高槻の、緑色の瞳を見て。千夜は悔しいと思った。
自分では、高槻を脅えさせることすらできないのか?
暗殺者なら、そこにいるだけで怖いと思うものだろう?
なのに。
高槻に、恐怖の表情を浮かべさせたかった。
恐怖でなくてもいい。無感情以外の、なにか、表情を。
心が動いていないということは、無視されているのと同義だと、千夜は思ったのだ。
だから、いら立たしくて、奥歯を噛んだ。
「はっ、誰になにをされても、あんたは動じないってことか。なら俺が、あんたの心を揺さぶる、初めての男になってやろうか?」
手の中の短剣を動かし、高槻の鎖骨の上に滑らせた。
たった、皮膚一枚。血が一滴流れる程度の傷だ。
その赤い雫を、千夜は舐めた。
さすがにぎょっとしたのか。高槻は腕の中で、もがいた。
けれど、離すものか。
高槻が慌てていることに、千夜は高揚する。
もっと高槻が動揺すればいい。そう思って、舌を傷口にさらに捻じ込む。
「やめろ。龍鬼の血を吸うなんて、正気か?」
組長が必死に、己の髪を鷲掴み、引きはがそうとしている。
囁き声で叱るから。してやったりと。千夜は顔を上げ、ニヤリと笑う。
目を丸くして驚く、高槻の表情…それが見たかったのだ。
「やっと、あんたの素の表情を引き出せた」
「そんなことのために。私をやり込めるためだけに、こんな恐ろしいことをするなんて。龍鬼の血を体内に取り込んだ者が、どうなるか、わからないんだぞ?」
そんなこと? それが、今、一番大事なことなのだ。
己の行動に、高槻が揺さぶられることが。
高槻が、己を認識することが。
「あぁ、化け物になって絶命するとか。翼が腐り落ちるとか。俺自身が龍鬼になるとか?」
むしろ、そんなの大歓迎だ。
龍鬼になれたら、もっと強くなれるかもしれねぇじゃん。
高槻よりも。誰よりも。
だが、そんなことはないのだ。
龍鬼を見たり、触れたり、話しただけで、龍鬼がうつるなんてのは、迷信。
そんなことなら、戦場には、龍鬼がうようよ発生するに決まっている。それでも、数えるほどしかいないのだから。
龍鬼というのは、最高の希少種なのだ。千夜はそう思っていた。
千夜は、血脈にそれほど、こだわりがないから。希少種だからといって、ありがたがることもないのだが。
「龍鬼がうつるって、あんた信じてんの?」
「…知らないが。どうなるかなんて、わからないが」
不安げに緑の瞳を揺らし、高槻が千夜をみつめる。
千夜は初めて、高槻の視界の中に入れてもらえたような気になった。
でも、そのせつない瞳は、胸がなんだか痛む。
どんな表情も見たいと思っていたのに。こんな表情は、嫌だなんて。自分勝手すぎる。
「だって、みんながそう言うから。うつるから触るなと言う。だから私は…」
髪を掴んでいた、高槻の手が離れた。
彼の体温が遠ざかるのを、寂しく思う。
「だから私は、誰にも触れない」
高槻が、目を伏せる。
ほんの間近にある、緑色のまつ毛が、震えていた。
光沢が動いて、キラキラして見える。
綺麗だな。傷ついているのだな。可哀想だな。
そう思うけれど。
こんな高槻を知るのは、自分だけだという優越感も湧く。
彼を、抱き締めたくなった。
慰めて。ひとり占めして。心のままに、愛したかった。
そうだ。自分が暗殺者でなければ。ただただ、高槻を愛することができたのに。
でも今は。
今だけは。己が暗殺者だということを忘れたかった。
「俺が証明してやるよ。龍鬼に触れても、なにも起こらないってな。だから、そんなこの世の終わりみたいな面するなよ。…つか、なんで俺がいじめたみたいになってんだよぉ」
「なぜだ? おまえは私が嫌いなのだと思っていたのだが」
「そのすました顔が、気に入らねぇんだよ。でも、あんたを俺の獲物に決めた。つまり、あんたの命は俺のもの。なのに俺のものが、毛嫌いされたり、命狙われたり、誰かに奪われたり…そういうの許せないから」
「なんだ、その言い分は。めちゃくちゃだな」
高槻は、眉間にしわを寄せた。
おぉ、動くじゃないか、眉毛。もっと動かせ。
それはともかく。
自分でも、支離滅裂だと思う。
簡単に言えば。可哀想な顔は、見たくないということだ。
「そんなに心配すんなよ。あんたが想像する悲劇なんか、起きやしない」
龍鬼の血を舐めたことを、高槻は本当に心配していた。
あの能面顔を、曇らせるほどだ。
高槻の胸に己が居座るのは、とても心地よいことだ。
良い気分で、千夜はニヤリと笑う。
「俺が、あんたを殺す。俺以外の男に、あんたを触れさせない」
「いいだろう。私の命を、おまえにやる」
高槻の中で、なにがどうなったのか、わからないが。とにかく、予想外の返答だった。
だって、殺すと言われて、命を差し出すやつがいるか?
驚いている隙に、腕の中から高槻が脱出してしまった。ちっ。
「いつでもいい。おまえが私を殺せ。だが、ひとつ条件をのんでもらおうか」
なにを言い出す気なのか、全く予想が立たず。千夜は高槻を、いぶかしげに見やった。
「私を殺す前に、おまえが死んではならない」
高槻の言い分は、おおよそ、こんな感じだった。
刹那的に生きる千夜を、戦場に出すのは気が気じゃない。廣伊には上官の責務として、千夜を家族に返す義務がある。みたいな。
「は、家族…」
千夜に、家族なんか。とっくにいない。
生きていたとして、千夜が無事に戦場から帰還することを、あの祖父が喜んでくれたのかどうか…。
父母の記憶は、さらに遠い。
千夜にとって、家族というものは。
良いものでも、尊ぶものでも、微笑ましいものでもない。薄っぺらなものだ。
「家族でなくても、将来、おまえと一緒になる伴侶でもいい。いつかおまえを必要とする者のために、おまえの命を生かす」
家族に対する期待値も、高くないから。伴侶を持つことにも、興味が湧かない。
「あんたの血を吸った。伴侶なんかいらねぇ」
自分はどうでもいいが。世の風潮としては、龍鬼に近しい者には縁談が来ない。
むしろ、せいせいする。
でも高槻は。責任を感じているのだろう。馬鹿なことをしてっ、と吐き捨てていた。
そうだ。良いことを思いついた。
「俺の相手は、あんたがすればいい」
そうして、甘い雰囲気を出しつつ、高槻にキスをしたのだが…失敗した。
あぁぁ、ここら辺は思い出したくねぇ。
とにかく、己を必要とする誰かというやつを、高槻がやれ。と、うまく言いくるめてやった。
「組長、これは契約だ。俺に体を差し出し。命を差し出す。その代わり、俺もあんたのものになる。あんたの望みを叶える」
「契約成立だ」
なにを考えているのか、さっぱりわからないが。高槻は承諾した。
こんなの、契約でもなんでもない。高槻を殺せば終了の、自分に都合のいい、口約束。
その日のうちに、片がつくと思っていた。
実際、初めて高槻を抱いた日に、刃を向けたのだ。
一番、快楽に浸っている瞬間を狙って。
暗殺を、情交の最中に行うのは。異性間なら、よくある話だが。自分はもちろん、したことがなかった。
しかし有効な手だということは、教わっていた。
けど。全然、駄目だった。
自分では、気づかないし。今までも、気づかれたことなどなかったのだが。
高槻には、殺意が見えるらしい。
自分の殺意は、いわゆるダダ漏れだという。
マジか。
それで、気づかれて。高槻を殺れなかったわけだが。
あぁあ、初めての情交も、思い出したくねぇ。
廣伊は、初めてだったのに。気を遣って、大事に大事に、抱いてやりたかったのに。抱き潰しちゃって。
くそっ、うまくいかねぇことばかりだ。
抱き潰したというのに、殺すこともできないという。ヘタレすぎる。
契約だなんて言いくるめて、廣伊を抱いたけれど。
それも一回きりのつもりだった。
くちづけも、抱くのも、愛するのも。
初恋の相手を、この手で殺すのだ。
自分の腕の中で、優しく殺してやりたかった。
廣伊は…全然、おとなしく殺されてなんかくれないけど。
一回きり…。は? そんなの無理に決まっている。
目の前に、廣伊がいるうちは。
あの唇の甘さを知ってしまったら。肌のなめらかさを味わったら。
美しい緑の瞳が悦楽に潤むのを見てしまったら。
手を出さずにはいられないだろうがっ。
★★★★★
その後も、千夜は何度も暗殺を試みた。
しかし廣伊は、それを華麗にかわす。
そして、暗殺が失敗すると。千夜は廣伊を抱く。その繰り返しだ。
殺したいのだ。
愛しているのだ。
その心の葛藤は、長く続いていく。
千夜以外の刺客から廣伊を助ける。そして、己も殺そうとする。失敗したら、愛し合う。戦場に立てば、廣伊の盾になる。そしてまた、殺そうとする。
全く馬鹿げた、命のやり取りだ。
誰かが、髪に触れた感覚がして。千夜は、それを手で掴む。
生存本能で、無意識に掴んだそれは。廣伊の手だった。
情交のあと、一瞬、寝てしまったようだ。
寝台の上、千夜は裸で。廣伊は、もう軍服を着ている。
廣伊は、夜中に襲われることが多いから、油断しないし、無防備な状態を、なるべく作らないようにしている。
それでいい。
「すまない。起こしたな」
パッと、廣伊の手を離す。
彼は、千夜のこめかみに近い横髪を、編み込んで、遊んでいたらしい。
また髪をいじり始めた。
「もう少し、髪を整えたらどうだ? せっかく綺麗な色目をしているのだから」
千夜は、あまり外見に頓着がなかった。
髪は伸ばしっぱなしだし、洗いっぱなしで。朝起きて、手ぐしでさっと整えるだけだ。
切るのが面倒だから、伸ばしているが。毛量が多いのでライオンのたてがみのようだと、古参の兵にからかわれている。
「キラキラ光って、こんなに発色の良い青色は、見たことない」
寝起きに、手放しで褒められ。千夜は、どんな顔をしていいかわからなくなった。
ただ、顔が熱くなって、困った。
今まで、この色を褒められたことがないわけではない。
むしろ。祖父以外の者には、大概綺麗だと言われていた。
でも、千夜はどうでもいいと思っていて。
だって、暗殺者にとって、この色は致命傷なのだ。なんの役にも立たない。邪魔なものでしかない。
「こんな色。戦場でも、どこでも、目立ちすぎて。標的にされやすい、厄介な色だ」
「標的にされるくらい悪目立ちして、涼しい顔で敵を討つ。それが格好いいんじゃないか?」
ずっと、隠れることしか考えてなかった。
目立たず、人知れず、が暗殺の基本だから。
でも廣伊に言われて。なにかがさっくりと、胸に刺さった。
確かに、この色で敵を集めて、全滅にできたら格好良い。
わざと目立つなんて、逆転の発想だな。目からうろこってやつだ。
「この美しい青を持つ剣士は、望月千夜だけだと、派手に主張すればいい。武名をあげるかもしれないぞ」
褒められて、初めて嬉しいと思った。
この色で良かったと思った。
美しいと言われて…照れてしまった。
この青色を、ずっと、うとましく思っていたが。
廣伊が好ましく思ってくれるのなら、父から貰ったこの色を、誇ってもいいのかもしれない。
好きな人が、己の嫌っている部分を、褒めてくれる。単純かもしれないが、それだけで、目を背けるくらいに毛嫌いしていた己の短所を…己自身を、丸ごと愛せるようになるのだな。
「青色じゃねぇ、瑠璃色だ」
廣伊の手の動きを、くすぐったく思いながら。千夜は訂正した。
「オオルリの父から貰ったこの色と、カモメの母から貰った大翼。良いとこ取りなんだぜ?」
それからは、父母から受け継いだこの翼を、卑下することはなくなった。
結局、血脈なんかと言っていた己が、一番、翼の色に不満を持ち。血脈を否定し。己を否定してきたのだと。千夜は気づいたのだ。
この翼だから。今の自分がある。
そう、己を認めることができたような気がした。
「キラキラなんて、言うが。廣伊の方こそ、キラキラで、綺麗な緑色じゃないか。なんの血脈なんだ?」
千夜は廣伊の、肩口で切り揃えられた髪を、指先で撫でる。
濃いめの緑に、剣が輝くがごとくの光沢が、目にまぶしい。
「私はケツァールだと聞いている」
「ケツァール? 世界で一番美しい鳥だ。それって、希少種じゃないのか?」
「あぁ、そうだ。でも、私が生まれてしまったから、家は存続できないかもしれないな。あまり、実家のことをよく知らないんだ。蔵で育てられ、ここに来るまで、暗いところに閉じ込められていた。だから、故郷がどこかも知らないし。家族の顔も見たことがない」
廣伊の実家を、千夜は知っている。
千夜が育ったところの、隣村だ。
でも、言わない。
千夜が十歳のときだから、廣伊は十三歳。
高槻の屋敷から、将堂の兵によって運ばれていくのを見た。
自分ですら入らないと思われた、小さなあの箱に、廣伊が詰められていたというのか?
能力を出さないよう、袋叩きにして?
自分はそれを見物していたなんて…口が裂けても言えない。
それに、あんな目にあったのだから。
廣伊だって、知ることを望まないだろう。そのはずだ。
「高槻の家以外に、ケツァールの血脈が、どこかで存続しているといいんだが…」
つらい目にあったのは、廣伊だ。なのに。血脈が途絶えなければいいと願うなんて。悲しすぎる。
もっと、廣伊は、幸せになっていい。なってほしい。
さんざん廣伊を標的にしている自分が、言えることではないけれど。
だから、千夜は。廣伊の頭を手で引き寄せて、キスした。
今は、廣伊を愛している、ただの千夜。
彼を幸せにしたいと願っても、いいだろうか?
柔らかくて、色鮮やかな緑を、千夜は指に絡めて、感触を楽しむ。
桃色の、美味そうな彼の唇を舐め。口腔に、舌をもぐり込ませても。廣伊は従順に、くちづけを受け入れていた。
いつも、一度したからもうしない、とか。明日も仕事だぞ、とか。いい加減にしろ、とか。睦み合ったあとに、触ろうとすると、文句を言うのに。
珍しく、なにも言わないから。
千夜はまた、廣伊を押し倒し、腕の中に抱きこんだ。
大切な宝物を愛でるように、丁寧にくちづける。
羽で触れるように、上唇を舌で撫で。
じわりと開く口元に、己の唇を合わせて。飴玉を転がすように、廣伊の舌を愛撫する。
目をみつめると、あの緑の瞳が、とろんととろけていて。
キスの気持ち良さに溺れる彼が、愛おしい。
「キス、上達したかな?」
「? 千夜は最初から、うまかったじゃないか?」
濡れた、色っぽい唇で、廣伊はそんなことを言うのだ。
キスに失敗した千夜を『初めてだろ』と指摘した、同じ唇で。
憎たらしくて。可愛らしい。
千夜はチュッと音を鳴らしながら、ついばむキスをして。廣伊に聞く。
「キス、好き?」
「ん」
「俺とするのが、一番、気持ちいいだろう?」
「知らない。千夜以外としたことないし」
知ってる。でもたびたび、こうして聞いて確認するのだ。
廣伊が心を開いているのは、自分だけだということを。
「俺は、廣伊とするのが。一番、気持ち良い」
「…私もだ」
たまらなくなって、深く口を合わせる。
情熱的なくちづけを受け、廣伊が己の肩に手を回した。
素肌に、剣士である彼の硬い手のひらの感触がして。なぜか泣きたくなる。
いっぱい甘やかしてやろう。今だけ。今だけは。
★★★★★
そうして千夜は。廣伊が好きだと言ってくれる己の嫌な部分を、少しずつ認められるようになり。
鬼強剣士に戦いを挑むことで、剣技も極めていき。
人を愛することも知って。
廣伊と関わることで、心を癒し、体を成長させていった。
ただ、愛する人を殺さなければならない、使命だけは。のみ込めない。
腹の底に、いつまでもある異物として、千夜を苦しめ続けるのだが…。
数日後。瑠璃色の軍服を身にまとい。横の髪をヘアピンで留める、おしゃれな姿で。千夜は廣伊の前に現れた。
「派手派手しいな。でも、似合っている」
「別に。廣伊に言われたからってわけじゃねぇからな。ピンは、武器にもなるし」
いたたまれず、千夜は廣伊から顔をそらした。
「それは、私に言っては駄目なやつでは?」
隠し武器の存在を教えるなんて、馬鹿なやつだと。廣伊は優しく笑う。
ささやかに表情が動く、廣伊のその顔を横目で見て。千夜は。
苦痛を腹に抱えていても…幸せだと感じた。
★★★★★
泥沼に沈んでいた意識が、痛みとともに、浮かび上がってくる。
痛いような、痛くないような。
でも、つらい。熱い。
目を開けない方が、苦しいと感じ。千夜は、まぶたをこじ開ける。
目の前には、あの鮮やかな緑色があった。
「千夜。気づいたか? 水を飲むか?」
廣伊に聞かれ、喉が渇いているような気がして、うなずく。
廣伊は水の入った急須の吸い口を、口元に寄せたが。なんか、うまく飲めなかった。
口の端からこぼれる水を、廣伊が指で拭ってくれて。申し訳ない気になる。
そうしたら、廣伊が急須の水を口に入れ、千夜にくちづけた。
口移しで、水が千夜の口腔に流れてきて。ごくりと、水を飲み込むことができた。
ようやく喉が潤されて、ホッとする。
水も、もっと欲しいけれど。
廣伊と、ずっと、くちづけていたい。
いつもみたいに、彼の頭を手のひらでおさえ、引き寄せようと思った。
でも、腕が上がらない。
というか、ない。
そうだ。自分は戦場で。山本に腕を斬られた。
思い起こすと、痛みが湧き起る。
まるで、脳が理解したから、痛みも感知した、みたいな。
もう少しくちづけていたかったのに。廣伊は離れてしまった。
「もっと、のむか?」
「…いや」
腕を斬られている割には、あまり痛くないと思う。たぶん、薬で痛みをおさえているのだろう。
頭もボーッとして、気持ちが悪い。
そんな中で、わかるのは。
自分がもう、暗殺者ではないということ。
目の前の男を、愛していいのだということ。
そして。もう二度と、廣伊を守ってやることができないということ…。
痛い、熱い、苦しい。
千夜は、今まで経験したことのない苦痛に、のたうち回っていた。
実際には、強力な薬によって、体が動いているわけではなかったが。
脳内で、苦しみに、のまれていたのだ。
ふいに、意識が浮上して、目を開ける。
廣伊がいたような気がして。笑いかけたが。
なにかを話しただろうか?
またすぐに、泥沼のような痛苦にのまれて。
あぁ、あの緑色。なんだっけ。
そうだ。俺の獲物。
俺の。戦場で会った、緑の、可愛い子。どこへ行った?
取りとめもなく、千夜は過去にさかのぼっていった。
★★★★★
千夜は、オオルリ血脈の父親と、カモメ血脈の母親との間に生まれた。
母が、父の容姿や翼の美しさに、一目惚れをし。猛アタックして。
父も、母の大きな翼や、おおらかな性格に惚れ込み。とんとん拍子に話が進んで、結婚したという。
愛にあふれた夫婦から生まれた千夜は。母の大きな翼に、父の光沢のある瑠璃色が乗る、良いとこ取りの、見目の美しい赤ん坊だった。
純血種ではないが。希少種ではないかと思われる、非常に稀有な翼を持っていた千夜は。美しい、珍しい、うらやましい、と言われ、育ったのだが。
それは、千夜にとっては、誉め言葉ではなかった。
なぜなら。母方の家系が。暗殺を生業としていたからだ。
母は、己の家が暗殺稼業であることは、知らなかった。
非力な女性であり、長身で、運動神経があまりよろしくなかったので。
家長であり、優秀な暗殺者であった祖父は、母を後継にするのは、早々にあきらめたのだった。
自分の代で、暗殺稼業は終了する。そう思っていたから、祖父は、母にそのことを教えなかった。
だから、母は心のままに、オオルリの父を愛し。千夜を産んだ。
見た目が派手な孫を見て、祖父は眉をひそめたらしい。
暗殺者には向かない、孫の容姿を見て。本格的に、廃業を覚悟したのだろう。
千夜が五歳のとき、父と母が流行り病で亡くなり。千夜は、母方の祖父に引き取られ、望月の姓を名乗ることになった。
そこで、初めて。
千夜は祖父が、暗殺者であることを知ったのだ。
千夜の祖父は、手裏の依頼を受け、将堂の幹部を何人も殺した、実績のある暗殺者だった。
年老いて一線を引き。母は、家業を知らずに育ち。祖父以外の一族の者は、すでに亡き者となっていたので。腕のある暗殺一族は、この世からなくなろうとしていたのだった。
しかし、娘が早逝し。忘れ形見を引き受けることになって。
祖父は。暗殺一族、望月家復興の、最後の機会だと思ったのかもしれない。
己の暗殺技術のすべてを、千夜に伝授する気になったのだ。
だが、見た目が派手なので。暗殺者としても、隠密としても、通用しないだろう。
そんなふうに、祖父は千夜の前で言って。ため息をつく。
芽は出ないかもしれないが、一族がこれまで培ってきた技術を、廃れさせないために。
暗殺者としての、体の鍛え方や技能。己が経験してきた、あらゆる状況での対処の仕方。心の持ちようなど。とにかく、孫に教え込んでいく。
千夜は、祖父に期待されていないことを、肌で感じると。悲しい気持ちと、悔しい気持ちで、心がぐちゃぐちゃになった。
それでも、祖父に見放されたくないから。必死に能力を磨いていく。
唯一の肉親に、よくやったなと褒めてもらいたい。
暗殺者として大成すれば、祖父は喜んでくれる。そんな想いがあった。
光沢のある瑠璃色の大翼を持つので、隠れることは難しかったが。一撃確殺の力量を宿す、健康で頑健な体格に恵まれて。手先も器用だったので、小刀や隠し武器の扱いもうまかった。
特に、剣や刀の対戦形式では、かつて一流の暗殺者であった祖父と、互角に渡り合えるほどに、能力値が高かった。
なので祖父は、隠れて討つのではなく、堂々と渡り合って敵を討てるよう、千夜を仕込んだのだった。
祖父が千夜に、暗殺者としての及第点を出したのは、彼が十歳になった頃だった。
「基本はすべて伝えた。あとは己の才覚で腕を磨いていけばいい。できるなら、暗殺者として大成し、望月一族の誇りを守ってほしい」
そう言って、隠居生活に入ったのだった。
その頃と同じくして『隣村から龍鬼が出た』という騒ぎが起きて。
千夜は、祖父とともに、その騒動を見物しに行った。
二重、三重と人垣ができる中、将堂軍の兵が、ある家から箱を運び出している。
「納屋から、一歩も出たことがないんだって? 屋敷の使用人も、龍鬼なんて見たことがなかったらしいよ」
「怖いわぁ、こんな近くに龍鬼が出たなんて。この家もおしまいね」
村人は、見物しながら、そんなことをひそひそと話している。
「あの箱に入っているのかしら?」
「力を出す気にもならないほど、袋叩きにしてから、箱に詰めるんだって。道中、暴れないように」
胸糞悪い話だと、千夜は幼いながら思った。
とてもじゃないが、人が入れるような大きさの箱じゃない。
子供ならかろうじて? くらいの。
でも、そのあと屋敷から、龍鬼らしき人物が出てくることはなかったのだ。
まさか、本当に、あの箱の中に?
十歳の自分でも、あの箱の中には入れないだろうに。
結局、龍鬼の姿は、ひと目も見られなかったが。
箱が運び出された屋敷の表札に『高槻』と書いてあったのを、千夜は見た。
「千夜。おまえが、あの龍鬼を殺しなさい」
帰り道で、祖父が千夜に告げた。
「龍鬼を殺せば、暗殺者として名があがる。その首を持って、手裏に行けば。また仕事を依頼されるようになるだろう。暗殺一族、望月家の当主、望月千夜は。随一の暗殺者である。そう、世に広めてくれ」
そのときの祖父の言葉は、鎖が巻きつくかのように、重く、苦しく、千夜を長い年月、さいなむものとなった。
祖父の伝手で、数人の暗殺を遂行し。千夜は暗殺者としての経験を積んでいったが。
千夜が十四歳のとき、祖父が亡くなり。
それを機に、将堂に入軍した。
特に、誰に頼まれたわけでもなく。手裏軍の密偵だったわけでもない。
ただ、あの龍鬼を殺せと言った、祖父の言葉が。千夜の胸に、ずっと残っていただけだ。
将堂に入れば、高槻という苗字の龍鬼のことは、すぐに知れた。
花龍、高槻廣伊という名前らしい。
左筆頭参謀のお気に入りだと聞き、千夜は左軍への配属を希望した。
千夜は、瑠璃色の美しい大翼を持っていたので、希少種とみなされ。意外と簡単に、左への配属が決まった。
心の内では『純血種でもないのに。調べることもしないなんて、将堂って案外ちょろいな』なんて思って。馬鹿にしていた。
左軍は家系が良く、上品で賢い者の集まりだ、などとうそぶいているが。
自己申告でどうにでもなるようなものなら、血脈なんて、やっぱり大したものじゃない。
瑠璃の大翼が、初めて役に立った。と、千夜は思うが。
祖父に散々、こんな派手な翼じゃなければ…とけなされていたので。羽や色目に、好感がない。
自分も、こんな翼じゃなかったら、隠密としても活躍できたかも。なんて、思っていたので。
隠密の技能は体得したものの、宝の持ち腐れ。この翼には不利益しかない。
血脈に関しては、そんな負の感情しか浮かばなかった。
まぁ、なにはともあれ。無事に、将堂軍に潜入できた。
あとは、なんとか高槻廣伊に近づいて。暗殺を遂行するのみ。なんて思っていたのだが。
高槻が懇意にしていた左筆頭参謀が失踪したことで、高槻は右軍に移ったらしい。
嘘だろっ。
配属が決まって、まだ二週間だ。慌てて右軍に転属希望を出したが。通るわけない。
マジかっ。
左軍と右軍では、宿舎も施設も、かぶらない。
右と左は仲が悪く、右の施設を左の者が歩いたりしていると。すぐに怒られたり、因縁をつけられたりする。
逆も同様だが。
戦場でも、右が戦闘中のとき、左は政務をするなど。行動範囲がかぶらない。
これはヤバいぞ。そう思っても、しばらく左にいなければならないことに変わりはないのだった。
早く右軍に移りたい。千夜は胸のうちで泣いた。
★★★★★
一年で。千夜は、左第八大隊三十七組一班班長になっていた。
というのも。左軍は、良いところのお坊ちゃまが多く。剣技がヤバいくらい、ヨワヨワだった。
千夜は組の中で一番、剣技は優秀だった。
でも、政治なんかわからねぇ。
政治はお坊ちゃまに任せて、自分は剣技の鍛錬に力を注ぐ。
戦場でも、率先して、手強い敵を引き受けている。だって、そうでもしないと、マジで腕がなまる。
あぁ、早く右軍に移りたい。
その心の中の声が、口癖になっていた。
左軍にいては、右軍の情報はなかなか入ってこない。
そんな中で、聞こえてくる高槻の噂は。とにかく、強いということ。
将堂軍が誇る『血に飢えた鬼神』『凶戦士』『死神と友達』だなんて言う者もいた。
どんだけ強いんだろう?
千夜は、暗殺対象ながら、高槻のその強さを夢見て、わくわくしていた。
本当に、左軍の仲間が弱くて、鍛錬の相手にもならないものだから。強い相手に飢えているのだ。
敵が何人いても、速い太刀さばきで、容赦なく斬り捨てていく。
剣先からの血しぶきが舞って、花龍の周囲を彩る。
華麗なる、高槻の噂の数々。
なにそれ。早く会いたいんですけど。
手裏兵を、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、という場面を想像し。千夜は勝手に、熊男みたいに、ごっつい体格の男を想像していた。
千夜だって、一撃確殺できるほどに、力がある。
その千夜の攻撃を、ひと払いで跳ね飛ばし。ガンガンに討ち合ってもひるまない。むしろ押してくるような…それくらい骨がなきゃ、つまらない。
手強い相手を打ち負かしてこそ、随一の暗殺者と言える。
千夜は高槻を暗殺する、その日を夢想して。笑うのだった。
四月になるが、左第八大隊は、まだ戦場にいる。
本来は、春になると全軍が右に置き換わるのだが。引継ぎがうまくいかなかったのか、左の中で第八だけ、本拠地への帰還が遅れていた。
まぁ、兵士には、上層部の都合などよくわからない。
戦えと言われている間、戦うのみであった。
千夜は日頃の鬱憤を晴らすかのごとく、がむしゃらに剣を振っていた。
自分は強くなりたいのだ。こんなぬるま湯から早く抜け出たい。
命懸けで襲い掛かってくる手裏兵を相手にしても、もう千夜には物足りないのだ。
もうすぐ日が暮れる。今日の闘いも、手応えがなさ過ぎて。修練にもならなかった。
このままくすぶって、終わりたくない。
そんな焦燥感と。自分ほどの強さがある兵を、なぜいつまでも左に置いて腐らせておくのか、という憤りで。千夜は奥歯をきしらせた。
そんなとき。目の前に男がふらりと現れた。
頭から足先まである黒マントを脱ぐと。夕日に輝く、まぶしい金髪に、青水色の瞳。
そして翼がない。
「おまえ、手裏の龍鬼?」
問うが、答えなどどうでもいい。
千夜は、強敵の出現に、心を躍らせ。有無を言わせず、斬りかかった。
一撃確殺で、何人も殺してきた。
でも、さすがに龍鬼が相手ともなると。力を込めた攻撃も、跳ね返されてしまう。
「そうだ。俺は手裏軍の龍鬼、賢龍の安曇眞仲だ」
黒い手裏の軍服に、肩まで伸びた金髪が、映えていた。
珍しい色目。
インコでも、カナリアでもなさそう。
っていうか、攻撃を受けながら、余裕で自己紹介するとか、あり得ねぇ。
先ほどから、力を込めて振るっている剣が、全部いなされている。
子供を相手に指南する師匠のごとく、だ。
こっちは幼い頃から、暗殺者として鍛えてきてるってのに。
その誇りが、傷ついて。千夜は憤った。
「…なんで、翼を使わないんだ?」
人知れず怒っていた千夜に構わず、安曇がつぶやく。
思いもよらない言葉に、千夜は素で驚いた。
「は? な、なに?」
「その翼は飾りか? あぁ、飛べない鳥さんなんだな。すまない」
全く謝罪する顔ではなく、安曇は麗しく笑った。
お綺麗な顔に、嘲笑われたような気がして。頭に血が上る。
「貴様っ、俺を侮辱したのか!」
怒りのままに、千夜はがむしゃらに剣を振るった。
あぁ、暗殺者として、こういう場面では、もっと冷静でいなければならないのに。
心の鍛錬を怠ったか…と、千夜の中の冷静な部分が、駄目出しする。
だが、一度、沸騰した怒りのマグマは、そうそう鎮火しない。
正直、千夜は。翼など、戦闘中に開いたことはない。
暗殺業なら尚更。
他者にみつからず、静かに、速やかに行動するのが鉄則で。羽ばたく音や、この目立つ青色をさらすなど、愚の骨頂。
だが、今は暗殺ではない。
翼を使うことで、攻撃の手段が増える…のか?
「俺は飛べる。馬鹿にするな」
安曇が言うように、間合いを少し取ったときに、翼を動かして、前への推進力を上げた。
すると、元々、力が強い方だが。さらに剣圧が上がるような気がした。
お? すげぇ。
「そうそう、もっと動けよ。前後左右、羽アリなら上下も使って、臨機応変に攻めないと…殺しちゃうぞ」
まるで遊んでいるみたいに、安曇は、薄笑いを浮かべながら、千夜の攻撃を受けて、流している。
まるきり、子供への指南だ。
しかし、殺しちゃうぞと言って、ニヤリと笑ったとき。
本物の殺意を感じ。ぞくりと背筋がざわめく。
安曇は。いつでも自分を殺せるのだと悟った。
ではなぜ、安曇はここで、時間稼ぎのようなことをしているのか?
そう思ったとき、ハッとした。
撤退時の、矢を射掛けられる時間が、もうすぐなのでは?
だが、たかがひとり、戦場に置き去りにしたところで。安曇には、なんの利益もないな。
つか、そんなことより、もっと安曇と剣を交わしていたい。
もう少し。あと少しで、翼を使った攻撃のコツが掴めそうなんだ。
それに、骨のある剣士と戦うのも、久々だ。
もっと、楽しもうぜ。
そんなふうに、安曇との戦いに、のめり込んでいたとき。
ふいに、剣と刀の間に、別の剣が割り込んできた。
ギリギリの緊張感の中だった。
糸がプツリと切れるように、剣先が弾かれ。
千夜と安曇は、互いに後ずさる。
千夜は割って入った者を、視界の端に見た。
光沢のある緑の髪が、夕焼けにキラキラ光って、大きな目の子供? 女の子?
なんで戦場に女の子?
つか、敵の龍鬼の前に出るなんて。危ねぇじゃねぇかっ!
「余計なことすんじゃねぇ!」
この三人の中で、緑の子供は、誰よりも年上だった。
しかしそんなこと、当時の千夜は、知るわけもない。
千夜の感情としては。両親の喧嘩に子供が口をはさんできた、的な。
親猫の壮絶な争いの中に、よちよち歩きの子猫が突っ込んできた、的な。そんな印象だった。
あっぶねぇだろうがっ、と。牙をむいて、怒りたくもなる。
だからそんな言葉で、緑の子供を注意したのだが。
あっと思ったときには、もう、安曇は遥か彼方で。
緑の子は、目に止まらぬ速さで、剣の柄を千夜の腹にぶち込んだ。
気を抜いていたわけでもないのに。子供の攻撃が、なんでこんなに重く、強烈なのか?
腹をおさえて唸る、千夜の尻を、緑の子が蹴った。
「わ、なにするっ、おい、待て」
何度も蹴りを入れられ、千夜は追い立てられるニワトリの気分で、戦場を離脱させられた。
安全地帯まで下げられた千夜は、己を散々蹴り上げてくれた緑の子を振り返る。
文句と、注意を言うために。
「おい、おまえっ…」
だが、ついさっきまで、尻に蹴りを入れていたはずの子は。いなかった。姿も形もない。
「どこ行った? あの、緑の…可愛い子」
ほんの一瞬、千夜は目にしただけだった。
でも、脳裏に焼きついている。
大きな、緑色の瞳。でも凛としていて。
最初は女の子かと思ったけれど。柄を腹にぶち込んだ、あの力強さや、蹴りの強さは、女性には出ない。
いくらなんでも、千夜がいつまでも蹴られっぱなしなわけはないのだ。
なのに、安全地帯まで、彼を止めることもできずにいたのだから。
背は、己の肩より少し大きいくらい。
でも、あの頬の丸みは、子供のそれだ。
おそらく新兵だろう。龍鬼の恐ろしさも知らず、剣を割り入れたに違いない。
今度会ったら、マジで注意してやらないと。
それとも、俺がそばにいて守ってあげようか。
今まで、千夜は。強くなることにばかり心が向いていて、色恋沙汰などは、全く興味を示さなかった。
整った、精悍な顔立ちをしているし。大きくて、美しい羽を持っているので。女性にはモテたし。結婚話も、ちらほらあった。
でも、そんなことにかまけていられなかったから、全部断って。修練の邪魔だと、顔をしかめていたほどだ。
そんな千夜だったが。
あの緑の子は、なんだか気に掛かって。
またあの綺麗な瞳を見てみたいな、なんて。
初めてそんな気になったことを。千夜はしばらく気づけなかったのだった。
★★★★★
一年後。千夜は十六歳になり。ようやく右軍の転属願いが通った。
しかも、高槻廣伊が組長を務める、第五大隊二十四組。
やった。これで、高槻の暗殺が実行できる。
そうしたら、祖父が願っていたように、望月千夜は随一の暗殺者であると、世に宣言できる。
最初は。高槻の首を手裏に持っていって、などと考えていたが。
安曇と対戦したことで、あれはまずかったのではないかと、千夜は考えた。
高槻の首を持っていっても、安曇が千夜のことを敵だったと言ったら。功績を認めてもらえないかもしれない。
逆に討たれたら、笑えない。
それよりも。龍鬼は世間の敵だった。
みんなが、龍鬼を煙たがっている。その龍鬼を殺すのだから、世間の英雄になれるではないか?
龍鬼を殺せば、将堂の戦力を大きく裂くことになるから。将堂には追われるかもしれないが。
そのときは、手裏の領地に逃げ込めばいい。
将堂の龍鬼を殺した英雄だから、歓迎くらいはしてくれるだろう。
その他に、千夜には気掛かりがあって。
あの緑の子が、みつからないのだ。
左軍にはいなかった。
当時、戦場にいた左軍は、第八大隊だけで。つまり第八にいなければ、右軍だということだ。
右軍は実力重視で、それなりの腕がなければ、生き残れないらしい。
あんな無謀な子供、やっていけるわけがない。
龍鬼との対戦に、突っ込んでくるような子だったから。あのあと、すぐに死んでしまったかもしれないな?
もし奇跡的に生き残っていたら、出会えるかもしれないけれど。
あぁ、自分がこの手で、守ってあげたかった。
左にいたなら、絶対に守ってあげたのに。
あの緑の綺麗な瞳。ちょっと気の強そうな、可愛い顔。もう一度見たいなぁ。
そんなことを考えつつ。千夜は意気揚々と、二十四組の猛者が集う広場に立った。
新兵として、古参の兵に挨拶をするわけだが。
まず、組長が。花龍、高槻廣伊が、百名ほどの兵が整列する、その一番前に進み出て挨拶をする。
ようやく暗殺対象を、この目で拝める日が来た、と。千夜は、わくわくしていた。
そのとき。印象的な緑の髪が、千夜の横を過ぎていった。
え、あれって…。
「右第五大隊、二十四組組長、高槻廣伊だ」
大きく心が揺れて、千夜は、気持ち悪いと感じた。
緑の、あの子が。
なんで、二十四組の猛者を従え、一番前で挨拶をしている?
高槻廣伊だと言った。
嘘だろ?
あの、緑の、可愛い子が。龍鬼の高槻?
俺が殺すのか? 守ってあげたいと思った、あの子を。
いいや。高槻を殺さなければ。暗殺者として。高槻を殺すと決めたのだから。
だけど…。
千夜の心は、切れ切れの散り散りの、粉々だった。
組長が、なにを話したのかも覚えていない。
ほのかな感情を持っていた己と、暗殺者である己が、引き千切られたみたいで。
「望月千夜」
だから、唐突に感じたのだ。
唐突に、あの子が目の前に立って、己の名を呼んだ、と。
「…はい」
自分でも、驚くほどのかすれた声だった。
いまだかつて、これほどに動揺したことはない。
初めて人を殺したときでさえ、これほどではなかった。
「望月、私と勝負しろ」
勝負になど、ならなかった。
動揺を怒りに置き換えて、がむしゃらに挑んでみるが。相手にならない。
安曇のときは、強い相手と戦えることに、喜びを感じたが。
高槻を相手にするのは、ただただ苦痛で。
これから、暗殺するのだ。
分析とか、太刀筋とか、癖をみつけろとか。
いろいろ役に立つだろうことを吸収できる、絶好の機会だというのに。
なにも考えられない。
そうして、沈んだ。
水をぶっかけられて、意識は保てたが。マジで立てなくなった。
高槻は、鬼強かった。
地面に這いつくばり、千夜は組長を見上げる。
自分が守ってあげたいなどと思っていた、緑の子の面影は、ない。
子供などではない。
無表情で見下ろす高槻は、強者の威厳と気品に満ちていた。
ただ。高槻が組長として、千夜になにやら、ぐちゃぐちゃ言い始めた。
死に急ぐ歳じゃないとか。特攻兵はいらないとか。左の方が有益だっただろうとか。
その文句は、なにもかもが的外れで。腹立たしかった。
なにも知らないくせに。
奥歯を強く噛んで、千夜は立ち上がり。
不快だという気持ちを込めて、高槻を睨んだ。
「あそこは、俺のいるべき場所じゃねぇ」
ずっと、千夜は、高槻のそばに行きたかったのだ。
強い敵と、戦いたい。
そして自分も、強くなりたい。
だから、左にいるのがつらいばかりだった。
念願叶って、千夜は、これからの展望に胸を弾ませていたのに。こんなことになるなんて。
目指すものが、ぶれて見えなくなったのだ。
八つ当たりくらい、したくなる。
「二十四組の組長が、相当強いってことは、噂通りだった。それは、認める。でも、この激戦組を生き残ってきたって聞いてたから、剛腕で、熊みたいな男を想像してたんだ。その外見、詐欺じゃねぇ?」
高槻に、千夜はズイッと迫った。
千夜の方が背が高いから、組長だろうが上官だろうが、見下ろしてやる。
近くで見ると、本当にかわ…。いや。どこからどう見ても、ガキ。
威厳なんか気のせい。
自分より年上とか、あり得ねぇ。
自分の中の、このよくわからない、火であぶられているような、じくじくした感情を。高槻にぶつけずにはいられなかった。
「…あんた、心狭いんだな? この前のこと、根に持ってんだろ? 仕方ねぇじゃん。こんなちっこいガキ、上官だと思いもしなかった」
思いつく限りの暴言で、千夜は高槻を貶めようとする。
でも彼は、けなされようと、部下に見下ろされようと、水滴が顔に落ちてこようと、表情を全く動かさない。
そんなことで動揺しないと、心が未熟な千夜を嘲笑っているようにも思えた。
完全に、被害妄想だが。
「別に、根に持ってはいないが」
「持ってるじゃん。入隊早々、こんなにしごきやがってよぉ」
しごきは、むしろ千夜にとっては、ご褒美。強い相手に指導してもらうのは、最大の喜びだった。
けれど、思ってもいない愚痴が止まらない。
脳内には、なんで、という言葉があふれていた。
なんで、これが高槻なんだ。
なんで、上官に暴言を吐いた。
なんで、あの戦場にこれがいた。
なんで、なんで、なんで。
動揺の嵐がおさまらない。
そんなとき、高槻が、千夜の足に蹴りを入れた。
バシッと音がして、よろけたけれど。ガタイと、頑丈さには、自信がある。
さすがに、倒れはしなかったけど…。
え、なんで? 気ぃ強過ぎね? 厳しすぎじゃね?
あの緑の子が、有無を言わさず蹴ってくるなんて。
そう思って。そういえば、戦場でも、千夜は蹴られながら離脱させられたのだ。
少し会わぬ間に、緑の子が美化されている、かも?
「上官に暴言を吐いたことを、それなりにマズイと思っているのだろう? でも、それだけでは、答えは半分だ。私は、特攻兵はいらないと言ったんだ」
高槻は千夜のことを、無謀で、命知らずなガキだと思っているようだ。
それは、こちらの台詞だ。
千夜は、あの緑の子のことを、龍鬼との戦いに首を突っ込む、無謀で、命知らずなガキだと思っていたんだから。
特攻なんて、かますわけない。
暗殺者ならば、痕跡を残さず敵を殺す、もちろん自分も生き残る、それが基本だ。
依頼を受けたら、それなりの覚悟を持って行動するが。
生きていてこそ、依頼を完遂でき、報酬も受け取れるのだから。
ただ、千夜は。あの戦場では、憤っていた。
強い敵と戦えたことに、喜びを覚えてもいた。
強くなることに貪欲で、周りが見えていなかった。
だから高槻には、その姿が無謀に見えたのだろう。
「俺が、自殺志願者だとでも思ってんのか? 違う、違う。給料が下がると言っても、大した違いじゃねぇし。地位も後ろ盾もねぇから、俺が出世したって、せいぜい組長止まりだからさ。なら、少しでも充実感がある場所にいたい。花龍の高槻廣伊は、強いって聞いていた。名高いあんたのそばでなら、俺の力も生かせるだろうって…そう思っただけだ」
怒りは、腹の奥底にくすぶっている。けれど千夜は笑いながら、軽い感じで、高槻を煙に巻こうとした。
彼を暗殺するのなら、ここで目をつけられるのは得策じゃない。
けれど、イライラともやもやは、千夜の胸を、ずっと焼き続けていた。
「嘘が下手だな。ついさっきまで私の顔も知らなかったくせに」
「噂を聞いただけで、顔なんか興味なかったし」
そうだ。それが第一の失敗だ。
左の者が、右の施設に行けないなんて、真に受けて。二年も動かなかった。
慎重に、なり過ぎていた。
いや。命を刈る過程を楽しんでいた。暗殺者失格だ。
千夜は明るい笑顔を引っ込め。心を凍てつかせる。
こんな自分では、高槻を暗殺など、できはしない。
先ほども完膚なきまでに、叩きのめされたではないか。自分は、まだまだなのだ。
「死神と友達だという、あんたなら、涼しい顔で天寿を全うできんのかもな。でも、俺の目には、死神が手招いている姿がはっきり見えてる」
死神という名の、祖父の姿だ。
不甲斐ない自分を、三途の川の向こう側で罵っている。
負けるわけにはいかない。やはりおまえには無理だったな、などと。言わせるものか。
「俺のするべきことは決まっているんだ。邪魔すんな」
高槻を殺す。俺の手で。
千夜は高槻に背を向け、他の兵と合流するため、走り出した。
もっと。もっと鍛えないと。
高槻を、いつかこの手で始末するために。
一年前の、緑の髪が脳裏にかすめたけれど。見なかったことにする。
★★★★★
その日から、千夜は。打倒、高槻を目標に掲げ。闇雲に鍛錬に励んだ。
強くなりたかった。高槻を殺せるくらい、強く。
祖父の言ったとおり、高槻という龍鬼を殺れば、自分は強いと誇示できる。
たとえ青い羽であろうと、自分は強いと言える。
二度と、誰にも否定させねぇ。
だけど。その龍鬼は、なんであの緑の子なんだ?
なんで、あの子を殺さなければ認めてくれないんだ?
己が気に掛けた緑の子だろうと、あれは高槻なのだから、殺せばいい。
でも、躊躇してしまうのは、なぜか。
千夜は、もうわかっていた。
自分は、惚れてしまったのだ。
あの、戦場で割って入った緑の子を、可愛いと思った時点で。
だから、思い悩む。
惚れてしまった緑の子が、なんで高槻なんだ? と。
考えてもわからないことを、延々と頭の中に巡らせ、高槻に牙をむき出しながら、彼の部下として戦場に出る。
気づけば、高槻を強く意識して。高槻を殺す、絶好の機会を探りつつ。常に彼を、目の端に入れる日々が。二年も続いていた。
その日も、千夜は鍛錬に精を出していた。
消灯が近いという夜中。千夜は宿舎などがある敷地の端の、木々が生い茂った、誰も来ないような暗がりで、ひたすら素振りを繰り返している。
鍛錬しているところは、誰にも見られたくない。
その場所は、静かで。ただ、剣が空を切る音しか聞こえない空間だった。
だから、気づいたのだ。遠くから響いてくる、喧騒を。
こんな夜中に、なに、外で騒いでんだ?
ここからでは見えないくらい、遠い位置だった。でもその中に、高槻の、独特の気配が混じっている。
これは、好機かも。
夜闇の中、人知れず近づけば。隙をついて、殺れるかも。
千夜は足音など立てず、風のように駆けて行った。
すると、見えたのだ。高槻の白い背中が、闇に浮かび上がっているのを。
背中? 裸? いや、ズボンを身につけているが。
なに、そんなに無防備な姿になってんだ!
瞬時に、千夜の頭に血が上った。
考えたのではない、胸のうちから湧き上がったのだ。
俺のに、なにしてやがるっ、と。
施設内にいるから、将堂の者だろう。軍服も着ている。
味方同士の殺生は、基本、ご法度だ。だから千夜は、剣を鞘におさめて、高槻の周囲を囲む一団めがけて、拳を振り上げた。
どういう状況か、すぐにはわからなかったが。
とにかく、俺のに触るな、という気持ちだった。
突然、横から現れた千夜に、暴漢たちは、なす術なしだ。
力任せに殴りつけ、蹴りつけて、敵を吹っ飛ばす。流れるような体さばきで、次々に敵を倒していった。
「…おい、殺すなよ」
そんな中、高槻が冷静な声を千夜にかける。
はぁ? 襲われてんのは、あんただろ? なに敵をかばってんだっ!
そんな憤りで、高槻を睨んだら。彼は口を閉じた。
それで。高槻が手を出す隙も与えず、暴漢をぼっこぼこにしてやった。
ったく、腹立たしい。
喧騒に気づいたのだろう、見回り兵が笛を吹きながら、こちらにやってくるのが見えた。ヤバい。
素早く上着を脱いで、千夜は高槻の背中にかぶせた。
こんなに白い背中を。なだらかな胸…だから、やっぱり女子ではないが。
女子にも見まがう可愛らしい容姿で、鮮やかに色づく乳首とか、見せんじゃねぇ。
誰にも。俺にも。
惑わす気かっ。
「…着ろよ」
千夜は高槻を見ないようにして、駆けつけた兵に説明した。
「二十四組組長の高槻廣伊がこの者たちに襲撃を受けた。俺たちの事情聴取は明日にしてくれ。こいつらの始末を頼む」
簡潔に言って、高槻の手を掴み、早足でその場を去る。
こんな無防備な高槻を、誰にも見せたくない。
「待て、望月。どこへ行く?」
「あんたの部屋だ」
当たり前だろうが。早く隠したいんだ。なにもかも。
あんたの姿態も。
殺そうと思った相手を、助けてしまった、己の失態も。
恥ずかしすぎて、いたたまれない。
組長の私室が並ぶ棟に、千夜は足を踏み入れた。
しんとして、人の気配がまるでない。
こんな夜更けに、組長が全員不在なんてこと、あるのか?
入口が不用心に開け放たれているのが、高槻の部屋だと見当をつけ、入るが。
鍵がぶっ壊れている。
もうっ、マジ、あり得ねぇ。
千夜は剣を鞘ごと革帯から抜き、突っ張り棒代わりにして、戸を閉めた。
落ち着くよう、深呼吸を繰り返すが。怒りのマグマが噴火寸前で。
もうどうにも我慢ならず。
振り返りざま、高槻を叱った。
「あんた、天下の花龍が、なに簡単に襲われちゃってんだよっ?」
「いや、簡単に襲われたわけではない。ちゃんと対処していたはずだが」
こんな目にあっても、高槻の表情は冷静そのもので。
なんで怒ってんの? って不思議がるくらいに。感情が凪いで見えた。
「…剥かれてんじゃねぇかよ」
千夜は高槻に着せ掛けた己の軍服を、掴んで引き寄せる。
肩にかけているだけだから、すぐに素肌があらわになった。
なめらかな肌が、白く光って。
この肌を、あいつらに見せたのか? 触らせたのか? どこまで? 誰に?
許せない。俺のに、触りやがって。
「着衣か? 剥かれたわけじゃない。沐浴中に襲撃にあっただけだ」
怒り心頭の千夜に、冷や水を浴びせるごとく、高槻が訂正した。
そういえば、机の上に、湯の入ったタライがあり。
ならば、押し倒されたりしていない? 誰にも触らせていない?
だったらいいのだがと。千夜は息をのむ。
「龍鬼が目障りで、襲撃する奴らが。嫌がらせでも、龍鬼の服を脱がそうなどとは、思わないものだ。あいつらだけではない。普通の者ならば。望月のように、服を貸したり、引き寄せたり、顔を寄せたり、しないんだ」
千夜は、龍鬼に差別観はない。
ただ、龍鬼を殺れば、名に箔がつくから、つけ狙っているだけで。
自分を、他の者と同様に見ないで欲しかった。自分は、先ほど高槻を襲った暴漢とは違う。
なにが、違う?
志が。
そんなもの、高槻にわかるものか。違いなどない。
いいや、違う。
感情が、支離滅裂なのを、千夜は己で感じていた。
目の前に、高槻がいる限り。この苦悩は続く。
やはり、殺すしかない。そう思って。
「殺す…」
つい、本音がぽろっと口から出てしまった。
高槻は、己をイラつかせる、天才だ。
いつも判で押したように、表情が変わらない男だが。このときばかりは、若干、きょとんとしていた。
まぁ、確かに、いきなり殺す宣言されるのは、意味不明だろうからな。
だが、千夜は高槻の困惑に構わず、彼と距離を詰めた。
他の者が離れるのなら、自分は触れる。
肩に触れて、組長を引き戸に押しつけ。さらに顔を寄せる。
緑の綺麗な瞳の中に、己のギラギラした顔が映り込んでいた。
あぁ、好きだ。でも殺す。好き。殺す。
相反する感情が、交錯していた。
いいや。殺すのだ。高槻廣伊を、この手で。
「殺す。俺が、あんたを殺す。あんたを、俺の獲物に決めた」
自分に言い聞かせるように宣言し、手甲に仕込んでいた短剣を、高槻の首筋に押し当てる。
刃先で、頸動脈をなぞった。
ここを切れば死ぬと、暗示させるように。
なのに。高槻は、笑った。
今まで、能面みたいな顔つきだった男が、笑った。
笑ったら可愛いだろうなと想像していた、あの緑の子が、笑った。
やっぱ可愛いじゃねぇか…。
って、違う。
動揺が振り切って、羽が勝手にバサッと開いた。
「な、なに笑ってんだ。あんた馬鹿にしてんのか」
「いや…」
笑顔は、一瞬だった。もう能面に戻ってる。
「俺がやれないと思ってんのか? 危機感なさすぎだっ」
「やるなら、ひとおもいにやってくれないと。くすぐったいんだが」
刃物を突きつけても、なんの感情も見せない。怖がりも、脅えも、怒りも。
そんな高槻の、緑色の瞳を見て。千夜は悔しいと思った。
自分では、高槻を脅えさせることすらできないのか?
暗殺者なら、そこにいるだけで怖いと思うものだろう?
なのに。
高槻に、恐怖の表情を浮かべさせたかった。
恐怖でなくてもいい。無感情以外の、なにか、表情を。
心が動いていないということは、無視されているのと同義だと、千夜は思ったのだ。
だから、いら立たしくて、奥歯を噛んだ。
「はっ、誰になにをされても、あんたは動じないってことか。なら俺が、あんたの心を揺さぶる、初めての男になってやろうか?」
手の中の短剣を動かし、高槻の鎖骨の上に滑らせた。
たった、皮膚一枚。血が一滴流れる程度の傷だ。
その赤い雫を、千夜は舐めた。
さすがにぎょっとしたのか。高槻は腕の中で、もがいた。
けれど、離すものか。
高槻が慌てていることに、千夜は高揚する。
もっと高槻が動揺すればいい。そう思って、舌を傷口にさらに捻じ込む。
「やめろ。龍鬼の血を吸うなんて、正気か?」
組長が必死に、己の髪を鷲掴み、引きはがそうとしている。
囁き声で叱るから。してやったりと。千夜は顔を上げ、ニヤリと笑う。
目を丸くして驚く、高槻の表情…それが見たかったのだ。
「やっと、あんたの素の表情を引き出せた」
「そんなことのために。私をやり込めるためだけに、こんな恐ろしいことをするなんて。龍鬼の血を体内に取り込んだ者が、どうなるか、わからないんだぞ?」
そんなこと? それが、今、一番大事なことなのだ。
己の行動に、高槻が揺さぶられることが。
高槻が、己を認識することが。
「あぁ、化け物になって絶命するとか。翼が腐り落ちるとか。俺自身が龍鬼になるとか?」
むしろ、そんなの大歓迎だ。
龍鬼になれたら、もっと強くなれるかもしれねぇじゃん。
高槻よりも。誰よりも。
だが、そんなことはないのだ。
龍鬼を見たり、触れたり、話しただけで、龍鬼がうつるなんてのは、迷信。
そんなことなら、戦場には、龍鬼がうようよ発生するに決まっている。それでも、数えるほどしかいないのだから。
龍鬼というのは、最高の希少種なのだ。千夜はそう思っていた。
千夜は、血脈にそれほど、こだわりがないから。希少種だからといって、ありがたがることもないのだが。
「龍鬼がうつるって、あんた信じてんの?」
「…知らないが。どうなるかなんて、わからないが」
不安げに緑の瞳を揺らし、高槻が千夜をみつめる。
千夜は初めて、高槻の視界の中に入れてもらえたような気になった。
でも、そのせつない瞳は、胸がなんだか痛む。
どんな表情も見たいと思っていたのに。こんな表情は、嫌だなんて。自分勝手すぎる。
「だって、みんながそう言うから。うつるから触るなと言う。だから私は…」
髪を掴んでいた、高槻の手が離れた。
彼の体温が遠ざかるのを、寂しく思う。
「だから私は、誰にも触れない」
高槻が、目を伏せる。
ほんの間近にある、緑色のまつ毛が、震えていた。
光沢が動いて、キラキラして見える。
綺麗だな。傷ついているのだな。可哀想だな。
そう思うけれど。
こんな高槻を知るのは、自分だけだという優越感も湧く。
彼を、抱き締めたくなった。
慰めて。ひとり占めして。心のままに、愛したかった。
そうだ。自分が暗殺者でなければ。ただただ、高槻を愛することができたのに。
でも今は。
今だけは。己が暗殺者だということを忘れたかった。
「俺が証明してやるよ。龍鬼に触れても、なにも起こらないってな。だから、そんなこの世の終わりみたいな面するなよ。…つか、なんで俺がいじめたみたいになってんだよぉ」
「なぜだ? おまえは私が嫌いなのだと思っていたのだが」
「そのすました顔が、気に入らねぇんだよ。でも、あんたを俺の獲物に決めた。つまり、あんたの命は俺のもの。なのに俺のものが、毛嫌いされたり、命狙われたり、誰かに奪われたり…そういうの許せないから」
「なんだ、その言い分は。めちゃくちゃだな」
高槻は、眉間にしわを寄せた。
おぉ、動くじゃないか、眉毛。もっと動かせ。
それはともかく。
自分でも、支離滅裂だと思う。
簡単に言えば。可哀想な顔は、見たくないということだ。
「そんなに心配すんなよ。あんたが想像する悲劇なんか、起きやしない」
龍鬼の血を舐めたことを、高槻は本当に心配していた。
あの能面顔を、曇らせるほどだ。
高槻の胸に己が居座るのは、とても心地よいことだ。
良い気分で、千夜はニヤリと笑う。
「俺が、あんたを殺す。俺以外の男に、あんたを触れさせない」
「いいだろう。私の命を、おまえにやる」
高槻の中で、なにがどうなったのか、わからないが。とにかく、予想外の返答だった。
だって、殺すと言われて、命を差し出すやつがいるか?
驚いている隙に、腕の中から高槻が脱出してしまった。ちっ。
「いつでもいい。おまえが私を殺せ。だが、ひとつ条件をのんでもらおうか」
なにを言い出す気なのか、全く予想が立たず。千夜は高槻を、いぶかしげに見やった。
「私を殺す前に、おまえが死んではならない」
高槻の言い分は、おおよそ、こんな感じだった。
刹那的に生きる千夜を、戦場に出すのは気が気じゃない。廣伊には上官の責務として、千夜を家族に返す義務がある。みたいな。
「は、家族…」
千夜に、家族なんか。とっくにいない。
生きていたとして、千夜が無事に戦場から帰還することを、あの祖父が喜んでくれたのかどうか…。
父母の記憶は、さらに遠い。
千夜にとって、家族というものは。
良いものでも、尊ぶものでも、微笑ましいものでもない。薄っぺらなものだ。
「家族でなくても、将来、おまえと一緒になる伴侶でもいい。いつかおまえを必要とする者のために、おまえの命を生かす」
家族に対する期待値も、高くないから。伴侶を持つことにも、興味が湧かない。
「あんたの血を吸った。伴侶なんかいらねぇ」
自分はどうでもいいが。世の風潮としては、龍鬼に近しい者には縁談が来ない。
むしろ、せいせいする。
でも高槻は。責任を感じているのだろう。馬鹿なことをしてっ、と吐き捨てていた。
そうだ。良いことを思いついた。
「俺の相手は、あんたがすればいい」
そうして、甘い雰囲気を出しつつ、高槻にキスをしたのだが…失敗した。
あぁぁ、ここら辺は思い出したくねぇ。
とにかく、己を必要とする誰かというやつを、高槻がやれ。と、うまく言いくるめてやった。
「組長、これは契約だ。俺に体を差し出し。命を差し出す。その代わり、俺もあんたのものになる。あんたの望みを叶える」
「契約成立だ」
なにを考えているのか、さっぱりわからないが。高槻は承諾した。
こんなの、契約でもなんでもない。高槻を殺せば終了の、自分に都合のいい、口約束。
その日のうちに、片がつくと思っていた。
実際、初めて高槻を抱いた日に、刃を向けたのだ。
一番、快楽に浸っている瞬間を狙って。
暗殺を、情交の最中に行うのは。異性間なら、よくある話だが。自分はもちろん、したことがなかった。
しかし有効な手だということは、教わっていた。
けど。全然、駄目だった。
自分では、気づかないし。今までも、気づかれたことなどなかったのだが。
高槻には、殺意が見えるらしい。
自分の殺意は、いわゆるダダ漏れだという。
マジか。
それで、気づかれて。高槻を殺れなかったわけだが。
あぁあ、初めての情交も、思い出したくねぇ。
廣伊は、初めてだったのに。気を遣って、大事に大事に、抱いてやりたかったのに。抱き潰しちゃって。
くそっ、うまくいかねぇことばかりだ。
抱き潰したというのに、殺すこともできないという。ヘタレすぎる。
契約だなんて言いくるめて、廣伊を抱いたけれど。
それも一回きりのつもりだった。
くちづけも、抱くのも、愛するのも。
初恋の相手を、この手で殺すのだ。
自分の腕の中で、優しく殺してやりたかった。
廣伊は…全然、おとなしく殺されてなんかくれないけど。
一回きり…。は? そんなの無理に決まっている。
目の前に、廣伊がいるうちは。
あの唇の甘さを知ってしまったら。肌のなめらかさを味わったら。
美しい緑の瞳が悦楽に潤むのを見てしまったら。
手を出さずにはいられないだろうがっ。
★★★★★
その後も、千夜は何度も暗殺を試みた。
しかし廣伊は、それを華麗にかわす。
そして、暗殺が失敗すると。千夜は廣伊を抱く。その繰り返しだ。
殺したいのだ。
愛しているのだ。
その心の葛藤は、長く続いていく。
千夜以外の刺客から廣伊を助ける。そして、己も殺そうとする。失敗したら、愛し合う。戦場に立てば、廣伊の盾になる。そしてまた、殺そうとする。
全く馬鹿げた、命のやり取りだ。
誰かが、髪に触れた感覚がして。千夜は、それを手で掴む。
生存本能で、無意識に掴んだそれは。廣伊の手だった。
情交のあと、一瞬、寝てしまったようだ。
寝台の上、千夜は裸で。廣伊は、もう軍服を着ている。
廣伊は、夜中に襲われることが多いから、油断しないし、無防備な状態を、なるべく作らないようにしている。
それでいい。
「すまない。起こしたな」
パッと、廣伊の手を離す。
彼は、千夜のこめかみに近い横髪を、編み込んで、遊んでいたらしい。
また髪をいじり始めた。
「もう少し、髪を整えたらどうだ? せっかく綺麗な色目をしているのだから」
千夜は、あまり外見に頓着がなかった。
髪は伸ばしっぱなしだし、洗いっぱなしで。朝起きて、手ぐしでさっと整えるだけだ。
切るのが面倒だから、伸ばしているが。毛量が多いのでライオンのたてがみのようだと、古参の兵にからかわれている。
「キラキラ光って、こんなに発色の良い青色は、見たことない」
寝起きに、手放しで褒められ。千夜は、どんな顔をしていいかわからなくなった。
ただ、顔が熱くなって、困った。
今まで、この色を褒められたことがないわけではない。
むしろ。祖父以外の者には、大概綺麗だと言われていた。
でも、千夜はどうでもいいと思っていて。
だって、暗殺者にとって、この色は致命傷なのだ。なんの役にも立たない。邪魔なものでしかない。
「こんな色。戦場でも、どこでも、目立ちすぎて。標的にされやすい、厄介な色だ」
「標的にされるくらい悪目立ちして、涼しい顔で敵を討つ。それが格好いいんじゃないか?」
ずっと、隠れることしか考えてなかった。
目立たず、人知れず、が暗殺の基本だから。
でも廣伊に言われて。なにかがさっくりと、胸に刺さった。
確かに、この色で敵を集めて、全滅にできたら格好良い。
わざと目立つなんて、逆転の発想だな。目からうろこってやつだ。
「この美しい青を持つ剣士は、望月千夜だけだと、派手に主張すればいい。武名をあげるかもしれないぞ」
褒められて、初めて嬉しいと思った。
この色で良かったと思った。
美しいと言われて…照れてしまった。
この青色を、ずっと、うとましく思っていたが。
廣伊が好ましく思ってくれるのなら、父から貰ったこの色を、誇ってもいいのかもしれない。
好きな人が、己の嫌っている部分を、褒めてくれる。単純かもしれないが、それだけで、目を背けるくらいに毛嫌いしていた己の短所を…己自身を、丸ごと愛せるようになるのだな。
「青色じゃねぇ、瑠璃色だ」
廣伊の手の動きを、くすぐったく思いながら。千夜は訂正した。
「オオルリの父から貰ったこの色と、カモメの母から貰った大翼。良いとこ取りなんだぜ?」
それからは、父母から受け継いだこの翼を、卑下することはなくなった。
結局、血脈なんかと言っていた己が、一番、翼の色に不満を持ち。血脈を否定し。己を否定してきたのだと。千夜は気づいたのだ。
この翼だから。今の自分がある。
そう、己を認めることができたような気がした。
「キラキラなんて、言うが。廣伊の方こそ、キラキラで、綺麗な緑色じゃないか。なんの血脈なんだ?」
千夜は廣伊の、肩口で切り揃えられた髪を、指先で撫でる。
濃いめの緑に、剣が輝くがごとくの光沢が、目にまぶしい。
「私はケツァールだと聞いている」
「ケツァール? 世界で一番美しい鳥だ。それって、希少種じゃないのか?」
「あぁ、そうだ。でも、私が生まれてしまったから、家は存続できないかもしれないな。あまり、実家のことをよく知らないんだ。蔵で育てられ、ここに来るまで、暗いところに閉じ込められていた。だから、故郷がどこかも知らないし。家族の顔も見たことがない」
廣伊の実家を、千夜は知っている。
千夜が育ったところの、隣村だ。
でも、言わない。
千夜が十歳のときだから、廣伊は十三歳。
高槻の屋敷から、将堂の兵によって運ばれていくのを見た。
自分ですら入らないと思われた、小さなあの箱に、廣伊が詰められていたというのか?
能力を出さないよう、袋叩きにして?
自分はそれを見物していたなんて…口が裂けても言えない。
それに、あんな目にあったのだから。
廣伊だって、知ることを望まないだろう。そのはずだ。
「高槻の家以外に、ケツァールの血脈が、どこかで存続しているといいんだが…」
つらい目にあったのは、廣伊だ。なのに。血脈が途絶えなければいいと願うなんて。悲しすぎる。
もっと、廣伊は、幸せになっていい。なってほしい。
さんざん廣伊を標的にしている自分が、言えることではないけれど。
だから、千夜は。廣伊の頭を手で引き寄せて、キスした。
今は、廣伊を愛している、ただの千夜。
彼を幸せにしたいと願っても、いいだろうか?
柔らかくて、色鮮やかな緑を、千夜は指に絡めて、感触を楽しむ。
桃色の、美味そうな彼の唇を舐め。口腔に、舌をもぐり込ませても。廣伊は従順に、くちづけを受け入れていた。
いつも、一度したからもうしない、とか。明日も仕事だぞ、とか。いい加減にしろ、とか。睦み合ったあとに、触ろうとすると、文句を言うのに。
珍しく、なにも言わないから。
千夜はまた、廣伊を押し倒し、腕の中に抱きこんだ。
大切な宝物を愛でるように、丁寧にくちづける。
羽で触れるように、上唇を舌で撫で。
じわりと開く口元に、己の唇を合わせて。飴玉を転がすように、廣伊の舌を愛撫する。
目をみつめると、あの緑の瞳が、とろんととろけていて。
キスの気持ち良さに溺れる彼が、愛おしい。
「キス、上達したかな?」
「? 千夜は最初から、うまかったじゃないか?」
濡れた、色っぽい唇で、廣伊はそんなことを言うのだ。
キスに失敗した千夜を『初めてだろ』と指摘した、同じ唇で。
憎たらしくて。可愛らしい。
千夜はチュッと音を鳴らしながら、ついばむキスをして。廣伊に聞く。
「キス、好き?」
「ん」
「俺とするのが、一番、気持ちいいだろう?」
「知らない。千夜以外としたことないし」
知ってる。でもたびたび、こうして聞いて確認するのだ。
廣伊が心を開いているのは、自分だけだということを。
「俺は、廣伊とするのが。一番、気持ち良い」
「…私もだ」
たまらなくなって、深く口を合わせる。
情熱的なくちづけを受け、廣伊が己の肩に手を回した。
素肌に、剣士である彼の硬い手のひらの感触がして。なぜか泣きたくなる。
いっぱい甘やかしてやろう。今だけ。今だけは。
★★★★★
そうして千夜は。廣伊が好きだと言ってくれる己の嫌な部分を、少しずつ認められるようになり。
鬼強剣士に戦いを挑むことで、剣技も極めていき。
人を愛することも知って。
廣伊と関わることで、心を癒し、体を成長させていった。
ただ、愛する人を殺さなければならない、使命だけは。のみ込めない。
腹の底に、いつまでもある異物として、千夜を苦しめ続けるのだが…。
数日後。瑠璃色の軍服を身にまとい。横の髪をヘアピンで留める、おしゃれな姿で。千夜は廣伊の前に現れた。
「派手派手しいな。でも、似合っている」
「別に。廣伊に言われたからってわけじゃねぇからな。ピンは、武器にもなるし」
いたたまれず、千夜は廣伊から顔をそらした。
「それは、私に言っては駄目なやつでは?」
隠し武器の存在を教えるなんて、馬鹿なやつだと。廣伊は優しく笑う。
ささやかに表情が動く、廣伊のその顔を横目で見て。千夜は。
苦痛を腹に抱えていても…幸せだと感じた。
★★★★★
泥沼に沈んでいた意識が、痛みとともに、浮かび上がってくる。
痛いような、痛くないような。
でも、つらい。熱い。
目を開けない方が、苦しいと感じ。千夜は、まぶたをこじ開ける。
目の前には、あの鮮やかな緑色があった。
「千夜。気づいたか? 水を飲むか?」
廣伊に聞かれ、喉が渇いているような気がして、うなずく。
廣伊は水の入った急須の吸い口を、口元に寄せたが。なんか、うまく飲めなかった。
口の端からこぼれる水を、廣伊が指で拭ってくれて。申し訳ない気になる。
そうしたら、廣伊が急須の水を口に入れ、千夜にくちづけた。
口移しで、水が千夜の口腔に流れてきて。ごくりと、水を飲み込むことができた。
ようやく喉が潤されて、ホッとする。
水も、もっと欲しいけれど。
廣伊と、ずっと、くちづけていたい。
いつもみたいに、彼の頭を手のひらでおさえ、引き寄せようと思った。
でも、腕が上がらない。
というか、ない。
そうだ。自分は戦場で。山本に腕を斬られた。
思い起こすと、痛みが湧き起る。
まるで、脳が理解したから、痛みも感知した、みたいな。
もう少しくちづけていたかったのに。廣伊は離れてしまった。
「もっと、のむか?」
「…いや」
腕を斬られている割には、あまり痛くないと思う。たぶん、薬で痛みをおさえているのだろう。
頭もボーッとして、気持ちが悪い。
そんな中で、わかるのは。
自分がもう、暗殺者ではないということ。
目の前の男を、愛していいのだということ。
そして。もう二度と、廣伊を守ってやることができないということ…。
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