【完結】異世界行ったら龍認定されました

北川晶

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番外 准将、将堂赤穂

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     ◆番外 准将、将堂赤穂

 紫輝と話したいことがあり、赤穂は、彼の上司である高槻に、居場所を聞いた。
 龍鬼ゆえに、紫輝は食堂で夕飯を取らず。宿舎近くの樹海の中で、食事をしているという。

 龍鬼ということの弊害は、昔からあると知ってはいたものの。
 子供が…紫輝は十八歳だと言っていたが、どうにも信じられない、ちんちくりんな子が。ひとりで、薄暗い木々の中で食事をしているのだと聞くと。
 なんだか、やるせなくなる。

 高槻から聞いた場所へと向かうと、紫輝のそばから、ひとり離れた気配がした。
 どうやら、ひとりでの食事ではなかったようで。それは良かった。
 誰もいないんじゃ、あんまり可哀想だからな。

 ただ、自分が近づいていく気配を察して、気を利かせて離れたのだとしたら。なかなかの手練れが、そばにいることになる。
 もしくは、紫輝が指示したのか?
 龍鬼である彼に、部下がついているとは思えないが。

 赤穂が歩いていくと、木々が伐採された、開けた場に出る。
 紫輝はそこで、赤穂を待ち構えていた。
 やはり、紫輝は。己の気配に気づいていたのか。そう思い。赤穂はニヤリと不敵に笑った。

「おまえのお友達は、ずいぶん心配性だな。完全に離れ切っていないようだ。ま、俺の評判を知っている者ならば、一対一で会わせるのに、躊躇するのだろうが。話が聞こえないほどの距離だから、礼儀はあると言える」
 紫輝は胸を張り、鼻でフンと笑った。
 小生意気だ。

「やっと、殺気を出さずに普通に現れたな、赤穂。で、なにか用?」
 歩みを止めず、紫輝のそばまで来た赤穂は。鼻と鼻がぶつかるくらいの距離に顔を寄せ、囁いた。

「おまえ、俺の嫁になれよ」

 そのまま、くちづけるつもりだったが。紫輝が後ろにあとずさって、避けやがった。
「避けんじゃねぇ」
「いやいや、避けるだろ。なにする気? へ、変なこと言って、からかうなよな、嫁とか…」

 いつもギャンギャンわめいてくるのに、さすがに紫輝は慌てているようだ。
 常に強気なのかと思っていたが、狼狽する様子は、なかなか可愛いじゃねぇか。

「手っ取り早く、おまえを俺のものにしたいんだよ」
 紫輝は殺さずの雷龍として、敵からも味方からも、注目され始めていた。
 兄である金蓮も、すぐにも紫輝を囲いこもうとしたのだ。
 いやいや、これを先にみつけたのは、俺だから。
 兄にも、誰にも、渡さねぇ。

 将堂軍最強にして、最凶の男になってしまった赤穂は。誰からも畏怖される存在だった。
 目が合えば、殺される。とばかりに。誰も目を合わせてこない。
 特に部下などは。直近の幹部ですら、腫れもの扱いだ。
 今、赤穂が普通に接することができるのは、金蓮と、月光だけ。

 そんな中、紫輝の存在はとても新鮮だったのだ。

 初対面のとき。紫輝は、赤穂の顔を知らなかった。
 おいおい、基本情報なんですが。
 廊下ですれ違ったとき、頭下げなかったら。斬られちゃうかもしれないぞ?
 まぁ、そんなに簡単に、さすがに殺さないけど。

 とにかく、己の顔を知らない部下というのがまず、笑えた。
 その後、堺をかばって、最高司令官にたてつくとか。マジか?

 さらに、二人の龍鬼が、それぞれで警戒し始めた。
 この子供を守るため、いざとなったら、上官と一戦交える覚悟をしている。

 ヤバい。最高の能力者と鬼強剣士に守られるこいつ、何者?
 そんなの、欲しくなるに決まっている。

 二度目に会ったとき。
 赤穂は。殺気を放ったら、紫輝がどう反応するのか、試した。
 躊躇することなく、己の剣を受け止めた紫輝に、驚き。
 赤穂が来たと認識して、生気を吸わなかったことに驚いて。
 そして、もう上官だと知っているのに、態度が変わらなかったことにも驚いた。

 それって、まるで昔からの悪友みたいだ。
 己の立場では、もう絶対に得られない友達が、思いがけずできた…のか?
 嘘だろ。そんなの、手放せない。

 しかし。紫輝の争奪戦は、水面下ですでに激化している。
 金蓮も、おそらくあきらめていない。
 月光も堺も幸直も、紫輝を囲いこもうとした。大人気だな。

 一番厄介なのは、やはり金蓮だった。
 右軍には、龍鬼が三人いる。金蓮は大将として、将堂軍の戦力の片寄りを気にするふりして。紫輝をなんとか手に入れようとしている。

 それを阻止するには。紫輝と絶対的な絆を結ばなければならない。
 簡単に裏切れないような。逃げられないような。
 そして、手を伸ばそうとする輩を、躊躇わせるような。

 そこで考えついたのが、嫁だった。
 紫輝を嫁にすれば、こいつは俺のものだと、大手を振って隣に並ばせられる。
 金蓮でさえ、弟の伴侶に手は伸ばせないはず。うん。名案だ。

 というわけで、赤穂は紫輝の頭に手を伸ばし、髪を鷲掴みすると、唇を寄せた。
 今度こそ、逃げられない。逃がさねぇ。
 だが、紫輝は往生際悪く、自分の唇を手で覆って、死守した。

「駄目、駄目だ、俺たち、親子っ」
 紫輝の手のひら越しに、キスしたままの距離で。赤穂は紫輝の目をみつめた。

「はっ、なんだって?」
 赤穂は、軽く笑い飛ばす。
 この場を回避するための、言い訳なのか? それにしては荒唐無稽。とは思うのだが。
 紫輝は『しまった。言っちゃった。どうしよう』っていう顔でオロオロしていて。
 逆に信ぴょう性が高まる。

 それに、赤穂には、心当たりがなくもない。龍鬼の息子が、行方不明だ。

 くっつけていた顔を少し離し、赤穂は紫輝の唇の前にある手を、べりっとはがした。
 親指と人差し指で、紫輝の両頬をつまむ。
 すると紫輝の唇が、ピョッと前に突き出た。

「ぬ、ぬぁに、すんら」
 紫輝の抗議を無視し、強引に、右左と紫輝の顔を動かす。
 そしてじっくりと見やったあとで、結論づけた。

「…あぁ、マジで、俺の息子だ」

 べちっと、紫輝が赤穂の手を払う。
 猫が豆鉄砲食らったような、どんぐり目でみつめてきた。

「なんだよ、おまえ…そういうことは早く言えよ」
「はぁ? もっと、なんかないの? 一年でこんなに育ってておかしいとか、いきなり親子だって言われても、受け入れられないとか?」
「ぐちゃぐちゃ言われても、難しい話は、俺にはわからねぇよ。でも、おまえが息子なのは、わかる。おまえも感じるだろう?」

 ジッとみつめれば、紫輝はほんのり頬を染める。
 そうだ、感じる。これは本能だ。
 己の中の血潮が、紫輝の中に流れるものと、共鳴している。
 瞳の温度、心臓の音色、呼吸の発露、肉体が奏でるすべてのものが、己と同じものだと訴えている。

 赤子の紫月を抱いたときにも感じた、同じものだと。

「直感なのに、不思議なほど、間違いないと言い切れる。他にも、おまえが俺の子だと感じる部分は、多々あるぞ。その、やべぇ眼力とか。すぐに突っかかってくる、生意気なとことか。髪の手触りだとか。たまに湧き出る、厳然たる迫力も。人心を掌握する求心力、とかな」
「…求心力?」
 赤穂は、そばにある切り株に、腰かけた。
 紫輝も隣に並んで座る。長い話になりそうだ。

「人好きってことだ。龍鬼は本来、異常に警戒心が強い。不用意にひとに触れて、傷つきたくないだろう? だから容易に、心は開かない。俺は、武力で龍鬼を掌握しているんだ。でも、おまえは人柄だけで、警戒心のかたまりだった廣伊も堺も、骨抜きにしやがった。尋常じゃない、求心力だ」
「それは、俺も龍鬼だからじゃないか?」
「高槻と堺は、特に仲良くない」

 高槻は、部下として、礼儀をわきまえている。どれほどに強く、どれほどに優秀さを発揮しても、上官の前ではこうべを垂れる常識人だ。
 ゆえに、上官である堺に、一線を引いていた。
 堺が龍鬼として苦悩していても、手を差し伸べなかった。
 部下であり、厳しい教師なのだ。

 己の指針であった、藤王の弟だから、という理由もあったかもしれない。
 堺はよく、藤王と比べられて、傷ついていた。
 藤王に一番近しかった高槻が発する言葉は、堺を傷つけるのではないか。そのような気遣いを、高槻はするような気がする。
 つまり、高槻から堺への接触は、なかったのだ。

 堺は、単純に。高槻に負い目を持っていた。
 兄の藤王の失踪により、高槻の居場所が失われたからだ。
 高槻は、完全なる右軍体質だから、結果的に彼は、より良い居場所に移ったと言えるのだが。
 でも堺は。いつまでも悔やんでいて。それで高槻に、積極的に関わることを恐れた。

 そのふたりのかすがいに、紫輝はなったのだ。
 今まで単独で行動していた龍鬼たちが、結束を深める。それは足し算ではなく、かけ算の効果があることなのだ。
 それだけでも、紫輝という存在は有益なのだった。

「龍鬼ってものは、そんなに、ぼこぼこ生まれるもんじゃねぇし。凡人が、あり得ねぇと思うことを、するものなんだ。だから、いきなり大きくなってても、そうかと思うだけだ。いや…大きくはねぇか」
「どういう意味だよっ」
 紫輝は、いつものように赤穂にツッコむが。
 赤穂にあっさり親子認定されたことには、拍子抜けという顔をしている。
 まぁ、なんにしても。
 赤穂にとっては、僥倖で。天を仰いで、愉快な気分で笑った。

「それにしても、どうしても俺の下に欲しかったおまえが、息子とは…。超ついてる」
「その息子に、あんたはなんで、いきなりキスとか仕掛けてきたわけ?」
「言ったろ? 手っ取り早く、おまえを俺のものにしたかったんだ」
「俺は男だぞ? 同性で結婚はできないだろ?」
「できるぞ? おまえこそ、なに言ってんだ」
 赤穂は首を傾げる。

 紫輝は、たまに。一般常識が欠如しているところがある。
 頭は決して、悪くないと思うのだが。誰もが知っていることを、知らない。
 あぁ、一年で成長したから、そこら辺のことが、ガキのときのままなのかな?
 でも紫輝の語彙は。とても五歳児のものではない。
 うーん、謎だ。

 なんか、当たり前のことを説明するのは面倒くさいが。五歳児に、わかりやすく言ってやらなければならない。
 親だからな。

「…あぁ、結婚っつうか。夜の相手っつうか。恋愛関係の間は、目上の者が、相手の面倒のいっさいを見る。ってのが常識。親や子供を含め、養えるなら、何人囲ってもいい。女は、飽きても。一生、面倒を見てやらなければならないが。男は別れたら、そこで縁が切れる。伴侶の男と女の違いは、その点だな」
「でも、コセキとか、なんか公的なものが…」
「あ? コセキって、なんだ?」
 紫輝が、知らない言葉を発した。
 そういえば。紫輝はたまに、変な言葉を使う。
 意味の通じない言葉。その辺も謎だな。

「戸籍って、誰から生まれて、いつ結婚し、誰を産んで、いつ死んだ、とか。そういう証明みたいなもんなんだけど。そういうの、ないの?」
「んー、家系図かな。それなら各自、家に保管されているが。血脈の正統性を証明するときに使うだけのものだ。子をなさなきゃ、そこに記されることはないから。同性の嫁は記録されないな。つか、それ重要か?」
「重要…じゃないかな? 俺も詳しくはわからないけど。そうか、同性で結婚していいんだ」
 紫輝が、なんか嬉しそうに、ふふっと笑う。

 なんか、気に食わねぇ。

「同性で、結婚したい相手でもいるのか? 俺は許さねぇ」
「なんで、有無を言わせず? つか、赤穂だって結婚してんだからいいだろ? 俺の母親とか。月光さんとも結婚してるのか?」
 紫輝をみつめていた目を、赤穂は横に流す。
 息子には、微妙な話。
 でも、少しは明かさなければならないか。

「月光は、伴侶だが。そうしなければならない事情があり。俺とあいつの関係は、複雑なものがある」
「それは…愛していないということ?」
 少し、とがめるような目で、紫輝が赤穂をみつめる。
 紫輝は若いから。感情の面が先に立つ。

 愛しているか、愛していないか、それだけが重要。
 でも、大人は家や社会や立場や金など、クソ面白くねぇ重荷が付きまとう。

「いいや、月光を愛している」
 ただ、その感情だけで、彼と手をつないでいられたら。どんなに幸せだったろう。

「少し、昔話をしてやろう。俺と、月光の話だ」

     ★★★★★

 将堂赤穂は、当時、将堂軍の大将であった、将堂山吹やまぶき。その弟である、浅葱あさぎの息子だ。つまり、金蓮の父方の従兄弟である。
 しかし浅葱は、赤穂が生まれる直前で、戦死し。
 母も、夫が亡くなった精神負担とお産が重なり、夫のあとを追うようにして亡くなった。

 山吹は、弟の忘れ形見である赤穂を、引き取るが。
 嫡流は金蓮と明言しており。金蓮の右腕となるべく、一線を置いた状態で、育てられた。
 つまり、親の情や兄弟の関りなどとは無縁の環境で、ただ金蓮を守る戦士として、赤穂は作り上げられたのだ。

「えぇ、なにそれ。赤穂、超かわいそう。涙ぐんじゃいそう。だからこんなに、歪んだ性格で、暴言王になっちゃったんだな? よしよししてやろうか?」
 赤穂の語りに、紫輝が口をはさんだ。
 ひどく、同情的。
 つか、妙な母性本能半端ねぇ。

「暴言王は、あらかた月光のせいだからな。あいつに嫌味言わせたら、あの可愛い笑顔で、いつまでもいつまでも、悪口出てくるから。あいつのそばにいたら、こうなるんだ。つか、話の途中で茶々入れんじゃねぇ」
「はぁい」
 紫輝はおとなしく引っ込んだが。
 なんだ、それ。可愛いかっ。
 精神年齢が、五歳のままなんじゃねぇか?
 唇をとがらすんじゃねぇ。誰かに奪われたらどうすんだっ。

 父性が、メラリと燃えた赤穂は。気を落ち着かせて、本題に戻った。

     ★★★★★

 そんな、親子の情を知らずに育った、赤穂だが。
 同じ年に生まれた、瀬来家の月光とは、顔を合わせる機会が多かった。
 月光の父が、将堂家を訪れるたびに、一緒に遊んだから。生まれた年から本日までの、長い付き合いである。

 瀬来家は、参謀としての能力が高い一族だったが。
 月光は、一族屈指の賢さがあり。まさに神童だった。

 その頭の良さが災いしたか…月光は六歳の頃には、赤穂を愛していることに気づいていた。
 親や兄弟に顧みられない赤穂は、愛に飢えていて。
 なので、月光から向けられる無償の愛に、応えるのは自然なことだったのだ。

 十一歳で、赤穂と月光は初陣を迎えたが。そのときには、キスも性交も済んでいた。
 赤穂は、もちろん。月光を愛していたが。
 でも、月光ほど大人ではなかったのだ。

 恋愛状態になれば、誰でも、月光が注いでくれるような、心地よい愛情を示してくれるのだと、信じていた。
 相手は、月光だけでなくてもいいのではないか?
 他の者は、どんなふうに己を愛するのだろうか?

 そんな好奇心が芽生え。赤穂の目は、月光から離れてしまう。
 その後、月光の父に、赤穂たちの関係がバレて。ふたりは引き離された。
 そのとき、月光と赤穂は、一度関係が切れたのだ。

 でも赤穂は、恋愛すれば、月光の代わりは得られると、安易に考えていて。
 幼馴染みとして、部下として、関係が切れるわけでもないのだからと。悲しんだり、惜しんだり、心を深く痛めるようなことはなかった。

 しかし月光は。父親に女性を、半ば強引にあてがわれ。心に深い傷を負った。
 女性を恋愛対象として見られない性質だということを、そのとき自覚させられたからだ。
 女性を抱けない月光を、父親は蔑み。罵倒し。拒絶した。

 悲しみに暮れる月光。背を向けていた赤穂は、そのことを認知できない。

 赤穂は当時、月光が苦境に立っていることに気づかず。何人かの女性と関係を持った。
 月光のように、自分を無償で愛してくれる、月の光のごとく、優しく、控えめな、心地よい愛情を、存分に注いでくれる相手を探しながら。

 そんな相手、いなかったが。

 赤穂は将堂家の次男で、資産もあり、兵士としても名を上げていた。
 己の背後には、必ず、領主、将堂家という名前、金と、権力が、見え隠れする。赤穂という人物のみを愛する者など、もう存在しない。
 赤穂はそのとき、ようやく気づいたのだ。

 月光の愛情こそが、至高なのだということを。

 宝物だった。唯一無二のものだった。手放してはいけないものだった。
 月光と、やり直したかった。
 今度こそ、自分も月光に、愛を返したい。そしてまた、己を愛してほしい。

 しかし、戦場では顔を合わすものの、父親の目がある月光とは、仕事以外のことについて、話すことができず。月光と関係修復することが、なかなかできない。苦しい日々が続く。

 親の目を盗んで、ススキが一面を覆う野原で待ち合わせをして。
 銀色に輝く月からも、逃れるみたいにして。ススキの穂の下にふたりで隠れた。
 一度離れてしまった心の距離を、ゆっくり、ゆっくりと近づけていく。
 指が触れたら、離れ。次の日は、指を絡めて、離れた。

 燃えるようなくちづけも、体の奥の秘密まで、知っているのに。
 まるで付き合いたての恋人のように。ほんの短い時間、ただ手をつないで、笑い合って、囁き合った。
 それはそれで、幸福な気分を噛み締めていられたけれど。

 十四歳になった年。月光の父親が手裏に寝返って、謀反を起こした。

「えっ」
 口をはさむなと言ったのに、紫輝が思わずという感じで声を出した。
 慌てて、口を両手でふさぐ。
 しかし、紫輝の驚きもよくわかる。当時、瀬来の謀反は、本当に寝耳に水だったのだ。

「手裏からの書状を、父は受け取ったようだ。夜更けに、開門される」
 父親の謀反を赤穂に知らせたのは、月光だった。
 富士山から南方面には、標高の高い峰が伸びていて、そこから海にかけての土地を、瀬来家が守っていた。
 南側から、手裏を関東へ入らせないための、重要拠点である。

 瀬来が裏切るということは、手裏が、関東にある将堂の本拠地まで、難なく迫れるということだ。

 月光も、父親の謀反を暴露するのに、思うところはあっただろうが。大事を知らせてくれたことが、月光の将堂への忠義だと受け取った。
 赤穂は、すぐに兵を率いて、瀬来の屋敷へ向かったが。
 南の門はすでに開かれていて。そのまま大規模戦闘へと発展してしまった。
 瀬来の領地は、戦場となったが。赤穂が月光の父を討ち取ったことで、騒動は沈静化した。

 焼け落ちてしまった、瀬来の屋敷。
 荒野と化した、ススキの野原。
 見慣れた景色の、無残な光景。
 それは、月光自身を踏み荒らしてしまったように、赤穂は感じていた。

 実際、多くのものを失った月光は、瞳に悲しみを宿していた。
「また、手が届かなくなってしまうのか…」
 荒野にたたずむ月光の手を、赤穂は握りしめる。

「こんなに。こんなに、おまえは近くにいるのに。また俺から遠ざかってしまう」
 わかっていた。
 身内を手にかけた赤穂に、月光が寄り添ってくれるはずがない。
 束の間、寄り添った心が。また離れてしまう。

 赤穂も、悲しみを瞳に宿した。
「赤穂は…悪くない」
 月光は、ひと言だけそうつぶやいた。

 大将の金蓮は、月光も謀反に関わったのではないかと憶測し、処分を迫った。
 しかし、父の謀反を事前に知らせたのは、月光である。そこを強く訴え。
 さらには、赤穂が月光を伴侶にすると明言したことで。命だけは助けることができた。

 だが瀬来家は。月光以降の存続が許されず、お家取り潰しが決定となっている。

「いいんだ、僕は子供をなせないから、跡継ぎもいないし。赤穂が助けてくれた分、精いっぱい生きるよ」
 お家騒動のあと。領地の復興などで動いていた月光は、手裏の残党に襲われ、刀で斬られてしまった。
 私的な時間だったので、防具を着用しておらず、深手を負ってしまう。
 元々体が弱いのに。大怪我をして、両親も失ったことで、月光は急速に弱っていった。
 なかなか床上げができず。療養生活が長く続く。

 赤穂は。体の弱った月光と、関係を持つことなど到底できず。
 彼の父親を斬ったという負い目もあって。
 月光と顔を合わせるのがつらいと感じるようになっていった。

 愛しているのに。
 愛しているから。
 苦しげに横たわる彼を看れば、胸が痛むし。
 父親のことを斬った己をどう思っているのか、それを考えると、彼の目の前から消えたくなる。

 月光と向き合えなかった。
 彼はそんな赤穂を心配して。病の床で言ったのだ。

「赤穂、結婚話があるなら、受けてくれ。赤穂ほどの甲斐性があれば、伴侶はひとりでなくてもいいんだから。僕は名ばかりの伴侶だし」
「馬鹿な。おまえを生かすためだけに、結婚したわけじゃないぞ」

 謀反を疑われた月光を救うために、急いで伴侶の名乗りを上げた。
 赤穂としては、いつ月光と結婚してもいいという気持ちだったから、なんの支障もなかったが。
 周囲は、そう思わない。
 将堂の宝玉と呼ばれた、名軍師である月光を、将堂につなぎとめるための、愛のない結婚と邪推する者も少なくはなかった。
 そんな噂を聞き、月光は胸を痛めていたのかもしれないが。赤穂の真意とは異なる。

 そこはきっぱり否定するが。月光は微笑んで、顔を横に振った。
「わかっている。赤穂はいつだって、僕に優しいから。でも、伴侶の務めを果たせていないことは事実。だから、僕に気を遣うことはない。大丈夫。赤穂が誰と結ばれても、僕と赤穂は、永遠の友達だからね?」

     ★★★★★

「そんなの、真に受けるなよ」
 紫輝が、今度は黙っていられないという様子で、叫んだ。

「あぁ、そうだ。俺だって月光を愛している。真に受けるわけはない。二度と、あいつの大きな愛の上で胡坐をかくつもりはないさ。だが、あいつの愛は、至高なんだ。俺が幸せになるためなら、あいつは己の命すら捨てるだろう。そして俺には、将堂家の繁栄やら、領地の平定するための人付き合いやら、やるべきことをなせと、一族からせっつかれ…確かに結婚話が持ち上がっていた。俺は、いつもでっかい家を抱えていて…月光はそんな俺の重荷になりたくないと。でも俺は、月光を手放したくなかった」

「そうだよ。手放しちゃ、駄目だ」
「だがっ、怖かったんだ。もし月光が、自分が伴侶だから、俺が不幸なのだと思い込んだりしたら。たとえ自死しなくても。儚い彼が、この世から消えてしまいそうで。だから…真剣に、月光以外に、愛する者を探したんだ」

 紫輝は、憤るような、涙をこらえるような、可哀想な顔をした。
「そうして、愛する女性との間に、おまえが生まれたわけだが…将堂家から龍鬼を殺せと命じられて…」

「いやいや、待て待て」
 深く感情移入していたはずの紫輝だが。
 赤穂の言葉を、手を横に振って止めた。

「一番肝心な、俺の母親についてのくだりが、すっぽ抜けているんですが? 気のせいですかね?」
 頬を引き攣らせて、紫輝が聞いてくる。
 でも。それは、決して言えないのだ。
 言えば…紫輝が傷つく。

「…名もない、小さな村の女性だ。今はどこにいるかわからねぇ」
「はい、嘘ぉ」
 間髪入れずに指摘され、赤穂は奥歯をきしらせる。
 もしもここに月光がいたら、うまく誤魔化してくれるのだろうが。
 不器用な赤穂は、紫輝をぎょせない。

「はぁ? おまえから聞いたくせに。おとなしく納得してろよ」
 逆ギレ、するしかなかった。
 そんな赤穂に、紫輝は冷静な見解を述べる。

「身元不明なら、先に月光さんが、そう教えてくれたはずだし。将堂家が、赤穂の子供を産んだ人物を、保護しないわけがない。あんたが愛したと言う女性なのに、名前までもぼかすのは、俺に言うことができない相手だからだ。素性がしっかりしている。名前を言えば、俺にも探し出せるほどの、相手だろう。きっと、将堂家に近い人物。一族か、名家の娘だ。加えて、強固な龍鬼差別主義者。我が子が生きていると報告できない、または知っても喜ばない、たぶん、将堂一族と同じ反応をするような人だ」

 紫輝の言葉に、赤穂は二の句が継げなくなる。
 なんて洞察力だ。
 そして、ほぼほぼ当たっている。
 当たっているが…当人に、そんな悲しいことを肯定できねぇ。

「あんたが逆ギレして、さらに確信したよ。よっぽど、俺に知られたくない相手なんだ。違う?」
 そうだ。知られたくない。決して。
 だから、話を少しずらす。

「なに分析してんだ? そんな頭の回るやつは、俺の息子じゃねぇ」
「俺だって、基本は成り行き任せだぜ。難しいことはわかんねぇって、よく投げちゃうし。でも、分析系頭脳派の弟のせいで、少しは考えられるようになったところだ」

 なんでか、紫輝は得意げに胸を張る。
 自分の息子なのに、知らない人間の話をする。

 無性に腹立たしい。

「おまえに、弟はいねぇ」
「いるの。ここまで大きく育ててくれた人も、いるの。感謝しろ」
「おまえは大きくねぇ」
「ツッコミどころはそこじゃねぇしっ」

 さすがにイラついたのか、紫輝はハネハネの黒髪を、わしゃわしゃとかきむしった。
「あぁ、もう。わかったわかった。赤穂も月光さんも、俺が母親に興味を持つの、嫌なんだな? 大っぴらに探したりしないから、安心しろよ。でも、子供としては、母親の消息くらいは知りたいっていうか…気になるものなんだよ」
「元気だよ」

 赤穂が言うと、紫輝はあからさまに驚いた顔をした。
 答えを引き出せると思っていなかったようだ。

「…元気だ」
 それしか、今は言えないけれど。
 そんな赤穂の気持ちを察して、紫輝はうなずいた。

「…そっか」
「で、一族にバレないように、おまえを月光に託したんだが。あいつは、あのとおり子煩悩だから。子育てに夢中になって、いつの間にか、体の不調も良くなって。俺との仲も良くなった。やっぱおまえ、すげぇやつだな」
 手放しで褒めてやると、いやぁそれほどでも…と照れてやがる。
 案外簡単に、誤魔化されてくれたな。
 まぁ『子はかすがい』とは事実なのだ。月光をこの手に取り戻せたことは、マジで感謝している。

「っつうか、おまえと話して、謎がすっきり解消したぜ」
「謎?」
「ひとつは、月光のことだ。今まで、おまえにべったりだったのに。この頃、おまえを避けているだろう? 理由を聞いても、なんかはぐらかされて。あいつ、口が立つからな」

「あぁ、それは俺も、心配だったんですよ。でも、ちょいちょい、顔だけは見るので。話しかけてこないけど。でも底辺の俺からは、話しかけられないし。なぁ、この面倒くさい規則、なんとかならない?」
「統領に直談判するやつらを、規制する規則なんだが。確かにうざいな。月光に相談してやるよ」

 こいつと話をすると、なんでか、本筋からそれるな。
 面倒くせぇから、シレッと戻そう。

「おまえが紫月だっていうんなら、あいつの行動も納得できる。将堂一族に目をつけられたくないのだろう。おまえを守るために、自重しているというところか? あんま神経質にならないよう、言っておく。仲が良い友達が、急に離れたら、逆に不自然だからな」
「そうして。月光さん、体も弱いんだろう? そこも心配してるって、伝えてくれよ」
 少し安堵したかのように、紫輝は微笑みを浮かべる。

 普段は、精神年齢五歳児のままかと疑うくらい、ガキ臭いが。こうして月光を思いやる優しさも、養われており。赤穂に同情して、母性本能ばりの包容力も見せる。
 相反する、この差が、紫輝を魅力的に見せているのかもしれないと、赤穂は思った。

「…ふたつめは、おまえが気になって、仕方がなかったことだ。どうしても、俺のそばに置きたかった。兄や左には渡さねぇ、そんな独占欲があった。さすがに、恋ではないと思っていたが。潜在意識で、おまえが俺の息子だと感じ取っていて、気持ちがざわざわしていたんだろう。だが息子なら、俺のものも同然だし。誰かに奪われることも、もうないからな。気分爽快だ」

 すっきりした気持ちで、赤穂は切り株から腰を上げ。紫輝を見下ろす。
 そうだ、言い忘れたことがあった。
 紫輝を完全に手に入れるために、あいつを殺さなければ。

「おまえの思考に横槍を入れるほど、ここにでっかい顔で居座る弟ってのは、どこの組のどいつだ?」
 ここに、と言ったときに、赤穂は紫輝の胸を人差し指で突いた。
 紫輝は瞬間、顔色を変える。緊張感が走った。

「ここにはいないよ」
「残念。斬り捨てるつもりだったのに」
 真顔で、赤穂は冷徹に紫輝に宣言する。
 息子の心には、己と月光だけがいればいい。

「な、なんで…」
「おまえの心に、そいつがいるから、丸ごとおまえを捕まえた気にならねぇんだ。そいつが死ねば、おまえは将堂に腰を据える。俺の元から離れねぇだろう?」
 紫輝はわずかに震えていた。赤穂の本気が伝わっているのだろう。
 もちろん、本気だ。
 紫輝を、このような純粋な青年に育ててくれたという者には、感謝する。一生食うに困らないだけの謝礼を出してもいい。
 だが、紫輝の弟という者は、駄目だ。
 紫輝の中で、存在が大きすぎる。

「弟は…死んだ」
 ほら。わかりやすい嘘をついた。紫輝は弟をかばっている。
 己の目から、弟を隠そうとしているのだ。
 親である己よりも、弟を優先するのだ。

 紫輝の目は、弟に向いているのだ。

「それこそ、嘘だろうが。今、おまえは動揺した。死んでいるのなら、俺が殺すと言ってもビビらないはずだ」
 赤穂は紫輝の胸倉を掴んで、引き寄せる。
 どうする? おまえの大事な弟が、殺されるかもしれないぞ。
 命乞いをするか? いつもみたいに突っかかるか?

 だが、紫輝はなにも言わず。赤穂の迫力の前に、ただ震えていた。
 しかし、視線は外さない。

 赤穂がのぞき込めば、紫輝の目の中に、弟の姿が見える…そんなはずもないのだが。
 まるでそう思っているかのように、紫輝は目力を強め。瞳の奥にいる弟の存在を濃い布で覆って隠し通そうとする。
 必死だ。
 弟の片鱗すら、赤穂に渡さないという強い意志を感じた。これは…。

「マジか。まさか、おまえ…そいつのために唇守ったとか、言わねぇよな?」
「な、なに言って…」
 逆毛を立てる猫のごとく、驚愕し。紫輝は、顔を真っ赤に染めた。

 マジで、マジなのか?

 許せねぇ。赤穂は奥歯をギシギシと食いしばり、紫輝に凄味を利かせた。
「おい、おまえ…そいつに全部やったのか?」
「あぁ、そうだ。俺は彼のものだ」

 誰もが恐れ、弱い者なら気絶してしまいそうなほどの、赤穂の気迫に。紫輝は真っ向対峙して、きっぱりと言い切った。
 脅えをねじ伏せ、赤穂から目をそらさない。
 なんて、精神力だ。
 紫輝の強情さに、赤穂の方がひるみそうになる。
 だが、紫輝にそこまでさせる弟の存在が、やはり、むかつく。

「俺が龍鬼でも、どんな化け物でも。愛してるって。俺を幸せにするって。そう言ってくれた。大事な人だ。でも、彼は…死んだ」
 あくまでも、死んだ設定で押す気か、と。赤穂は思うが。
 紫輝の瞳が、涙で潤んだのを見て。本気か演技か、わからなくなる。
 そこまでして、隠すのか。
 それとも本当に死んでいるのか。
 どちらにしても。紫輝の背後に、弟の存在が見える。
 長い腕が、紫輝の体に巻きついて、がんじがらめに縛りつけ、抱えて離さない。弟の亡霊だ。

「…親の俺より、死んだそいつが大事か?」
 紫輝が、しっかりとうなずく。
 そこは、誰になにを言われても譲らない。そんな顔、している。

 なにもかも気に食わない。そんな気持ちで、赤穂は、紫輝の胸倉を掴んでいた手を乱暴に離した。
「でも、俺はここに…今は赤穂のそばにいるじゃん。それでいいだろ?」
「おまえの心は、ここにないんだろ?」
 俺の息子なのに、ここに心がないなんて…と思うと、赤穂はいら立ちがおさまらない。

「確かに、彼は俺のすべてだから。心がないって感じるなら、そうなんだろう。でも、それが今の俺だ。それが気に入らないなら、斬ればいいだろ」
 真剣な眼差しを向けられ。赤穂は愕然とした。
 こいつ。命投げ出しやがった。
 弟を斬るなら、その前に俺を斬れってか? 自分の命よりも大事だなんて。

 紫輝は、息子の自分を斬れるわけない、なんてたかをくくっているわけではない。
 己の気に入らない者を、斬り捨てる気性を知っていて。斬ればいいと挑発するのだ。

 斬れるわけ、ねぇだろがっ。大事に守ってきた、小さな息子を。
「ガキが。簡単に命を放り出すんじゃねぇよ」
 赤穂は紫輝に背を向ける。もう見たくない。
 自分以外の誰かを守る、紫輝の顔なんて。

「気に入らねぇな、おまえ、俺に命を預けたように見せかけて、単に、心はやらねぇって言ってるだけだ」
「そうじゃないよ、俺…」

「それ以上言うな。やっと再会した俺の息子が、見知らぬ男のものになっていたんだぞ。あげく、死人だと? 良い印象だけ残して死んだ男になんか、絶対勝てねぇじゃねぇか。心を渡すくらいなら命捨てるって? おまえにそんな健気な行動を起こさせる男っ…ああぁっ、はらわたが煮えくり返るっ!」

 言ってて、赤穂は、だんだん気持ちが高ぶり上がって。本当に、紫輝の弟とやらを探し出して、斬り捨てたくなった。
 しかしそれをすれば、息子の心が失われることも、業腹だが理解する。
 きっと紫輝は、親でも、弟を殺した赤穂を許さない。

 ビシッと赤穂は紫輝を指差し、憤る気持ちをぶつけた。
「いいか、その男の話は、二度と、俺にすんな。不愉快だっ」

 赤穂は、樹海の中を早足で進んでいく。紫輝の前から去りたかった。
 これ以上、あの場に居たら。息子を怒らせる言葉しか出てこないと思ったからだ。

 あの日。紫月が生まれた、あの日。
 赤穂は、この小さな命を守ると誓ったのに。
 この子が幸せになるようにと、願ったのに。

 どうして、こんなことになってしまうのだ。

     ★★★★★

 月光への想いを抱えながらも、赤穂は、ある女性と関係を持った。
 彼女は赤穂と同じく、大きな家を抱え、大きな期待をかけられ。そして愛する者と結ばれることはなかった。
 問題山積の中で、ふたりは出会い。
 精神的に追い詰められた、心を舐め合い。
 互いに、同じ魂を持つ者だと思い。

 そして、子供が生まれた。

 しかし、その赤子には、翼がない。
 彼女は、紫輝が憶測したとおり、名家である家を一番大事にする者だった。
 家の取り潰しなど、絶対にあってはならない事態。
 それゆえに、龍鬼を産んではならない者だった。

「赤穂、それを殺せ。私に見せるな。早く、命を絶って、庭に埋めてしまえっ」
 子供を産んだばかりの疲弊した体で、半狂乱になった彼女は、赤穂に命じた。

「そんなっ、この子は俺の…」
 彼女は寝床の中から手を伸ばし、かたわらでお産を見守っていた赤穂の胸倉を掴む。
 迫った彼女の顔は、狂気に目を血走らせていた。

「貴様だとて、将堂の者が、龍鬼を産み出したなどと知られては、身の破滅だろうがっ」
 あまりにも鬼気迫る様子に、さすがの赤穂も、二の句が継げなかった。

 赤穂は黙って、赤子を白い布に包み。部屋を出ようとした。
 そこを、彼女が呼び止める。
 もしや、考え直してくれたのかと期待して、振り返ったが。

 床に仰臥する彼女は、顔を横向け、赤穂からも顔をそらしていた。
「赤穂。わかっているだろうが。なにも。なにもなかった。私と貴様の間にも、関りなどなかった。そう心得よ」
 それは、愛すると決めた女性から突きつけられた、別れの言葉だった。
 龍鬼の子とのつながりを切り。
 龍鬼の父親である赤穂とのつながりも、無残に切ったのだ。

 赤穂は悲しみに暮れる時間も与えられず。逃げるように彼女の元から走り去った。
 夫婦になる前に、彼女と赤穂の縁は切れたのだ。

 こんな顛末、紫輝に話せるわけもない。
 赤穂は過去を思い返しながら。自嘲した。

 赤穂は赤子を抱いて、あてどなく歩く。
 腕の中の赤子は、とても小さくて。
 赤穂のような、力強く、無骨な者が持っていたら、もろく、握り潰してしまいそうだ。
 この手に抱いていること自体が、怖い。

 殺せと言われたのだ。死んでもいいんじゃないか?
 この世で龍鬼として生きていくのは、この子だって苦痛だろう。
 そう思ったとき。赤子が細い声で泣いたのだ。
 まるで命の糸が、今にも切れてしまいそうな…細い声。

 赤穂は、赤子を包んでいた白い布を、少しはいだ。
 屋敷から、だいぶ離れたが。ここに来るまで、じっくりと見もしなかった。
 ただ、翼がないことしか見なかった。

 だから、赤穂は赤子を見て、目をみはったのだ。
 布の隙間からのぞく、己によく似た、丈夫そうで艶やかな黒髪。
 目は開いていないが。口元が、なんか生意気そう。

 赤穂は思わず笑った。あぁ、間違いなく、俺の子供。
 小さくて、可愛い。己の分身。殺せるわけない。

 赤穂は、将堂家に害なす者を、容赦なく斬ってきた。
 親の愛も、家族の愛も、知らない。非情な凶戦士と呼ばれた男である。

 でも、愛を知らないわけではない。

 愛なら、生まれたときから。
 優しく、心地よい、月光げっこうが常に降り注いでいたではないか。
 今度は、この手の中にある小さな命に、己が、月光のごとき愛情を注ごう。

 でも。この赤子は小さすぎて。どう扱ったらいいのか、わからない。
 豆腐を手で持っているような感覚だ。
 変に力を入れたら、折れて崩れそう。握り潰しそう。
 怖かった。この命を守ろう。生かそうと決めたのに。
 ただ手の中にあるだけで、すぐにも死んでしまいそうだ。

 力こそ正義、そんな気持ちで、突き進んできた赤穂に。初めての気持ちが湧く。
 どうしたらいいのかわからない、なんて。
 誰か、助けてくれ。
 初めて、赤穂は誰かに助けを求めた。

「誰か…月光つきてる、助けてくれ」

 赤穂が頼れる者など、月光しかいない。
 藁にもすがる思いで、赤穂はなんとか、赤子を生かしたまま、月光の屋敷までたどり着いた。
 一時間ほど歩いた距離、しかし万年にも感じた、距離だった。

「月光、この子を助けてくれ」
 玄関先で、出迎えてくれた月光に、赤穂は頭を下げた。
 月光に、赤穂は負い目があった。
 謀反を起こした者が悪いものの、それでも手にかけたのが、月光の父親だったから。
 助力を求める資格などない。
 そう思っていたけれど。この小さな命を守るため、なりふり構っていられなかったのだ。

 月光は、初めて弱味を見せた赤穂に、驚きを示したものの。
 腕に抱いた赤子を見て。ぱぁっと、花が開いたみたいな笑顔になった。

「かっわいいぃ。って場合じゃない。早く入って」
「生まれたての赤子で、軽く拭いただけだから。体が冷えているかもしれない。泣き声も弱くて。もしかしたら助けられないかも…」
 弱気になる赤穂の背中を、月光はバンと叩いて、気合を入れた。

「大丈夫、必ず助ける。任せてよ」
 笑顔でそう言い、月光はそつなく、赤子の世話を手助けしてくれた。
 赤子が龍鬼だと知っても。月光の態度は変わらなくて、安堵する。
 関わる使用人を厳選はしたが、それは子供を守るための措置だ。
 赤穂に注いだ愛情と同じものを、月光は赤子にも向けてくれたのだ。

 赤子は、風呂に入れて体を温め。母乳の代わりになる脱脂乳を与えると、命は取りとめたようだ。
 赤穂は心底ホッとした。
 赤子の容体が落ち着くまで、針山の上を綱渡りするほどの緊張感をみなぎらせていたのだから。

「小さいね。可愛いね。赤穂の子だね」
 布団の上で、すよすよ寝ている赤子を見て。月光がつぶやく。

 この子が生まれた経緯を、赤穂は包み隠さず、月光に話した。この子をともに育てるには、そうすることが正しいと思ったからだ。
 この子の存在が、将堂家にみつかったら。命に関わる。この子を育てることには、危険が伴うし、龍鬼であることから、差別や反感なども覚悟しなければならない。

 いいことなど、なにもない。そう言ったとき。
 月光は、赤穂をみつめた。

「まさか。いいことばかりじゃないか。子供が望めない僕に、こんなに可愛い子を授けてくれるなんて。赤穂、僕は幸せだよ。大好きな赤穂の子を、君とともに育てられるんだから。これ以上の幸せって、あるの?」
 嫌味でもなんでもなく、月光は本心からそう言っていた。
 柔らかくて。温かくて。
 いつも赤穂に向けられていた彼の愛情が、赤穂の元に戻ってきたような気がして。

 赤穂はひと筋、涙をこぼした。

「愛している、月光」
「僕も。ずっと。ずーっと。赤穂を愛してた。今も、愛しているよ」
 月光も、笑顔で、泣いていた。
 ふたりは手を握り。赤子を真ん中にして、川の字になって寝た。

 将堂家の者は、植物の名を命名することが多いが。この赤子は将堂の者から隠したかったので、採用しなかった。
 月光の子供だから、月の字を入れようと。ふたりでいろいろ考えて。

 紫月と命名した。

 赤穂も月光も、この小さな命を守ると誓った。
 小さな息子が幸せになることを願った。

 しかし、一年前。暴漢の刃から、紫月を守ることができなくて。ふたりは嘆き悲しんだ。
 姿を消してしまった息子を、必死に捜索し。情報を集め。できうる限りのことをしてきたつもりだ。

 思いがけなく、紫月は戻ってきたけれど。
 十八歳になっていて。一番、可愛い時期を一緒に過ごせなかったこと、親として一緒に成長していけなかったことは残念だ。
 でも命さえあれば、いい。
 名前も紫輝に変わってしまったが、元気で快活だから。それでいい。
 感動的な親子の名乗りもできなかったけれど。それも、いい。

 いい…と、思っているさ。思っているけどな。

 あの小さな子を。大事な子を。生涯守ると誓った子を。愛する息子の心を、いったいどこの誰が奪ったのだっ!
 赤穂は腹の虫がおさまらない。
 そもそも月光が、紫輝のことを己に黙っていたのも、腹が立つ。

 なんでだっ。将堂から紫輝を守るためか?
 いやいや、俺は父親だぞ? ちゃんと報告するべきだろう?
 月光のことを、愛している。愛しているけど、これは別っ!

 赤穂は月光に文句を言うため、漆黒の翼を羽ばたかせて空に飛び上がったのだ。

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