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16 三百年後も、千年後も…。

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     ◆三百年後も、千年後も…。

 紫輝が所属する二十四組九班の者は、前線基地から数キロ離れた、樹海の中を見回り警備していた。
 現在、戦場で相対する、大規模戦闘は行われていない。
 手裏軍幹部の安曇眞仲、そう名乗っている天誠が、兵を引いているからだ。

 緻密な戦略で、陣形を崩しにかかる安曇の手法に。将堂軍は、いつも翻弄されていた。
 将堂軍は、話し合いによる解決を信条としており。攻撃に対しては、防戦一方である。
 なので、押したり引いたりと、駆け引きする安曇の攻撃に、いちいち対応しなければならないのだが。
 それでは兵を疲弊させるだけになる。
 安曇はそれを狙って、よくその戦法を使用してきた。

 しかし、安曇は。紫輝と再会したのちに、攻撃の手をゆるめている。
 かといって、ずっと動かないでいるわけにもいかず、あくまで『駆け引きの一環としての、一時休戦』という形をとっているのだが。

 安曇が動かない理由の中に、兄の身を案じているという思いが、多分にあることは明白だった。

 であるが、それは手裏側、というか安曇の事情であり。
 その事情を、将堂側が知る術はない。
 将堂の兵たちは、手裏がいつ攻めてきても対応できるよう、見回りに力を入れるだけだった。

 でも紫輝は、安曇の思惑を知っているので、純粋に弟に感謝しつつ、少し気を落ち着かせている。
 しかし、それとは別口で。
 紫輝の胸に、心配の種が芽吹いていた。

「紫輝、点呼を取れ」
 千夜に指示され、紫輝は戸惑いの目を向ける。
 基地の外に出てから、千夜がすべき仕事すべてを、紫輝が肩代わりさせられていた。
「ほら、早く」
 じっとりとした目で千夜に見返され、昨晩の件のお仕置きなのだなと紫輝は感じていた。
「うぅ…整列、番号」
 紫輝が声をかけると、仲間が割り振られた己の番号を口にする。
 仲間は、紫輝が慣れない様子で千夜の用事をするのを、にやにやと笑いながら見ている。
 助けてくれるつもりはなさそうだ。

「散開して、状況確認後、紫輝に報告」
「ええぇっ」
 千夜の言葉に、紫輝は不満の叫びを上げた。

「まさか、組長への報告も、俺にやらすつもりか?」
「それが一連の、班長の仕事内容だ。行け」
 涼しい顔で、仲間に散開をうながす千夜の言葉に。野際が笑った。

「はは、いったいなにをやらかしたのやら。御愁傷さまです、紫輝」
 樹海の、鬱蒼とした木々の合間を、仲間たちが分け入っていく。
 いつもとは違う仕事をやらされ、紫輝は、意味がわからず。不満な顔つきで千夜にたずねた。

「ちょっと、なんだよ、これ。嫌がらせ?」
「そういうつもりはないが。じゃあ、抜け出した罰ってことにしておく」
 紫輝の頭のてっぺんを、千夜は片手で鷲づかみして、固定する。

「ここを動くな。みんな、おまえがいるところに戻ってくるから。報告を聞いたら、しっかり覚えておくんだぞ?」
 そう言い、千夜も仲間たち同様、木々の合間に消えていった。
 ここは初めて来るところで、木の配置とか見覚えがない。
 こけむしていて、変な虫もうごめいていていて、木のうろがこっちを見ているみたいで、気持ち悪いんですけどぉ。
 それに、みんなが帰ってくるまで、なにをしていたらいいんだよぉ。
 初めてのことはなんでもドキドキするから、嫌いなんだよぉ。

 それにしても、千夜が、こんな大人げないことをするとは思わなかった。
 罰と言っていたから、本格的に目をつけられてしまったかもしれない。
 胸の奥が、なんだかキリキリして…紫輝は昨晩のことを思い返す。

 天誠とイチャイチャしたあと。紫輝は深夜に前線基地に戻った。
『御手洗いに行ってきましたけど、なにか?』という顔で、部屋に戻ろうとしたのだ。
 しかし、宿舎の前で、どこかから帰ってきた千夜と鉢合わせしてしまった。

 紫輝はもちろん、言い訳を切り出そうとしたのだが。
 みんなが寝静まった夜更けに、外で話していると声が響くと思ったのか。
 千夜は紫輝の首根っこを掴み、猫を運ぶようなていで、樹海の奥へと連行されてしまったのだった。

「いやいや、ちょっと御手洗いに行ってただけだって」
 掴んだ手を離されて、宿舎からもだいぶ距離が開いたところで。紫輝は小声ながらも、千夜に訴えた。

「…宴会が終わったあと、おまえの姿がないと、廣伊に相談に行っていたんだが?」
 ヤバい。結構、最初の方から気づかれていたみたいだ。
 紫輝は、言い訳をグルグルと考える。

「いやいや、千夜だって。どんだけ長い時間、廣伊と相談してんだよ?」
 千夜は、ちょっと考える顔つきをしていたが、翼がサワサワとせわしなく動いている。
 うん。やましいな。

「長い時間、席を外していたと認める、ということだな?」
 口元を引き攣らせた笑いを浮かべ、千夜が問う。
 はぅ、墓穴を掘ってしまった。

「外へ出るときは、俺に報告しろって、言っておいただろうが。なぁ、俺は心配してんだ。もしかして、恋人ができたのか?」
 紫輝は目を丸くして、顔も赤くする。
 こ、恋人は…できましたけども。言えませんけども。

「お、俺ゃ、龍鬼だよ。恋人なんか、いるわけないっつうか…」
 なんか、言ってて悲しくなってきた。
 なんで、龍鬼だと恋人作れないんだよ?
 龍鬼を言い訳にするの、嫌だな。

「ま、確かに。一般人とだと、俺や野際くらい仲が良くないと、そうはならんだろうけど。野際は、いびきかいて寝てたしな。でも、龍鬼なら? 時雨様と付き合っている、とか?」
 思わぬ人物の名前が出てきて、紫輝はびっくりして。
 ありえなさ過ぎて、笑ってしまった。

「ないない。堺みたいな美人さんが、俺なんか、相手にするわけないだろ?」
 あんまり紫輝が、少しの可能性もない、みたいな言い方をするから。
 紫輝と堺が付き合っているということはないのだと、千夜は思う。
 でも。紫輝の台詞に『そうかな?』と首を傾げた。
 だいぶ重い感じで、紫輝は堺に好かれているような気がするのだ。
 千夜は、堺が紫輝といるところを二度ほどしか見たことはない。しかし。氷のようだと言われている堺の目が、紫輝をみつめるときは、温度を感じる。
 微々たるものだが、そんな変化を感じていた。

「…もしかして、断れない相手に、無理矢理とかじゃないだろうな? 赤穂様とか瀬来様とか」
 ダブル親父来たー。と紫輝は半笑いになった。
 それこそあり得ない。親父だし。

「ないよ。それも幹部の名を出すとか。失礼でしょ?」
「じゃあ、誰なんだ?」
「誰とも付き合ってないってば。変な心配すんな。無理矢理とか、それこそライラがいるのに、あり得ないから」
 今、ライラの存在を思い出した、という顔を千夜がした。
 それ、ライラにも失礼ですからっ。怒。

「そうか、そうだな。おまえはライラに、守られてる。なら、安心だな?」
 千夜はホッとしたような、心からの笑みを見せてくれた。
 変なことに巻き込まれているんじゃないかって、本当に心配してくれたみたいだ。
 友達として、彼が自分を気遣ってくれるのは、すごく嬉しいけど。

「ん? ちょっと待て。今、出た名前、みんな男なんだけど。俺の恋人は、男断定なのか?」
「…帰るぞ、明日も早い」
 紫輝の問いに、千夜は答えなかった。
 なんか、モヤモヤしますなぁ?
 でも、ふたり肩を並べて、仲良く宿舎に帰ったんだよ? なのに。

 翌日の仕打ちが、これだよ。なんで?

 千夜は、紫輝に恋人がいるのかと、その心配ばかりしていたから。外に出る理由なんかを、今回は追及されなかったけれど。
 紫輝が一番、恐れているのは。天誠のことがバレることだ。
 親友である千夜の目を、怖いと思う。そんな日が来るなんて、思いもしなくて。

 紫輝はひとり不安に駆られていた。

     ★★★★★

 九班全員、見回りを、つつがなく終わらせ。前線基地に戻った。
 千夜はやはり『組長への今日の報告は、おまえがしろ』と紫輝に命じた。
 なので、おずおずと。廣伊の前に立つ。

「九班担当区域、手裏兵は見当たらず。異常なしです」
「了解。任務終了。九班解散」
 廣伊の言葉を受け、整列していた九班のみんなは、宿舎に帰っていった。
 でも紫輝は、廣伊の前から動けなかった。

「あの、俺が報告するの、おかしいと思わないのか?」
 紫輝とほぼ同じ身長の廣伊が、目線を上げる。大きな緑色の瞳が、印象的に光り輝く。

「いや。千夜は仕事が早いな、と思っただけだ」
「仕事? 千夜になにか言われた? 報告…とか」
 告げ口、と言うと、千夜が一方的に悪い感じになるから。紫輝は報告という言葉を使ったのだが。
 千夜が廣伊に、なにを相談したのかとか、ちょっと探りを入れたかった。

「報告、というか打診?」
 廣伊の答えに、紫輝は、どっきりと大きく鼓動を震わせながら、彼の前から立ち去った。

 夜に紫輝が抜け出したことは、たぶん廣伊にバレていると思う。相談しに行ったと言っていたから。
 その罰を実行したから、仕事が早い?
 打診って、なに?
 異動させるとか? 他のお仕置きとか?

 いやいや、千夜は。友人に無体なことをする男じゃない。
 でも、曲がったことは大嫌いだからな。ルール違反を報告すること自体は、間違いではない。
 うん。千夜は悪くない。

 悪いのは、夜抜け出した、自分。でも…どうしても天誠に会いたくなってしまうから。

 頭の中で、紫輝はぐるぐると考えを巡らせる。
 どうしよう、と。どうしようもないけど、つぶやいたとき。

 背中に背負った剣が、ガタガタと揺れた。はたから見たら、ちょっとホラー。

「おんちゃん、おんちゃん」
 ライラが紫輝を呼ぶときの、愛称が聞こえ。
 紫輝は人目のない、樹海の奥へと入っていき、ライラを剣から獣型へと変えた。
 白くて大きな猫が登場する。
 ライラを見ると、いつもほっこりして。悩みなんか吹き飛んでしまう。

「どうしたんだ? ライラ。おんちゃんがグルグルしてたから、心配したか?」
「ううん」
 違うんかい、と胸のうちでツッコむ。
 でも、ライラはツンデレだから、そうは言っても、心配していたに違いない。
 ツンがきつい猫を飼っている者は、常にポジティブに考えなければならない。

「おんちゃん、天ちゃんが、今日あいたいんだって」
「今日は難しいよ。千夜にみつかって、目をつけられたかもしれないし」
「でも、今日じゃなきゃ、ダメなんだって。あしたじゃ、ダメなんだって」
 明日じゃ駄目という言葉に、紫輝は背筋が冷たくなる感覚を受ける。
 天誠の方も、なにか不測の事態が起きたのかもしれない。

 今日、どうしても天誠に会わないと。会って、彼が無事なことを、この目で確かめないと。この先ずっと不安なまま、離れて暮らさなきゃならなくなる。
 そう、本能的に思った。

 でも。昨日、基地を抜け出して。今夜も抜け出したら…それが千夜にバレてしまったら。
 完全にアウトだ。
 千夜の信用を、完璧に失うことになるし。
 なにより、理由を追及されたら。嘘をつき通せる自信がない。
 天誠のことを口にしなくても、きっと、挙動不審な態度で、なにか隠しごとがあると露呈してしまう。

「おんちゃん、どうする?」
 ライラにも、紫輝の不安が伝わるのだろう。心配そうに、目尻が垂れ、甲高い声も震えた。

「大丈夫、おんちゃんに任せろ。ライラ、とりあえず剣に戻って。あと…天誠に、必ず行くと伝えて」
 紫輝は一大決心をして、ライラに告げた。
 剣に戻ったライラを、鞘におさめ。神妙な顔つきで水場へと向かう。
 ちょろちょろと湧水が流れ出ているところに、水の流れを誘導する水路と、ある程度の量の水が溜まる、木製のたらいがあり。そこに、ひしゃくや桶といった備品がある。
 紫輝は桶に水を汲んで、辺りに撒き。
 ドロドロになった地面を、さらに足で擦ってぐちゃぐちゃにし。

 その場で、うつ伏せに倒れ込んだ。

「いやぁーぁ! ど、どうしたのぉ? どうしたのぉ?」
 背負われたライラには、被害がないはずだが。紫輝の突飛な行動に慌てて、剣がガタガタブルブルした。
 紫輝は顔を上げ、顔の泥を手で拭う。

「もう、千夜に黙って、外には出られない。だから、理由を作ったんだよ。ちゃんと説明してから出掛けような?」
 ライラに言うと。剣から、気遣うオーラを感じる。
 かなり疑惑の目を向けられているようだから、きっと、簡単にはいかない。
 だから千夜に、仕方ないな、と思わせるくらい、派手に泥まみれになったのだ。
 泥んこの紫輝は、早速、千夜を探した。
 すると、目立つ青い羽が、ちょうど宿舎から出てきたところだった。

「千夜、話があるんだけど」
「わっ、紫輝? なんだ、その格好」
 前面が、完全に泥だらけの紫輝の姿に。千夜は本当に驚いていた。
「その件で、ちょっと」
 紫輝は千夜を木陰に呼び寄せ。思い切って、お願いした。
「あの、前に千夜と一緒に行ったことがある泉で、体、洗ってきたいんだけど」
 ちらりと、彼の様子をうかがうが。
 千夜の表情には変化がなく。紫輝は逆に焦りを感じた。
「き、昨日の今日で、また抜け出すのは、俺もどうかと思うよ? でも、こんなだし。…いいかな?」
「あぁ、いいぞ」
 あっさりとうなずかれ。紫輝は呆気にとられた。

「…あの、罰は受けるよ。でも、どうしても…」
「だから、良いって。罰なんか出さないから、早く行って来いよ」
「でも千夜、昨日、怒っていただろ? 班長の仕事させたのも、罰だって言ってたし」
「あれは…そういうんじゃないんだ」
「じゃあ、なに? 廣伊は、千夜は仕事が早いって言ってた。抜け出したことの罰を、早々に実行したって意味じゃないのか?」

 どういうことなのか、と困惑して、眉尻を下げる紫輝に。
 千夜は、腕組みをして。考える素振りをする。

「…俺も若いとき、ほんの少しの自由が欲しくて、宿舎を抜け出したことがある。まぁ、基地の外には、俺は出られないけど。集団で生活していると、息苦しくなるから、誰でも一度は、やらかしているだろう。抜け出すことは悪いことだが、そんなに重きを置くべき事柄ではない」

 小首を傾げると、彼の、キラキラ光る青い髪が、揺らめいた。
「…もうすぐ。あとひと月ほどで、第五大隊は領地に戻る。そのとき、俺は正式な辞令を受け、組長補佐になるわけだが。そのあとの九班班長に、紫輝を推した」
「え…ええぇ?」

 全く想像もしていなかったことを言われ、紫輝は驚きすぎて、目が飛び出るかと思うくらい、びっくりした。
「だから昇進前に、あまり説明のつかない行動をしてほしくなかっただけなんだ」

 つまり、千夜は。疑惑の目で、紫輝を見ていたんじゃなくて。班長としてやれるのか、と見守っていただけだったらしい。
 それは理解したけどぉ。
 まだ、びっくりしたまま、心も体も固まっていた。

「廣伊が言ったのは、さ。班長推薦のこと、まだ廣伊にしか言っていないんだけど。もう紫輝を班長扱いしてるって、俺もからかわれてさ。罰だって言ったのも、まだ公にできない事柄だから、おまえの勘違いに便乗して、誤魔化しただけなんだよ」
「マジで? マジで、そんなこと考えてんの? いやいや、無理だって。班長なんか、俺、したことないし。羽なしだし。みんなついてこないよ」

 天誠は、生徒会長なんかやっていたけど。紫輝は、元の世界でも、班長とか、リーダー的なものをやったことがなかった。
 こうやった方が良いんじゃない? みたいなアドバイスは、たまにしたけど。それも仲間内の話で。
 それに、この世界の班長というのは、戦場での話だから。もれなく、命懸かってくるし。
 責任の重さが、段違いすぎますっ。

 紫輝が両手を横に振っていると、千夜は眉間にしわを寄せた。
「まさか、その泥は誰かにやられたとか?」
「いや、そんなことはない。これはマジで、俺が水場で、ひとりでこけただけだから。嫌がらせとかじゃない」
 正真正銘の自作自演なので、紫輝は慌てて否定した。
 その様子にホッと息をつき。千夜は顔を引き締めた。

「俺も、友達だから、なんて甘い理由で、紫輝を班長に推薦したわけじゃない。昨日の、左とのいざこざを、丸くおさめただろ? あの場にいたみんな、もう、紫輝のこと、得体の知れない龍鬼だなんて思っていない。仲間として受け入れていたのを、俺も感じたんだよ」

 千夜は。紫輝の頭を撫でようとして、髪も泥だらけなのに気づき、手を引っ込めた。
 おい。

「入隊当初は、ひどい嫌がらせもあったな。でも腐らず。戦場でも、充分に力を発揮した。そんな紫輝を、みんなが認めている。羽なしだろうと、力のある者は昇進するべきだと、俺は思っているし。だから、おまえを推挙したんだ」
 千夜は、そう言ってくれるけれど。紫輝としては、まだ、みんなとの距離が少し縮まったかも、くらいな感覚だから。班長なんて、仲間を率いる自信がない。

 千夜はよく『班長なんて、ただの雑用係で、一般兵となにも変わらない』とか言っていたけど。
 戦場では、仲間の配置を細かく指示していたし。誰かが怪我をしたら、すぐに後退させるとか。人をよく見て、先回りして動いていた。
 そういう機転とか、行動力があるから、千夜はすごい班長なのだと思うのだ。

 その域には、まだまだ程遠い、と紫輝は己を分析している。
 だから、情けなく眉を下げて、千夜を見てしまう。

「無理だと思う前に、やるべきことをやる。無理かどうかは、廣伊がちゃんと判断してくれるさ。廣伊に従っていれば、間違いないから。自分じゃなく、選んでくれた者を信じるんだ。まぁ、今はともかく…」
 千夜がニヤリと、いつもの悪い男の顔で笑った。

「体、洗って来いよ。できる限り、消灯前までに戻ってくるのが望ましい」
「ありがとう、千夜」
 紫輝は、いっぱい、いっぱい、頭を下げて。それから駆け出した。
「あの後ろ姿は、どう見ても、恋人の元へいそいそ向かう男の図だけどな」

 半目で見やる千夜のつぶやきは、紫輝には聞こえなかった。

     ★★★★★

 紫輝は、天誠のことが知られそうになっているのではないとわかり、ホッとした。
 そして、千夜に高く評価されているのだと知り、嬉しく思う。

 再会した弟、そして恋人と会う、喜びに。いつも紫輝は、舞い上がっていたのだが。
 これからの自分たちのためにも。千夜の気持ちに応えるためにも。
 天誠と頻繁に会うのは、控えようと思う。
 いや、会いたいけど。毎日会いたいけど。
 手裏の幹部と、将堂の龍鬼が、こっそり会っているなんて。普通にヤバい事案だからな。自重はしないと。

 ライラが飛ぶように地を駆けると、あっという間に、紫輝たちの家についた。
 天誠は、まだ到着していない。
 なので、家の中には入れないし。辺りは日が落ちて真っ暗で。虫の声しかしなくて。
 俺たちの家なのに。物悲しい空き家みたいに見えてしまった。
 まぁ、仕方がない。

 紫輝は天誠に会う前に、泥だらけの体をなんとかしようと思い、家の裏に行った。
 露天風呂だから、外から回って入れる。
 まぁ、天誠がいないから、冷たい水が溜まっているだけだろうけど。でも夏だから。全然、水で大丈夫。
 軍服を全部脱いで全裸になると、紫輝は大岩に囲まれた風呂の中に手を突っ込んだ。

「えっ、温かいんですけど?」
 夏の熱気で温まっている、というのではなく。ほんのり湯気が上がる程度に、温かい。
 なんで?
 まさか、天誠のスタッフが、家の手入れをしているんですか?
 もしかして今もいるんですか?

 天誠以外の誰かが、いるのかもしれないと思って。紫輝はこっそり、つぶやいてみた。
「す、スタッフぅー」

 つか、古い。それに、誰も出てこない。ですよねぇ?

 紫輝はホッとして。体や顔を洗い。温かいから、ついでに湯船にも浸かり。軍服の洗濯もして。
 持ってきた着替えを身につけて。
 玄関前で、ライラと一緒に、天誠が来るのを待った。
 近くに、いい枝ぶりの木があったので。そこに洗濯物を引っかけて干していたら。

 天誠が馬に乗って現れた。

「呼び出してすまない、紫輝」
 ひらりと馬の背から飛び降りた天誠は、広い胸に紫輝を抱き寄せた。

「ん、髪が濡れている。水浴びをしたのか?」
 天誠が、紫輝の頭の後ろをひと撫でし、濡れても跳ねてる部分を指先でなぞる。
 なんとなく、髪の先まで神経が行き渡っているみたいに、天誠の指の行く先を感じてしまい。ぴりぴり痺れるような、ぞくぞく感を味わった。

「あの、抜け出すのに、理由が必要で。ちょっと泥遊びした」
 笑って紫輝は言うが。それが無茶なことだと、天誠にはわかっていた。
 それでも己の要請に応え、会いに来てくれた兄を。本当に、愛おしく想う。

 大切な大切な宝物、その想いを込め、額にキスした。

「…悪い立場になったら困るから、泥遊びは、ほどほどにな? 兄さん」
 兄の気遣いを無にしないためにも、天誠はフと笑って。
 しばらく放っておいた馬の手綱を、木に結ぶ。

 その慣れた仕草を見ると、彼がこの地に長くいることを、実感してしまい。
 紫輝はどうしても、悪いなと思う気持ちと。悲しい気持ちが、込み上げてくるのだ。

「お風呂入ったら、あったかくて、びっくりした」
「うん…その件も含めて、少し話しておきたいことがある」
 天誠に家の中へとうながされ、紫輝は嫌な予感を覚える。
 家の中では、灯りをひとつだけ灯し。部屋には上がらず。小上がりに腰かけて話をした。
 ライラはいつもの、土間の端っこで、丸くなって寝ている。

「慌ただしい感じで、ごめんな? 兄さん。実は俺、領地に下がることになった。京都だ」
 天誠が言う領地は、手裏側だから、南の方なのだ。
 手裏の本拠地は京都。
 将堂の本拠地は東京の位置だ。

「もう移動が始まっていて、今は、隊列を離れて来たので。あまり時間が多く取れない。あぁ、マジで不本意だ」
 天誠は紫輝の隣で、紫輝の手を、両の手で包み込む。
 彼の手は震えていて。時折ギュッと力が入る。
 天誠の複雑な心境が、紫輝にもダイレクトに伝わるようだった。

「ここに居られるよう、ずいぶん粘ったのだが。俺は紫輝が前線基地に入る前から、ここで指揮を執っていたんだ。五ヶ月ほどになるか…いわゆる超過勤務というやつだ。もう、ここにいるべき明確な理由を、提示できなくなった」
 天誠は、不破とのやり取りを思い返して。眉間にしわを寄せる。
 積極的に打って出ない安曇に、不破は痺れを切らしたのだ。

 冬は、雪が積もると兵を出せなくなる。つまりシーズンオフ。
 それまでに、今一度、大規模戦闘を吹っ掛けたい、手裏の思惑があった。

 しかし安曇は、紫輝のいる将堂とやり合いたくない。
 そんな安曇に、不破は領地で政治に専念しろと命じた。
 腰の重い安曇を領地に下げることで、不破は戦闘を開始するつもりなのだ。

「これ以上食い下がると、怪しいと思われる。仕方がないので、俺は一旦、戦場から離れる」
 天誠がいなくなると思うと、心細くなる。
 その気持ちが表情にも出て、紫輝はおどおどと瞳を揺らした。

 でも、そういうこともあるのだ。逆もあるのだ。
 紫輝が将堂の領地に帰るのも、千夜の言によれば、あとひと月ほどだ。そう遠い話ではない。

「俺も。昨日の夜、抜け出したのが千夜にバレてて。えっと、天誠のことまではバレてないよ? でも、変に思われて、追及されたくないじゃん? 天誠と会えなくなるのは、すっごい寂しいけど。でもタイミング的には、ちょうどいいのかもしれないね」
「…紫輝」
 天誠は紫輝を抱き寄せて、頬を紫輝の頭に押しつける。

「兄さんを、戦場に残していくのが、気掛かりだ」
 心配そうに、悲しそうに、声を揺らして天誠が囁く。

「いいか。トップが交代したら、すぐにも戦闘が開始される。俺と入れ替わるのは、不破だ」
「え、それ…俺に言っていいの?」
 手裏軍のトップシークレットではないかと、紫輝はびっくりした顔で天誠をみつめた。

「手裏の司令官が交代すると、紫輝が上に報告したら、内通者だと疑われるから。誰にも言ってはいけない。でも、兄さんは知っておかなければならない。不破には、絶対に会っては駄目だからだ」

 不破に、自分が紫月であると知られたら、どうなるのかはわからないけれど。
 目をつけられて、集中砲火とか?
 誘拐監禁とか?
 厄介な想像しか浮かばないのは確かだ。

 そして、紫輝は。あの手に掴まれたときのことを思い出す。
 あの、どうにも抗えなかった感覚。恐怖。脅威。自然、背筋が震えた。

「不破は、司令官の名を安曇眞仲で通すかもしれない。不破と、手裏家当主の基成は。かく乱のため、互いの名を用いることがあり、それが許されている。その場の状況で、臨機応変に名を変えるということだ。だから、公言された名前に反応したら、ダメだぞ?」
「安曇眞仲がいるって噂があっても、天誠はそこにいないってことだな?」
「そうだ。俺たちは、ライラとつながっているんだから。罠かもしれないと思ったら、ライラに聞けばいい」

 紫輝は神妙にうなずき。
 そして、やっぱり。ライラはハイパーチートカワイ子ちゃんだと思うのだった。
 遠く離れても、ライラがしっかりと、自分たちの絆をつないでくれるのだ。

「攻撃パターンも変わる。不破は波状攻撃と奇襲が得意だ。それと、大隊長をピンポイントで狙うこともある。大隊長が崩されると、大きく陣形が乱れ、攻略しやすくなるんだ」
「それ、わかっていても、一兵士の俺には、なにもできないぞ?」

 天誠は紫輝を、己の腿に乗っけて、正面から抱き合った。
 触れ合える場所、全部で、触れ合いたいという弟の気持ち。
 それは紫輝も、同じ気持ちだ。
 胸と胸がくっつくと、互いの鼓動を感じて、ここに共にあると思え。
 頬と頬をつけ合えば、互いの体温を感じて、同じ時を生きていると思え。
 唇と唇を合わせれば、互いの魂が一番近くにあると思える。

「知っていることが大事なんだ。仕掛けられたら、逃げろ」
 離れたくないという思いから、ふたりは唇をつけ合ったまま、話を続ける。囁く天誠の声が、情欲にかすれ、それが色っぽくて。紫輝はどきどきする。

「ん、逃げる?」
「引いて、上官に指示を仰ぐということだ。その場で起きたことなら、それは事前に知っていたことではない。だから、どんどん相談しろ。できる上官なら、対処法を心得ている。一兵士よりも高い位を持つということは、そういうときのためなのだから」

 天誠は、紫輝の頭を大きな手のひらで包み込み、情熱的に舌を絡めるキスをした。
 逃がさない、という彼の気迫を、紫輝は感じるが。
 逃げるわけない。
 紫輝も天誠を求めるように、つたないながらも、彼の舌を愛撫した。
 くすぐるように、結びつけるように。
 官能を覚え、背筋は反ってしまうけど。胸も腹も、天誠の体にくっつくから。嬉しい。

 もっと、くっつきたい。天誠が、欲しい。
 天誠の熱さを、体の中で、いつもみたいに感じたい。

 今までは、望まれて抱かれていたけれど。紫輝は初めて、このとき、自分から天誠に抱かれたいって思った。

 だけど。甘美な時間は長く続かない。
 天誠は、苦しげな面持ちで唇を離すと。告げた。
「とにかく。死ぬな。お願いだ」
「ん。頑張る」
 重みのある弟の懇願を。紫輝は、わざと軽めに返した。

 わかってる。天誠が心底心配して。本当は己を手放したくなくて。苦渋の想いで、ここから去ると言ったことを。
 だから、紫輝は兄として。弟の不安の芽を摘んであげないとならないのだ。

 紫輝は、天誠のしっとりとした黒髪を、丁寧に撫でて。
 とびっきりの笑顔を、彼に見せる。
「天誠、ありがとう。俺にライラを託してくれて。天誠がライラを俺につけてくれたから、今まで生きてこられたし。これからも生きていける。だから、大丈夫。俺は死なない。天誠が思い描くとおりに、な」
 納得するように、ひとつうなずき。
 天誠は紫輝を土間におろすと、己も立ちあがる。

「な、この家はどうするんだ? 俺が手入れしに来た方が良いか?」
「いや。手入れは、こちらが手配する。ここは手裏側に近いから、紫輝は俺がいない間は、ここに近寄らない方が良い。会える場所を用意したら、ライラを通して連絡するから。待っていてほしい」
「うん。楽しみにしてる」

 にっこり笑う紫輝に。天誠は、くちづけせずにはいられない。
 ひとつ、ふたつ、ついばんで。もっと深く、舌も絡めて。

 でも、後ろ髪惹かれる思いで紫輝から離れ。家の明かりを消した。

 ライラを起こして。家を出て、戸締りをすると。
 紫輝はライラと共に、玄関の前に立った。

 隊列を離れて来たという天誠を、今日は紫輝が見送るのだ。

 昨日の夜は、自分が彼に背を向けた。今まで、いつも見送られる側だった。
 だけど今は、弟の大きな背中を見ている。

 自分から去るときは、切り捨てるなんて気はなくても、背中を向けることが、なんだか冷たい人間のような気分になって。つらいし。
 離れたくないのに、帰らなければならない。そんな気持ちを、知ってほしいし。
 絶対、いつも、自分の方が寂しいし。悲しがっていると、そう思っていた。

 でも。今、天誠が馬に乗ってゆっくり遠ざかっていく姿を見ていると。
 置いてけぼりにされるような、物悲しさがあふれてきた。
 取り残されるのも、こんなに寂しいのだと感じる。
 天誠も、ずっと、こんな気分を味わっていたのだろうか。

 ふと。彼が駆る馬が、足を止めた。
 そのまま天誠は動かず。こちらを見ることもない。
 でも紫輝は、自分の気持ちがたまらなくなって、彼に向って歩を進めた。
 ひとつ、ふたつと、歩いていくと。
 天誠も馬を降りたから。

 もう我慢できなくて、駆け寄った。

「…紫輝ッ」
 彼の呼びかけに答える間もなく。紫輝は、大きく手を広げて彼に抱きついた。
 天誠は頼もしく、体ごとぶつかってくる紫輝を抱き止め。力強く抱き締めてくれた。

「天誠…天誠ぃ」
「紫輝。やっと会えたのに。離れたくない。こんなの、耐えられないよっ」
 背中に、天誠の手を。もがくように、すがるように立てられる指の感触を感じる。
 彼のはっきりした弱音を、紫輝は初めて聞いた。
 冗談めいたものや、自嘲するようなものは、元の世界のときから、時々聞くことはあったが。
 それは大概、紫輝に甘えたり、愛情を試したりするとき、自分を弱く見せる演出で。本気で弱っているわけではない。
 でも、今の言葉は、彼の本音だ。

 自分ばかりが、寂しがりで、弟を恋しがっているのだと思っていた。
 でもこの世界で、八年もひとりで生きてきた。永遠にひとりかもしれないという絶望を味わった、天誠の人恋しさは。きっと、自分には推し量れないほどに、深く、熱く、激しいのだろう。

「俺は、不安だ。ここで兄さんと離れてしまったら。紫輝に、必要とされなくなるんじゃないかって…」
「なに言ってんだ? 馬鹿。俺が頼れるのは天誠だけだ。俺には…天誠しか…な、なのにっ」
 ぎゅっと、胸がつぶれるように痛くなった。
 紫輝は、全然、天誠の不安を拭えていなかったのだ。

「そ、それを言ったら、俺だって。こんなとこに連れてきちゃった、俺の方が、化け物なのに。天誠に見捨てられてもおかしくないのにっ」
「馬鹿を言うな。それは何度も違うと言っただろう?」
 顔と顔を見交わし、天誠はしっかりと目を合わせて否定したが。紫輝は瞳を潤ませた。

「うぅ…だって。後悔してんだ、ずっと。どうして、俺ひとりじゃなかったんだって」
「俺たちをまとめて握ったのは、不破だぞ。紫輝は、なにも悪くないんだ。それに、時空を操る紫輝がいたから、俺もライラも無事でここにいられるんだ。今ここに俺たちがいることが、紫輝が引き起こした奇跡なんだぞ」

 天誠の手のひらに、頬を包まれる。
 紫輝の目からこぼれた涙が、天誠の手のひらも濡らした。

「ひとりだったら、なんて…そんな悲しいことを言うな。兄さんは、俺たちがいなくても生きていけるのか?」
「いけないよ。嫌だよ。無理だよ。天誠もライラもいないなんて…」
「俺も。前の、物質が豊かな平穏な地でも。今の、差別に満ちた腐った世でも。紫輝がいるなら、どちらで生きても構わない。だが、紫輝がいないなら、生きる意味などない」

 自分も、天誠と同じ気持ちだった。
 そう伝えたいけれど。なんとなく言葉だけでは、弟の不安を拭ってやれない気がして。
 紫輝はたずねた。

「なぁ、どうすればいい? どうすれば天誠の不安は和らぐ? 俺は、なんでも天誠の望むとおりにするよ」
「…暗闇に閉じ込めて、紫輝を一晩中抱いていたい」
 弟のダークを引き出してしまった。
 あんまり闇なものだから。
 心配して駆け寄ってきていたライラの耳が、イカ耳になってしまっている。

「いいよ、逃げても。俺を暗闇に閉じ込めても、いいよ」
 紫輝は、天誠の額に額を合わせて、ひっそりと微笑む。
 天誠の闇の部分は、紫輝の闇の部分でもあった。
 しばらく会えなくなる、それだけで、こんなにも胸が詰まるような苦しさを感じる。
 紫輝だって、弟と離れている間は、鬱屈した日々でしかない。

 だから、もしも天誠が望むのなら、今、この場から、ふたりで逃げてもいいのだ。
 一生、罪人として追われても構わない。
 暗い部屋の中で、弟とふたり、いつまでも、好きなだけ、抱き合っていてもいい。

 天誠は、紫輝の頬から手を離し。ひとつため息をつく。
 そして心配そうにみつめるライラに、目をやる。

「大丈夫だ、ライラ。兄さんを閉じ込めたりしない」
「俺、天誠がそばにいるなら幸せだよ。どんな状況でも頑張れる」
 拳を握って、紫輝はやれるとアピールするが。
 天誠は首を横に振った。

「いいや、俺は紫輝を幸せにしたいんだ。兄さんの笑顔を守らなきゃ」
 天誠は紫輝の脇に手を差し入れて、体を宙に持ち上げた。
 いわゆる、高い高いだ。
 こんなの、幼児扱いだっ。
 恥ずかしくて、顔が熱くなる。

「な、子供みたいなこと、やめろよ。兄だぞ、俺はっ」
 弟の方が、昔から大人っぽくて、なんでもできて、今では、年齢も彼の方が上だけど。
 でも、自分が天誠の兄なのは、未来永劫変わらないことなのだっ。

「そうだよ。俺の大事な兄さんだ」
 一度、紫輝を地べたにおろしたが。天誠は、もう一度高い高いをして、今度はそのまま、翼を羽ばたかせて飛び上がった。
 びっくり目のライラが、急速に遠ざかっていき。
 森の木々を抜けて、大きな月が輝く、高い空の上に。

「う、うおぉっ、お、おまえの高い高いはシャレになんねぇ」
 紫輝は、足が地べたについていないと、途端に不安になる。
 天誠が落としたりしないのは、わかっているけど。
 この恐怖は理屈じゃないと思いますぅ。

 でも、黒い闇に埋もれた木々を下に、上には光を散りばめられたような星々と明るい月が、夜闇に映えていて。
 とても美しい景色、ではある。

「ねぇ、兄さん。地上に降りるまでの間、優しいキスして。俺を目いっぱい甘やかすような」
 満月よりも少し欠けた月が、天誠を明るく照らしていた。
 紫輝を見上げるような位置の、天誠の瞳は。昔のように、夏の空の青い色。
 大好きで、愛している人の、色。
 切れ長の目元は鋭いが、いつも紫輝を甘くみつめ。
 鼻梁は、神が精巧に、丁寧に作り上げたかのごとく、高すぎず、低すぎず。
 綺麗で整った顔立ちだが、男らしく。
 しっとり艶やかな黒髪は、彼の精悍さを際立たせている。

 こんなに美しい男が、自分の恋人だなんて。なんて贅沢な、神からの贈り物なんだ。
 要求なんかされなくても、キス、しちゃうだろ?

 紫輝は柔らかい笑みを浮かべ、天誠の唇に、優しいキスを捧げた。触れるだけ、それから少しついばんで。
 あやすような、キス。
 癒すような、キス。
 心臓が高鳴るような、キス。
 天上の花畑で戯れるような、キス。
 瑠璃に輝く瞳にも、キス。

 愛しい彼を甘やかす、くちづけを。
「天誠、腕輪をくれたあのときから、三百年経ったみたいだけど。また、三百年後も、千年後も…ずっとおまえのそばにいる」

 なんで、この言葉を言うとき、目頭に熱いものが込み上げるのだろう。
 でも、言わずにはいられない。

「愛しているよ、天誠」

 彼が、潤んだ己の目をみつけると。
 いつも、すごく嬉しそうに、美しく微笑むから。
 ゆっくりとした浮遊感の中で、紫輝は天誠と、胸が温まるような、濃密なキスを交わした。
 誰にも邪魔されない、時間。揺れるように、漂うように、地面に足がつくまで、ふたりは唇を離さなかった。

「ひどいわ、おんちゃん、天ちゃん、あたしをおいていくなんてっ」
 地上に着くと、ライラがご立腹だったので。
 紫輝はライラをギュッと抱っこして、桃色の鼻に鼻をつける。鼻チューだ。

「ごめん、ごめん。ライラも、三百年後も千年後も愛してるぞ。チュー」
「うざいわ、おんちゃん、うざいわ。あと、なんとなく、ざつだわ」
「ライラさん、愛というのは、とかく、うざいものなんです」
「いやぁぁぁ」
 ツンデレのライラには不評で、天誠の背後に隠れてしまったが。
 弟の顔つきは、晴れやかなものになっていた。

「俺をたやすく引き上げてしまうのだから、やっぱり兄さんは、俺の天使なんだ」
 天誠に言われると、本物の天使に天使扱いされているみたいで、脇腹がこそばゆくなる。

「ごめんな、兄さん。ちょっと…甘えたくなったんだ。でも、俺が揺らいだら、紫輝も揺れるよな。だけど、それって。俺と兄さんの心が、ひとつということだよね?」
 不安を解きほぐすように、天誠は紫輝の肩を抱き寄せ、優しく撫でさすった。

「俺には兄さんが必要だ。そばにいたいと、いつも思っている。それと同じように、兄さんも俺を必要としてくれる。そうだよね?」
 紫輝はしっかりと、うなずいて見せた。
「ならば、俺たちの心は、決して離れない。ずっとそばにいると、兄さんも言ってくれたしね」
 天誠は少し体を離し、両の手で、紫輝の手を握り締め。そして腕輪の黒水晶にキスをする。
 誓いを立てるような、厳かな雰囲気を感じた。

「兄さんのおかげで、俺の不安は解消した」
「え?」
「なんでも俺の望むとおりにすると、言ったよね?」
 艶っぽく目を細め、甘々のエロい声を出す天誠に、紫輝は慌てた。

「え、えぇ?」
「ふふ、今度会ったとき、なにをしてもらおうかなぁ。じっくりと考えておくな? 離れている間、俺に、この上ない楽しみを提供してくれて、ありがとう。兄さんは天才だ」
 一旦、ぎゅっと握り。天誠は手の力をゆるめる。
 一歩一歩後ずさりながら、名残惜しげに、ゆっくりと手を引いていく。
 指先と指先が離れる瞬間まで、紫輝は天誠のぬくもりを噛み締めていた。

「冬の間に、事を進める。兄さんと暮らすための、第一歩だ」
 天誠が馬にまたがる、その姿を目に焼きつけるように、紫輝はじっとみつめた。
 一緒に暮らすための第一歩、というのは、戦終結のための第一歩でもある。
 紫輝は、天誠とライラと、家族みんなで暮らせる日が、待ち遠しかった。

「兄さん、いつもの、太陽のようにすっきりと明るい笑顔、見せて? 離れている間、兄さんの泣いた顔を思い出すのは、つらいからさ」
 気持ち的には、すっきりと、というわけにはいかない。
 だって、離れるのは嫌だと、本能が体の奥で叫んでいる。
 それでも、天誠の求めに応え、紫輝は笑みを浮かべた。

「またな、天誠。なんでもいいから、ライラに連絡して」
 紫輝の笑みを受け、天誠はひとつうなずく。
 ひらりと手を振って、今度こそ馬を走らせて行ってしまった。
 悲しい、寂しい、そんな想いで。涙が一粒、頬を伝うけれど。

 弟は兄に、いったいなにをさせる気なのだろうと。一抹の不安も覚える紫輝だった。


     ◆幕間 眞仲のすたっふー。


 馬を早駆けさせながら、眞仲はつぶやいた。
「無粋なやつだ」
 すると、どこからともなく、二頭の馬に乗った者たちが現れ、眞仲の馬に並走した。
「申し訳ありません、安曇様。銀杏様が、姿の見えない貴方様を探すよう、配下の者に命じたので。これ以上は騒ぎになります」
 カラス羽の者に言われ、眞仲は舌打ちする。
 家の中で、紫輝と話していたときから、急かされていたのだ。

「あの女、ひとりでなにもできないのか。俺がいないから、なんだって言うんだ? 俺の天使と別れを惜しむ時間ぐらい、なんとか誤魔化しておけよ」
「一兵士が、手裏家の方に意見など申せません」
 カラス羽が正論を言い。
 アカモズ血脈の赤茶の羽にこげ茶の風切り羽根は茶々を入れる。

「銀杏様は、安曇様に惚れてるから、うざいんですよ。愛はとかく、うざいものだと、あの方も申していました」
「女が顔の皮一枚で振り回されるのは、どの時代も変わらないな」
「安曇様は、顔の皮一枚だけではありません。手裏の黒い大翼はレアアイテムなのでしょう?」
 眞仲はアカモズの言葉に、フッと鼻で笑った。

 七年前、まだ眞仲が金髪碧眼の龍鬼だった頃、戦災孤児だった何名かを引き取って育てた。
『龍鬼の家に行ったら、すぐに死ぬぞ』という者の中で『どうせ死ぬなら、腹いっぱい食べてから死ぬ』と言ったやつを、眞仲は選んだ。

 そして、男は隠密に。女と隠密に不適合だった男を、家の使用人として雇っている。
 今、並走しているのは、眞仲の隠密で。
 長年、一緒に暮らしているから。元の世界の和製英語を、たまに真似されるのだ。

「これは、レアアイテムじゃなく、クソアイテムだ。家柄とか、クソどうでもいい」
「しかし、あの方と暮らすのに、クソアイテムは有用ではないですか?」
 カラス羽が、またもや正論を吐く。
「あぁ。クソむかつくことに、クソ有用だ」
「口が悪いですよ、安曇様」
 たしなめるカラス羽を無視し、アカモズが眞仲に聞いた。

「あの方にすたっふー、と呼ばれたんですが。すたっふーって、なんですか?」
「んー、部下みたいなもんだ。部下より軽め、使用人より重め、な感じか?」
「昔の言葉って、微妙な感覚ついてきますよね。にあんす」
「ニュアンス、な。どうでもいいが、おまえ、将堂でカタカナ語使うなよ。特に、紫輝の前では気をつけろ。隠密ってバレるぞ」
「護衛だと、もう言ってもいいのでは?」
「おまえ、昨日、紫輝が『嫌ーい』って言ったの、見てたろ。将堂入った当初から、護衛つけてたなんて知ったら、また怒られるだろうが、俺がっ」
「…冷酷無比と名高い安曇眞仲が、なんでこんなにヨワヨワなんっすか?」
「弟は、兄に頭が上がらないもんだ」
 眞仲が手をひと振りすると、アカモズは眞仲のそばから離れ、暗闇に消えていった。
 そして眞仲とカラス羽も、森の中へと消えた。

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