【完結】異世界行ったら龍認定されました

北川晶

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番外 花龍、高槻廣伊 1   ★

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     ◆花龍、高槻廣伊 1

 余計な情事に付き合わされて、時間を無駄にしてしまった。
 廣伊は今度、組長補佐となる千夜に、仕事を覚えてもらいたかっただけなのだが。
 夜も遅くなってきたし。明日の仕事に支障が出るのは、まずいので。当初の予定はさておき。自分の部屋から、早々に千夜を追い出すことにした。

「もう少しゆっくりさせろよ。意地悪な組長さんだなぁ」
 宿舎の外に出された千夜は、廣伊の耳元に囁くが。
 まだ甘い雰囲気を引きずっている奴の尻に蹴りをかまし。早く帰れと、追い立てた。

 不本意そうに、寝床へ帰っていく千夜。
 その後ろ姿を見ながら。
 廣伊は。なんで自分は、あの男に甘いのかと考える。

 宿舎は、丸太の木組みで作られていて、床板が地べたより数段上がった位置にある。
 廣伊は玄関前の階段に腰掛け、火照った体を夜風で冷ましながら…六年前のことを脳裏に浮かべた。

     ★★★★★

 千夜が安曇眞仲と相対した、あのやっちまった話は、二二九四年。
 そして年が明けた、二二九五年。
 二十四組組長の高槻廣伊は、兵員の補充について悩んでいた。

 戦場で、先頭に立つ機会が多い二十四組は、当然だが死傷者が多く。加えて、入隊を希望する者も少なくて、いつも兵員不足だったのだ。
 新兵を配属させるのは、簡単だ。指名してしまえばいいのだから。
 しかし、いきなり激戦組に素人を投入するのは、よろしくない。
 士気が下がっていると、あきらめが早くて、すぐ死ぬし。心労が溜まれば、集中力がなくなり、すぐ死ぬし。その気のない兵を指導する仲間にも、負担がかかってしまう。
 まず、良いことがない。

 かと言って、古参の兵は、わざわざ危険な隊に転属希望は出さないものだ。
 家族持ちなら尚更、生きて故郷に帰りたいだろうから。そういう兵を名指しするのも気が引ける。

 そんな中、二年の戦闘実績がある、左軍の兵士の転属願いが、廣伊の元へ回ってきた。
 普通、左軍所属だと、剣術は期待できないのだが。彼は政治より、剣術に長けているという。左では珍しい人材。
 班長経験あり。おお、なかなかいいじゃないか。

 そうして、廣伊がその書類にある名前を見ると…望月千夜と書かれている。
 廣伊の悩みを解消してくれる、待ちに待った転属願いだったのに。その名前をみつめ、ひそやかに眉をしかめた。
 戦闘終了目前の、あの戦場で。余計なことすんじゃねぇと言い放った、あの若い兵士が、望月千夜だと知っていたからだ。

 がっかりして。廣伊は重いため息をついた。

 将堂軍総帥の将堂金蓮大将は、すべてにおいて、話し合いで解決するという理念を持っている。
 将堂と手裏は、戦をしているが。本来は手裏と合議し、地域一帯の融和を図りたいのだ。
 しかし、手裏は。和平交渉に応じてくれない。そして将堂の領地に攻め込んでくる。
 将堂側は、領地に入り込むならず者を追い払っているにすぎないのだ。

 ゆえに、将堂軍の兵士は、敵地に攻め込んではならなかった。
 あくまでも、領地防衛。
 そういう組織だから、望月のような兵士は扱いに困る。
 生死を顧みず敵に向かっていくのも困るし。好んで敵と渡り合うのも困る。
 境界まで追い払ったら、敵が向かってくるまでは様子を見よう。それが将堂兵士の正しい行いなのだ。

 廣伊は、望月の様子を思い返してみる。
 殺伐とした状況下の中では、兵士はどうしても暗い目になりがちだが。
 戦闘終了間際まで、敵に喰らいつき。水を差した廣伊にたてついた、望月は。その瞳の中に、命の輝きを内包していた。
 熱い男、なのだと思う。
 情熱を胸に秘めた男は、良い兵士になるから。彼には兵士の素質があるとも思う。

 しかし、相反して。いつ自分は死んでもいい、そんな投げやりな感じも、そのときの彼に感じていた。
 それで廣伊は。望月を『命を粗末にする愚か者』と判断したのだった。

 でも。剣技は、少し見たところ、なかなかの手練れだった。
 対戦相手が安曇眞仲だったので、軽くあしらわれていたが。一般的には充分合格点をあげられる。
 龍鬼を相手にして死ななかっただけでも、すごいしな。
 左に所属している割には、らしからぬ素早い体さばき。無駄な動きが少なく、しなやか、かつ、力強い。

 あれほどの兵士なら、二十四組でも即戦力になる。のだが…。
 愚か者と、たったの一言で切り捨てるには。惜しい人物かもしれない。

「私の元に置いて、教育し直すか…」
 廣伊は、望月千夜に二十四組に配属する辞令を出した。
 当面の目標は『自分が死んでも敵は殺す』ではなく。引き分けでも生き残る精神を彼に教えることだった。
 望月の気構えを、根底から叩き直し、将堂に相応しい兵士に育て直さなければならない。

 死にたがりの好戦的な兵士は、将堂には不要だった。

     ★★★★★

 ところが。『教育し直せばいい』なんて簡単に思って、望月を補充兵に選んだわけだが。
 彼の教育は思うように進まなかったのだ。

 右第五大隊は、四月に戦闘配備されるまで、関東にある本拠地で研修を行うことになった。
 研修期間は、戦闘が行われない。なので、休暇のように思われがちだが。
 新しく配属される兵が、その隊でやっていけるのか見極める、大事な期間であり。より良い戦果を挙げるため、兵を鍛え直すのに、必要な時間でもあった。

「右第五大隊、二十四組組長の、高槻廣伊だ」
 百名ほどの兵が整列する、その一番前に進み出て、廣伊が挨拶すると。兵たちの引き締まった気持ちが、ビリッと伝わってくる。
 特に望月は、緊張感をみなぎらせていた。

 戦場で、暴言を吐いた相手が廣伊だと、今、気づいたのか。

 それとも、将堂軍随一の激戦組にいる、死神と友達だと噂される組長に、恐れをなしたか。
 あるいは、龍鬼である廣伊に、単に嫌悪を感じたのか。
 いずれにしても『マズイ』と顔に書いてある。

 廣伊は兵たちの顔を見回し、まず、苛烈を極める戦場で勇敢に戦った古参の兵士にねぎらいの言葉を送る。そして、今回配属された新兵に、気負うことなく精進するよう助言し。
 最後に、望月に目を合わせた。
「望月千夜」
「…はい」
 名を呼ばれ、望月は返事をするが、その声はかすかに震えていた。

「望月、私と勝負しろ」
 廣伊の言葉に、古参の兵士たちがどよめいた。
 普通は、新兵には、その者が所属する班の仲間が剣術を指南するのだ。剣を握ったこともない、という者もいるし。左から来る兵は、おおよそ剣術が未熟だから。

 だが望月は、左軍出身でも、剣技に秀でている。廣伊は見て、それを知っていた。
 彼に、勝負を持ち掛けたのは。剣を交え、相対してみれば、彼がどういう思いを持っているのか探れるかも、と思ったからだった。

「組長、ほどほどにしてやれよぉ」
「望月、左の意地を見せてやれ」
 荒くれ者ぞろいの二十四組の熊どもは、突然持ち上がった新兵と組長の対決を面白がって、はやし立てた。

「うるせぇ、俺はもう、左じゃねぇんだよっ。組長だかなんだか知らねぇが、こんな若造、俺の相手になるもんか」
「私は十九歳だが。若造と名乗ってもいいと思うか?」
 真面目顔で、廣伊は古参の兵たちにたずねる。
 それを受け、兵士たちはドッと笑った。
 どう見ても、十代前半の幼さがある顔つきなので。大抵の者が、廣伊の恐ろしさを初見では見切れない。
 敵ならば、廣伊を少年兵と間違え、勝手にあなどってくれる。油断したところを一刀両断できるから、童顔は有利なのだが。
 味方には、威厳や貫禄がないと見下されてしまう。

 廣伊を近くで目にし、恐ろしさや頼もしさや、年長であることを知っている者は、敬ってくれるが。それはごく一部の者に限られた。

「大きく出たな、ひよこちゃん。うちの組長を若造扱いするなんて、命知らずすぎるぜ」
 自分たちの上司がコケにされているのに、兵たちは笑い転げてやがる。
 仲間の和気あいあいとした雰囲気は、悪くないが。威厳がないと、新兵にあなどられるのは、いただけないな。

「静かにしろ」
 短くたしなめ、廣伊がひと睨みすると。兵たちは口をつぐむ。
 大きな体躯の猛者たちが、一番小柄な廣伊に素直に従うサマを、望月は不思議そうに見た。

「あんた、強いのか?」
「この前、戦場で見ただろう?」
『やっぱり、あのときの…』という顔を見せ、望月は息をのむが。きつく廣伊を睨みつける。
 力をみなぎらせていく望月の様子が伝わってきた。

 部下が用意した模擬剣を受け取り、ふたりは対峙した。
 剣は、斬ることもできるが、体に叩き込むことで、相手に痛手を負わせる性質の方が強い。
 勝敗の決め手は、いかに相手の体に剣を打ち込むことができるか、だ。
 特に、今、持っているのは。なまくらの模擬剣だしな。

 百名の兵士たちが見守る中、廣伊と望月は剣を合わせた。
 望月が発する気迫はすさまじく、速度もあり、剣先が描いていく線も美しい。

 だが。場数をこなしてきた廣伊からすると、まだまだ未熟で、粗削りな部分がある。
 剣、体さばき、ともに廣伊の方が速さは上回っていて。
 望月が大振りする隙をついて、廣伊は彼の体幹に剣を打ち込んでいく。

 痛みをグッと耐え、望月は挑みかかってくるのだが。彼の剣は廣伊にかすりもしなかった。

 望月は。廣伊の容赦ない打ち込みに、なす術なく、体力を消耗させていった。
 そして、一時間ほどの討ち合いの末、望月は立ち上がることもできなくなり、地に倒れ込んだ。

「水、桶に汲んで来い」
 廣伊が命令すると、すぐに下っ端兵士が水を用意した。
 水を飲ませてやる、なんて親切心を廣伊は持ち合わせていない。桶を掴むと、望月の顔に水を浴びせた。
 意識を取り戻した望月は、それでも立ち上がれず、仰向けに寝っ転がったまま荒い息をついていた。

「広場、二十周。のちに道場へ集合。行け」
 望月が起き上がれないようなので、廣伊は見物している他の兵たちに命令した。
 遊びの時間は終わりだ。
 兵たちは、その場に廣伊と望月を残し、きびきびと長距離走するべく広場に向かっていった。

 表情をおもてに出さない廣伊は、緑色の瞳で冷たく望月を見下ろす。
 廣伊の剣で何度も倒されたから、地べたの土で身は汚れている。外見を気にしないのか、青い髪は小刀で適当に切ったようなザンバラ具合。鼻梁が高く、口元も凛々しくて、若者の爽やかさを感じられるのに。
 目に宿る光が鋭すぎて、おっかない印象だ。

「望月、歳はいくつだ?」
「…十六」
 なかなか息を整えられず。それでいて、廣伊の質問に答えるのは不本意。そんな顔つきで望月は返事をした。

「まだ死に急ぐ歳じゃないだろう。誰も教えてくれなかったのか? 左にいた方が、給料は多いし、戦場への出撃回数も少ない。おまえが異動願いを出した二十四組は、将堂軍の中でも一番出撃回数が多い組なんだぞ」
「そんなの…知ってる」
「では、やはり死に急ぎか。だが、私の組に特攻兵はいらないんだが」
「俺は、間違って左に配属されたんだ」
 ぎしりと音が鳴るほど、望月は奥歯を強く噛み。ようやく立ち上がった。

「自分で言うのはなんだが。この、立派な大翼に、発色の良い青い羽のせいで、珍しい血脈かと思われたんだ。でも、俺の両親はオオルリとカモメ。純血種じゃねぇからっ」
「たとえ、間違いであっても。一度配属された部署を放り出されることはないだろう。有利性を考えれば…」
「あそこは、俺のいるべき場所じゃねぇ」
 激昂しながら、必死に言い募る望月を。廣伊はただみつめる。
 彼の言い分を、廣伊は少しだけ理解できるから。

 廣伊は、左参謀だった時雨藤王に引き立てられて、左の大隊長補佐まで上り詰めた。
 しかし藤王の失踪により、後ろ盾がなくなって。
 龍鬼であり、家柄もない廣伊は。左での居場所を簡単に失った。
 己の実績など、全く考慮されず。龍鬼に従うなど屈辱だ、と。左の者に背を向けられた。

 廣伊も逃げるようにして、右軍に異動してきた口だ。
 もしかしたら望月も、希少種ではないことで、左軍に居づらくなったのかもしれないな、と思った。

 さらに。その者の性質として、右軍体質、左軍体質、というものがある。
 左は戦闘だけでなく、政治にも関わるので、頭脳派として知られているが。政治に向いていない者がいるわけだ。
 右は戦闘に特化していて、剣術の腕次第で出世が可能だ。
 だが、自分は頭脳派なのに、と思う者もいるだろう。
 己の適性に合った軍に行くのが、望ましいのだが。
 たまに、出自などが理由で、適正に反する部署に配属されることもある。
 配属された軍の水が合わず、どうしても居づらい場合は、転属願いを出すしかない。

「二十四組が、おまえの本当の居場所だと思うのか?」
「わかんねぇけど…俺は剣術に自信がある。今、あんたに超やられたばっかで、説得力ねぇけど。ここで、やっていけると思う」
 そう言って、望月はギラリと廣伊を睨む。
 まだだ…と、廣伊は思った。
 このままじゃ、彼はすぐに死ぬ。
 自分の剣技に自信があると言っているうちは。戦場には出せないな。

「二十四組の組長が、相当強いってことは、噂どおりだった。それは認める。でも、この激戦組で生き残ってきたって聞いていたから、剛腕で、熊みたいな男を想像していたんだ。その外見、詐欺じゃねぇ?」
 望月が廣伊に、ズイッと身を寄せた。
 望月の方が頭半分背が高いから、彼の顔がひさしのようになって、廣伊の顔に影が覆いかぶさる。

「あんた、心狭いんだな。この前のこと、根に持ってんだろ? 仕方ねぇじゃん。こんなちっこいガキ、上官だと思いもしなかった」
 不満げに。望月は廣伊を見下ろす。
 先ほどぶっかけられた水が、彼の青い髪を伝い、ぼたぼたと廣伊の顔にかかる。

 近いな、と思いつつも。廣伊は動じず、感情の見えない、滑舌の良い声で言った。

「別に、根に持ってはいないが」
「持ってるじゃん。入隊早々、こんなにしごきやがってよぉ」
「それは、戦場での振る舞いについて、おまえにも思うところがあるということか?」
 ググッと、望月が息をのむ。
 その隙をついて、廣伊は千夜の足をスパンと払った。

 望月は突然の足払いに、よろけたが。なんとか体を持ち直して、その場に踏ん張る。
「上官に暴言を吐いたことを、それなりに、マズイと思っているのだろう? でも、それだけでは、答えは半分だ。私は、特攻兵はいらないと言ったんだ」
「俺が…自殺志願者だとでも、思ってんのか?」
「撤退命令を無視して、戦場に居残り。危険を承知で、左から右の…さらには激戦組を志願する。そんな奴が、自殺志願者じゃないと言えるのか?」

 ぎらぎらした目を向けていた望月が、途端、ははっと、声をたてて笑った。
「違う、違う。給料が下がるったって、大した違いじゃねぇし。地位も後ろ盾もないから、俺が出世したってせいぜい組長止まりだからさ。なら、少しでも充実感がある場所にいたい。花龍の高槻廣伊は、強いって聞いていた。名高いあんたのそばなら、俺の力も生かせるだろうって…そう思っただけだ」

「嘘が下手だな。ついさっきまで、私の顔も知らなかったくせに」
「噂を聞いただけで。顔なんか興味なかったし」
 廣伊に指摘され、望月は明るい笑みを見せていたが。
 笑顔をゆっくりと引っ込め。液体が急激に凍りつくかのように、青い瞳の色を冷たいものに変えた。

「死神と友達だという、あんたなら。涼しい顔で、天寿を全うできんのかもな。でも、俺の目には、死神が手招いている姿がはっきりと見える。俺のするべきことは決まっているんだ。邪魔すんな」
 望月は廣伊に背を向けた。

「望月。私のそばで、簡単に死ねると思うな」
 彼の背中に、廣伊は忠告をする。
 自分の部下である限り、望月の命を散らせはしない。

 聞こえていたのかいないのか、望月は廣伊になにも返さず、広場に向かって走っていった。
 なにを熱くなっているんだろうと、廣伊は思う。
 いつもなら、ひとりの兵に、こんなに固執したりしない。
 龍鬼である廣伊は、手を差し伸べて、断られる、そんな経験を何度もしている。あんまり拒絶されるから、いちいち傷つくのが嫌で、もう手を差し伸べなくなった。
 一定の距離感を保って見守っている方が、相手も落ち着くのだと知り。それから廣伊は、自ら誰かに近寄るようなことはしないようにしている。のだけど。

 望月は、なぜか気になる。
 というか、気に入らなかった。気に食わないのだ。

 どこに触れても、相手も己も傷つくような…柄のない刀身のごとき、危険な男。
 死の匂いが、そこかしこに漂っているような男。
 獲物を狙う、ぎらぎらした刃を隠さずに歩き回る、狂戦士…かもしれない。

「おまえの思いどおりになど、させない」
 絶対に矯正してやると、廣伊はその日、心に決めたのだ。

     ★★★★★

 それから二年ほど経ったある日。事件が起きた。
 己のそばに龍鬼がいるという状況に耐えられなくなった者が、徒党を組んで廣伊を襲撃したのだ。
 夜間、五人ほどが廣伊の私室に押し入ってきた。

 本拠地での、強化訓練中の出来事で。廣伊の住む宿舎は、組長以上の上官専用の兵舎だ。
 しかし廣伊以外の上官が、その日はなにかしらの理由で不在だった。
 おそらく事前に、工作されていたのだろう。

 襲撃にあった時間、廣伊は体を清める用意をしていたところで。上半身は裸。革の防具も脱いでしまっていて、非常に無防備な状態だった。

 だが廣伊は、殺気に敏感に反応し。彼らが部屋に押し入る前に、剣だけは手に取ることができた。
 寝台と机が置かれただけの部屋なので、剣を振り回せるだけの広さもない。
 そこに五名もの人数が入ってきたら、なにもできはしないだろうが。
 その場にとどまっていても、殺されてしまうし。

 なので廣伊は、部屋にひとつだけある窓から外に逃げたのだ。
 とはいえ、敵も執拗に追ってくる。
 まぁ、剣を持っているから、なんとかなるだろうと楽観的に考え。廣伊は剣を存分に振り回せる広場まで来て、敵と対峙した。
 扇形に彼らが立ち。廣伊は要の位置だ。

「君たち。戦場では、ちゃんと守ってやるし。龍鬼殺したら、上官に怒られるんだぞ? 良い戦力なんだから」
「ひーっ、龍鬼が喋りかけてんじゃねぇ。郷に帰れなくなんだろうがっ」
 極端な、龍鬼の言い伝えが残る地方もある。その類かな?
 ともかく、説得は失敗した。

 さて、どうするか…。
 無傷で気絶させて、縛り上げ。彼らを上官に引き渡せたら、上出来か。
 恐れをなして、逃げてくれてもいい。
 自分に牙を剥く者でも、兵士の人数を減らす事態はなるべく避けたい。

 この程度の人数は、廣伊なら簡単にあしらえる。
 手裏が相手で、生死を問わないのなら、もっと簡単。
 しかし、全員無傷か…手加減しなきゃならないのが一番面倒くさい。
 それに防具がないので。そこが一番痛い。思い切った動きができないからな。

 そうこうするうちに、敵のひとりが声を上げて剣を振り上げた。
 廣伊は覚悟を決める。目に止まらぬ速さで、敵の懐に飛び込み。柄を握る相手の手に、自分の柄を当てた。
 相手は手の甲に猛烈な痛みを感じ、剣を取り落す。
 さらに、廣伊の動きについてきていない隣の者にも、同じことをして。充分に間を空けて下がった。

 その間、ほんの数秒。

「く、くそ。ひるむな、三人同時にかかれば、殺れる」
 指先が痺れて、まだ剣を持てない男が叫んだ。人にやらすな。

 とはいえ、三人同時攻撃だと、全員無傷は無理かもしれないな。
 冷静な頭で、そう考える。でも、向かってくるんだから、仕方がないな。
 もう一度、廣伊は攻撃に転じようとした。

 そのとき、背後から。ものすごい殺気が迫ってきた。
 目の前で息巻く男たちよりも、断然ヤバい、気迫。
 彼らの援軍かと思い、ひやりとするが。
 その場に現れた青い疾風は、敵めがけて突っ込んだ。
 夜間だが。月明かりに、彼の青い翼が輝く。

 廣伊の助太刀に入ったのは、望月だった。

 彼は、この頃はまだ、廣伊に反抗的だった。
 稽古をつけるたびに、睨みつけ。叩きのめして、睨みつけ。とにもかくにも、睨みつけてくる。
 敬語は使わないし。自主練しているところをみつけて褒めてやったら、虫でも食べたのかと思うくらいに嫌そうな顔をした。

 だから、彼が助けてくれるなんて、すごく意外。

 思わぬ助けの手を得て、廣伊はしばらく様子見していた。
 望月は拳の打撃を苛烈に繰り出し、相手がよろめいたところを、宙で回転しながら蹴りを入れ、敵を吹っ飛ばした。さらに次の敵へ向かっていこうとする。

「…おい、殺すなよ」
 抜剣していないのに、あまりにも激しい猛攻なので。廣伊は一応、望月に声をかけた。
 すると、ギロリと、おまえも殺すぞ…というような目で睨まれてしまい。
 なんとなく。こいつらを殺したあとに、自分のことも殺すつもりなんじゃないのかと、疑ってしまった。

 結局、廣伊が手を出すまでもなく、望月が素手で全員倒したのだった。
 無傷ではないが、みんな息はありそうだ。
 そこに見回りの兵が、緊急用の笛を鳴らしながらやってきた。

 廣伊がほっと息をつくと。いきなり背中になにかをかぶせられた。
「…着ろよ」
 目線を廣伊に合わせることなく、望月が、ぶっきらぼうな感じで言う。
 彼の青い軍服を、着せ掛けてくれたようだ。
 二の腕をあらわにした、黒の防具姿の彼を、廣伊は不思議そうに見やる。

 助太刀から、服を貸してくれるところまで、そのすべてが予想外の出来事だったから。
 というか、男だから、上半身裸でも、別にいいんだけど。

 揉め事仲裁の見回り兵に、望月が『二十四組組長の高槻廣伊が、こいつらに襲撃されていたので、助けに入った』と、簡単な説明をしている。
「俺たちの事情聴取は明日にしてくれ。こいつらの始末を頼む」

 気絶している暴漢を見回り兵に渡し、望月は廣伊の腕を掴んで、早足でその場を去った。
「待て、望月。どこへ行く気だ?」
「あんたの部屋だ」
 望月は、組長の私室が並ぶ棟に足を踏み入れ、真っ直ぐ廣伊の部屋に向かった。
 廣伊は龍鬼なので、一番端っこの部屋を借りている。
 龍鬼とは距離を置きたいようで、隣は空き室だ。そんなところも、今回の襲撃では裏目に出たな。

 扉は木製の引き戸。鍵もついていたのだが、それも襲撃のときに壊されてしまったようだ。
 千夜は破壊された鍵を見て、舌打ちし。自身の剣を突っ張り棒の代わりにして、扉を閉めた。
 そして廣伊を振り返った望月は、怒鳴った。
 ん? 怒った?

「あんた、天下の花龍が、なに簡単に襲われちゃってんだよっ?」
 廣伊は、なんで望月が怒っているのか、よくわからないながらも。淡々と主張した。
「いや、簡単に襲われたわけではない。ちゃんと対処していたはずだが」
「…剥かれてんじゃねぇかよ」
 望月は、廣伊に着せ掛けた己の上着を掴んだ。
 肩に引っかけているだけだったから、素肌が容易にあらわになる。
 これが、なんだというのか。なにに対して怒っているのか、いまだにわからず。しかし冷静に返答した。

「着衣か? 剥かれたわけではない。沐浴中に襲撃にあっただけだ」
 その言葉に、望月は勘違いに気づいたようで、奥歯を噛んだ。

「…龍鬼が目障りで襲撃する奴らが、嫌がらせでも、龍鬼の服を脱がそうなどとは思わないものだ。あいつらだけではない。普通の者は、望月のように服を貸したり、引き寄せたり、顔を寄せたりしないんだ」
 互いの顔の位置が、拳ひとつ分も開いていない。その距離の近さを指摘するように、廣伊は言う。
 興奮して、今の状態がわかっていないのかもしれないから、親切で教えたつもりだった。
 我に返れば、龍鬼と距離を置こうとすると思って。だが…。

「殺す…」
 彼はそうつぶやいた。
 なんで?
 なんでその言葉を選んだ? 脈絡がないにもほどがある。

 刺さるほどに険しい視線は、離れることがなく。望月が身を引くこともなかった。
 どころか、肩を掴んで、廣伊の体を引き戸に押しつける。
 っていうか、なんで囲い込む?

 望月が、廣伊にどんどん体を寄せてくる。完全に、吐息が触れる距離だ。
 体温を感じるほど、誰かがそばに来ることは、初めてだった。
 物心ついたときから納戸で隔離されていた廣伊には、親のぬくもりすら経験がない。

 この男は、なんなんだろうと。不思議な気持ちで、廣伊は彼を見上げる。

 普通に、嫌われているのだと思っていたが。
 でも、龍鬼への嫌悪感を、彼から感じたことはない。
 うーん。嫌い、だけど。龍鬼だから嫌いなのではない?
 こんな感覚は、今まで体験したことがない。
 廣伊は感情が表情に乗らなくて、いつも無表情と言われるけれど。とりあえず、今は戸惑っていた。

「殺す。俺が、あんたを殺す。あんたを、俺の獲物に決めた」
 手甲に仕込んでいた短剣を出し、望月は廣伊の喉元に刃を当てた。
 手のひら大の、刃物でも。頸動脈を切られれば即死だ。

 あぁ、やっぱり。あいつらを殺したあとに、自分も殺る気だったのかぁ…と、のんきに考えている。

 頸動脈を探るように、冷たい刃先が廣伊の首筋を伝っていく。
 その感触に、思わずフッと笑ってしまった。
 途端、望月の翼がブワッと開く。
「な、なに笑ってんだっ! 馬鹿にしてんのか?」
「…いや」
「俺がやれないと思ってんのか? 危機感なさすぎだ」
「…やるなら、ひとおもいにやってくれないと。くすぐったいんだが」
 刃物を突きつけられていても、廣伊は余裕の態度だ。
 いや、死ぬかもしれないと思っているし。望月が、自分を殺せないと高をくくっているわけでもないんだが。
 ただ、くすぐったかったから。

 そんなことを思っているのに、廣伊の顔には、なんの感情も現れていない。
 そんな廣伊の、緑色の目を見て。望月は悔しそうに奥歯をきしらせた。

「はっ、誰になにをされても、あんたは動じないってことか。なら俺が、あんたの心を揺さぶる、初めての男になってやろうか?」

 望月は短剣を動かし、廣伊の鎖骨の上を切った。
 たったの、皮膚一枚。チクリと痛みが走る程度の傷だが、血がひと筋流れ落ちた。
 その赤い雫を、望月は舌で捕え、傷口までペロリと舐めた。

 舐めた?!

 廣伊は、さすがにぎょっとして。
 驚きすぎて、望月がなにをしたのか、一瞬考えが及ばず、行動が遅れた。
 廣伊は望月の髪を鷲掴み、彼を引き離そうとするが。望月は離れず。逆に傷口に舌を捻じ込んで挑発してきた。

「ばか、なにしてる? 早く離れろ」
 指と指の間に、彼の青髪が絡まる。彼の頭を首元から離したいのに、望月はびくともしない。
 龍鬼である廣伊は、ゼロ距離で、敵と相対したことなどない。
 大きな体格の男に体を抑え込まれると、腕だけの力では、意外と動きが制限されるのだなと、思わず分析してしまう。
 そんな場合じゃない。

 そのうち、チュッと血をすする音まで聞こえてきて、廣伊は血の気が引くという思いを体感した。
「やめろ、龍鬼の血を吸うなんて、正気か?」
 人に聞かれたら、ひと騒動起きてしまう。望月の将来まで潰れてしまいかねない。
 だから、廣伊は囁き声で叱った。

 それでようやく、望月は顔を上げ。ニヤリと笑った。
「やっと、あんたの素の表情が見れた」
「そんなことのために…私をやり込めるためだけに、こんな恐ろしいことをするなんて。龍鬼の血を体内に取り込んだ者がどうなるか、わからないんだぞ…」
「あぁ、化け物になって絶命するとか、翼が腐り落ちるとか、俺自身が龍鬼になるとか? 龍鬼がうつるって、あんた、信じてんの?」
「…知らないが。どうなるかなんて、わからないが…」

 不安げに瞳を揺らし、廣伊は望月をみつめる。
 自分のせいで、部下が、誰かが、不利益をこうむるなど、耐えがたいことだ。

「だって、みんながそう言うから。うつるから触るなと言う。だから私は…」
 ふと、いまだに望月の髪を掴んでいたことを思い出し、廣伊はぎくしゃくとした動きで、彼の頭から指をはがす。
 彼の青髪が、パサリと、指の間からすべり落ちた。

「だから私は、誰にも触れない」
 廣伊はまぶたを伏せる。緑色のまつ毛が震えた。
「俺が証明してやるよ。龍鬼に触れても、なにも起こらないって、な。だから、そんな、この世の終わりみたいな面するなよ」
 なんで、俺がいじめたみたいになってんだよぉ…と、望月が不本意そうにつぶやいた。

「なぜだ? おまえは私が嫌いなのかと思っていたが」
「その、すました顔が、気に入らないんだよ。でも、あんたを俺の獲物に決めた。つまり、あんたの命は俺のもの。なのに、俺のものが、毛嫌いされたり、命狙われたり、誰かに奪われたり…そういうの許せないから」

「なんだ、その言い分は。めちゃくちゃだな」
 深く、重いため息を。廣伊はついた。
 彼の話は、全く筋が通っていない。
 そもそも、自分の命は、自分のものだ。
 でも、望月の中では、その主張は当然のものらしい。

 仮に、己の命が望月のものだとしても。口で言ってくれれば、なんでもやってやった。
 表情がなくて気持ち悪いと言うなら、百面相でも、顔を切り裂くでも。
 龍鬼の血を吸う前に、言ってくれていたら…。

 龍鬼の血が、人にどのような影響を与えるか、わからない。
 人に悪いなにかが、己の中にあるとは思えないのだが。
 一度も顔を見たことがない両親は、短命だった。死因はわからない。自分が関係あったのか、それもわからない。
 なにもわからないまま、村人に売られて、ここまで来た。
 周囲の人間は、誰もが自分を汚いものとして扱った。
 汚い、汚い、と言われ続ければ、自分はそういうものなのだと思ってしまうようになる。

 自分の中に流れる赤い血が。他者のものとはまるで違う、穢れたもの。というような気になるのだ。
 自分は、周りに受け入れられないもの。
 だから、たとえ影響などなくても。望月が、他人が、己の血を体内に取り込むなんて、あってはならないことだった。

 望月が言うように、もし本当に翼が腐り落ちてしまったら、自分は彼にどう謝罪すればいいんだ?
 なにもなくても、望月が周囲の者から嫌悪の対象になってしまったら?
 廣伊は、彼への責任を負わなければならない。
 たとえ、奴が、勝手にやったことであろうと。

 悲壮感に打ちひしがれてしまう。
 なのに、目の前の男は、にやにやしていた。
「そんなに心配すんなよ。あんたが想像する悲劇なんか、起きやしない。俺があんたの血を舐めたって、あんたが口にしなければ、誰にもわかりっこねぇし。誰も俺を非難できねぇ」
「どうしてそう言い切れるんだ?」
「証拠がなければ、誰も、なにも言う権利はねぇから」
 楽観的な考えの望月に、開いた口が塞がらない。
 そんな廣伊に、望月は顔を寄せる。

「俺が、あんたを殺す。俺以外の男に、あんたを触れさせない」
 なぜ、望月が自分を殺そうとしているのか、それはわからないが。
 おそらく、望月にとって、龍鬼の血を取り込んだという事態は些末なことで。彼が一番に重きを置いているのが、自分を殺すことなのだろう。
 そういうことなら、廣伊も腹をくくればいい。

「いいだろう。私の命をおまえにやる」
 結構、思い切った気持ちで。真面目に目を合わせて宣言したのだが。
 予想外の返答だったらしく、望月は目を丸くした。
 そのちょっとした隙を突き、廣伊は彼の腕の中からようやく逃げ出し。距離を取る。
 至近距離で人と話すのは、慣れていない。

「いつでもいい。おまえが私を殺せばいい」
「また…できないと思って、そんなこと」
「二言はない。おまえが私を殺すまで。私も他の刺客からは、全力で己の身を守ると誓う。だが、ひとつ条件をのんでもらおうか」
「…条件?」
 いぶかしげな顔で、望月は廣伊を見やる。

「私を殺す前に、おまえが死んではならない」

「はぁ? なに、当たり前のことを…」
「だな。おまえが死んだら、私を殺せないものな。だが、おまえは確実に、私よりあとに死ぬということだ。それで、私の務めが果たせる」
「務め?」

「どこか投げやりで、いつ死んでも構わない、そんな刹那的に生きるおまえが、いつ戦場で命を落とすか、気が気じゃないんだ。将堂のために、という名分で、死ぬおまえは。満足だろうが。そうされると、上官としての責務が果たせない。私は、兵士ひとりひとりの命をお預かりしている、という気持ちを常に持っている。生きて、家族の元へ帰す。それが私の使命なんだ」

「はっ、家族…」
 吐き捨てるように、望月は笑った。
 望月には、家族がいなかったか? と廣伊は彼の身上書を思い出してみる。
 任意なので、資料に本当のことが書かれているとは限らないのだが。
 彼の様子を見るに、家族はいないのだろう。
 戦は長く続いていて、そのため天涯孤独という者は珍しくないご時世だった。

「…家族でなくても。将来、おまえと一緒になる伴侶でもいい。いつかおまえを必要とする者のために、おまえの命を生かす」
「あんたの血を吸った。伴侶なんかいらねぇ」
 龍鬼と結婚したい者など、この世界にはいない。
 己の血族を大事にする者は、血脈を汚さぬために、決して龍鬼に触れないからだ。
 その理由と同じく、龍鬼と関わった者も敬遠される。
 廣伊の血を吸う行為は、龍鬼と結婚するくらい、酔狂なことだ。
 もし望月に、これから愛する者ができたとしても。愛するのなら、龍鬼の血を取り込んだ望月は身を引き、その者に近づくべきではない。

「…だからっ。私の血を舐めるなど、馬鹿なことを」
 先のことを考えず、衝動のままに行動を起こす、愚かな若者に。舌打ちしたい気分だった。
 これをしたら将来どうなるかって、少しは考えろっ!

「伴侶はいらねぇ。いや、俺の相手は、あんたがすればいい」
 望月は再び廣伊と距離を詰め、その柔らかな頬を指先で撫でた。
 またっ! 今更か。

「龍鬼は、厭われているが。その容貌は、みな美しく。人を魅了するとも言われている。見るな、触れるなと言われているのは、人の防衛手段なのかもな? 手にしたら、溺れてしまうかもしれないから」
 両手で廣伊の頬を包み込み、鼻が触れるほど間近で、囁く。

「あんたも、普段ガキ臭い顔しているが。よく見れば、気品のある美麗さが…」
 言いながら、望月の唇が触れた。
 廣伊の唇の…端に。
 そのくちづけで、望月の経験値がわかった。
「おまえ、初めてだろ」
「う…」
 図星を刺されて、彼は息詰まった。
 しかしすぐ、開き直って胸を張る。

「仕方がないだろ。剣を極めるのに、そういうの邪魔だったんだ。あんたが俺に教えればいい。組長だろ?」
「私だって、初めてだ。龍鬼だぞ。誰も私に触れようなんて思わない。おまえが変なんだ」
「ふーん。じゃあ、初めて同士、手探りでやるしかねぇな」
「いやいや、待て。なんで、おまえと寝ることになってんだ?」
「はぁ? 俺を必要とする誰かのために、俺を生かすんだろ? 俺には今、そんな奴はいねぇから。俺を必要とする誰かってやつを、あんたがやるんだ。あんたは、俺の獲物で、伴侶で、家族。俺が生きれば、あんたが喜ぶ。そういう図式なんだと理解したんだが?」
 間違っていない。廣伊が言いたいことは、おおむねそのとおりなのだが。だからって…。

 悩む廣伊の腕を、望月は引っ張って寝台に押し倒した。
「組長。これは契約だ。俺に体を差し出し、命を差し出す。その代わり、俺もあんたのものになる。あんたの望みを叶える」
「…契約成立だ」
 覆い被さる望月の頭を引き寄せて、承諾のキスをする。
 まぁ、いいかと思ってしまった。自分に不利益はない。
 むしろ、望月の方が、害が多くなる話だ。
 龍鬼を抱くなんて、正気の沙汰じゃないが。どうせ勃たないだろう。

 それにしても、なんか。こういう色事って、全く縁がなかったから。物語の中に飛び込んだみたいに、気持ちがふわふわしている。
 現実味がない、というやつ?

 廣伊だって、キスするのも初めてだった。だが、書物の中で繰り広げられる恋愛話に、そういう描写があるので、知識だけは持っていたのだ。

 物心つく前から、廣伊は納戸に閉じ込められて育ったのだが。
 扉の向こうで、食事を運んでくる何者かが、読み書き算数を教えてくれたのだ。
 字が読めるようになると、その誰かは、食事を届ける小さな穴から、医療、経済、歴史など、いろいろな書物を廣伊に与えた。廣伊は暇なので、本を読みふけるしかない。
 人と相対さないから、表情筋は発達しなかったが。知識は人並み以上にあると思う。

 ただ、知識があるからといって実践できるとは限らない。

 ふたりは本当に、手探りで進めていった。
 くちづけも、最初はたどたどしくて。唇をつける行為の、なにが楽しいのかと、思ったりしたが。
 ついばんだり、舐めたり、唇を動かされるとくすぐったかったり。
 その行為を楽しんで、笑い合ったり。
 そのうち、舌を舌先で舐め、くすぐり、絡められて…だんだん気持ち良くなってくる。
 初めは互いに、乾いた唇だったのに。濡れて、すべらせて、熱くなっていった。

「組長、下、脱いで」
「こんなことしてるときに、組長って言われんの、なんか…駄目だと思うんだが」
 ほぼ半裸状態だった廣伊は、恥ずかしがりもせず、ズボンと下着を脱いで、再び寝台に横になる。
 すると望月は。すぐに、手で廣伊の足を割り。その間に体を入れ込む。
 クスクス笑いながら、廣伊の首元に顔を埋めた。

「じゃあ、廣伊?」
「いきなり馴れ馴れしいな」
「じゃあ、廣伊な。俺も、千夜って、名前で呼べよ」
 じゃあ、ってなんだ。と胸のうちでツッコミつつ。
 改めて、そこからなんだな、と廣伊は思う。
 恋をして、仲良くなって、同衾するみたいな、いわゆる普通のお付き合いではない。

 これは契約だから。

 一般的な恋人同士の流れとは違うのだ。
 千夜は、先ほど廣伊につけた鎖骨の傷をベロリとひと舐めした。
「ん、千夜」
 そのとき、ビリッとした快感が走り。廣伊は思わず声を漏らした。
「ん? まだ痛い?」
「いや、痛くない、んだけど」
「じゃあ、感じたんだ」
 廣伊の返事を待たずに、千夜はそこを舐め立てた。チクチクして、気持ちの良いものではないのだが。
 なんか、ぞくぞくして、息が上がる。変な声が出そうで、唇を噛んだ。
 千夜は舌先で肌の上を移動しながら、乳首をついばむ。

「ったく、こんな桃色のヤバい乳首をさらして、歩きやがって…」
 なんか文句を言いながら、乳頭を唇ではさんだり、乳輪を舌先でくすぐったりする。
 やばい。胸の上に、じんわりとした感覚が湧いてきた。
 己も、少しは愛撫を返さないとと思い。彼の胸を手で探るが。防具を着ていて、触れなかった。
 仕方がないから、彼の頭を撫で。結局どうしたらいいかわからなくて、行き場のない手を彼の肩に置く。
 彼の好きなようにしてもらおう。これ以上は、男同士でどうするのかよくわからないし。

「あれ、後ろからがやりやすいって聞いていたが、前からでもできんじゃね?」
 首をひねって千夜がつぶやくので。廣伊は聞いた。
「誰に、なにを聞いたんだ?」
「同室の古参どもに。野郎って、なんで後輩に下ネタ指南するの好きなんかなぁ?」
「千夜。それは龍鬼相手の指南ではないのでは? 翼がある女の子には、確かに後ろからの方が、羽が痛くならなくて、良い配慮だと思うが…」
「あぁ、なるほど。でも廣伊は翼のある女の子じゃないから、前からも後ろからもやり放題だな?」
「初めてなんだから、私にも少しは気を遣ってもらいたいんだが」
「いいぜ。優しくほぐしてやる。はは、ちゃんと勃ってる」

 千夜は廣伊の屹立を手でひと撫ですると、その先走りの蜜を後ろに塗り込めた。
「あ、あぁ…っ」
 指が後ろに入ってくる。
 模擬剣が己に当たる痛みなんかとは種類が違う、違和感。
 ただの痛みなら声も出さずに耐えられるのだが。この感覚は、痛くないのに、声を我慢できない。

「廣伊、なかなか可愛いじゃん。声だけでも、たまんねぇ」
 まだ良くはないのに、千夜が指を二本に増やして。こじ開けて、中を探られる。
「待て、千夜。もっと、ゆっくり」
「いいや、待てねぇ。なぁ、廣伊ぃ、いいだろ? も、入れたいっ」
 切羽詰った千夜の声に、目を開けて彼を見やると。せつない目をしてこちらを見ていた。
 千夜はいつの間にか、防具もズボンも脱いでいた。
 股間に、触ってもいないのに、隆々とみなぎる剛直が天を向いている。
 っていうか、本当に、できるんだ?
 龍鬼相手に、男相手に、途中で萎えるんじゃないかと…期待していたんだが。

「うぅ、もう、我慢できねぇ」
 廣伊の両足首を千夜は両の手で持ち、膝が胸につくほど折り曲げた。あらわになった蕾に、己の切っ先をあてがう。
「待て待て、千夜、まだ、あっ…うぁ」
 千夜は強引に剛直を捻じ込み、廣伊の中へ沈めていった。
「あ、あ、待って、や、せん、やぁ…っ」
 ズブズブと彼の突端が入り込むたび、なにかしら声が出てしまう。
 強烈な痺れ、火傷するほどの熱さ、己の中を蹂躙する異物感。

 痛いのか、熱いのか、気持ち悪いのか、いいのか…全然わからないっ。

「千夜、せんやぁ、し、しないで…も、しないでぇ」
 廣伊の懇願も聞かず、千夜は欲望のままに剛直を突き刺した。
「熱い、激しい…あぁ、これが廣伊なんだな。廣伊、俺の、廣伊…美しい、鬼」
 すべてを中へおさめた千夜は、引いて、突き刺してを数回繰り返し。そして廣伊の奥に精を吐き出した。
 熱いなにかが、廣伊の体に浸透していくようだった。

「…イ、イったか? じゃあ…」
 早く終わって、助かった。
 廣伊自身は、体をいじられたような感覚ばかりで、快感とか、気持ち良いとか、感じてはいなかったけれど。
 契約だし。
 物語のような、めくるめく…なんてものは、現実にはないんだろうと。そう思ったのだが。

 ひとつ息をついた千夜は、再び動き出した。
「え、なんで? もういいだろ?」
「まさか。あんた、イってないだろ。それに…俺はこんなもんじゃないから」
 ちょっと、ムッとした顔で、千夜が言う。
 早かった、からか? 別に構わないし。っというか、終わろうよ。

「千夜、あの…」
「黙って。な? 今度はよくするから」
 千夜は廣伊の唇に甘くかじりつき、深いキスへと移行していった。
 情熱的に舌を絡められ、先ほど高め合った感じるキスを、もう一度もたらされた。
 でも、腰も揺さぶられていて。
 後ろの強めの刺激に邪魔されて。口腔の気持ち良さに集中できない。

「ん、ん…んぅ」
 一度奥を濡らされたことで、千夜の剛直が、なめらかに抜き差しできるようになっている。
 口からも後ろからも、ぬぷぬぷと粘液の音が聞こえ、なんだか恥ずかしく感じた。

「廣伊? なぁ、ここ、好きだろ? 中がビクンって、なる…」
 千夜は廣伊の中を行き来するうちに、すごく敏感な個所があることに気づき。執拗にそこを剛直で探る。
 一度は快楽に溺れてしまったが。達したことで頭が冷え、廣伊を悦ばす気持ちの余裕が出てきたようだ。

「やぁ、変になる。千夜、そこ、ダメだ」
 今、千夜に擦られている、中のそこが、すごくジンジンする。
 しないでほしい。でも、してほしい。
 これが、気持ち良いってことなのか?
 想像していた気持ち良いと、なんか違う。
 でも、そこっ。千夜の先のところがゴリッてなる、そのときの感覚を…しどけなく口を開いたまま追いかける。

「あ、あぁ…せん、やぁ。そこ、あぁ…ぁ」
「くく、鬼の高槻が俺の下で悶えてるとか…最高だな。なぁ、気持ち良いって、言えよ」
「いい、いいからぁ…千夜、いいっ…あ、んぁ、あぁ」
 廣伊の屹立から、透明な蜜がどぷっと、多めに出た。射精感ほど、鮮烈ではないが。突端がジクリと熱くなって、すごく気持ち良い。
 そして、その感覚と連動して、後孔もひくひくしてしまう。

 屹立が震え。蜜口から先走りがあふれる瞬間を、千夜は目の前で見て。舌なめずりをして牙を剥いた。
「やっべぇ、エッロっ。廣伊、本当に初めて?」
 初めてだけど、なんでこんなに良いのか、自分でもわからない。でも、初めてなんだって、言おうとした…そのときに。
 殺気を感じて。
 廣伊は、本能的に拳を出した。

「くっ…」
 千夜の手の中に、なにかがきらめいていた。
 短剣の刃だ。
 千夜は左腕の手甲に仕込んでいた短剣を、廣伊の顔に突き刺すところだった。
 その手首が、廣伊の拳で止まっている。
 痛みと悔しさに奥歯を噛む、千夜の手から、短剣はあえなく落ち。
 廣伊は首を傾げて、その短剣を避けた。

「すまない。他の刺客から己を守ると言ったが。おまえからも、私は己の身を全力で守るから」
「なにそれ、ズルくねぇ?」
「ずるくない。おまえの目的は、私を殺すこと。それに同意したが。身を守らないとは言っていない。そして私の目的は、おまえを生かすこと。なるべく期間を長くするつもりだ」
 廣伊は、千夜の両手についた手甲を外し、遠くへ放り投げた。

 なんか、重さから感じるに、まだニ、三本、仕込まれていたな、あれは。

 でもこれで、千夜は一糸まとわぬってやつだ。
 一応、髪の中に手を差し入れてみる。ピンでも人は殺せる。
 でも、さすがに、もうなさそうで。ようやく安心した。

「おまえ、殺気がダダ漏れ…え、なに? なんか、硬いんだが?」
 安心したばかりだったが。廣伊の中におさまっている千夜のモノが、みるみる硬く、大きくなっていった。
「渾身の一撃を避けられるとはな…本当、化け物」
「や、怖い…なんか、中、変…あっ、あぁ」
 廣伊を殺せなかった憤りをぶつけるかのように、千夜は荒々しく廣伊を攻める。
 こん棒のように固いモノで、中をかき回され。それに、強烈な快感を無理に引き出されて。廣伊は、経験のない感覚に、泣きそうになった。

「一番、メロメロなとき、狙ったのに。はは、すっげぇ。潤んでた瞳の色が、瞬時に冴えたっ」
「や、抜いてっ、怖い、せんっや、あ、やだぁ」
「ダメだ、刃で殺せないなら…コレで殺してやる」
 千夜は廣伊をかき抱き、己の凶器で何度もうがち、串刺し、突き入れる。

 廣伊は、ただただ千夜にしがみつき。嵐の夜を耐え抜いたのだ。

     ★★★★★

「今、思い出しても、あの初めてはひどい」

 廣伊は、現在に気持ちを戻し。乾いた笑みを浮かべた。
 翌日、起き上がれないくらい、やられまくってしまい。
 事情聴取に来た見回りと、揉め事処理の担当官には、千夜が対応したのだが。
『組長は暴漢に襲われて、精神的に落ち込んでいる』なんて言い訳したもんだから。
 二十四組の熊どもを率いる鬼の組長が、襲撃されたくらいで寝込むわけがないと、ひどく怪しまれてしまった。

 あぁ、気力で起き上がってやったとも。
 やはり新兵は、あてにならなかった。

 あの事件は四年前か。
 よくも今まで、馬鹿みたいな契約に付き合ってきたものだ、と。廣伊は感慨深く思うのだった。
 廣伊と千夜の間には、愛だの恋だのという感情はない。ない、けれど…。

「廣伊、大変だ…」
 千夜の声に顔を上げる。千夜は先ほど、寝床に帰ったはずなのに。昔を思い返していたとはいえ、それほど長い時間外にいたわけではないのだが。

 階段の上で立ち上がり、廣伊は千夜が目の前に来るのを待った。
「大変だ、紫輝がいない。またあいつ、宿舎を抜け出しやがった。やっぱ、恋人がいるのかもしんねぇ…なぁ、廣伊どうしたらいい?」

 数年前、己を殺す殺すと息巻いていたギラギラした男が。今は、班員の脱走に眉尻を下げている。
 なんか…イラッとした。
 階段を一段残した位置まで降りていき、それでも少し己より背の高い男の頭を引き寄せて、キスした。
 千夜が二十四組に来た当初は、自分より頭半分高かっただけなのに。今は頭ひとつ分、高い。
 それも気に食わない。

「ほっとけ」
 じっくりと、舌で口腔を探ってから、唇を離し、言い捨ててやった。

 千夜は瑠璃色の羽をバサバサさせて、言う。
「…あんた…今のは、完全に廣伊が悪いからな。覚悟しろ」

 千夜は正面から廣伊を抱きかかえると、深いキスをかましながら部屋の中へ入っていった。
 廣伊は、しまった…と思ったが。まぁいいか、とも思った。

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