【完結】異世界行ったら龍認定されました

北川晶

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6 おまえは誰だ

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     ◆おまえは誰だ

 雨が多く降る時期に入った。
 元の世界でも六月の梅雨はよく雨が降ったが。気候も雨の匂いもそれと似ている。
 そのせいか、堺が大隊をドッカンしたせいか、わからないが。手裏軍は戦線を大きく後退させ、山のふもとの平野に敵の兵士はいなくなった。
 それで紫輝が前線基地に着いてから繰り広げられていた、富士(らしき山)裾野での戦いは休戦状態になったのだ。
 ホッと一息である。

 将堂軍は、自軍の領地が攻撃されなければ戦闘を行わない。
 戦争も政治も経済も、すべて話し合いで解決するべきという主義らしい。
 民主主義みたいな感じ?

 将堂は戦線が下がるたびに、手裏側に『和睦協議を望む』という内容の手紙を送る。しかし手裏が将堂の手紙に応じることはなかった。
『何事も、強き者が人民を導くべき』と、手裏は主張しているからだ。
 王政っぽい感じかな?

 紫輝は民主主義で育ったわけだが、必ずしも民主主義が一番良いとは思っていなかった。
 その時代、その国に、相応しい制度があるわけで。
 加えて、この世界は人口が少なく、戦争もしている。
 だから平和な日本の常識は当てはまらない。
 簡単に、将堂が良い、手裏が良い、と言ったり選んだりはできないな、と考えていた。

 つまり、黙して中立…といったところか。
 嘘。よくわかんないから黙ってるだけだ。

 停戦したことで、紫輝は戦場に出なくて良くなったのだが。
 仕事はある。

 将堂の今の陣形は、基地に二大隊が待機、一大隊が領地境界線周辺の警備、一大隊が非番。
 現在の紫輝は、境界線警備の任に当たっている。
 つい最近まで戦場だった平野に、手裏軍が再び進軍していないか確認し。前線基地周辺に手裏兵が出没していないか、見回りをする役目だ。

 その日は雨季がもうすぐ明けるよ、という頃で。
 逆に最後の大仕事だと、張り切って大粒の雨を降らせている…そんな土砂降りだった。

 二十四組の八班と九班は、合同で樹海見回りの任務に当たっていた。
 雨の中、カーキ色のマントに身を包む一群がもくもくと歩いている。
 本革製のブーツは雨を吸うと重くなり。そのため、彼らの足取りも重い。
 行く道は道というほど整ってないし。
 普段、日をさえぎっている木々の下は苔むしていて、ぬるぬるしている。

 紫輝は『ギャッ』と鳴いて、こけた。
 張り出していた根っこの上に乗ったら。こけで滑ったのだ。
 転ぶとさらに体力を消耗するっていうのに。

 転んだときに足をひねってしまい、紫輝は仲間たちの列からちょっと離れてしまった。木々の隙間にちらちらと、仲間らしき人影が見えているけど。
 追いつけるかな?

「紫輝、もう少し先にある大きめの洞窟で休憩するから、そこまで頑張れ」
 千夜は紫輝を心配して後方まで下がってくれたのだが。早く雨宿りしたい気持ちはみんな同じだし。
 紫輝は千夜に手を振って、合図した。
「俺は大丈夫だから。先に行って、みんなを休ませてくれよ。すぐに追いつくから」

 千夜は班長だから、自分ばかりが独占してはいけないのだ。
 安心しろと、紫輝が笑みを向けると。千夜は、紫輝の頭をフード越しに撫でて、うなずいた。
「わかった。足が痛いなら、みんなから見えないようにライラに乗せてもらえよ」
 こっそり囁いて、千夜は班員たちに合流すべく、早足で去っていった。

「そんなズル、しないよ」
 ライラに乗せてもらうなんて、そんなこと考えもしなかったから。紫輝は千夜の提案に苦笑した。
 生真面目な性格は、紫輝の良い部分でもあり、損する部分でもあった。

 ひとりきりになると、紫輝は大体眞仲のことを考えていた。
 泉で彼と会って以降一ヶ月ほどの月日、顔を見ていない。
 それは当たり前なのだ。
 眞仲は手裏軍の幹部で、将堂軍にいる紫輝の元へ来てはいけない身なのだから。

 まるでロミオとジュリエット。

 敵、味方に分かれて愛し合う恋人たち…なんて思うと、ロマンティックなのかもしれないが。
 己で想像すると、変な感じだ。
 眞仲と当てはめたら、自分がジュリエットになってしまうのもキモイ。
 黒髪はジュリエットと同じだけど、極悪ノラ猫顔だからな。

 敵軍幹部とはいえ、紫輝は眞仲を敵だと思ったことはない。
 だが、もし戦場で。眞仲が目の前に立ったら。
 どう反応すればいいのか、真剣に悩んでしまう。

 それだけではない。眞仲が一体何者なのか、先日の千夜の話を聞いて本当にわからなくなった。
 金髪碧眼の龍鬼が、安曇眞仲だと千夜は言った。
 外見の特徴は天誠と同じだが、七年も前の話だし。
 紫輝が知っている安曇眞仲は黒髪で、翼があって。
 大きな黒翼を持つのは、手裏の総帥の手裏基成だけ。
 紫輝の脳みそでは解析不能だった。
 お手上げ。ギブアップ。

 この問題は眞仲に直接会って聞かないと、答えは出せない。
 胸の奥がぐるぐるもやもやするけど。
 眞仲に会えないうちは仕方がないと、あきらめていた。

 さらに紫輝の悩みは続く。
 堺に会い、紫輝は『弟を探し出し、必ず元の世界に戻る』という意志を、しっかり固めてしまったのだ。
 ならば。
 天誠とともに帰ると決めた自分が、眞仲に心を寄せてはいけないのではないか。
 そう思い。
 胸のぐるぐるもやもやに、チクチクが加わる。

 この、龍鬼とみなされ忌み嫌われる冷たい世界の中で。友と呼べる人数は少ない。
 千夜とは、遠慮のいらない仲である親友。
 廣伊は、頼れる兄貴分。ふたりとも戦場で背中を預けられるほどに信頼している。
 堺とは、友達になれたのかな? と思っているが、まだ雲の上の上官という意識が強い。
 なんにせよ、友と呼べるのはこのくらい。

 眞仲は、紫輝にとって友ではなかった。
 眞仲のことを想うだけで、心がほんのり温まるから。
 ただ彼に体を添わせて、彼を身近に感じられれば、それだけでいい。
 彼といた時間は、実質三日に満たない。
 え、そんなに短い? と、自分でも驚いてしまうが。
 なぜだか絆を感じられる人。
 友とか、恋人とか、家族とか、敵とか、そんな言葉をつけたくない、そんな存在だった。

 けれど、自分はいつか眞仲に背中を向けて、元の世界に帰るのだ。
 その日のことを想像するだけで、泣きそうになる。
 眞仲と会う日が来たら、その話もしなければならない。

 ひとりで悩むなと言われているから。

 でも、別れるときの話をするなんて…嫌だな。
 胸が痛い。
 こんなにも愛している人から手を放さなければならないなんて。苦しすぎる。

 そんなことを考えながら歩いていたから。また苔に足を取られた。
 よろけて、強い勢いで滑ってしまって、崖の斜面から空へ…あっ、やばい。
 体が放物線を描いて宙に投げ出されてしまった。

 一瞬で脳裏によぎったのは、地表から出ている木の根っこや、崖の岩肌に体がぶつかり続けたら死んじゃうかも…ってことだった。

 そのとき、黒い風が吹いた。
 宙を舞う体が地表に近づいて、痛みを覚悟し身構えたが。それは訪れなくて。
 ふと見上げると、紫輝を抱えて飛ぶ眞仲が不機嫌そうな顔で睨んでいる。

「ここは戦場だぞ。ひとりでふらふら歩いていたら危ないだろう」
「でも、眞仲が助けてくれたじゃん」
 紫輝が言うと、眞仲は当然だと囁いて、自信にあふれた顔つきで笑った。
 黒い翼を羽ばたかせると、雨粒が跳ね上がり、丸いしずくが舞う。

 まるで天使が降臨したみたいな崇高さをにじませ、眞仲はふわりと崖の下の地上へ降り立った。

「このまま歩くか?」
 濡れた黒い翼がつやつやキラキラ光っている。いわゆる、濡れ羽色ってやつ。
 とても綺麗だから、つい見惚れていたが。
 眞仲がからかうみたいな薄笑いで聞くから。
 お姫様抱っこ状態だと自覚し、紫輝は恥ずかしくなってワタワタと足を動かす。
 ちょっと残念そうに眉間を寄せ、眞仲は渋々紫輝を地におろした。

 木の枝に引っ掻けていた黒マントを手にし、ふわりとひるがえして被る。
 その、なにげない動作が洗練としていて、紫輝はまたしても眞仲に見惚れてしまった。

 以前、彼は外見ばかりに目を向けられるのは嫌だと言っていた。
 でも紫輝は、格好良いものは良いし、綺麗なものは綺麗だと、ありのままに感じたいのだ。
 もちろん彼の良いところは他にもいっぱいある。
 容姿の美しさは、彼のいくつもある長所のうちのひとつなのだから、他人の好意を素直に受け取ればいいのに。と、思っている。

 彼に手を引かれるまま、紫輝は眞仲についていく。
 膝上くらいの高さに張り出している大きな木の根っこが行く手を邪魔したけれど。
 眞仲は軽々飛び越える。
 紫輝の手を眞仲が上向きに引き上げてくれるから、紫輝もひょいと超えられた。
 でも勢いがつきすぎて、彼にぶつかって…。
 眞仲は鍛えられた胸板で、しっかり紫輝を抱き止めてくれた。
 ふたりで笑い合うと…戦場で、しかも土砂降りだというのに、まるでトレッキングデートみたいで楽しい。
 敵味方なんて関係ない。
 お互いしか見えていないロミジュリみたいに。心が躍っていた。

 斜面に沿って崖下を歩いていくと、腰高の穴があり。眞仲はそこに入っていった。
 千夜たちが待つ、合流予定の大きな洞窟ではない。
 ふたりがちょっと雨宿りできるくらいの、小さな洞穴だった。樹海の中にはこんな洞穴がいくつもあるのだ。

 入り口は小さいと感じた。
 でも中へ入っていくと、眞仲が立っても余裕の高さがあり、案外広い。
 先も続いているようで、ふたりは外の光が届かなくなる奥の方へと進んでいく。
 足を止めた場所で、ふたりは雨に濡れたマントを脱いで壁際に置いた。
 眞仲が黒マントの中から提灯を出し、手際よく火をつけ。手拭いも出して紫輝の頭をガシガシと拭く。

 黒マントからなんでも出てくるから、紫輝はびっくりした。

「寒くないか? 雨で湿気ているから、焚火はできないんだが…」
 困ったように眞仲がつぶやく。
 できないこともあるのだと、紫輝は逆に安心した。万能すぎると、なんでか怖い。

「いいよ、こうしていれば温かいじゃん」
 言って、紫輝は眞仲に抱きついた。
 眞仲は紫輝の髪を拭いていた手を止め。胸の位置にある紫輝の頭をそっと抱き寄せた。
 大きな手に後頭部を撫でられると『あぁ、帰ってきたな…』という気になる。
 安心感、なのかな。

「そうだな…温かい」
 穏やかな彼の声が心地よくて。紫輝は目を閉じる。

 いろいろと、話をしなければならない。
 先ほどそんなことを考えていたから、思いがけず彼と遭遇して少し気まずかったけれど。
 こうして出会ってしまえば、やっぱり嬉しくて。
 今だけ。
 ほんの少しの間だけでいいから。眞仲がそばにいる喜びに浸っていたかった。

 ほんのりにじむ提灯の光が、岩壁をオレンジ色に照らしている。
 雨の音も届かない穴の奥深くで。眞仲の肩に頭を預け、寄り添って座っていると。
 世界にふたりきりのような気になった。

「紫輝、会えていなかった龍鬼には会えたか?」
 紫輝を支えている彼の手が、肩や頭を撫でて。その感触が気持ち良くて、夢見心地になってしまう。
「うん。すごく強い能力を持つ人だった。でも元の世界に戻すことはできないんだって」
「そうか。なら紫輝は、もう俺だけのものだ」
 髪に優しくキスをする、それは嬉しかったのだが。
 眞仲の声がいつもよりも低く聞こえて。どうしたのかなと思い、彼を見上げた。

 提灯の光に照らされた彼の表情は、笑顔。だけど、目は笑っていなかった。

 突き刺すような視線。執心の念を感じ取り、紫輝はちょっと怖くなる。
「なに? なんでそんな目で俺を見るんだ?」
「…ここに、この世界には、紫輝を元の世界に戻せる龍鬼はいない。だからもう過去は振り返らないで、紫輝。俺と一緒にこの世界で暮らせばいいんだ」
「ううん、俺、まだあきらめたわけじゃないよ。今度は藤王って龍鬼を探すんだ。それに天誠とも合流していないし。まだまだ、やらなきゃならないことがある」

 帰れなくなったわけじゃない、と紫輝は己に言い聞かせている。
 眞仲にもわかって欲しかったから、一生懸命自分の気持ちを伝えたつもりだ。
 応援してほしいと。協力してほしいと。一緒に探してほしいと。
 そんな願いを込めて眞仲をみつめるが。

 眞仲はふと視線を地に落として、首を横に振った。
「…天誠は、もういない」
 きっぱり断言され。紫輝はわからない、という表情を彼に向けた。
 実際、意味がわからない。

「いないって? なに? なんの話?」
 紫輝に問われ。
 眞仲は苦渋の面持ちで詰襟のボタンを外すと、懐からなにかを取り出した。
 そして、それを紫輝に渡す。
 持たされたものを、紫輝は見た。見たのだけど…。

「間宮天誠は、死んだ」

 眞仲に言われた言葉は、耳にも頭にも、入ってこなかった。
 ただ、手の中にある物をみつめている。

 手の中に、自分と同じデザインの黒い水晶が光る、天誠の腕輪があり。

 紫輝の瞳に、それが映り込んでいる。
 自分はそれを見ている。
 でも、そんなの、受け入れられないっ。
 その腕輪は、今紫輝の手首にある腕輪よりもボロボロで。革の切り口がめくり上がり、編み込まれた部分が擦り切れていた。

「手裏の兵士が捕まえようとしたところ、激しく抵抗され、抑え込んでいるうちに…。俺のところに報告が上がったときには、もう…」
 紫輝は腕輪から目が離せなかった。

 紫輝の黒髪と同じ色だと言っていた、その黒水晶に。持ち主の天誠ではなく、自分の姿だけが映っている。

 どんなにつらい想いをしたんだ?
 どんなに痛い思いをしたんだ?
 この朽ちかけた腕輪が、天誠の壮絶な旅路を物語っていた。

 天誠が助けの手を自分に向かって伸ばしている、その光景がありありと思い浮かぶのだ。
 その手は、今、自分の心臓を握っている。
 だから、胸が痛い。
 本当に心臓が握り潰されているかのように、痛くて、息苦しくて。体ががくがくと震えた。

「天誠は、もういない。紫輝も元の世界には帰れないんだ。だから紫輝、ここで俺と暮らそう。必ず幸せにするから。過去のことなどすべて忘れて…」
「どうして…」
 眞仲の言葉をさえぎって、紫輝はつぶやいた。

 ひとつ、涙がこぼれる。
 そうしたら、次から次へと、天誠と過ごした幸せだった日々が脳裏に浮かんだ。

 昼休みに、屋上でお弁当を食べた。
 夕食のあと、アイスが食べたいと言い出した彼と、コンビニまで歩いた。
 リビングで眠るライラの隣で、ふたりで和んだ穏やかな時間。
 耳をくすぐる、甘い彼の声。
 天使だと噂された、爽やかでまぶしい笑顔。
 たまに色気を見せる、薄い唇。
 太陽が当たると輝いて見えた、長い金色のまつ毛。
 男らしくてたくましいが、背筋のラインが美しい背中。

 そして紫輝の大好きな、雲ひとつない夏空のように澄んだ青色の瞳。

 そんな暮らしの情景。
 一番、幸せだった時間。
 ひとつひとつの思い出が悲しみになり、頬を伝ってこぼれ落ちていった。

「どうしてっ、俺を助けてくれたときみたいに…天誠を助けてくれなかったんだっ!」
「それは…すまないと思っている。だが、紫輝…」
 感情的な声を上げる紫輝に、眞仲は気圧される。
 なんとか落ち着かせようとして、肩に手を添えるが。紫輝はその手を払い眞仲を睨みつけた。

「おまえは、誰だ」

 まなじりを上げ、見開いた目から大粒の涙がボロボロ落ちる。
 いつも天真爛漫な紫輝から発せられたとは思えない、地を這うような低い声が洞穴に響いた。

「眞仲は、本当に安曇眞仲なのか? その立派な黒翼は、手裏一族が持つものなんでしょ? 眞仲は手裏家の人なのか? それとも手裏基成、本人? もしかして、俺たちをここへ連れてきたのもおまえなのっ? 天誠を殺したのも、眞仲なんじゃないのかっ!」

 なにもかも信じられないという気持ちと表情で、紫輝は眞仲に詰め寄った。
 彼の袖口を掴んで、強く揺さぶる。
「許さない。俺たちをここへ連れてきたあげく、天誠を死なせた。おまえがっ、眞仲であろうと手裏基成であろうと、もうどうでもいい。俺は天誠を殺した手裏を、絶対許さないっ」

 紫輝の怒りを真っ向から浴びせられ。その衝撃が、眞仲の胸を刺す。
 奥歯を噛み締め、いら立ちがかすかに表れていた。

 でもそんな眞仲の様子に、深い悲しみにのまれていた紫輝は気づけない。

 天誠をうしなったことで、憤りや悲しみや悔しさが、心を掻き崩し。
 完全に我を失っていた。

 頭に浮かんだ言葉を、無茶苦茶に眞仲に投げつける。
 天誠が死んだのは、眞仲のせいじゃない。と、心の隅の方ではわかっているのに。
 彼に憤怒をぶつけずにはいられなかった。

 そこには、彼への甘えがあったのだと思う。
 取り乱す己を強く抱き締めて、いつものように大丈夫だと言って欲しかった。
 優しく微笑んで、全部嘘だよと。なにもかもなかったことにして欲しい。
 そんな淡い期待を、紫輝はまだ持っていたのだけど…。

「そうだ。俺が天誠を殺した。紫輝を手に入れるのに、天誠が邪魔だったんだ」

 酷薄な笑みを浮かべる眞仲に、そう言われ。
 淡い期待も、彼への恋慕も、そして紫輝の心も、なにもかもが粉々に砕け散った。
 ひっ、と引きつった息を吸い。呼吸も、心臓の鼓動も、一瞬止まった。

 持っていた彼の袖口を、震える指先で離し。ガクリと項垂れる。
「…だったら、俺が殺した。天誠も眞仲も、俺が殺したっ」
 見るからに心が壊れ、支離滅裂なことを言い出す紫輝を、眞仲はなだめようとした。
「馬鹿な、そうじゃない…なぜ、そんなふうに考えるんだ?」

 でも、どれだけ支離滅裂に聞こえようとも。己の中では筋が通っていたのだ。
「ふたりの想いを俺が粗末にしたからだ。眞仲がそんなふうに思ってしまったのは、俺が曖昧な態度を取ったからだろう? だったら…俺がっ、ふ、ふたりとも、殺してしまったってことだ」
 暗い、暗い、絶望の淵へと沈み込んだ紫輝は、地べたに倒れ伏し声を上げて泣いた。

 信じていた、愛していた眞仲と。
 すべてを委ねていた、愛していた天誠を。
 同時に喪った。
 なにもかもが、終わった。 

 苦しみにもがき、指で地面を掻き毟るが。指が傷ついても、もはや痛みも感じなかった。
「紫輝…違うんだ…そうじゃ、ない…」
 悲痛な嗚咽が洞穴に反響し。狼狽する眞仲の声は、紫輝の耳に届かない。

「ひどいわっ」

 慟哭する紫輝に共鳴し、ライラ剣が紫輝の背中でガタガタ揺れた。
 そして煙とともにライラが現れる。
 眞仲に向かって、彼女は吠えた。

「おんちゃんをこんなに泣かせるなんて、もうだまっていられないわっ」
「ライラっ、でも、まだ…ダメだ」
「だめじゃないでしょ『……………』っ」

 ライラが叫んだとき。紫輝の中に流れている時間が、ガチリと止まった。

 その言葉は、紫輝の色褪せた世界を一瞬で色鮮やかによみがえらせ。
 砕け散った心を再生させた。

 それは、とても信じがたい言葉で。
 紫輝が切望した言葉でもあった。

 ライラは、眞仲に向かって『てんちゃん』と、天誠の呼び名を言ったのだ。

「ら、ライラ…違う、紫輝、違うんだ…」
 驚愕と焦りの表情で、眞仲が首を横に振るが。ライラは止まらなかった。
「おんちゃん、なみだいっぱいよ。どうしておんちゃん泣かせるの? おんちゃんいじめちゃだめって、いつも言っているでしょ、てんちゃん」
「ばかっ、ライラっ」
 眞仲の怒声に、ライラは耳を寝かせた。
 粗相をして躾けられたときのように。
 だが、そんなライラを見て、可哀想な気になってうろたえる彼の姿は、よく天誠も見せていた姿だった。
 紫輝も天誠も、とにかくライラには甘い。

「…天誠、なのか?」

 紫輝の問いかけに、眞仲は苦しそうな顔つきで眉根を寄せ。
 やがて観念したように、うなずいた。

 なぜ、天誠だということを隠すのか。
 どうしてこれほど容姿が変わっているのか。
 聞きたいことは山ほどあった。
 でも、そんなことどうでもいいから。
 とにかく紫輝は、一番に天誠に伝えたい言葉があった。
 震える膝でにじり寄り、彼の首に抱きつく。そして、涙でかすれる声を絞り出した。

「生きててくれて、ありがとう」

 天誠を見上げる紫輝の顔は、泣きすぎてボロボロだったが。
 先ほどのような痛々しさはなく。
 晴れやかで喜びに満ちた泣き笑い顔だった。
 そんな紫輝を見て、天誠は。今まで抑え込んでいた心情を、一粒の涙に変えて落とした。

「会いたかった、兄さん。何度も、兄さんの夢を見たよ」

 たくましい胸に、天誠は紫輝の小さな体を抱え込む。
 もう二度と離さない、そう感じさせる彼の手の強さ。
 その潰されそうな痛みさえ、紫輝は愛しく感じる。
 彼のぬくもり。彼の響く鼓動。懐かしい彼の匂い。

 会えたのだ。大好きで、大切な人に。

「もう、ケンカはだめよ」
 鼻息をフンと鳴らしたが、ライラは体を丸めて、寝た。
 彼女が平安である証のその姿に、紫輝も安心する。

 けれど…。
 少し落ち着けば、弟の謎過ぎる行動に疑問符が飛び交う。

 この世界に来てからの天誠の行動は、紫輝には全く理解できないものだった。
 あれも、これも…疑問はひとつに収まらないが。
 とにかく彼に聞かずにはいられなかった。

「いったい、どうなってんだ? なにがどうなってんだ?」
 怒らないようにしようと思う。
 うん。でも、ひと言、言ってくれたらという思いと、訳のわからないこの事態に、紫輝のこめかみはどうしてもピクピクしてしまう。

 そんな紫輝を、天誠は愛しげにみつめていた。
「俺は、今二十五歳だ。兄さんはここへ来たばかりだが。俺はこの地に、もう八年もいる」

 ハッと吸い込んだ息が、喉に詰まる。
 こんな過酷な地で、八年もひとりでいたなんて。

 あまりのことに、紫輝はブルリと大きく震えた。
 怒りなんか瞬時に掻き消えた。

「ど、どうしてそんなことに…。も、帰ろう? 今すぐ帰ろうよ、天誠」
 もう一秒たりとも天誠をこの世界に置きたくなかった。
 紫輝は、天誠の胸にすがって訴える。
 彼が味わってきただろう恐ろしさを想像し、めまいがする。

「落ち着いて、兄さん。もうなにもかも、紫輝にすべて話すから」
 天誠は紫輝の背中をゆっくりさすり、大丈夫だからと耳元で囁く。
 何度も、何度も。
 あの、穏やかで安心する声で。

 眞仲にはげまされたときの安寧を、紫輝は感じていた。
 今、ここにいるのは。天誠であり、眞仲でもある。
 愛する人が同一人物であったことに、気持ちはまだ混乱しているが。

 自分は兄なのだからしっかりしなくちゃ、と心を奮い起こして。彼にうなずきを返した。

「わかった。教えて。本当のことを、ちゃんと説明してほしい」
 天誠は地べたに胡坐をかき。その上に紫輝を座らせた。
 紫輝もくっついている方が安心するから。今は『恥ずかしい』とか『近すぎっ』とか、いつも出る文句は言わなかった。

「俺たちが、巨大な手によって穴の中に引きずり込まれたとき。兄さんは、見なかったようだが。あの手のひらには特徴的な傷があった。なにか、やけどのような、引きつった大きな傷跡だ。そして…穴の中は異様な空間だった。音も空気もないような、黒く塗りつぶされた、圧迫感のあるところ。そこでライラがあの手を引っ掻いたんだ。手の力がゆるみ、俺たちは空間に投げ出されてしまい…気づくと、俺はひとりでこの世界にいた」
 紫輝が今、ここにいることを確認するように。
 天誠は紫輝の肩を、大きな手でヒシッと掴んだ。

「タイムアウトしたのは、二二九三年。今から八年前だ。俺たちはおよそ三百年の時を越えた」
 紫輝の脳みそが悲鳴を上げる。
 天誠の話がうまくのみ込めなくて、おどおどした。

「え、え?」
 廣伊も堺も、異世界の話をしたときこんなリアクションだった、と思い出す。
 彼らも、きっとこんなふうに。異世界話を、のみ込めなかったのだろうな…と。ちょっと現実逃避して、脳みそが寄り道してしまった。

「ちょ、ちょっと、待て。えーと、タイムアウト? 三百年って…。俺たちが暮らしていたあの世界と、同じ時系列? ここ、日本なの? 異世界じゃないの?」
 パニクる紫輝を見て、天誠はプッと吹き出した。

「やっべぇ。そこに富士山、見えてんのに。まだ異世界とか言ってる兄さん、可愛すぎんだろっ!」
 たまらなくなって、天誠はギュギュッと紫輝を抱き締めた。
 頬擦りするみたいに、顔をぐりぐり押しつける。

「かっ!!」
 可愛いと言われたことを。紫輝は否定したかった。
 極悪ノラ猫顔の自分を可愛いなんて、目が腐っている。
 大体兄貴に向かって、その小馬鹿扱い。何事ぉ?

 つか、さっきから『やべぇ』とか『タイムアウト』とか。眞仲の顔で言われると、違和感半端ないんだけど。
 いや、天誠なんだけど。
 わかっているんだけど。キャラ変わりすぎだろ?
 いつも余裕な態度で、穏やかで、大きな包容力の大人な眞仲は、どこへ行っちゃったんですかぁ?

「だって、だーって、羽、羽あるし。三百年? たった三百年で、なんでみんな羽生えてんの?」
 でも、とりあえず。謎の解明が先なので、紫輝は疑問をぶつけた。

「あぁ、それは。ちゃんと文献が残っている。歴史を残すためのもので一般には出回っていないから、ごく一部の研究者しか知られていないことだが。西暦二〇三一年、人類を死滅させる兵器が発動したんだ」
 死滅、という言葉が衝撃的で、紫輝は口を開けたが。
 なにも、言葉にできなかった。

「兵器による爆発で、人類の大半が死に至り。生き残った人類も、飛散した化学物質の影響で遺伝子が劣化した。次代に生を継げた者は、鳥類の遺伝子を取り込んで有翼人種に変化できた、一部の人間だけだった…ということだ」
「ということって…取り込むって、どうやって?」
「さぁ、そこまでは書いていないが。遺伝子レベルで改変しなければ。人類は、生き残れない世界になったんだ。スマホ、どうなった?」
 急に天誠に関係ないことを聞かれ、紫輝は首を傾げる。
「あれは、ここに来てすぐに使えなくなっちゃったよ。天誠はまだ持っている? もしかして使えるとか?」

「いや。つまり人類だけでなく、人が生み出した人工物や電子機器も劣化し、消滅するんだ。だからこの世界に、以前の建築物や機械、文明も残っていない。ただ、鳥や動物、草木などの自然物は、作用を受けない。水や空気は、逆に俺たちがいた頃よりも清浄になった。地球規模として考えれば、この化学物質は喜ばしいものなのかもしれないな?」

 天誠が話す内容は、紫輝の胸を重苦しくさせた。
 自分は。この世界に来てから、生き残ることや天誠の行方ばかりに気を取られていた。自然に目を向ける余裕なんて、あまりなかったように思う。
 でも自然は、紫輝にそっと寄り添ってはいたのだ。

 星は降るほどに多く輝き、空は青く澄み切って、水は驚くほどに透明。
 紫輝はそれを知っているから。

 自然は、声高に訴えない。でも、紫輝は。それをちゃんと実感していたのだ。
 以前の世界も、太陽光発電や排ガスを抑える技術など、環境を維持しようと頑張ってはいたのだろうが。
 そういう物質が一切ない世界には。やはり遠く及ばない。

 人間は便利を求めすぎて、地球を汚しすぎた…のか?

「なにもかもがわからない世界で。龍鬼だと蔑まれて生きることは、本当に厳しかったが…なんとか生き延びて。この世界に落ちて、五ヶ月くらい過ぎた頃に。偶然、手のひらに傷を持つ男と出会ったんだ。俺たちを穴の中へ引きずり込んだ手の持ち主は、手裏軍の龍鬼、不破だった」

 その話に希望を見出し、紫輝は瞳を輝かせて天誠に聞いた。
「なら、不破は俺たちを元に戻せるんだな? 天誠は不破に会っているんだよな。頼んでみたか?」

「んー、順に話すから。もう少し続けて聞いてくれるか?」
 なぜだか、天誠は渋い表情で。
 よっぽど言いづらいことのようだと察して、紫輝は小さくうなずいた。

「…彼がどういうつもりで、俺たちをこの世界に引き寄せたのか、当時はわからなかったから。様子を探るため、不破のいる手裏に入軍したんだ。本名を知られているかもしれないから『安曇眞仲』という偽名を使い。来てすぐは、過去から転移したこともわからなかったから、その話も伏せておいた。兄さんは、将堂の人が異世界の話を信じてくれて、よかったね?」

 半笑いで、天誠は紫輝を見る。
 さらに『こんなバカげた話を信じる高槻廣伊、人良すぎだろ』なんて、失礼なことをつぶやいている。
 紫輝は。吊り気味の目を、さらに吊り上げた。

 真面目な話だから、背筋を伸ばして聞いているのに。ちょいちょいディスってくんの、やめてくれるぅ?
 あと、俺の上司をけなさないでくれるぅ?
 一騎当千の猛者だよ?

 まぁでも、天誠はやっぱり賢いなと紫輝は感心した。
 自分は、闇雲に龍鬼を追いかけ、過去に戻せと言うばかりだった。
 偽名で様子をうかがうなんて、考えつきもしない。

「俺は、軍師として名を上げ『龍鬼、賢龍』と呼ばれるようになった。しかしそのすぐあと、病気になった。病気というか…さっき話した兵器の影響で、人間の遺伝子が劣化し始めたんだ。三百年前の化学物質が、今も空気中に漂っている。俺の体は、痛みで動きが悪くなり。呼吸するたび、肺が針で刺されるかのように痛くなって…死を覚悟した」
 天誠は、時折茶化しながら淡々と話を進めているが。

 それは、そら恐ろしい内容だった。

 確かに、紫輝の持ち物もどんどん腐食していった。
 制服はところどころ穴が開いて、着れなくなっていたし。スマホは電源が入らないだけでなく、さびついてしまった。
 天誠の体が、さびついたスマホのように徐々に蝕まれていったのかと思うと…。
 むごすぎて、息が詰まった。

「ある作戦を実行中に、俺は力尽き、倒れてしまった。目の前に、死体があり。本能で…俺は。そばにいた不破に、背中を斬ってくれと頼んだ。そして、その死体の翼をもぎ取り、背中につけた」

 紫輝は、天誠の背にある黒い翼をみつめた。
 それは、つけた羽などという安易なものではない。

 彼は紫輝を抱いたまま、その翼で空を飛んだのだ。
 力強く。動きになんの支障もなく。昔から翼がありました、と言えるほどに違和感が全くなかった。

「普通に考えれば、こんなことうまくいくわけない…んだが。なにもしなくてもどうせ死ぬなら。やるだけやってみたかった。俺の体は、鳥の遺伝子をよほど欲していたようで。その羽から因子を吸収し、奇跡的に同化できた。体中の細胞、ひとつひとつが生まれ変わっていく。その感覚を体感したよ。ずっと悩んでいた体の痛みも消え。吸い込む空気を初めて美味いと感じた」
 痛みから解放されたような顔つきをした天誠だが、一転、思い詰めた様子に変わる。

「でもその日、間宮天誠は。完全に死んだ。奪った翼の持ち主と同じ肌の色になり。金髪も目も、黒くなった」
「馬鹿! 死んでなんかない。天誠は天誠だ。なにも変わっていないよ」
 紫輝は天誠の頬を手で包み、しっかりと目を合わせて告げた。

「髪が黒くなったくらい、どうってことないだろ。こんな、しっとりしたさらさらヘアで。キューティクルが光ってつやつやじゃないか。俺なんか、バリバリのゴワゴワなんだぞ。全ダメージヘアの俺に謝れっ」

 紫輝は、心からそう思っていたが。
 ただ、悲しくて。怒りながら涙が出た。

 天誠がひとりで苦しんでいたこと。
 生きるために、もがいていたこと。
 想像するだけで、心がぶるぶると震えるのだ。

 今までに自分が経験してきた、何十倍もつらい想いをしたはずだ。
 彼の苦しみを知らず。肝心なときにそばにいてやれなかった自分が、腹立たしくて。情けなくて。
 胸の奥が、張り裂けそうなほど痛くなるのだ。

「ひとりでずっと、そんなこと悩んでいたのか? なんで早く俺に言わないんだ? なんで初めて会ったとき、すぐに言ってくれなかったんだよ?」
「兄さんの年を追い越して。翼も取り込んで。以前とは、こんなに姿が違うなんて…まるで、羽化した昆虫のようだ。そんな自分を、俺が一番気持ち悪いと思っている。兄さんは、そんな表面上のことだけ見る人じゃないって、わかっているけど。でも。もしも。もしも、そう思われたら…立ち直れない」

「おまえの命をつないでくれたこの翼が、気持ち悪いわけないじゃないか。っていうか、感謝しているよ。この翼が天誠を生かしてくれたんだから」
 ボロボロと涙をこぼしながら、真摯に彼に訴える。
 それは紫輝の本心だった。

 今、目の前に彼が存在している。それだけで、紫輝にとっては絶対的な善なのだ。

「ただ、天誠が生きていてくれるだけでいい。どんな姿だろうと。どんな道を歩いていようと…」
「…兄さん」
 紫輝は天誠の頭を撫でる。
 そして、指先をするりと滑る髪をひと束取って、黒髪にくちづけた。

 自分よりも、何十倍ものつらい想い。
 それは当然だ。
 天誠には、ライラがいなかった。

 紫輝は天誠の闇から、目をそらしたくなかった。
 天誠が倒れたとき、そばに死体があったと言った。天誠は言葉を濁し、詳しくは語らなかったが。
 本来龍鬼ではない天誠が、龍鬼として手裏軍で大成し。作戦中にそういう事態が起きたということは。
 そして、ライラがいなかったということは。

 天誠は、生きるために手を汚してきたということだった。

 でも、それでもいいのだ。
 天誠が生きて、目の前にいるだけで。ただ、それだけで。

 自己チューか? 相手のこと? そんなの一切考えない。頭から排除する。
 紫輝はただ、彼のすべてを受け止めるだけだ。
 眞仲が自分をそうして守ってくれたように。

 ここは過酷な世界だ。
 羽がない自分たちは、それでなくても龍鬼として蔑まれ、排他される。
 普通の暮らしなど望めない。
 それは、ほんのわずかな期間しかこの世界にいない紫輝にも。充分に痛感させられた部分だ。

 そんな中、天誠はひとりで、生きるためにもがいてきた。
 どうしようもなくて、剣を取ったのだろう。
 自分だってライラがいなければ。戦で手を汚さなきゃならなかった。
 千夜も廣伊も、班の仲間たちも。自分や家族の命、環境、信念、それらを守るために戦っている。

 ここはそういう世界なのだ。

 だから紫輝は、天誠に間違っていないと伝えたい。
 弟はこんなにも、もがき苦しんできたから。
 彼の頭を胸に抱き、間違っていない、もう大丈夫だと、安心するまで何度でも伝えたいのだ。

 だけど天誠はおそらく、そのことを紫輝に一番知られたくないのだろう。
 後ろめたく思っているのだ。
 動揺に揺れる天誠の眼差しが、そう語っている。

 愛する人が泥の道を歩いてきたのなら。
 自分も黙って、同じ泥の道に進めばいいだけ。

 紫輝はそう思うのだけど。
 彼をこれ以上、追い詰めたくはないから。今はそのことには触れず。
 紫輝は天誠に、ふへっと気の抜けた笑みを向けた。

「俺、手裏兵に襲われたとき、眞仲の大きな背中と黒い翼を見て、救われた気持ちになったんだ。眞仲に初めて会ったときから、その翼も含めて、すごく格好良いと思っていた。気持ち悪いなんて一瞬も考えたことないぞっ」
「そうだった。兄さんは眞仲のことも愛してくれたな。見目が変わっても、翼があっても、俺の本質を好きになってくれる。兄さんはどんな俺でも愛してくれるってことだな?」

 迷いのない、紫輝の真っすぐな瞳を見て。天誠は紫輝への愛情をますます募らせる。
 紫輝の肩を抱き寄せ、こめかみにキスした。

 でも紫輝は、天誠の額に指を突きつける。
「でも俺はっ、ふ、ふたりを、同じくらい好きになっちゃって…すっごく悩んだんだぞ」

 罪悪感に身を引き裂かれそうになった、あの苦しみを。紫輝は思い起こす。
 眞仲と出会ったあの山で。天誠が本当のことを話してくれていたら。
 あんな想いは味わわずに済んだのかもしれないのに…と、恨みがましく思ってしまう。

「容姿が変わったことを心配して、天誠だってことを隠したのか? でもそうなら、俺が眞仲に嫌悪感を持っていないって、すぐわかっただろ?」
「あぁ、眞仲として紫輝の前に立ったとき。俺が抱いていたほんの少しの恐れは霧散した。元々紫輝に拒絶されるなんて、本気で心配していなかったよ」

「じゃあ、なんで今まで正体を隠していたんだ?」
 紫輝の追及に、天誠は紫輝から視線を外して、うーんと唸る。

「おい。ちゃんと話すって約束だろ?」
 半目で睨むと。
 天誠は渋々、本当に渋々といった感じで、口を開いた。

「…俺が別人を装い。紫輝の前に現れた、一番の理由は。紫輝が、兄さんだから。弟の俺の気持ちを受け入れないってわかっていたからだ」

 小首を傾げる紫輝に。今度は天誠が恨みがましい目を向けてきた。
「俺たちに血縁はないから、近親の禁忌はない。でも兄さんは生真面目だから。どうしても俺にはまる弟という名のかせを外せない。それさえなければ、すぐにも愛し合えていたはずだ。だって…兄さんは。俺のことを好きだった。愛していた。泉でもそう言ってくれたよな?」

 天誠に泉でのことを言われ。紫輝は猛烈に恥ずかしくて、今にも爆発しそうなほどに顔を赤くした。
 眞仲を相手にしているつもりで、本人に赤裸々に自分の気持ちをぶっちゃけていたってことだ。
 そのことに今、気づいて。動揺しすぎで涙も引っ込んだ。

「だから、俺が。その枷をぶっ壊してやったんだよ。他人の安曇眞仲なら、兄さんは気兼ねなく俺を愛してくれる。実際、天誠のときには許されなかったのに、眞仲にはあんな熱烈なキスをして。俺はメロメロに…」
「わーっ、やめろよ。は、恥ずかしすぎんだろっ」

 キスの感想は、言ってはいけません。

 紫輝は天誠の言葉を、大声出してさえぎるが。
 彼は紫輝を、意味深にみつめた。

「泉で、兄さんが。天誠も眞仲も好きだと言ってくれたとき。俺がどんなに幸せだったかわかるか? 俺はすべてがうまくいったと思った。なのに…天誠がみつかるまでキスしないなんて兄さんが言い出すから。そうしたら、もう天誠を殺すしかないっ」
「…バッ、はぁ? な、なんでそうなる? 天誠はおまえだろ?」

 天誠が殺される憤り、困惑、疑問、激しい感情の波が次々押し寄せ、紫輝の脳みそは破裂寸前だった。
 そもそも、頭の良すぎる弟の思考回路について行けたことなどないっ。
 とにかく説明を要求するのみ、なのだった。

 すると天誠は、紫輝に素早く顔を寄せ。唇にチュッと、音の鳴るキスをする。
 そして、唇が触れそうで触れない距離を保ったまま…もう、どんだけ口が動くんだって驚くくらいに、早口で、でも囁き声で、まくし立て始めた。

「天誠が行方不明の間は、この柔らかい唇に触れちゃダメなんだろ? そんなの、我慢できるわけない。だから予定にはなかったが、天誠を殺すことにしたんだよ。そうしたら、兄さんキレちゃうし。眞仲も許さないとか言い出すし。じゃあ、やっぱり俺とはキスしないのかと思って、俺もキレて。売り言葉に買い言葉で、天誠殺したなんて言っちゃって。それで兄さんは、また怒って…俺の計画は破たんしたんだ。ライラのせいで、俺が天誠だってこともバレ。これで、弟とはやっぱ付き合えないって兄さんが言い出したらどうしよう…。と、今、思っているところだ」

 死んだなんて言われたら、キレんの当たり前だろっ。
 と、紫輝は強く反論したかった。
 でも天誠は、その隙を与えず。
 ご褒美のキャンディーを味わうかのように、紫輝の唇を潤す、甘いくちづけをした。

「兄さん、俺はね…ここ数ヶ月、頭の中で、あらゆるケースをシミュレーションしたよ。なにを言われても、うまく返せるように準備していた。けど、兄さんが。あんなふうに泣く場面を見たら…頭が真っ白になった。俺は、この世界ではどんな作戦でも完璧に遂行できる、賢龍なんだぞ? 狡猾に、冷徹に、緻密に、な。でも兄さんのことだけは…うまくできたためしがない。いつだって、ただの愚かな男に成り下がる」

 指先が、天誠のせつない想いを込めるかのように。そっと、紫輝の頬に触れる。
「信頼を得て、想い合って。甘い、甘い、キスをした。そこまで進展したのに、もうキスしちゃダメだなんて、ありえない。八年も兄さんを待った身としては、その宣告は、耐えがたい苦痛だ。俺がどれだけ兄さんに飢えていたか…俺にいっぱいキスされて、思い知ればいい」

 欲望のままに、天誠は紫輝の唇に喰らいつく。
 荒々しく口中を探る彼の舌は、紫輝のすべてを侵略しようとする暴君だった。

 身が燃えるくちづけを受け。紫輝は彼の情熱を知る。
 この熱さに、しばし酔いしれたかった。
 でも、どうしても言いたいことがある。

 紫輝は、なだめるように天誠の舌の絡まりをほどいて、ゆっくり唇を離した。
「…馬鹿。俺は、天誠が腕輪をくれたあの日、言おうと思っていたんだぞ。兄弟だけど、おまえは俺にとって、兄弟以上に特別な存在だって。俺も天誠を愛しているんだって…あの手に邪魔されて、言えなかったけど」
「それ、本当か?」
 信じられない、という表情の天誠に。紫輝はしっかりうなずいて見せた。

「泉でも言ったろ? おまえの告白が嬉しかったって。眞仲と同じくらい、天誠のことも好きだって。嘘だ、みたいな顔…今さら、すんなよ」
 愛しさを込めて、紫輝は天誠の鼻筋を指先でなぞった。

「だが…兄さんは、案外ケジメにうるさい人だから。弟は絶対に受け入れないと思っていた。父さんや母さんに負い目を感じて、心のままに愛せないなら、に身を引こう、なんて思いそう。俺のためっ、ここ、重要な。全然、俺のためじゃねぇから、念のため言っておくけどなっ??」
 天誠と眞仲が同一人物だと思っていなかった、ついさっき。
 元の世界に帰るなら、彼と心を寄り添わせるべきではないのでは? なんて。身を引く選択肢を考えていた紫輝には。

 心当たり、ありまくりで。耳が痛い。

「うー、兄弟とか、男同士とか、二股とか、元の世界…過去の世界? では、白い目で見られる行いだろ? 俺は確かに、社会のルールからそれることに抵抗があった。というか、心にブレーキをかけてしまうようなところがあった。今も少しある。性格って、そう簡単に直せないじゃん?」

 モラル重視の生真面目思考。以前の世界では、それが処世術として生きていた。
 でもその思考は、紫輝と天誠の間を、長く、堅固に、分け隔てていたのだ。

 ふたりには不要な思考なのに。

「でもさ…天誠が死んだと言われたとき、絶望感が半端なかった。おまえがいなくなってから悔やむのは、断固、御免だ。だから俺は考えを改める。もう自分の気持ちに嘘はつかないよ」

「…泉で、兄さんが。気持ちをはっきりさせなきゃ、と言ったとき。実はものすごく怖かった。兄さんの口から弟とはつき合えないと、聞きたくなくて。でも眞仲が選ばれないのも、困って、さ」
「おまえ、複雑な男なんだな。でも…わかった。いつまでもおまえを不安にさせていた、俺が悪かった。随分待たせちゃったけど、今ここではっきり告白の返事をするぞ」

 天誠の胡坐の上に乗っていた紫輝は、地べたに降りて正面に座り直し。
 両手を彼の頬に添え、告げた。

「弟だからという理由で、俺は天誠への想いを、二度と隠したりしない。天誠、愛している。それから、この地で俺を支え、守ってくれた眞仲、愛している。どうか…俺の恋人になってください」

 ふたりに語り掛ける、紫輝の真摯な告白を受け。
 天誠はひと粒、涙を落とした。

「なる。もちろん、恋人になるよ。あぁ、最高の告白だ…嬉しい…」
 いつも自分の全部を受け止めてくれた、あの頼もしい眞仲の顔で、泣く彼を見て。
 紫輝は、胸がギュッと締めつけられた。
 親指で彼の涙を拭うけど。
 なんだか自分も泣きそうになる。

「もう、なにも我慢しなくていい。俺を全部おまえにやるから」
 視界が潤んで、歪む。
 涙が出ちゃう前に、紫輝は自分から天誠にくちづけた。

 弟だからと、天誠と距離を置いたときも。
 眞仲とは、離れなければならないと思ったときも。
 本当は離れたくない。どうにか先延ばしにしたい。良心を殺しても、ふたりを手に入れたい…そんな欲望が紫輝の中にはあった。
 わがままに。心のままに。自分の気持ちだけを優先したら。
 きっと天誠も眞仲も、両方手に入れて離さない。

 それほどに、紫輝はふたりとも心から欲していた。

 本当の両親を知らない紫輝は、己だけを愛する者を渇望し。貪欲に、その愛を得たいと願う者だから。
 己を真に愛する者が、ふたりとも手に入る。
 その願いが叶う今、彼の愛に応えない理由はない。

 兄弟だとか。家族だとか。翼があるとかないとか。天誠とか眞仲とか。
 そんなこと、なにもかもどうでもいい。
 ただ目の前にいる男のすべてが、欲しかった。

「…好き…ん、ん」
 より重なり合うところを探して、唇の角度を何度も変える。そのたびに、くちゅりと卑猥な音が漏れた。
 恥ずかしいけれど、たかが羞恥心ごときで、彼を離せない。

「俺も…好きだ。紫輝、もう…離さない」
 天誠も、砂漠の水を欲する旅人のように夢中で紫輝を求めた。
 互いが個体であることすら、もどかしい。
 唇も、体も、同化できたらいいのに。
 そういう想いで、きつく、熱く、ふたりは抱き合う。
 紫輝は一度は地べたに降りて、体を離したものの。くちづけて、身を添わせているうちに。また天誠の膝の上に乗って。切なく、体をくっつけ合った。
 もう、ちょっとも。離れたくないっ。

「…あ」
 でも、天誠をまたいでいる格好の紫輝は。腰と腰が密着したとき、思わず声を上げた。
 彼の股間が充溢しているのを知り、頬を紅潮させる。
 恥じらう紫輝を見て、天誠は間近で、声に甘さを含ませて囁く。

「どうかした?」
 艶然とした笑みを浮かべ、天誠は紫輝の股間に己をわざと押しつける。
「…ん、硬いな」
「早く…紫輝のここに、入りたい」
 服越しに、彼の指がお尻のすぼまりに触れる。
 そこに彼を迎えるセクシャルな行為を、紫輝はしっかり意識した。

 いつも力強くはげましてくれた、あの大きな手が。今は、いやらしい動きで、臀部を揉んでいる。
 ゴリッとした、彼の欲望を突きつけられて。
 紫輝はのぼせそうなほどに体を熱くした。

「しろよ。天誠、して…いいぞ」
 情欲に目を潤ませ、紫輝は彼の膨らみ手を添える。
 すると。彼の双翼がバサリとビクついた。

「煽るな。こんなじめじめした暗い穴の中で、紫輝の初めてを奪いたくない」
 天誠は肩で息をつきつつ、紫輝の手をはがす。
「場所なんか、どうでもいいよ」
 紫輝が言うと、天誠は咎めるみたいに頬をチクリと噛んだ。
 噛んだ!?
 紫輝が驚いて、目を丸くすると。鼻先や耳たぶや首筋にも、甘噛みをしてくる。

「良くない。紫輝の思い出になるような、ロマンティックな場所じゃなきゃ…」
 濡れる紫輝の唇も、ついばんで。天誠は、唇をくっつけたまま、つぶやく。
 敏感な口先が、かすかに触れる度に。くすぐったくて、笑っちゃいそう。

「大事にしたいんだ。紫輝を、愛している…」
 愛する人に、愛していると告げられる。その感動に、身も心も蕩けてしまう。
 彼の『愛してる』が嬉しくて。
 大事にされていると実感して、喜びがあふれ。また涙ぐんでしまった。

「あぁ、でも…奪ってしまいたい。紫輝が、欲しい」
 うわごとみたいに、天誠が本音を漏らす。
 なにも考えないで、今すぐ奪って欲しかった。
 彼の求めに応えたくて、自分も欲しくて、なやましく燃える体を天誠にすり寄せる。

「天誠、俺も…」
 本能のままに、燃え上がってしまえ。
 そんなふうに思ったとき、ライラがガバッと身を起こした。

「おんちゃん、近くにせんにゃがきてる。おんちゃんをよんでるわぁ」
 夢心地から、唐突に現実に引き戻され。
 紫輝も天誠も、唇を離した。

 ライラが言うせんにゃは、千夜のことだ。
 紫輝がいつまでも合流場所の洞窟に現れないから、探しに来たのだろう。

「え、どうしよう…」
 紫輝は鼓動を跳ね上げ、ただおろおろしたが。
 天誠の動きは素早かった。
 提灯の明かりを消し、脱いだ雨除けのマントを、紫輝に持たせて。指示を出す。

「ここから出て、青髪と合流しろ。崖から落ちたあと、ここで雨宿りをしていたと言うんだ」
「でも、過去に戻るのは? それに天誠とせっかく会えたのに…離れたくない」
「俺も離れたくはないが。今、紫輝が脱走を疑われるのはまずい。雨が上がったら夜抜け出して、あの泉に来てくれ。そのときに、全部話すから」

 とにかく行け、と促され。
 渋々紫輝は立ち上がる。
 でも名残惜しく、彼をみつめた。

 暗いけど、姿が見えるくらい近くにいる。
 天誠は、手裏の軍服を着ていた。
 そして天誠は。安曇眞仲なのだ。千夜にみつかったら、命の危機になる。

 思い切って、紫輝は天誠に背中を向けた。
 早くここから出た方がいいのは、わかっている。
 わかっているけど。
 でも、どうしても離れがたくて。一度だけ戻って、彼に抱きついた。

「あぁ、紫輝。俺の、紫輝」
 抱きついた勢いのまま、天誠も紫輝を強く抱き締め。
 せつなげに目を細める。
 彼も自分と同じ気持ちなのがわかって、胸がギュギュっと痛くなった。

「紫輝? ここにいるか?」
 洞窟の中に声がかけられ、紫輝は千夜が、すぐそばにいるのを察した。

 天誠が、紫輝をそっと離す。
 紫輝は、三歩後ろ歩きをしたが。未練を引き千切って、今度こそ彼に背を向けた。

 唇も、手も、足も、彼から離したくない。
 けれど。ライラと一緒に千夜の元へ駆けていく。

 天誠のために…。

     ★★★★★

 入口の方へ早足で進む。
 穴から見える外は、雨が上がり始めているようで。少し明るくなっていた。
 日の光が逆光になり、洞穴の入り口近くにいる人物はシルエットしか見えない。

「紫輝? 無事だったか。なかなか来ないから心配したぞ」
 でも声は、確かに千夜だ。

「ごめん、あそこの斜面から落ちちゃって。足ひねったから、少し休んでたんだ」
 返事をしつつ、紫輝は素早く穴から出て。斜面を指差す。
 千夜に、穴から早く出てほしかったのだ。

 なんの疑問も持っていないようで。千夜は紫輝の隣に並び立ち。明るい笑みを見せる。
「足は大丈夫なのか? だからライラに乗れって言ったのに」
「もう足は痛くない。平気だよ。合流地点に向かおう」

「…こういう小さめの穴には、敵兵が潜んでいることがある。休憩場所に選ぶのは危険だぞ?」

 洞穴の中をのぞき込む千夜を、紫輝はわざとらしくない動きでさえぎり、千夜の腕を叩いた。
「ちゃんと気をつけてるよ、馬鹿じゃないんだから。奥まで行ったけど、誰もいなかったし。ほらほら、みんな待ってんだろ、行こ」

 暗がりに天誠がいることを、千夜に気取られることなく。紫輝は洞穴から離れた。
 先に立って、千夜が歩く。
 その後ろで。紫輝はこっそり、遠く、小さくなる穴をみつめる。

 紫輝には、まだわからないことの方が多かった。
 話が途中になったことが悔やまれる。
 長く続いた心細い想いは、天誠と再会すればすぐにも解消すると思っていた。

 でも、再会しても。敵味方に分かれているうちは、不安だ。

 それにぶっちゃけ、もっと天誠と一緒にいたい。
 彼のそばに、ずっとひっついていたい。
 そうじゃなきゃ、心細さは逆に増してしまう。

 それでも天誠が捕まっちゃうのはダメだから。納得できないけど、前に足を動かすしかない。

 ふと顔を上げると、訝しげに千夜がこちらを見ていた。
 え? 天誠との別れを惜しんでいた顔、見られた?
 ヤバい、と思い。引きつった笑みをとっさに浮かべた。

「な、なに? 千夜」
「おまえがさ、この頃情緒不安定だから、心配なんだよ。今も洞窟で、ひとりで泣いてたんだろ? 目元が赤いからわかるぞ。悩みがあるなら俺に言えよ?」
 頭を小突いてくるが、千夜が心配してくれているのがわかるから、なんだか怒れない。

「いやー、悩みなんかないよ」
「そうか? 天誠は?」
 ぎょっとした。
 まさか天誠が洞穴の中にいたこと、バレてんのか?
 危険だ、危険だ、と。紫輝の中で、激しく警報音が鳴り響く。

 だが、そのアセアセする紫輝の反応に。千夜の方が、驚いた。
「違うのか? おまえの一番の悩みは、天誠に会えないことだろ?」
「そうだけど…今は、しょうがないじゃん」

 天誠と再会する前の、紫輝の悩みは。確かに千夜が口にしたものだ。
 だが、今となっては。
 千夜に、天誠のことを気に掛けられることが一番怖い。
 だからといって紫輝が天誠のことを否定するのは、不自然。
 だから紫輝は『弟を探しに行けなくて、拗ねてます』という顔で、つぶやくしかなかった。

 あぁ、こういうとき天誠だったら。理路整然と言い訳を並べ立てられるのに。

 いろいろありすぎて、紫輝の頭は未だ混乱しており。細かいことをまるで考えられないでいた。
「ちゅう、ちゅう、おんちゃんがぁ、ちゅう」
 なんとか天誠のことを誤魔化そうとしている最中なのにっ。ライラがまた、あの歌を歌い始め。

 紫輝は驚愕の極みで口をあんぐりと開けた。

「ラ、ライラ? ちょっと…」
 紫輝は、止めようとするが。
 口元の肉厚な部分をムニムニと動かしながら、ライラは高らかに歌い上げている。
 いつ天誠の名を出してしまうのか? と。キョドってしまった。

「紫輝と違って。お嬢さんはご機嫌だな? で、紫輝はなんで、そんな顔を赤くしたり青くしたりしてんだ?」
 ライラをお嬢さんと呼ぶ千夜は。
 口の前に指を当て、シー、シー、言ってる紫輝を、不思議そうに見た。

「だって、ライラが変な歌を…」
「歌? にゃごにゃご言ってる、これか? 歌ってんのか?」
 言われて初めて。紫輝には、しっかり聞こえているライラの言葉が。
 千夜にはにゃごにゃごとしか聞こえていないのだと知った。

 え? ライラと千夜、会話してなかったっけ?

「千夜、ライラがしゃべってんの、知らなかったのか?」
「しゃべるって? 言葉を? 人の言葉を話してんのか? 嘘だろ。おまえ、それ聞こえてんの?」
「聞こえるよ。っつか、泉で堺といたとき、千夜、ライラと話してなかった?」
 顔を上に向けて、千夜が思い返している。
 あ、とりあえず天誠のことは、完全に誤魔化し切れたな。よしよし。

「あー、あのときお嬢さんは。ガオーとかアオーンとか…。そういえばライラと打ち合わせした、とかも前に言ってたな? あれ、マジ打ち合わせなんだ? 俺は紫輝が一方的に『らいかみっ』のこと頼んでんだと思ってたよ」
「なにぃ? それじゃあ俺が『うちの子、おしゃべり上手なんですぅ』って言う、猫馬鹿飼い主みたいじゃん?!」
「いやぁ、おまえは『ライラ可愛い天才でちゅう』っていつも言ってる、ガッツリ猫馬鹿飼い主だよ。間違いねぇ。つか、俺にはにゃごにゃごしか聞こえねぇから。今でもイタイ、猫馬鹿飼い主だけどぉ?」

 まさか、自分がイタイ猫馬鹿飼い主、だと?

 だってライラが可愛くて天才なのは、周知の事実…。
 なら、仕方がない。
 紫輝は熟慮し、甘んじてイタイ猫馬鹿飼い主の称号を得ることにした。

「あ、じゃあもしかして。俺の話もわかってるってことか? やべぇ、紫輝の悪口筒抜けかよ…」
「せんにゃは、わるぐちいってないわ。あたし、うそはきらいよぉ」
 千夜の言葉にライラが答え、また歌い始めた。
 紫輝が通訳すると、千夜はオォッと感嘆した。

「すげぇ、通じた、通じた。で、お嬢さんはどんな恥ずかしい歌を歌ってんだ?」
「いやぁ…俺も、よくは聞こえないけど…」

 濁して、千夜の追及をかわす。
 だって、チュウの歌なんて。言えない。

 でも千夜は道中『どんな歌なんだ?』ってしつこく聞いてきた。
 もちろん歌の内容について、紫輝は絶対に口は割らなかったが。

 それにしても。
 三百年後の世界にも『マジ』とか『イタイ』なんて言葉、残ってんだな…と、紫輝は純粋に感動した。
 ゲームの世界に入り込んだり、異世界転移とかで、もしかしたら自分用にいい感じで翻訳されて聞こえているのかもしれない。なんて思ったこともあったけれど。
 まさかのタイムトリップで、驚いた。

 そりゃ、日本語も漢字も、あるよねー。
 つか有翼人種とか、三百年前はなかったわけだし。もう異世界転移でいいんじゃね?
 だって、ファンタジーすぎるよ。

 とはいえ、天誠の翼は真っ黒くて、大きくて、すっごく格好良くて、似合っているけど…。照れ。
 だからファンタジーでもいいんだけど…。照れ照れ。

 そんな思考の流れで、紫輝は天誠の姿を思い返す。
 千夜には、ライラの言葉が聞こえていなかった。
 おそらく他の人も。
 ライラと意思疎通できるのは、過去から一緒に来た自分と天誠だけなのだろう。

 もっと早く、そのことがわかっていたら。
 なぜライラが眞仲と話せるのか、疑問に思い。
 眞仲と天誠が同一人物だと、結びつけることができたのかもしれない。

 そこに気づけなかったこともだが。

 あれほど似ているふたりを、色とか、翼があるとか、そのくらいの違いで別人だと思ってしまったことが、紫輝としては痛恨の極みだった。
 いくら天誠が迫真の演技をしていたとしても。そこは。己が気づくべきことだった。

 いや、迫真すぎるだろ。っつか、そこまで普通やる?

 紫輝は胸のうちでツッコミまくっていた。
 弟という枷を外し、ひとりの男として愛されたい。その天誠の切実な願いは、わからなくもないが。
 それで別人としてやり通してしまう、彼の執念には、まいりましたと言う他ない。
(あげく、自分を殺しちゃうんだから…。どんだけ俺とチュウしたいんだか?)
 自分を愛しすぎている弟の狂気は、逆におかしくて、笑えた。

 笑えて…涙が出る。

 紫輝より年下だった天誠は、今では大人の色気を醸す成人男性になった。
 少しだけ少年の趣を残していた、頬のなだらかなラインは。鋭角になり。
 誰もが好感を持っていた優しい眼差しは。今や、鋭い光を宿している。
 抱き締められたとき、彼の腕の中に、紫輝はすっぽりと収まってしまい。
 なんでも受け止めてくれそうな彼のたくましさを、頼もしいと思った。
 元々、紫輝よりも長身ではあったものの…。さらに大きく成長したな? と、実感すれば。
 彼がひとりで生きてきた長い年月を、突きつけられるのだ。

 この過酷な世界で、己の姿を変えてでも生き延び。八年もの間、自分への愛を貫いてくれた、健気な弟。
 これほどの大きな愛を向けられたら。
 紫輝の心も大きく揺さぶられ。打ち震えるばかりだ。

 天誠を愛している。

 弟だからと、気持ちを抑えていた日々は、遠く昔のことのようだった。
 今ではもう、彼への想いを抑えることなどできはしない。

 抑える気も、なかった。

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