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32 下種は鳴き声も醜悪だな

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     ◆下種は鳴き声も醜悪だな

 火事場の馬鹿力、とよく言いますが。
 紺野の身長は私と同じくらい、体つきは細いくらいなのに。私を車に引きずり込んだり、私を制圧したりするその力は、本当に狂気じみて強いものだった。

 けれど、私にも火事場の馬鹿力はありますっ。

 手首めがけて、ナイフを振り下ろそうとした課長に、私は右手で砂を掴んで顔にぶちまけた。
 細かい粒子は、目に入ればたちまち痛みを誘発し。
 手で目を覆った紺野を、私は体の上から思いっきり退しりぞけた。

「汚い手で私に触るなっ」
 彼が私の体を手でまさぐったとき、マント越しでも吐き気がするほどの嫌悪を感じました。
 もう、我慢なりません。
 私にしては俊敏な動きで、ナイフを持つ紺野の右手を両手で握り、親指の根元に渾身の力をかけて後ろ手にひねり上げる。
「い、いてぇぇ、離せっ、ぼくに逆らうのか、天野っ」
 ピンポイントの痛みに、紺野はナイフを落とす。
 王とともに子供の頃にならった護身術が、役に立ちました。

 そこに、ラクダで駆けてきたラダウィが、速度を落とすのももどかしい様子で、高い背から飛び降りて。そのまま私がおさえている紺野に蹴りをかました。
 その光景は、私の目を奪う。
 民族衣装が風を含んで舞い、鍛え上げられた体がしなやかに躍動して、足が紺野にクリーンヒットして。まるで映画のヒーローのようで、とても素敵だった。
 見事に砂地に着地したラダウィは、蹴り倒された紺野の腹に、さらに鋭い蹴りをぶち込み。
 地に崩れ落ちた男の頭を、片頬をゆがめて笑う王が踏みつけた。

「私のものに勝手に触れたこと、王族に刃物を向けたこと、その行為は万死に値する」
 冷たい目で睥睨したラダウィは、落ちていたナイフを手に取り、男の手のひらに突き刺した。
 ギャッとひとつ叫び。紺野は気を失った。

下種げすは鳴き声も醜悪だな」
 そうして意識のない紺野を容赦なく足で踏んで、砂に埋もれさせる。
「陛下、その辺で…」
 砂に口と鼻をふさがれたら、さすがに死んでしまいます。
 そう思って、彼に手を向けるが。
 ラダウィは彼を捨て置いて、私の手を握った。

「馬鹿者、こんな無茶をして…」
 私をみつけてから、ラダウィは私が紺野と揉み合っているところを見ていたようで。
 手のひらを切って血を流す私を労わってくれた。
 興奮して気づかなかったけれど。紺野を制圧する際に、ナイフが当たって少し切ってしまったようだった。

「申し訳ありません、やはり護身術は苦手です」
 言い訳をすると、ラダウィが私の鼻を指でギュッと摘まんだ。
「へたくそ」
 だけど、すぐに私を抱き締めてくれて。
 言葉はきつくても、背を抱く彼の腕の強さから、心配していたと伝わる。
 鼻の奥をくすぐるスパイシーなラダウィの香りを、深く吸い込んで。
 あぁ、助かった。ラダウィの元へ帰れたのだと。
 安堵感を噛みしめると、逆に震えが込み上げた。
 二度と、彼に触れられなくなるかもしれないと思ったのだ。
 そんなとてつもない恐怖感が、今更ながら襲い掛かって。

「怖かった…っ」

 弱い心根を正直に告げると。ラダウィの月色の瞳も不安げに揺れていた。
「離さない、二度と…」
 彼に安心感を与えたくて、私は王の頬を手で撫でる。血がつかないよう、指先でそっと。
 でもそんな私の指先も、震えていた。
「離さないで、私を貴方に縛りつけて…」
 背伸びをして距離を詰めると、自分から王にキスをした。
 かすめる、小さなくちづけを。
 王はそれでは物足りないというように、爪先立ちの私を抱き寄せて、情熱的なキスを仕掛けてきた。
 強く押し当てられたラダウィの唇も、震えていた。
「ん、ラダ、ウィさ、ま、ん、んぅ」
 失われる恐ろしさが、ふたりともになくなるまで。慈愛あふれるくちづけを交わし合う。
 何度も何度も、ここに存在があると互いが感受するまで。

「…申し訳ありませんでした。二度も、課長に振り回されてしまって」
 ようやく震えがおさまり、唇が離れた隙に、謝罪した。
「手を伸ばしたら捕まえると、言った矢先におまえを奪われた。こいつ、八つ裂きにしても飽き足らぬ」
 ラダウィは私の手を取り、指先にキスを落とす。
 指の関節ひとつひとつに唇を当て、繊細な手つきで金の腕輪を撫でた。
 その行為と唇の感触に、うっとり感じ入ってしまう。

「今、捕まえられています」

 心が、手で包まれているかのように、キュッとなる。
 その気持ちをラダウィに伝えたかった。
「もうとっくに、私は貴方に捕まっています」
「…おまえが攫われて、もうこの手の中に戻ってこないかもしれないと思ったとき。怒りももちろん感じたが、それよりも、空虚だった。おまえがそばにいない時を過ごすのは、もうごめんだ」
 一度、周囲の環境の変化のせいで、華月と別れたらしい。
 その頃のことを、ラダウィは悔いているのですね?

「おまえがここに住んでいなければ…」
 胸の前で衣服を手で握り、ここと言ったときに強く揺さぶる。
「私は、抜け殻なのだ」
 真剣で激しいラダウィの心情が、私の胸にダイレクトに伝わり。
 私は、息をのんだ。
「この吹き荒れる感情を、どう説明すればいいのだ? どうしようもなく、愛している。おまえを愛しているんだ」

 彼の告白は、グッと胸に迫った。
 けれど、それは。華月へのもの。
 だけど。私は私の想いを叫ぶ。
 課長にさらわれたときに、なにも彼に告げていなかったことを後悔した。
 大事な言葉を、告げていなかった。

「愛しています」

 弟の身代わり。王を騙して。
 そんな痛みに、顔は歪むけれど。
 でも。それでも。なにもかもを踏みつけにしても。
 今、ラダウィに愛していると告げたかった。
 心が、彼を望んでいる。
 本能が、彼を欲しいと叫んでいる。
 現実から目をそらして、その内なる声に、私は従った。

「愛しています、ラダウィ様」
 いつも、意気地がなくて。自分の本音をさらけ出せないし。言葉にもできなかったけれど。
 その分、できる限りに良い笑顔で。彼に告げた。
 すると、彼は。きつくきつく私を抱き締めてくれたのだ。

「あぁ、ようやく。本物の月を手にした」
 ラダウィは愛しげに、私をみつめて目を細める。
「最高の気分だ」
 笑みを象る唇で、ラダウィは唇を柔らかくついばむキスをした。
 恋人への優しい微笑みに、私の胸は引き裂かれるけど。
 私を求める、彼の、息苦しいほどの腕の強さが嬉しくて。

 心は踊った…。

 その後、王の元に駆けつけたムサファと護衛官たちによって、紺野は捕縛された。
 後日談ではあるが、警察の話によると。
 紺野は恋人だと思い込んでいた私を奪い返すために会社と揉め、解雇になり。
 彼は私を救うために妻子を捨てた、などと言っていたが。異常性を悟られたのか、解雇直後に妻子に見放され離縁されていたようだ。
 小さな会社に再就職するものの、仕事のほとんどを私に丸投げしていた紺野にはスキルがなく。そこでも上手く立ち回れず、行き詰った。
 そこで、私を取り戻し同じ会社に就職させて、三峰でしていたように私に仕事を割り振ることで、今の会社での地位向上を画策したようだ。
 恋人関係ならば、彼氏の仕事に協力するのは当たり前。そんな心理で。

 いえ、どんな心理状況ですか? 理解できません。

 ともかく、そんな理不尽で独りよがりな理由で、私は執拗に狙われていたようですが。
 正式ではないが、私は王の妃とみなされているので。
 王族、王の妃を誘拐した罪で、紺野は厳罰を免れないとのことだった。

     ★★★★★

 シマームの警察や護衛官に事情聴取を受けた私は。朝方、王宮殿の私室に戻っていた。
 けれど、そのまま寝ずに。机の前でぼんやりと座っている。

 今まで私は、己の薄汚い欲をラダウィに押しつけていました。

 今回の件で、そのことに気づいたのです。
 弟を裏切る後ろ暗さ。王を騙す罪悪感には、自覚がありました。
 愛しているという睦言、労わるように撫でる手、体も心も、ラダウィのすべてが、華月のものだって、承知していて。彼の愛を受けるたびに、心臓を素手で掴まれるような痛みが襲った。
 それでも、愛する人に抱かれる至福が勝って。
 愛する人のそばにいられる幸福感ももたらされていた。
 決して、痛みばかりではありませんでした。

 ですが。知らずに別人に愛を乞うラダウィの気持ちを、私は真剣に考えたことがあっただろうか?

 オアシスで、ラダウィは狂おしく恋人を求めた。
 自分が求められたかのような気になって、彼に応えようと思ったけれど。
 違うのだ。
 私が求められたわけではなかった。
 いつだって、ラダウィが求めていたのは、華月だ。
 彼の気持ちを無視して、自分の好意を押しつける。
 それは、紺野の行為と同じです。

 そう思ったら。もう、嘘をついてはいられなくなった。

 彼と、夢のような日々を過ごすことができて、とても幸せでした。
 正体を明かし、彼の逆鱗に触れて手討ちにされたとしても。
 幸せの中で死んでいける。もう、思い残すことはありません。

 ただ、ふた月もラダウィを振り回してしまって、心底申し訳ないと思っています。
 彼が本来の道に戻り、幸せになることだけを、祈るばかりだ。
 
 会社のことは少し心配ですが。会社は承知していないことだと強調して、三峰に罪が及ばないようにするつもりだった。
 プロジェクトは動き出しているし。私の独断だったと認めてもらえれば。シマーム国としても大事業の撤回はできないでしょう。

 デスクチェアに腰かけて、断罪の時を待っていると。
 扉がノックされ、ムサファが部屋に入ってきた。
「天野様、陛下がお呼びです」
 凍りついたムサファの目を見て、私は、そのときが来たのだと悟った。

 部屋を出て、廊下を進む間、ムサファは無言だったが。
 謁見の間に入る寸前、囁いた。
「真実を明かす時期は私に任せろと言っておいたのに、なぜ信じてくださらなかったのかっ。残念です。陛下の罰を甘んじてお受けなさい」
 ムサファは、いつも私を優しく見守ってくれました。
 彼には感謝の気持ちしかありません。

「今まで私を助けてくださり、ありがとうございました。あなたのこと、勝手に、兄のようだと思っていて。子供のときも大人になってからも頼りっ放しで。不甲斐ない私を支えてくれて。嬉しかった…」
「…蓮月様」
 ムサファはなにかを言いかけたけれど。
 これ以上彼と関わるのは、彼にもとがが及んでしまいかねません。
 私は深々と頭を下げて。

 金のレリーフが縁取る、豪奢な両開きの扉を開けた…。

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